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ヒストリー

ヒロシマの記録1987 7月


1987/7/1
荒木広島市長が米核実験に抗議電報
1987/7/1
放射線影響研究所が移転問題で、広島新施設検討委員会(委員長、宗像文彦常務理事)を発足
1987/7/2
広島市で英製作の反核アニメーション映画「風が吹くとき」の試写会。監督は親類を長崎の原爆で失っている日系英人のジミー・ムラカミさん
1987/7/3
広島県原水禁などが6月30日の米核実験に抗議し、原爆資料館下で座り込み
1987/7/4
ブルガリアのソフィア・ゾリステン弦楽オーケストラの15人が原爆資料館を見学、慰霊碑に参拝
1987/7/4
生協連、主婦連、日青協など10団体で組織する平和運動市民団体連絡会議が東京で開き、夏の平和集会見送りを決める。理由「各団体にそれぞれ内部事情があり意見が合わない点が多い」
1987/7/6
山梨大が「核兵器廃絶平和山梨大学宣言」。国立大の非核宣言は名古屋大に続き2校目
1987/7/7
ソ連がシベリアのヤクート自治共和国で地下核実験。「国民経済の利益のため」。タス通信が報道
1987/7/7
荒木広島市長がソ連核実験に抗議電報
1987/7/7
広島市議会が「黒い雨」地域の見直しを求める意見書を全会一致で採択。「増田善信元気象研究所研究室長の調査から見直しが必要」
1987/7/7
「韓国の原爆被害者を救援する市民の会」(松井義子会長)が、広島で被爆し戦後、韓国に帰った韓国人女性3人の手記をまとめた「ヒロシマへ…」を出版。李順玉さん、厳粉連さん、崔英順さん
1987/7/7
ソ連チェルノブイリに設けられたソ連最高裁特別法廷でチェルノブイリ原発現場責任者の裁判開始。29日、ブリュハーノフ前所長、フォミン技師長、ジャトロフ副技師長の3人に矯正労働10年、ロゴージン当直責任者ら3人に同5~2年の判決
1987/7/8
大阪府池田市のフリーカメラマン山本將文さんが在韓被爆者を1年間取材し、大阪市で始まった「広島市民が描いた原爆絵画展」に賛助出品
1987/7/8
ソ連国立モスクワ音楽劇場バレエ団の91人が原爆慰霊碑に参拝、原爆資料館を見学
1987/7/8
厚生省の「原爆による線量評価検討委員会」(委員長・田島英三原子力安全委員会副委員長、8人)が「広島原爆の威力、ガンマ線量、中性子線量などが従来の推定値よりも大幅に異なる」とする最終報告書。広島原爆の威力は従来の推定値12.5キロトンより2割強力な15キロトン、中性子線量は定説の1割。1965年に定めた暫定基準T65Dに代わる新たな計算システムDS86で計算
1987/7/9
被爆者らが7日のソ連の核実験に抗議し、原爆慰霊碑前で座り込み
1987/7/9
海外13カ国の日本大使館などで働く現地職員14人が原爆資料館を見学
1987/7/10
ギニアのベンガリ・ダボ駐日大使が原爆資料館を見学、原爆慰霊碑に参拝
1987/7/10
「非核宣言を全国へ、アジア・太平洋へ!」をテーマに全国各地の非核自治体の住民が東京で全国草の根交流会。作家の小田実氏が講演
1987/7/10
公益信託・ヒロシマ平和基金が基金の利子50万円を広島県山県郡戸河内町の上殿小など5団体の活動助成金として贈呈決める。他に同県世羅郡世羅西町原爆被害者協議会、被爆体験の意味を考える会、ヒロシマ・デー国際電話プロジェクト、ピース・ボートひろしま
1987/7/11
広島平和文化センターが、平和記念館で初の「留学生平和セミナー」。23カ国60人の留学生が参加し、広島大原医研の宇吹暁助手、被爆語り部の山岡ミチコさん、高橋昭博平和文化センター事業部長の話聞く
1987/7/11
広島市の「原爆ドーム保存調査技術検討委員会」(8人)が発足、現地調査を開始。メンバーは佐藤重夫広島工業大教授、椋代仁朗広島大教授、中尾好明広島工業大教授、佐藤立美同大助教授ら
1987/7/12
中国新聞が連載「ヒロシマの五線譜作曲家と作品」(週1回)の連載始める。「広島レクイエム」の糀場富美子さん、「レクイエム・シャーンティ」の早川正昭さん、オペラ「はだしのゲン」の保科洋さんら
1987/7/13
広島・長崎の証言の会が発行していた「ヒロシマ・ナガサキの証言」の終刊号(通算21号)刊行、5年の歴史に幕。「ヒロシマ・ナガサキの群像」のタイトルで55人の被爆者が「遺言」として掲載。1982年1月創刊
1987/7/14
「広島の文学資料保全をすすめる会」が荒木広島市長に6,000人の署名を添え「ヒロシマ文学館」建設を要望
1987/7/15
被爆者の肺がん発症率は非被爆者の約2倍。放射線影響研究所の山本務非常勤研究員らが確認 1987/7/15
英紙インディペンデントが「英空軍が核兵器事故に備え、実際に特定地域を放射能汚染させる秘密訓練を実施」と報道
1987/7/15
広島県佐伯郡湯来町の新田政丸町長らが厚生省に町全域を黒い雨降雨地域として認めるよう陳情
1987/7/16
英が米ネバダ核実験場で地下核実験。英国防省が発表
1987/7/16
広島県医師会派遣の第6次在米被爆者検診医師団の坪倉篤雄団長ら6人が広島帰着。サンフランシスコ、ロサンゼルス、シアトル、ホノルルで379人を検診
1987/7/16
反核を訴え日本列島を縦断する日本青年団協議会の「平和キャラバン」が東京を出発
1987/7/17
ソ連がセミパラチンスクで地下核実験。タス通信が報道
1987/7/17
広島市の荒木市長が16日の英、17日のソ連核実験に抗議電報
1987/7/17
仏マラコフ市のミッシェル・シボ助役とミホ・シボ・シンマ夫人が広島市を訪れ、広島県高校生平和ゼミナールの生徒に仏で作られた新曲2曲の楽譜を手渡す。ミホさんが作詞、作曲の「SOS・マイ・ラブ」と仏在住コンゴ人青年ムツリア・ムソンゴさん作詞、作曲の「アポカリプス・ヒロシマ」。18日、仏の物理学者ピエール・オジェ博士制作の彫刻「ヒロシマの像」を荒木広島市長に寄贈
1987/7/18
広島市原爆被害者の会(瀬戸高行会長)と広島県被爆二世団体連絡協議会(朝原健治代表)が、広島市で「被爆体験を継承し平和運動の発展をめざす被爆者と二世のつどい」開く
1987/7/18
大阪府羽曳野市から初の「親子平和大使」が広島訪問。同市の寺田紀子さんと温さん親子。原爆慰霊碑に参拝するなど平和学習 1987/7/18
日本グラフィックデザイナー協会、ひろしま美術館、広島国際文化財団が主催し、広島市で世界31カ国、265人のグラフィックデザイナーの作品約420点を集めた「平和ポスター国際展」開く。8月7日まで
1987/7/18
子どもを原爆で奪われた母親たちの手記や詩歌を基にした合唱付き朗読劇「この子たちの夏~1945・ヒロシマナガサキ」の中国地方巡演が米子市を皮切りに始まる。木村光一氏作、演出
1987/7/18
広島県立広島工業高校の放送・視聴覚委員会が、同校の先輩で被爆体験の語り部活動をしている原広司さんを描いたビデオ番組「五十三回生」を製作。26日、東京NHKホールで開かれた全国高校放送コンテストで、テレビ課題部門準優勝
1987/7/18
長門市の前衛画家殿敷侃さんが原爆ドーム前で幅3メートル、長さ100メートルの赤いペンキを塗った「血図」を展示。殿敷さんは広島原爆で両親失う
1987/7/19
米日系人合同メソジスト教会の研修団35人が原爆資料館など見学。父祖の母国の原爆被害を学習
1987/7/19
被爆者らが16日の英、17日のソ連核実験に抗議し、原爆資料館下で座り込み
1987/7/20
英、ソの核実験に抗議し「核実験抗議座り込み・岡山市民の会」が岡山市で通算100回目の座り込み。80人が参加
1987/7/20
広島、長崎両県市の知事、市長、議長で構成する広島・長崎原爆被爆者援護対策促進協議会(八者協)の陳情が20回目。30日、中国新聞が20年の歩みまとめる
1987/7/20
山口市の原爆被爆者福祉会館ゆだ苑の資料室改築資金に-と、バイオリニストの黒沼ユリ子さんらが福岡市で「おんな二人平和のしらべ」チャリティーコンサート
1987/7/21
ゴルバチョフ・ソ連共産党書記長がインドネシアのムルデカ紙のインタビューに答え「前提条件なしにアジアの中距離核戦力(INF)全廃の用意」と提案
1987/7/24
広島市のワールド・フレンドシップ・センターが米へ派遣する平和研究交流・教師交換メンバーの森下弘理事長ら4人が米へ出発
1987/7/24
荒木広島市長がソ連核実験に抗議電報
1987/7/24
ソ連がヤクート自治共和国で地下核実験。「国民経済のため」。タス通信が伝える
1987/7/24
中国新聞が連載「ヒロシマ表現の軌跡」で、原爆文学論争を追跡、検証
1987/7/25
被爆県の子供交流を深めようと、広島の児童生徒62人が長崎を訪ねる「平和の翼」交流団(団長、竹下虎之助広島県知事)が空路長崎へ
1987/7/26
広島国際文化財団(山本朗理事長)の1987アキバ・プロジェクト招請記者として初めて中国から王先徳記者が広島入り
1987/7/26
被爆者らが24日のソ連の核実験に抗議し、原爆慰霊碑前で座り込み
1987/7/26
広島市鉄砲町の住民たちが「旧鉄砲町在住有志の集い」を開き、かつての町内で42年ぶりに再会 1987/7/26
浄土真宗本願寺派の安芸教区基幹運動推進委員会が広島市で「第5回平和を願う念仏者の集い」。金光教も平和記念公園の原爆供養塔前で集会
1987/7/27
「ピースフライト87」で米ソを訪れる被爆者緊急アピールの要請内容が決まる。(1)核実験の全面禁止(2)中距離核戦力(INF)全廃に関する米ソ合意の達成(3)1988年の第3回国連軍縮特別総会に向け今世紀中に核兵器を全廃する具体的合意実現-の3点。アピール団は米(8月3日出発)へ広島市の沼田鈴子さん、長谷川儀さん、ソ連(7月31日出発)に李実根さん、渡辺美代子さん
1987/7/27
8月6日を中心にワシントン、モスクワで平和をアピールする市民の平和使節団「ピース・フライト87」が広島市で出発集会。障害者ボランティア団体「わたぼうし文化基金」が反核平和の旗を「米ソ首脳に渡して」と米訪問の沼田鈴子さん、ソ連訪問の渡辺美代子さんに託す
1987/7/27
北海道被団協(越智晴子会長)が「ヒバクシャと共に行くヒロシマ平和の旅」で広島市を訪れ、元安川で原爆瓦を掘る。札幌市に建設予定の「ノーモア・ヒバクシャ会館」に展示へ
1987/7/27
地婦連、生協連、被団協など東京の市民6団体が日比谷で「平和のつどい」
1987/7/28
米下院が「原爆復員軍人補償法案」を可決。補償対象は(1)核実験参加か広島、長崎へ駐留した軍人(2)以後30年以内に発がん(3)がんの症状が軽微でない(4)白血病、甲状腺がんなど10種のがん
1987/7/28
中国新聞が連載「生きてよかったある被爆女性の半生」で、渡米治療を受けた原爆乙女の一人、佐古美智子さんの苦難の人生伝える
1987/7/29
原爆投下後、「黒い雨」や「死の灰」が降った長崎市平間町の、間の瀬自治会(80世帯)が、被爆地域の見直しを本島等長崎市長に陳情(「長崎年表」)
1987/7/29
二科会常任理事だった洋画家の故井上覚造さん(大阪府豊中市)が、反核の願いを込めて1956年に描いた「地球は終りぬ」を、妻の英子さんが広島市に寄贈
1987/7/29
岐阜県恵那郡蛭川村にある石と鉱物の展示館「博石館」の代表が広島市に16万円を寄贈。同館に展示中の旧広島市庁舎の被爆石に来館者が供えた浄財
1987/7/30
世界平和評議会(ロメス・チャンドラ議長)の軍縮委員会が東京で始まる。インドのチャンドラ議長、前ポルトガル大統領のフランシスコ・ゴメシュ氏、日本原水協の山口勇子代表理事らが参加
1987/7/30
写真家伊藤孝司さん(名古屋市)が東京で「原爆棄民-韓国・朝鮮人被爆者の証言」写真展。11月3日から広島平和記念館でも
1987/7/30
美術家平和会議が東京・上野で35周年「平和美術展」。海外5カ国の40人も出品
1987/7/30
「核兵器廃絶運動連帯」が東京で国際フォーラム「連帯のつどい」。代表世話人は磯村英一元東洋大学長(核禁会議議長)、隅谷三喜男東京女子大学長、伏見康治参院議員。ニュージーランド被曝兵士、英反核活動家らも参加。隅谷学長は、自らががんに侵されていることを明らかにし「核兵器は世界の生命を脅かすがん。大幅削減、切除を真剣に討議しなければ」と呼びかけ
1987/7/30
全国地域婦人団体連絡協議会(大友よふ会長)と広島県地域婦人団体連絡協議会(高浜清子会長)が、広島市で「平和をつくる婦人のつどい」。第1回原水禁世界大会にも参加した大友会長が「民宿で初めて被爆者の話を聞き、平和運動に命をかけようと思った」と回想
1987/7/30
広島市で国際パブロフ学会広島大会「平和シンポジウム」。「被爆体験の人類史的意味を考える」をテーマに米ソの学者ら350人が参加、作家の大江健三郎氏が「被爆体験の意味と平和運動」と題し「最後の小説は、ヒロシマと核状況を主題にし、生き延びる人間の威厳と希望を書きたい。私は常に希望の側に立ち、人間の威厳を信じる側に立ちたい。明日の子どもたちに明るい世界があるために、民衆の生き延びるための運動に期待したい。方向転換できない権力者に方向転換の勇気を与えよう」。広島大総合科学部の舟橋喜恵教授は被爆体験研究会「HE‐TO‐SHE」の活動を報告し、「死の内の生命」のロバ-ト・リフトン教授が面接した人々を再調査した結果、事実誤認もあると報告
1987/7/31
英の控訴裁判所が、1950年代の英太平洋原水爆実験で原爆症にかかった元英軍兵士メルビン・ピアス氏の損害賠償請求訴訟提訴を認めた1986年12月のロンドン高等法院の判決を支持
1987/7/31
イタリア・ピストイア市から長崎市に贈られた平和を願う彫像「人生への賛歌」の除幕式が平和公園で行われる(「長崎年表」)
1987/7/31
広島原爆病院が1986年度の診療概況を発表。入院がん患者が過去最高に
1987/7/31
広島県教委が広島市の縮景園に埋葬された被爆者の遺骨発掘始める。1日夕までに数千点の遺骨を確認。県教委は「64人分の遺骨」と断定
1987/7/31
反核自転車行進のロシア系米人ニコライ・パルチコフさんとゲイル夫人が広島に到着。42年ぶりの生まれ故郷に「あのときは街が破壊され、広島駅から宇品方面が見渡せた。今は同じ街とは思えない」「米は実験のために原爆を投下した。兵士の一人として謝罪したい。米にも核兵器に反対している人がたくさんいることを知ってほしい」
1987/7/--
日本平和教育研究協議会などが編集した「平和のために-平和教育の創造的発展をめざして」が出版。広島県高校生平和ゼミナール運動など全国の平和教育の実践例まとめる。汐文社
1987/7/--
被爆死した中学生の学生服を見て映画製作を思いついた菅田良哉さん(神奈川県川崎市)が4年がかりで「ヒロシマという名の少年」を完成。女優の吉永小百合さんがナレーターで協力
1987/7/--
広島平和教育研究所とYMCA国際平和研究所が、米の平和読本をもとにした中高校生向けのテキスト「軍縮教育-生存のための学習」を発行。汐文社
1987/7/--
胎内被爆者を主人公にした「夢千代日記」の舞台、兵庫県美方郡温泉町が、同町の「夢千代の像」に寄せられた浄財を広島市に贈る。像は旧広島市役所の被爆石を台座に建立
1987/7/--
広島のテレビ局の夏の原爆番組決まる。▽NHK(3日)=入市被爆者の残留放射能を追求する「救援-ヒロシマ残留放射能の42年」▽NHK(6日)=広島市段原地区の開業医中山広実医師にスポットをあてた「ひろしま・老いゆく日々」、「お母さん『水』を-広島・爆心地の子どもたち」など▽中国放送=「BLACKRAIN検証『黒い雨』」「自刃~王公族付き武官の最期」「ヒロシマってなあに~米国を行く若き語り部たち」▽広島テレビ=「ヒロシマを見ました~原爆資料館対話ノート」▽広島ホームテレビ=「継承~白い記憶の祈り」▽テレビ新広島=「碑その語るもの」
1987/7/--
広島県原水禁が被爆42周年原水爆禁止世界大会を記念し、原爆慰霊碑前で座り込む被爆者らの姿を描いたテレホンカードを作製
1987/7/--
英の反核アニメ映画「風が吹くとき」を撮った日系二世ジミー・ムラカミ監督が来日。米の日系キャンプに収容され、父親の親類や友人が広島、長崎で被爆
1987/7/--
米ワシントンの女性プロデューサー、タイラ・セントジョーンさんが、原爆乙女をテーマにした演劇の脚本を書くため広島で取材。米俳優のスーザン・サザードさん、原爆乙女の山岡ミチコさんらが協力 1987/7/--
広島市の国名勝「縮景園」で原爆犠牲者の埋葬を示す写真見つかる。元朝日新聞出版局カメラマンの松本栄一さんが1945年9月下旬に撮影。「戦死者墓五名」「戦死者之墓三十八名」などの立て札が写る
1987/7/--
被爆者援護団体、広島県相互扶助会(橋爪国夫会長)がパンフレット「みんなで平和を考える21世紀を担う母と子が見るヒロシマ・ナガサキ」を出版
1987/7/--
広島市視力障害者福祉協会(徳川憲邦会長)が、平和宣言の点訳決める
1987/7/--
ひろしまエスペラント・センター(忍岡守隆代表)がエスペラント語で被爆地ヒロシマと原爆について解説したガイドブック「ボヤージョアルヒロシマ」(広島への旅)を発刊

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