×

ヒストリー

ヒロシマの記録1985 8月


1985/8/1
中国新聞が広島市内の主要企業100社に実施した「原爆の日」の慰霊に関する調査結果を掲載。8月6日「休日」は24%、慰霊碑のある会社は8%、物故社員の慰霊行事は20%
1985/8/1
初の「日米平和ポスター展-生存のためのイメージ」が広島市のひろしま美術館で開幕。日米グラフィックデザイナー208人の229点を展示。3日、米側責任者が米作品126点を市に寄贈。9月1日まで
1985/8/1
広島平和記念館で原爆被災者名簿の公開始まる。広島市西区草津南町町内会の罹災転入者調査表が初めて公表
1985/8/1
日本弁護士連合会が被爆者援護法に関する第2次報告書を増岡博之厚相に提出、早期制定を求める
1985/8/1
中曽根首相が首相官邸での米NBCテレビ録画撮りで「広島、長崎への原爆投下は非人道的な行為で、都市住民への無差別攻撃は国際法違反」と見解
1985/8/1
「ヒロシマ・ナガサキ40年国際フォーラム」が東京で開会、約100人が参加。2日、核戦争防止へ国境を超えた平和運動の連帯を確認し閉会
1985/8/1
「被爆体験を詠う講座」の30人が7年がかりで歌集「被爆」を出版
1985/8/1
グラフィックデザイナーで愛知県立芸大教授の片岡脩さん(東京都在住)が広島市の福屋で初の作品展「平和アピール・片岡脩ポスター展」。6日まで
1985/8/1
「反核・日本の音楽家たち」主催の反核オペラコンサート「奇妙な6つのシーン」が東京で始まる
1985/8/2
原水禁世界大会国際会議が広島市内で開幕。中国が20年ぶり正式参加。統一開催だが原水禁国民会議、総評系代表は大半欠席。アピール起草委員会も紛糾。3日、包括的な核禁条約の締結などを求める「広島から世界の人びとへのよびかけ」を採択、閉会
1985/8/2
広島弁護士会が「核兵器廃絶と被爆者援護法の制定」を求める声明
1985/8/2
原爆直後の1945年11月、文部省学術研究会議原子爆弾災害調査特別委員会がまとめながらプレスコードで発表されず、米に送られた医学論文49編が米政府原子力委員会の公開資料から見つかる。入手した「原爆被害者証言の集い」が広島平和文化センターに寄贈
1985/8/2
広島市が姉妹都市のソ連ボルゴグラード市のウラジミール・アトポフ市長を特別名誉市民に決め3日、市民章を贈る
1985/8/2
季刊「ヒロシマ・ナガサキの証言」第15号が発行。「在韓被爆者40年目の証言と告発」など特集
1985/8/2
ソ連科学アカデミーのアレクサンドロフ総裁らソ連の科学者、文化人ら19人が、広島、長崎被爆40周年で世界へのアピールを発表。「すべての国家と国民に対し、核の脅威抑制のために力と知性を」
1985/8/2
米ロサンゼルス市議会が、原爆の悲劇を繰り返してはならないとする決議を採択。アジア系市議らが提案
1985/8/2
中国の〓小平氏が米戦略防衛構想(SDI)について「米ソ両超大国間の軍拡競争に質的変化をもたらす。実行に移してはならない」と主張
1985/8/3
全国原爆被爆教職員の会が広島市で「被爆40周年ヒロシマ・ナガサキ被爆教職員のつどい」。「被爆体験を引き継ぎ、平和教育、運動の先頭に立つ」とアピール
1985/8/3
長崎国際文化会館内に原爆関係の図書室がオープン、蔵書4,328冊(「長崎年表」)
1985/8/3
1950年代後半、米極東軍司令部が極東戦域での核戦争を想定した戦略を策定し、日本が核兵器貯蔵、運搬の中枢基地に位置付け-。共同通信が入手した米軍秘密文書から分かる
1985/8/3
広島市特別名誉市民のバーバラ・レイノルズさんが、市の招待で3年ぶり広島訪問。同じ特別名誉市民のノーマン・カズンズ、フロイド・シュモー両氏も広島へ
1985/8/3
広島市中心部で被爆死した旧制広島一中(現国泰寺高校)3年の秋田耕三君の衣類など遺品が原爆資料館に寄贈
1985/8/3
「非核宣言自治体連絡協議会」が広島市で第2回総会。43自治体が参加、非核自治体国際会議の日本開催に努力など決議。新会長に神奈川県藤沢市の葉山峻市長
1985/8/3
「ヒロシマ・ナガサキ平和基金」の長崎推進委員会が発足(「長崎年表」)
1985/8/4
広島市西区の国泰寺が行者山に建設した仏舎利塔が完成、入仏式。原爆犠牲者を慰霊
1985/8/4
米シアトル市を中心にした市民グループ「プラウシャーズ」代表らが、米15州の子供が折った千羽づるを平和記念公園の「原爆の子の像」にささげる
1985/8/4
「原爆の子の像」のモデル佐々木禎子さんの母校、広島市幟町小学校に、カナダ・ハミルトン小の教員、児童13人が訪問
1985/8/4
日本被団協など市民9団体主催の「反核市民平和大行進」が広島入り
1985/8/4
「国際ヒバクシャフォーラム」が広島市内で開会。世界の核被害者ら15カ国約150人が参加。核実験の後遺症や原発、ウラン採掘などの被曝実態を報告
1985/8/4
原水禁国民会議が広島市内で独自の「被爆40周年原水爆禁止大会」を開会。原水禁世界大会について「原水協などが介入」と批判。6日まで
1985/8/4
日本原水協が広島市内で独自の「核兵器廃絶のための国際会議」を開会。原水禁世界大会の国際会議を評価。5日、核戦争防止への国際共同行動を提起するコミュニケを発表、閉会
1985/8/4
平和記念公園の「原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑」前で慰霊祭。被爆40周年を機に新たな構成詩「未来を語りつづけて」を披露
1985/8/4
「非核宣言自治体連絡協議会」総会に出席した全国の自治体代表45人が原爆慰霊碑に参拝
1985/8/4
広島と米の子供たちが、ひろしま美術館で「平和」をテーマに描いた絵1,000枚ずつの交換式
1985/8/4
東京、広島の平和運動グループ約150人が、全国から寄せられた平和リボン約300枚をつなぎ原爆ドームを包囲、核廃絶を訴える
1985/8/4
米ワシントンで約5万人が「平和リボン」をつなぎ、国防総省やホワイトハウスを包囲
1985/8/4
アキバ・プロジェクト招請で広島を訪問中の米俳優ジャック・レモン氏らが原爆慰霊碑に参拝、原爆資料館を見学、取材
1985/8/4
全国学生平和集会が広島市内で開会。劇「朝鮮人強制連行」上演や模擬裁判「ヒロシマ法廷」
1985/8/5
「85ヒロシマ虹のひろば」(日本生協連主催)が広島市で開会。「暮らしの場から平和運動を広げよう」とのアピール採択
1985/8/5
音楽家の団伊玖磨さんが広島滞在中の米指揮者バーンスタイン氏に、自作の交響曲「HIROSHIMA」の楽譜を贈る
1985/8/5
広島県高校生平和ゼミナールが広島で「原爆フィールドワーク」。千葉、神奈川、兵庫県など含め約100人が参加。16カ所の碑を巡る
1985/8/5
レーガン米大統領が記者会見で「ソ連と核開発で並んだ後、ソ連が望めば恒久的な核実験停止に応じる」と言明
1985/8/5
レーガン米大統領が日本への原爆投下について言明。「人類史上最大の戦争を終わらせるための措置」
1985/8/5
「核軍縮を求める22人委員会」(座長、宇都宮徳馬参院議員)が被爆者援護法制定アピールを発表 1985/8/5
第1回世界平和連帯都市市長会議が広島市内で開幕。海外22カ国67都市、国内31自治体の市長ら約200人が参加。6日、核廃絶への連帯を確認する「広島アピール」を採択、広島での会議を終える
1985/8/5
国際人権擁護韓国連盟が被爆40周年で声明。日米に在韓被爆者治療、見舞金、生活保障を求める
1985/8/5
浄土真宗本願寺派が大谷光真門主を迎え、原爆供養塔前で被爆40周年追悼法要。3,000人が参列
1985/8/5
ソ連のゴルバチョフ書記長から日本被団協の伊藤サカエ代表委員に「8月6日から核実験を一方的に停止」と手紙。被団協訪ソ代表団の要請書への返書
1985/8/5
日本被団協が広島市で「被爆者・遺族大会」。全国約400人の被爆者らが参加。遺族を含めた大会は1956年8月発足以来初
1985/8/6
広島被爆40周年。33年ぶりに改装された原爆慰霊碑前で、広島市主催の原爆死没者慰霊式・平和祈念式。過去最高の5万5,000人が参列。新たに2万5,419人を加えた原爆死没者名簿を奉納、名簿総数は13万8,690人に。中曽根首相が一昨年に続き、歴代首相として初めて2度目の参列。遺族代表の被爆二世の塾経営西野洋子、会社員青木順二さんが「平和の鐘」。荒木広島市長が平和宣言で、国を超えた都市と市民の連帯を呼び掛け
1985/8/6
増岡博之厚相が老朽化する広島原爆病院改築に協力する意向を正式に表明
1985/8/6
日本原水協が広島市で独自集会「核兵器全面禁止・廃絶8・6国際共同行動デー広島集会」を開き、核兵器全面禁止の署名拡大を決議
1985/8/6
原水禁85世界大会「ヒロシマのひろば」が広島県立体育館で約1万人が参加して開会。国際会議に欠席の原水禁国民会議の関係者も出席、統一開催の形は整う。核兵器廃絶を訴えるアピールを採択
1985/8/6
中曽根首相が広島市内で被爆者代表7人の要望を聞く。朝鮮人被爆者について「戦争中、日本としても迷惑をかけた」と責任を明言。被爆韓国人徴用工の遺骨送還問題の調査を約束。荒木市長らは「黒い雨」地区の被爆地域指定を陳情
1985/8/6
荒木市長の平和宣言。「ノーモア・ヒロシマ。いま、ここに、40年目の暑い夏を迎えた。人類史上最初の核兵器による熱線、爆風、放射線が、一瞬にしてこの地の生きとし生けるものを焼き尽くし、広島は瓦礫の街と化した。この廃虚に立ったわれわれは、その時、核兵器をもって争う戦争は、人類の破滅と文明の終焉に至るものであると予見し、核兵器の廃絶をひたすら訴え続けてきた。ヒロシマのこの不断の努力にもかかわらず、核兵器は、ますます量的に拡大し、質的に高度化しつつ、実戦配備が進められ、まさに人類は核戦争の危機に直面している。きょうの逡巡は、あすの破滅につながる。ヒロシマの地獄を地球上に再現させないために、人類生存の命運をにぎる米ソ両国は、直ちに核実験を全面停止し、ジュネーブの首脳会談において全人類的見地から核兵器廃絶への英断を行うよう強く要請する。唯一の被爆国として、日本政府は、国是である非核三原則を厳守し、核兵器廃絶への先導的役割を果たすべきである。また、原爆死没者調査が実施されるいまこそ、国家補償の精神に基づく画期的な被爆者援護対策の確立されんことを切望する。被爆都市広島は、世界の恒久平和を誠実に実現しようとする理想の象徴として平和記念都市の建設に邁進している。この使命を担って、ここに、第1回世界平和連帯都市市長会議を開催した。平和を希求する世界のあらゆる都市が、国境を超え、思想・信条の違いを超えて連帯し、恒久平和確立への国際世論を喚起しようとするものである」
1985/8/6
平和式典で、米国原爆被爆者協会の倉本寛司会長と韓国原爆被害者協会の郭貴勲さんが海外被爆者代表として初めて献花
1985/8/6
広島市の平和式典で、西ドイツ・ハノーバー市のシュマルスティーク市長とソ連ボルゴグラード市のアトポフ市長が世界平和連帯都市市長会議の代表として献花。市が招待した特別名誉市民のノーマン・カズンズ、バーバラ・レイノルズさんも
1985/8/6
米3大テレビネットワークのABC、CBS、NBCの3局が、広島市の平和式典を初めて衛星で全米にテレビ中継。海外から過去最高の13カ国49社の報道陣が取材
1985/8/6
中曽根首相が広島市内で記者会見。被爆者援護法制定について「現行の原爆二法で広い意味の国家補償的措置を講じており、新たな制定は必要ない」
1985/8/6
広島県安芸郡府中町内に町民カンパで「原爆の碑」が完成、除幕
1985/8/6
広島電鉄が「電車内被爆者のつどい」。全国から37人が参加、犠牲者のめい福を祈る。被爆時、広島市内では67両の電車が運行、約7,000人前後が電車内で被爆と推定
1985/8/6
広島滞在中のノーマン・カズンズさんが16年ぶりに原爆乙女18人と再会
1985/8/6
米の指揮者レナード・バーンスタイン氏を迎え、広島市内で鎮魂の「広島平和コンサート」開催。指揮者の大植英次さん(米ボストン在住)も広島出身の糀場富美子さん作曲「広島レクイエム」などを指揮。同日朝、指揮者の小沢征爾氏が平和記念公園でコーラスグループと鎮魂曲を合唱、バーンスタイン氏も加わる
1985/8/6
非核都市宣言した東京・中野区が、予算700万円を組みヒロシマ学習の若者を初公募。大学生ら97人が広島を訪れ平和式典に参列、被爆者と交流
1985/8/6
広島平和記念公園で、爆心地付近の町並みを絵で再現した野外ギャラリー開催。YMCA国際平和研究所が主催。画家の四国五郎さんが6枚描く
1985/8/6
広島女高師付属山中高等女学校の同窓生が、広島市内で被爆女生徒の収容先だった似島での医療活動を聞く会を開催。当時の衛生兵ら3人が証言
1985/8/6
写真家の土田ヒロミ氏の写真集「ヒロシマ」が佼成出版社から発刊(「奥付」)
1985/8/6
ビルマ詩人の作品20編を収めた詩集「平和のうた-ビルマ青年から広島・長崎へ心をこめて」の日本語版が、在日ビルマ人女性キン・イーさんの手で出版
1985/8/6
ソ連共産党機関紙プラウダが原爆投下40周年で論説を掲載。「米の原爆投下は日本を軍事的に打ち負かすためでなく、同盟関係を脅迫するため」
1985/8/6
旧広島市立第一高等女学校(現広島舟入高校)の慰霊碑(同市中区中島町)に、原爆犠牲の生徒と教師676人全員の名前を刻んだ銘碑2基が完成、除幕
1985/8/6
中国新聞社員ら原爆の犠牲になった新聞人を追悼する「原爆犠牲新聞労働者の碑-不戦」が、広島市中区加古町の河岸緑地に完成。遺族ら約100人が出席し除幕式。在広新聞社の犠牲は中国新聞114人、同盟通信4人、読売新聞2人、山陽新聞1人の計121人を確認
1985/8/6
鳥取県原爆被害者協議会が鳥取市内で被爆40周年原爆死没者追悼・平和式典。約300人が参列
1985/8/6
劇団員の半数が被爆死した移動演劇さくら隊の慰霊追悼会が東京・目黒の羅漢寺で営まれ、約100人が参列。原爆詩人峠三吉の「墓標」を朗読
1985/8/6
被爆直後に広島市内に開設し、原爆孤児を収容した養護施設「広島新生学園」(現在東広島市)で、広島のデルタを表す慰霊碑を除幕
1985/8/6
ローマ法王ヨハネ・パウロ二世がローマ近郊の離宮で原爆犠牲者のための特別ミサ。原爆投下日の公式追悼行事は初めて
1985/8/6
国際原子力機関(IAEA)が「8月中にソ連の民間原子力施設の査察を実施」と言明。ソ連も14日、受け入れを表明
1985/8/6
南太平洋首脳会議(11カ国、2自治領)が「南太平洋非核地帯条約」を採択。領土、領海内での一切の核開発、使用、実験などを拒否
1985/8/6
米ボストン市や周辺の大学関係者で作る「ヒロシマ・プロジェクト委員会」が同市のマサチューセッツ芸術大で、広島の市民が描いた「原爆の絵」展を開催。9月21日までの期間中に延べ約5万人が入場
1985/8/6
ニューヨーク・タイムズが原爆投下40年後の日米意識調査を掲載。「両国民とも敵対意識は後退したが、原爆投下と真珠湾攻撃へのこだわりが依然根強い」
1985/8/6
レーガン米大統領が被爆40周年で声明を発表。核戦争防止を強調し、核兵器相互削減の第一歩として地下核実験の監視団招請を再検討するようソ連に改めて呼び掛け
1985/8/6
米ネバダ核実験場周辺で反核デモ。7日までにエルズバーグ博士ら51人が逮捕
1985/8/6
広島県山県郡大朝町原爆被害者の会が編集した被爆体験記「平和への願い」が発刊(「奥付」)
1985/8/6
広島県神石郡原爆被害者協議会の被爆40周年記念誌「ピカドン被爆の軌跡」が発刊(「奥付」)
1985/8/6
広島県山県郡千代田町の原爆被害者の会の記録集「原爆-追憶」が発刊(「奥付」)
1985/8/7
ソ連共産党機関紙プラウダ(7日付)が、ソ連核実験停止を受け、中断している包括的核実験禁止交渉の再開を米英に呼び掛け
1985/8/7
日本原水協の独自集会「核兵器廃絶のための国際共同行動デー長崎集会」が長崎市内で開会。9日、閉会
1985/8/7
原水禁国民会議の長崎結集集会が開会
1985/8/7
被爆直後、広島市似島で被爆者治療に当たった元陸軍船舶防疫部長の医師弘岡正さんら元軍医4人が40年ぶりに島を訪れ、犠牲者のめい福を祈る
1985/8/7
長崎原爆投下機の乗組員レイモンド・ガレーガーさん(米シカゴ在住)が、長崎市・浦上天主堂の「天使の石像」頭部の返還を名乗り出る。戦後、駐留した実弟が持ち帰る。28日、託された広島の神父が、広島まで持ち帰る
1985/8/8
原水禁85世界大会の分散会・フォーラムが長崎市で開会。9日、メーン集会の長崎大会が開会。核兵器廃絶への連帯を求める「長崎からの訴え」を発表し、閉幕
1985/8/8
第1回世界平和連帯都市市長会議が長崎市で再開。国内外88都市が参加。9日、核兵器の廃絶と都市連帯の強化を誓う「長崎アピール」と第3回国連軍縮特別総会の開催を求める要望を採択、閉幕
1985/8/8
インドが実験用原子炉の臨界実験に成功。原爆材料のプルトニウム独自調達に道開く
1985/8/8
広島市が被爆40周年記念事業で編集した「広島被爆四十年史・都市の復興」が刊行
1985/8/8
爆心地にあった広島市旧中島地区(現平和記念公園)の元住民10人が「中島今昔を語る会」開く
1985/8/8
第2回全国戦争犠牲者国家補償要求長崎大会が長崎市で開会。約230人が参加。被爆者と一般戦災者が連携し「被爆者、戦災犠牲者に対し、速やかに援護法を制定せよ」と決議
1985/8/8
米ニューヨークの教会で「ヒロシマ・ナガサキ追悼40周年記念演奏会」。下松市出身のピアニスト井上和子さん(ニューヨーク在住)が呼び掛け
1985/8/9
長崎被爆40周年。台風の雨の中、長崎市の平和公園で原爆犠牲者慰霊平和祈念式典。過去最高の約2万2,000人が参列。新たに2,414人の原爆殉難者名簿を安置、名簿総数は6万6,600人に。広島・長崎子供会親善交歓会の代表も参列。本島等市長が「戦後の核軍拡の歴史を逆転させてほしい」と平和宣言。「原爆投下から40年。この間に数多くの被爆者が放射能後遺症に苦しみながらこの世を去り、今なお幸せを奪われた孤独な被爆者が、死の恐怖におののきながら生き続けている。米ソ両大国の首脳が今秋、ジュネーブで核軍縮交渉のテーブルにつくが、被爆40年の今年こそ、戦後の核軍拡の歴史を逆転させる記念すべき年にして下さい。私は、米ソ両国への平和使節団の派遣と、世界の被爆者のための国際医療センターの設置を提唱する。長崎は、地球最後の被爆都市でなければならない」
1985/8/10
環境保護団体グリーンピースの核実験監視船がニュージーランドで爆破され、1人が死亡した事件で、仏ラジオ「フランス・インター」が「ニュージーランド警察当局は仏陸軍の将校夫妻を逮捕」と報じる。15日、仏警察当局が仏秘密情報員とみられる男女4人を国際手配。仏ルモンド紙(17日付)は仏秘密機関の対外安全総局職員2人が逮捕されたと報じる
1985/8/10
アキバ・プロジェクト招請記者ロドニー・バーカーさんが4年半かけて執筆した「原爆乙女」(原題HiroshimaMaidens)が米出版社から発刊
1985/8/11
指揮者レナード・バーンスタイン氏が呼び掛けた「広島平和コンサート」の最終公演がウィーン国立歌劇場で開催。広島を含む世界4カ所を巡る公演の最後。益金は広島市に寄付へ
1985/8/11
長崎市で第14回原爆犠牲者慰霊・世界平和祈念市民大行進(世界平和祈念旬間行事実行委員会)。約5,500人が参加
1985/8/13
ニューヨーク・タイムズがソ連大使館情報部の意見広告を掲載。「ジュネーブ交渉の後障害は何か」と題し「米は核兵器凍結回避に固執」と非難
1985/8/14
全ソ原子力エネルギー公団が「国際原子力機関(IAEA)の査察官が発電用原子炉の査察で訪問」と公表。ソ連が民生用原子力施設の国際査察を認めるのは初
1985/8/14
原爆慰霊碑献花台の花束4束が慰霊碑内に投げ込まれる
1985/8/16
原対協が1984年度の事業概要をまとめる。広島市内の被爆者の精密検査受診率は過去最高の61.2%で、初めて60%台に。高齢化に伴う不安を反映
1985/8/17
米エネルギー省が「ネバダで地下核実験」と発表
1985/8/18
ミッテラン仏大統領が、南太平洋の核実験区域への不法侵入の武力阻止を指示。抗議行動に対抗
1985/8/18
インドの原子力専門家が「臨界に達した実験用原子炉で生産されるプルトニウムから、1年間に原爆8個の製造が可能」と言明
1985/8/18
終戦直前、庄原市に疎開した広島陸軍幼年学校の49期生が、広島で被爆した3人の同期生を慰霊する墓を庄原の浄光寺に建立、慰霊法要
1985/8/18
荒木広島市長が米核実験に抗議電報。20日、被爆者らが原爆慰霊碑前など28カ所で座り込み
1985/8/18
第1回国際アニメーションフェスティバル広島大会が広島市の市公会堂で開幕。「愛と平和」がテーマ。17カ国69点を公開審査。23日、最優秀グランプリに手塚治虫さんの「おんぼろフィルム」を選び、閉幕。24日、手塚さんが賞金50万円を市に寄付
1985/8/20
社会党総合エネルギー政策委員会がエネルギー政策案まとめる。安全確保を前提に、既存原発とともに必要電力供給の範囲内での新規原発容認を打ち出す
1985/8/20
ユニバーシアード神戸大会の聖火を広島市平和記念公園の「平和の灯」から採火
1985/8/21
広島大名誉教授の故玉川忠太さんの遺族が、広島原爆直後の死没者解剖記録を広島大医学部に寄贈。病理解剖で判明した初期症状を詳細に記録
1985/8/21
東京の元教諭石川逸子さんが原爆童話「くすの木と少年」を基に詩劇を創作し、原作者大平数子さん(広島市西区)に届ける
1985/8/22
京都府向日市の子供会「がんばるくらぶ」の小中学生ら17人が反核平和を訴えるため米へ出発
1985/8/23
米国防総省が「空軍は次期戦略ミサイルMXの地下サイロ発射実験に成功」と発表
1985/8/25
初の「非核を求める草の根全国集会」が東京・日比谷公会堂で開会、80団体1,000人が参加
1985/8/26
環境保護団体グリーンピースの核実験監視船爆破事件で、仏政府調査委員会が「仏政府は関与せず」と発表
1985/8/27
東広島市志和町の浄土真宗報専坊の仏教婦人会が被爆証言集「ヒロシマの長い1日-安芸門徒の原爆体験」を刊行。2冊目
1985/8/27
ジュネーブで核拡散防止条約(NPT)再検討会議が始まる。条約発効15年で見直し
1985/8/29
フィリピン語り部行脚から広島に帰った「ヒロシマを語る会」の沼田鈴子さんら6人が帰国報告。「非核運動の定期交流を約束した」
1985/8/29
広島平和文化センターが被爆写真を撮影したカメラマン8人を招いて座談会を開き、ビデオに収録。元中国新聞写真部員の松重美人さん(広島市安佐北区)や元陸軍暁部隊写真部の尾糠政美さん(島根県邑智郡川本町)ら。被爆証言第1弾
1985/8/29
米フィラデルフィア連邦高裁がスリーマイル島原発1号機の運転再開の差し止め決定
1985/8/29
在日朝鮮人被爆者の記録映画「アリランのうた」製作のため、朴寿南監督らが長崎入り(「長崎年表」)
1985/8/30
広島市役所の旧本庁舎の屋上側壁に原爆の熱線による変色が確認され、広島市が切り取って保存へ
1985/8/--
「広島・長崎の原爆災害」(岩波書店)の普及版(日英両国語)が発売。両市が世界平和連帯都市市長会議(5日から)で外国代表に配布へ
1985/8/--
広島県双三郡三良坂町の原爆被害者の会が手記集「百日紅」を発刊。187人が惨状をつづる
1985/8/--
原爆開発のマンハッタン計画に加わった科学者の3割、155人が、原爆投下に反対して当時のトルーマン大統領に署名請願していたことが、米国立公文書館の解禁・秘密文書で明らかに
1985/8/--
広島市議会の旧庁舎検討協議会が、被爆建物の広島市役所旧本庁舎について、正面玄関の石段と地下室の一部のみ保存と決める
1985/8/--
原爆後の広島で市民の士気に極端な低下がなかったことが、米戦略爆撃調査団の市民意識調査と広島大原医研の宇吹暁助手の分析で判明。「原爆の威力が十分伝わっていなかったのと軍都広島での戦意高揚教育の徹底を反映」と分析
1985/8/--
画家丸木位里、俊夫妻の英語版画集「THEHIROSHIMAMURALS」が講談社インタナショナルから出版。「原爆の図」15部連作など21点を収録
1985/8/--
益田市原爆被害者の会が会員の被爆体験をまとめ「ピカ-益田からのヒロシマ・ナガサキ」を出版。島根県で初の証言集
1985/8/--
広島市似島で被爆者を治療した軍医らが、島での遺骨捜しに向け関係者の証言集め。陸軍似島検疫所付属病院にいた暁6165部隊の軍医大尉西村幸之助さんら
1985/8/--
広島原爆被爆者療養研究センター「神田山荘」の1984年度利用者が過去最高の13万3,973人に
1985/8/--
長崎市の爆心地のシダ胞子の遺伝子に、現在も異常に高い突然変異。日米共同研究で判明

年別アーカイブ