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ヒストリー

ヒロシマの記録1984 6月


1984/6/1
国際ペン東京大会に参加後長崎市入りしたスウェーデン作家協会員のアン・マルグレット女史が本島等市長を表敬訪問し「政府主催で、今秋から2年間、20~30都市で原爆展を開く」と語る(「長崎年表」)
1984/6/1
写真家たちのグループ「反核・写真運動」(秋山庄太郎氏ら代表委員8人)が東京で反核バザー。益金で被爆写真の収集保存
1984/6/1
「84平和大行進で『団体旗』対立はやめて」と市民団体が声明。日本生活協同組合連合会、全国地域婦人団体連絡協議会、日本被団協
1984/6/2
語り部の広島県佐伯郡廿日市町、吉岡満子さんが脳内出血で死去。57歳。原爆で母と弟を失い、弟の形見の帽子を原爆資料館に寄贈。詩誌「野火」同人。1979年8月に「原爆の日」を刊行
1984/6/2
原水禁84年世界大会準備委で平和行進の団体旗の掲揚をめぐり、自粛派の市民団体、原水禁国民会議系と自由派の日本原水協系が対立。自粛に合意した日本原水協系の日本平和委員会の小笠原英三郎会長、長谷川正安理事長、森賢一事務局長が責任を取り辞意を表明
1984/6/2
荒木広島市長が31日の米地下核実験に抗議し在日米大使館に抗議電報。広島市の原爆慰霊碑前などで被爆者らが座り込み
1984/6/3
岡島俊三長崎大医学部教授のグル-プが、被曝線量の測定に電子スピン法を応用した方法を開発(「長崎年表」)
1984/6/4
米海軍が退役潜水艦の原子炉処分法を「海洋投棄」から「地中埋設」に転換。候補地はワシントン州ハンフォード、南カロライナ州サバンナリバー。既にポラリス型7隻を含む9隻の原潜が退役
1984/6/4
中曽根首相が田英夫社民連代表との会談で(核を使わせずという問題については)「使うかどうかは保有国の勝手であり、使わせないことを約束させるのは主権侵害、内政干渉」と発言。野党各党が反発、撤回を申し入れ
1984/6/4
ソ連のチェルネンコ書記長が日本被団協の核兵器廃絶要請に対し「核戦争防止に全力」の返事
1984/6/5
「中国がソ連向けに114~155基の核弾頭装備弾道ミサイルを配備」と米国防総省が公表
1984/6/5
パグウォッシュ会議がジュネーブで開いた第10回核戦力・核凍結部会の後、「現在の敵意に満ちた関係の下では米ソの核削減交渉は望みがない。双方の自主的な自制措置と非公式な話し合いの積み重ねが必要」と声明
1984/6/6
フィンランド、スウェーデン、ギリシャの3国首相が米ソ軍縮交渉再開を求めるアピール
1984/6/7
公表された米外交文書(1952~54年)で朝鮮戦争当時、米が中国東北部(旧満州)と北朝鮮の開城地区に「原爆攻撃」を検討、発進基地として日本を考慮していたことが判明。53年2月11日の国家安全保障会議でアイゼンハワー大統領が原爆使用の検討を提起。これに対し、使用した場合の日本国内の反発、ソ連の日本への核攻撃、英仏などの原爆使用反対などが懸念材料と指摘
1984/6/7
被爆者援護に尽くした大内五良前広島県医師会長が脳動脈血栓症のため死去。74歳。京都府出身、名古屋大医学部卒業後の1943年、広島市横川町に開業。被爆し53年の広島市原爆障害者治療対策協議会(後の広島原爆障害対策協議会)設立に奔走、55年5月には原爆乙女と渡米、在米被爆者検診の医師団派遣など被爆者医療に貢献
1984/6/8
オーストラリアのウォルシュ資源エネルギー相が「英が1953年から63年の間にオーストラリアの砂漠で行った核実験に関連し軍属、先住民約1万5,000人の健康被害を国が調査するよう閣議に提案する」と表明。7月2日、政府が調査を決定。調査団3人を閣議で了承
1984/6/9
米核巡航ミサイル・トマホークの極東配備計画に抗議し広島市の原爆慰霊碑前で広島女子大生2人が、72時間ハンスト
1984/6/9
ロンドン・サミット最終日、英最大の反核団体「核軍縮運動」(CND)がロンドン市内で約15万人を動員しデモ。英国内からの巡航ミサイル撤去などを訴え
1984/6/9
広島市二葉の里の饒津神社が原爆焼失前の本殿、拝殿、社務所を復元し完工奉祝祭
1984/6/10
運動方針などで混乱している日本平和委員会が新理事長に福山秀夫副理事長、事務局長に宇藤義隆事務局次長を選ぶ
1984/6/11
「ヒロシマ・ナガサキ平和基金」が総額1千万円を突破。市民のための平和教材づくりへ
1984/6/11
渡日治療のため在韓被爆者7人が長崎市入り。渡日治療8回目(「長崎年表」)
1984/6/11
厚生省と外務省が被爆韓国人徴用工の遭難問題で長崎県壱岐、対馬に第2次調査団を派遣。6月22日までに対馬で45柱の遺骨を収容したが壱岐はゼロ。「被爆徴用工との関連は分からない」として調査打ち切りへ
1984/6/11
爆心500メートル復元調査など被爆実相を社会学的な面から追求してきた広島大総合科学部教授湯崎稔氏が脳内出血のため死去。53歳。中央大卒、1961年からABCCに勤め、66年広島大原医研に移る
1984/6/11
米国防総省が大陸間弾道ミサイル(ICBM)の初の非核迎撃ミサイル(ABM)実験に成功
1984/6/12
安倍晋太郎外相がジュネーブ軍縮会議で、2段階方式による地下核実験禁止など軍縮提案。「まず核実験の検証可能規模を引き下げ、これを超える規模の実験を禁止。その後、検証技術を向上させ全面禁止へ」
1984/6/12
渡日治療の在韓被爆者11人が広島入り。第10陣
1984/6/13
反核ドキュメンタリー映画「ダーク・サークル」の製作者で米の女性監督ジュディ・アービングさんが広島市で記者会見。広島などで上映運動へ
1984/6/13
日本平和委員会が平和大行進の団体旗問題で「団体旗は自由であり、自粛の合意を破棄」と平和行進の主催者原水爆禁止84年世界大会準備委員会に通告
1984/6/13
被爆者健康手帳の保持者が初めて前年を下回り、減少傾向に。厚生省資料で判明。3月末の手帳保持者は計36万8,259人、前年より3,920人減少。被爆者の高齢化により新規取得者を死亡者が上回ったため
1984/6/13
仏がムルロア環礁で核実験。ニュージーランド・ウェリントンの地震観測所が発表
1984/6/14
荒木広島市長が13日の仏核実験に抗議し在日仏大使館に電報
1984/6/14
核巡航ミサイル・トマホークの配備が始まって以来初の米原潜タニーが横須賀港に入港。米海軍当局者は「トマホーク積載はまだ始まっていない。タニーは核トマホークを積んでいない」と否定
1984/6/14
「広島の平和と学問を守る大学人の会」(代表理事、北西允広島大教授)が、地元5大学の教官274人から核巡航ミサイル・トマホークの日本への持ち込み拒否と非核三原則堅持の署名を集める
1984/6/15
米上院が米ソ両国に「核戦争危機回避センター」設置を求める決議を満場一致で採択
1984/6/15
仏の13日の地下核実験に抗議し、広島県内の10市10町28カ所で被爆者らが座り込み
1984/6/16
地婦連、日本生協連、日青協など市民団体が日本平和委員会に「(団体旗自粛の破棄通告のような)拒否権行使が認められるなら共同行動は不可能」と批判
1984/6/17
ソ連ジャーナリスト同盟のイワン・ズブコフ副議長らが原爆資料館を見学、慰霊碑に参拝
1984/6/17
仏がムルロア環礁で核実験。ニュージーランドが発表
1984/6/17
日本被団協が定期総会。代表委員に伊東壮、伊藤サカエ、山口仙二の3氏を再任
1984/6/17
胎内被爆小頭症患者と親の会「きのこ会」が広島市で総会を開き、「親が希望した場合は小頭症患者が直ちに福祉施設に入所できるよう」広島県、市に要望
1984/6/18
荒木広島市長が仏核実験に抗議電報。19日、被爆者らが広島県内の10市10町28カ所で座り込み
1984/6/19
「今年3月、日本海での米空母とソ連原潜の衝突事故当時、空母は2日前から原潜を捕捉、標的にした模擬攻撃訓練をしていた」。レーマン米海軍長官が海軍大学の講演で明かす。ソ連艦も攻撃訓練中に異常接近の可能性
1984/6/19
富永初子さんら広島の語り部11人の証言を集めた反核ドキュメント映画「生きるための証言-いま、ヒロシマから」(同映画製作委員会製作)が完成し、東京で試写会。監督は青銅プロダクションの片桐直樹さん
1984/6/20
米上院がレーガン大統領に包括的核実験禁止交渉をソ連と直ちに再開することを求める決議案を賛成多数で可決
1984/6/20
作家大江健三郎さんら112人の文化人が、非核三原則に「使わせず」「棄てさせる」を加えた「非核五原則」を緊急提言
1984/6/20
米がネバダで地下核実験。エネルギー省が発表
1984/6/21
広島県被団協(森滝市郎理事長)が理事会で桧垣益人事務局長の辞任を了承。1961年5月に2代目事務局長に就任、以来23年間、森滝理事長とコンビで全国の被爆者のけん引車として活動。45年8月から56年6月までは日本被団協の代表委員。88歳。後任には伊藤サカエ氏
1984/6/21
荒木広島市長が米核実験に抗議電報
1984/6/21
広島県被団協(森滝市郎理事長)が、広島市中区大手町4丁目の広島平和会館を同区中島町へ移転決める
1984/6/21
日本原水協がこの夏も広島市で8月4、5の両日、独自集会の開催を決める
1984/6/22
政府公賓として初来日したポルトガルのソアレス首相夫妻一行65人が、長崎市を親善訪問、平和公園で平和宣言(「長崎年表」)
1984/6/22
在米被爆者検診実現などに尽力したトーマス・ノグチ元ロサンゼルス郡検視局長の復職要求をカリフォルニア州上級裁が却下。「解剖医への降格は管理能力に問題」。日本医科大を卒業後、戦後、渡米し帰化、1968年から同郡検視局長として活躍、マリリン・モンロー、ロバート・ケネディ氏など著名人の司法解剖に当たった。82年4月、管理がずさんとの地元紙の報道を機に役職を追われた
1984/6/22
中国電力の江見耕平副社長が山口県熊毛郡上関町の町議会企業誘致特別委員会に出席し、原発立地事前調査について説明。中電幹部の同特別委出席は初
1984/6/22
広島に原爆を投下したエノラ・ゲイの副操縦士故ロバート・ルイス氏が「ノーモア・ヒロシマ」の願いを込めて制作した彫刻「キノコ雲」が、大阪で開かれた「84平和のための戦争展」で展示。ルイス氏は戦後、原爆投下を悩み続け1978年から約1年間、臨床心理学者のグレン・バン・ウォリビー博士の治療を受け、その礼として博士に彫刻を贈る。彫刻は京都市での戦争展(8月2~10日)の後、清水寺で1年間公開へ
1984/6/23
被爆者らが20日の米核実験に抗議し広島県内28カ所で座り込み
1984/6/24
広島市の元安橋東詰めに広島西ライオンズクラブと長崎西ライオンズクラブが共同で「平和祈念碑」を建立、除幕式。長崎にも同型が2月11日完成
1984/6/24
山口県上関町で520人が反原発デモ
1984/6/26
非核宣言都市の英・大ロンドン市議会が日本山妙法寺に核軍縮の仏舎利塔建立を依頼。テムズ河畔に高さ33.5メートル
1984/6/27
米国防総省が海洋発射巡航ミサイル(SLCM)トマホークの海軍戦闘艦艇への初配備を確認
1984/6/28
山口県上関町議会特別委が原発推進派の事前調査受け入れの請願を採択
1984/6/29
日本原水協の全国理事会で吉田嘉清代表理事を解任、代表委員制の廃止を決める。代表理事は従来の3人から5人に増員。市民団体や社会党系団体と共闘を進めてきた吉田氏を外し、児童文学者の山口勇子氏、田沼肇法政大教授を再任、新たに統一労組懇の金子毅常任代表委員(日高教委員長)、全国商工団体連合会の佐藤裕事務局長、新日本婦人の会の石井あや子会長の3人を加える。全国理事会開催を認めなかった草野信男氏、佐久間澄氏、小笠原英三郎氏、江口朴郎氏、小佐々八郎氏、畑敏雄氏ら6人を含む代表委員9人全員を役員から外す。代表委員制廃止の理由は「機関や役員の構成が複雑になりすぎたため」。日本原水協国際部の佐藤行通氏についても「反核平和戦略研究所という組織をつくり分派活動」と国際部から外す
1984/6/29
安倍晋太郎外相が衆院委で、日米安保条約による事前協議について「米は日本に相談の義務がある。日本側から事前協議を発議することはない」と言明
1984/6/--
広島の草の根市民運動が一目でわかるカレンダーを「広島草の根ひろば」(山田順二代表)が発行。南北ネットワーク、中東を考える会、平和交流をすすめる広島若者の会、ヒロシマ被爆二世の会、被爆者家庭訪問をすすめる会など11団体
1984/6/--
「無数のヒロシマが見える…」と歌った日本語の反核ソング「無数のヒロシマ」がインドネシアで人気。同国のボーカル・グループ「ビンボー」が作詞作曲、在住日本人女性が日本語に翻訳
1984/6/--
イタリアの民間平和団体「シンバ・アカデミー」(本部ローマ)が荒木広島市長に「軍縮賞」、原爆映画「この子を残して」の木下恵介監督に「映画賞」を贈る。イタリア北部の町セスト・サン・ジョバンニ市も荒木広島市長に名誉市民賞。「軍縮と平和推進に功績」が理由
1984/6/--
漫画家の中沢啓治さんの原作「黒い雨に打たれて」のアニメ映画づくりが進む。監督白土武さん
1984/6/--
島根県八束郡美保関町の笠浦漁協など4漁協が「原発の危険は同じなのに交渉対象外は納得できない」と県と中国電力に2号機建設反対を陳情
1984/6/--
被爆者の8割が過去1年間に何らかの病気にかかっている-。厚生省の1982年度広島、長崎の被爆者状況調査で判明
1984/6/--
大阪市原爆被害者の会の森田栄会長が被爆直後の広島で救援活動に当たった軍隊の思い出などを記した「非核への浮標-ヒロシマの兵士たちの証言」を出版

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