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ヒストリー

ヒロシマの記録1984 8月


1984/8/1
東京で原水爆禁止84年世界大会国際会議始まる。36カ国・地域120人の海外代表を含む450人が参加。日本原水協の役員が、一般参加した草野信男、吉田嘉清氏の退席を求め大会開会が大幅に遅れるなど波乱のスタート。大友よふ地婦連会長が主催者あいさつ、小野寺喜一郎日本青年団協議会長が準備委報告。スウェーデン軍縮大使のマイ・ブリット・テオリンさん、英の核軍縮運動(CND)議長のジョアン・ラドック女史、英上院議員のウィナー・ブロックウエー氏らが参加。中距離核ミサイル配備で国家を超えての平和運動の連携強調
1984/8/1
広島県地域婦人団体連絡協議会(県婦協、大前ハルミ会長)が原爆慰霊碑前で独自の平和集会。1978年から83年まで原水禁世界大会の広島実行委員会に参加していたが、「政治色を避ける」と独自集会に
1984/8/1
米の反核草の根グループ「84平和と正義のための動員」(ジュディ・チュウー代表)がロサンゼルスで開く「サバイバル・デー84」のために、広島市の平和記念公園で「平和の灯」採火式。火は広島県原水禁が派遣する広島市の安井健一さんがカイロで運ぶ
1984/8/1
第30回の広島平和美術展が広島平和記念館で始まる。8月31日まで。後藤寛さん「母と子の祈り」、四国五郎さん「トマホーク」など12人の絵画や書道。3日からはメーン会場の県立美術館で450点を展示
1984/8/1
名古屋市の亀沢深雪さんが原爆で奪われた家族、女性としての夢などをつづった「広島巡礼」を出版。新地書房刊
1984/8/1
広島市で核禁会議(磯村英一議長)が全国集会。約800人が参加
1984/8/2
日本被団協の調査で、医療特別手当を申請するための認定申請で、1963年から82年までの20年間に厚生省が約三分の一を却下していることが判明
1984/8/2
日韓両国政府の合意による渡日治療を受けた在韓被爆者の、日本再治療実現を目指す在韓被爆者渡日治療広島委員会が発足。広島市の河村虎太郎医師、在日大韓キリスト教広島教会の金信煥牧師らが呼びかけ
1984/8/2
東京で第5回「ノーモア・ヒロシマコンサート84」。芝田進午広島大教授らが企画。呉市出身のソプラノ歌手常森寿子さん、声楽家の葦原邦子さん、ピアノの村上弦一郎さんら出演
1984/8/2
広島女学院大の庄野直美教授が「ヒロシマは昔話か-原水爆の写真と記録」を出版
1984/8/3
原水禁84年世界大会国際会議が東京宣言を採択し閉幕。宣言で各国政府に核艦船の受け入れ拒否を提唱。東京宣言を読み上げた中立労連議長の竪山利文さんが「私も長崎で被爆した」と述べる。当時、竪山さんは九州帝大工学部の学生で、後輩を励ますため長崎市を訪れ被爆
1984/8/3
広島平和研究所が教師向けの平和教材「ヒロシマ-その惨禍未来への証言」出版
1984/8/3
兵庫県芦屋市から広島市の平和記念公園までを走る「第1回核廃絶・芦屋-広島平和マラソン」が芦屋市役所前をスタート。参加者全員が「全国健称マラソン会」で、世界連邦建設同盟のメンバーが中心
1984/8/4
日本原水協が広島県立体育館で独自集会。約8,000人が参加し、団体旗問題などで原水禁と総評を批判。山口勇子代表理事が「(役員解任は)一部役員の路線逸脱であり、分裂はどこにもない。団結の力で原水禁運動の真の統一を目指そう」と発言
1984/8/4
東京・日比谷野外音楽堂で加藤登紀子さんらが「ザ・アトミック・カフェ・ミュージック・フェス」開く。実行委員長はロック雑誌編集の大久保青志さん
1984/8/4
中国放送が、1983年のアキバ・プロジェクトで広島を取材した米ウィスコンシン州ミルウォーキー、WISNテレビ放送記者マーシャ・ウォルトンさんとカメラマンのリチャード・バンスさんが制作した「最初の原爆-最後の悪夢」を放送。8日も
1984/8/4
原爆乙女の一人和田雅子さんが広島県佐伯郡廿日市町の特別養護老人ホーム「清鈴園」で献身の半生。中国新聞が近況
1984/8/5
ロサンゼルスで「84平和と正義を求める動員」のサバイバル・デー集会。約2万人が参加。中米問題などの後、在米被爆者を代表し原爆乙女の一人笹森(旧姓新本)恵子さんが被爆体験を語り、広島から被爆者の安井健一さんが運んだ広島平和記念公園の「平和の灯」をトーチに点火。ノーマン・カズンズ氏らがあいさつ
1984/8/5
NHKが「世界の科学者は予見する・核戦争後の地球」を放送。第1部「地球炎上」、第2部「地球凍結」。英の物理学者フランク・バーナビー博士がメーンキャスターに
1984/8/5
トマホーク積載可能の米原潜が横須賀港に初入港。スタージョン級ドラム
1984/8/5
日本被団協が広島市内で「被爆者と市民の集い」を開く。「核兵器はいかなる理由で使用しても国際法違反。被爆者問題基本懇答申のように原爆被害を受忍せよという発想は絶対に認められない」 1984/8/5
原水禁国民会議が広島県立体育館で独自集会。約5,800人が参加
1984/8/5
原水禁84年世界大会広島実行委員会が主催し、広島市の平和記念公園から市中央公園まで折鶴平和大行進。1万3,000人が参加
1984/8/5
広島市の市中央公園で原水爆禁止84年世界大会。約2万人が参加し核戦争阻止、核兵器完全禁止を求めるヒロシマ・アピールを採択。被爆者援護法を被爆40周年の1985年には必ず制定するよう中曽根首相に要求する特別決議。会場では広島県労まんが集団主催の第1回「反核マンガ展」も 1984/8/5
広島県安芸郡府中町で、非核都市宣言をした19自治体首長らが参加し非核都市宣言自治体連絡協議会(会長、山田機平府中町長)を結成
1984/8/5
広島県立体育館で日本生活協同組合連合会が主催し「84ヒロシマ虹の広場」。約4,000人が参加
1984/8/5
広島市似島で広島市教組などが主催し「原水爆禁止少年・少女のつどい」。10回目
1984/8/5
原爆死没者慰霊式・平和祈念式に出席のため広島市を訪れた渡部恒三厚相が市公会堂で「被爆者代表から要望を聞く会」。広島県被団協の中本剛、伊藤サカエ両事務局長ら7人が出席。渡部厚相「介護手当増額を来年度被爆者対策予算の重点としたい」。6日の記者会見では「被爆40周年の来年の被爆者実態調査は、死没者を含む幅広く総合的なものにし、世界に被爆の実相をアピールするものにしたい」「現行二法が国家補償の精神に基づいているので、被爆者援護法の制定は必要ない」
1984/8/6
荒木広島市長が平和宣言。「…核兵器保有国は核実験を即時全面的に停止し、核兵器廃絶に踏み出すべきである。特に人類生存の命運を握る米ソ両国は、直ちに核軍縮交渉を再開するとともに、互いの確執を断ち、一日も早く首脳会談を開催するべきである。…わが国は憲法の平和理念を堅持し、唯一の被爆国として非核三原則を空洞化させることなく、これを厳守するとともに、核軍縮の促進と東西緊張の緩和に積極的に取り組まなければならない。…広島、長崎は核兵器の廃絶を願い、平和と協調のため、世界の都市に連帯を呼びかけた。その輪は大きく広がり、被爆40周年には『世界平和連帯都市市長会議』を開催し、都市連帯による新しい平和秩序を探求する。被爆39周年の本日、われわれは改めて原爆被害者及び遺族のために、国家補償の理念に立った被爆者援護対策が早期に講じられるよう強く求める」
1984/8/6
午前8時15分、原爆ドーム横で若者ら500人が「ダイイン」▽「全国健称マラソン会」の兵庫の老人らが3日間の反核リレーマラソンで式典参列▽若者グループ「南北ネットワーク運動」(山田順二代表)、「平和交流をすすめる若者の会」(萩原繁和代表)など全国の若者約100人が広島県安芸郡府中町の府中こばと幼稚園で5日夜から徹夜討論▽全国の若手弁護士やケースワーカーらが広島市で原爆二法研究会全国交流集会▽沖縄、北海道などから児童・生徒の代表団が訪れ、広島継承の輪が広がる
1984/8/6
被爆39周年。広島市原爆死没者慰霊式・平和祈念式。新たに亡くなったり、死亡が確認された原爆死没者4,315人の名簿を奉納、計11万3,271人に。遺族代表として初めて高校生の中村寿子さんが同じ被爆二世の小川伸也さんと平和の鐘をつく。荒木市長が「人類絶滅の瀬戸際。米ソは今こそ対話を。非核三原則の空洞化を防げ」と平和宣言で訴え。名誉市民、特別名誉市民を初めて招待。愛宮真備(世界平和記念聖堂の建設に尽力)、灘尾弘吉(元衆議院議長)さんと特別名誉市民の米平和運動家フロイド・シュモーさん、広島女学院大名誉教授のメアリー・マクミランさんが参列。渡部恒三厚相が中曽根首相あいさつを代読
1984/8/6
サンフランシスコの教育テレビ局「KQEDテレビ」が、広島テレビ放送の制作で1969年度芸術祭優秀賞の原爆ドキュメンタリー「碑」を放送。元広島女学院大講師のドロシー・ストロープさんらが尽力
1984/8/6
広島市の見真講堂で第5回「原爆犠牲者にささげる音楽の夕べ」。芝田進午広島大教授らの企画で1980年に発足。チェロ井上頼豊、ピアノ村上弦一郎ら
1984/8/6
広島市内で開かれた原水禁84年世界大会分科会・分散会のうち、「原水禁運動を強めるために」分科会などで原水禁、原水協が激しく対立
1984/8/6
平和祈念式に参加した広島市特別名誉市民のフロイド・シュモーさんが、中区江波二本松1丁目に残っている「ヒロシマ・ハウス」で、一緒に家を建てた山本初枝さんやかつて住んでいた人々と再会。5戸が市営住宅として残り、当時の集会所も現存
1984/8/6
スウェーデンのルント大に留学中の広島県高田郡高宮町出身の児玉克哉さんが中心になってルント市で「ヒロシマ・デー」開く
1984/8/6
ブラジル・サンパウロ市のヒロシマ中、高校で平和祈念式。邦字紙が「遠い国の祈願届け」と報道 広島市の崇徳中高校で全校生徒が登校し原爆忌法要。全生徒参加は7年前の33回忌以来。今後毎年6日を登校日に
1984/8/6
全米各地で「ノーモア・ヒロシマ」の願いを込め多彩な反核・平和行動。ニューヨークでは修理中の自由の女神像へ環境保護団体「グリーンピース」の4人がよじ上り核実験停止を訴える。ネブラスカ州オマハの米戦略空軍基地前ではデモ隊のうち148人が一時拘束、コネティカット州グロトンの原潜造船所では12人が逮捕
1984/8/6
大竹市が今年から6日を「大竹のヒロシマの日」とし、同市総合市民会館前の慰霊碑「叫魂」で原爆死没者追悼・平和祈念式典
1984/8/6
荒木広島市長が米フロリダ州キーウエスト市のリチャード・ハイマン市長と約10分間、国際電話で平和問題を対談。対談はラジオでフロリダ州に生放送
1984/8/6
米フィラデルフィア大のウィリアム・エバン教授(社会学、経営学)が、8月6日を全世界共通の「国際平和の日」に制定する運動を起こすよう提唱
1984/8/6
6日付ニューヨーク・タイムズに1983年のアキバ・プロジェクト記者ロバート・マノフ氏が「ヒロシマ、希望の記念碑」と題する評論を寄稿。「ヒロシマは恐怖と同義語だが、今、ヒロシマは人類が核の脅威の中で新たな共同体を作っていくための希望のモニュメントとして認識されるべきだ」「(ヒロシマは)原爆という普遍的な死の体験から、普遍的な人類の価値を取り出すことに成功している」
1984/8/7
「被爆者援護に役立てて」と広島市に寄付が相次ぐ。新潟県十日町市の原水爆禁止十日町市協議会が25万円。1965年から11回目、総額202万円に▽和歌山県労働組合懇談会は197万円、67年以来隔年で総額1億152万円に▽原水爆禁止加古川市協議会、国際友愛協会なども毎年寄付
1984/8/7
自民党「むつ」検討委員会が「『むつ』は実験1年程度を経て廃船」の方針打ち出す
1984/8/8
長崎市に原爆を投下したB29ボックスカーの後続機に乗って、爆発の瞬間を目撃した英空軍の元将校レオナルド・チェシアーさんの平和祈念式典参列を長崎市が断る。「平和は核の均衡によって保障される」「原爆はあの時点で仕方がなかった」など核肯定姿勢があるため
1984/8/8
長崎市が核実験の度に打った抗議電報が288通に。1970年5月、当時の諸谷義武市長が駐日仏大使に打ったのが最初、これまで米ソに各104回、仏54回、中国17回、英8回、インド1回
1984/8/8
広島県被団協(森滝市郎理事長)副理事長の高橋昭博さんがエッセー、対談などをまとめた「ヒバクシャのこころ」を発刊。汐文社刊
1984/8/9
長崎市原爆犠牲者慰霊平和祈念式典。この1年に死亡が確認された被爆者2,217人の名簿を奉納、名簿総数は6万4,186人に。本島等市長が「寄港時に核確認を」と、平和宣言で政府に非核三原則厳守迫る。中曽根首相が「核兵器を手にした者は、これを独占しようとし、他の保有者に対する恐怖心からより優越したものを手にいれようとします。核兵器は放っておけば増殖を続ける危険があります。私たちは人類の英知の名において速やかに核兵器増殖の悪循環を断ち、相互に信頼し得る検証の方法を確立して国際政治の前進に全力を注がなければならない」とあいさつ
1984/8/9
本島等長崎市長が平和宣言。「…驚異的に増大する核兵器、ヨーロッパ、アジアへの核兵器配備、そして中断したままの軍縮交渉と世界はいま最悪の危機に直面しています。世界平和実現のために、私たちは世界の人々の苦しみや悲しみの解決に努力し、特に飢えに苦しむ発展途上国に対して技術と富を分かち合わなければなりません。日本政府は、米ソ両国を直ちに軍縮の席につかせるよう努力し、米国の核トマホーク積載艦船のわが国への寄港、通過について事前に核の有無を確認して『非核三原則』を厳守して下さい。米ソ両国への平和使節団の派遣と、世界の被爆者のための国際医療センターの設置を提唱し、日本政府には来年被爆40年を期して被爆者の国家補償が実現することを求めます」
1984/8/9
長崎原爆資料館にある被爆写真の少女が39年の沈黙を破り被爆体験を語り始める。堀江歳子さん
1984/8/9
長崎市が被爆した元英人捕虜に被爆者健康手帳を交付(「長崎年表」)
1984/8/9
原水禁世界大会参加の中国代表団の羅冠宗団長が「広島、長崎の被爆者を中国に招待したい」と表明
1984/8/9
長崎平和祈念式典参列の中曽根首相が記者会見で「来年の国勢調査時に付帯調査として被爆者の健康、被爆状況について周到な調査をしたい」「(被爆者援護法は)現行の原爆二法を充実させ援護に当たりたい」
1984/8/10
北海道広島町の小学生代表8人が、広島市の原爆資料館など見学し初の平和学習
1984/8/12
ソ連が12日、同国北西部で地下核実験。米エネルギー省が13日発表
1984/8/14
荒木広島市長が12日のソ連核実験に抗議し在日ソ連大使館に電報
1984/8/14
在韓被爆者渡日治療12人が広島入り。第11陣。これまでの総計は広島134人、長崎68人の計202人
1984/8/15
ジェダ元ビキニ市長ら元ビキニ環礁住民12人が国連植民地独立特別委員会に、米が同環礁の放射能汚染洗浄を行うよう求めた要請書を提出
1984/8/16
ソ連の12日の地下核実験に抗議し、広島県内の28カ所で被爆者らが座り込み。この年23回目、通算268回目
1984/8/18
京大の沢田敏男学長が広島県佐伯郡大野町にある「京都大原爆被害総合研究調査班遭難記念碑」に参拝、殉職した職員、学生11人のめい福を祈る
1984/8/18
「核軍縮を求める22人委員会」(座長、宇都宮徳馬参院議員)が東京で平和シンポ。草の根市民団体の意見を聞くのが目的で、56団体130人が参加
1984/8/22
子供たちの平和教材として活用されてきた広島市中区基町の被爆エノキが台風で倒れる
1984/8/23
1985年に広島、長崎両市が計画している世界平和連帯都市市長会議の対象を国内自治体にも広げることを荒木広島市長が表明
1984/8/25
ベルギー沖で仏貨物船モンルイがソ連向けの六フッ化ウランを積載したまま衝突、沈没。ウラン化合物225トン海底に沈む。低濃縮ウランも積む。アフリカ・ガボン産の天然ウランをソ連で濃縮ウランに加工、仏やベルギーの原子力発電所で使用する核燃料ルートでの事故
1984/8/25
ソ連国防省が「地上発射長距離巡航ミサイルの実験に成功」と発表
1984/8/26
カナダ陸水学の権威ジョン・バランタイン博士が広島市を訪問、原爆慰霊碑に参拝
1984/8/26
広島市で開かれた全国自治体うたごえ祭典で、広島市職員の歌声サークル「むらすずめ」が反核構成詩「とどけ、このうた」を発表
1984/8/27
ツバルの首都フナフティで第15回南太平洋諸国首脳会議。オーストラリアのホーク首相が「南太平洋では核兵器の開発(実験)、製造、保有、貯蔵をしない」とする非核地帯化条約を提案、作業グループ設置を決める
1984/8/28
長崎市の小、中学生50人が広島市を訪問。両市の子ども会連合会が8年前から1年ごとに相互訪問
1984/8/28
ソ連がウラル山脈で2回の地下核実験。スウェーデンのハグフォルス軍地震観測所が発表
1984/8/28
米議会民主党のプロクシマイアー上院議員らが「仏から日本へのプルトニウム輸送にかかる米艦艇の警備費は日本に支払わせるべき」と主張。英海員組合と環境保護団体のグリーンピースは「輸送反対」を打ち出す
1984/8/28
荒木広島市長が東京・三鷹市で「ヒロシマの心を世界に」と題し講演
1984/8/29
荒木広島市長が28日のソ連核実験に抗議し在日ソ連大使館に電報。この年24回目。ソ連へは10回目
1984/8/30
米エネルギー省が「ネバダで地下核実験を実施した」と発表。この年10回目
1984/8/30
中国新聞が連載企画「山口のヒロシマ」を掲載。山口版に7回。那須元幹、殿敷侃さんら
1984/8/30
広島平和文化センター事業部長で語り部の高橋昭博さんの被爆体験を画家の四国五郎さんが23枚の画集に描く
1984/8/31
ソ連の28日の地下核実験に抗議し、広島県内の28カ所で被爆者らが座り込み。倉敷市でも放射性廃棄物高梁川流域反対同盟が国鉄倉敷駅で初の座り込み
1984/8/31
在米被爆者検診に協力している元ロサンゼルス医師会長のビル・マイスナー医師が広島市を訪れ、荒木広島市長に「今後も在米被爆者検診に協力」と約束
1984/8/31
荒木広島市長が米核実験に抗議電報
1984/8/--
日本原水協の前代表理事吉田嘉清氏が解任劇の背景をインタビューに答える形で本に。「原水協で何がおこったか-吉田嘉清が語る」。「解任劇直前の6月21日、共産党平和問題対策委員会責任者の小森良夫氏(同党中央委員)が『党の決定だ』と言って代表理事解任を言い渡した」
1984/8/--
旧広島文理科大に留学中、被爆した南方特別留学生9人の被爆記録がアジア留学生協力会(東京)の機関誌に「太陽が落ちてきた日」として掲載。広島大の江上芳郎国際主幹が執筆
1984/8/--
1945年12月から47年の広島市内をスケッチした日本画家片田天玲さんの作品11点が初公開へ
1984/8/--
米政府が「核の冬」理論を重視し5,000万ドルをかけ原因究明へ
1984/8/--
横須賀市で「入港艦船は非核証明書を市に提出を」の神戸方式の実現を目指す市民運動広まる
1984/8/--
ニューヨークのハドソン川に面して立つニューヨーク仏教会の親鸞像に西本願寺安芸教区平和運動特別委員会が像の由来を記した説明板を設置へ。11月8日に完成、発送。像はもともと広島市西区三滝町の聖が丘にあった。像を建立した大阪の会社役員が「国連本部があるニューヨークにこの被爆観音像を安置し、ノーモア・ヒロシマを世界に」と発案。1955年9月、現在地に移された。説明板は日本語と英語で「世界平和を願う貴重な記念像」と記す
1984/8/--
広島市のNHK広島放送局ロビーで金崎是さんの「ノーモア・ヒロシマ油絵展」。10日まで
1984/8/--
1982、83年アキバ・プロジェクトの米英5人の記者の記事やシナリオなどを収めた「欧米記者の見たヒロシマ・ナガサキ」刊行。広島国際文化財団刊
1984/8/--
広島市の原爆資料館が被爆樹の調査、保存に乗り出す。中区基町の広島中央署基町派出所前のクスノキ、第二陸軍病院跡のエノキ、千田小学校校庭のクスノキ、基町中央公園のポプラなど
1984/8/--
広島市の医師原田東岷氏がエッセー集「平和の夢を追いつづけて」を刊行。影書房刊
1984/8/--
原爆資料館が欧米3都市に被爆石を発送へ。米ミネアポリス、イタリア・マルザボット町、セスト・サンジョバンニ

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