×

ヒストリー

ヒロシマの記録1984 11月


1984/11/1
広島2区選出の増岡博之厚相が被爆者援護法について「現行二法の充実によって対処したい。実質的なメリットを考えるのが現実の政治」
1984/11/2
10月28日の仏核実験に抗議し、被爆者らが広島県内28カ所で座り込み
1984/11/3
中国の通信社、新華社の記者ら8人が原爆資料館を見学
1984/11/3
仏がムルロア環礁で核実験。ニュージーランドのラロトンガ島地震観測所が5日発表
1984/11/4
長崎市で「核実験に抗議する長崎市民の会」が、ソ連と仏の核実験抗議の座り込み。1974年8月17日から通算200回目
1984/11/5
荒木広島市長が3日の仏核実験に抗議電報
1984/11/7
3日の仏の核実験に抗議し広島県内28カ所で被爆者らが座り込み。1979年の年間最高32回と並ぶ。原爆慰霊碑前で広島原水禁の宮崎安男事務局長が「今年の核実験抗議の座り込みが過去最高を超えるのは確実。あきらめず抗議を続ける」と決意
1984/11/7
日米親善野球で来日したボルティモア・オリオールズの選手らが原爆慰霊碑に参拝
1984/11/7
ヒロシマ・ダンサーズ(古月公子さん主宰)の反核バレエ「星ひとつまたたきて-ノーモア・ヒロシマズ」が、31年ぶりに東京で公演。1953年のタイトルは「ノーモア・ヒロシマズ」
1984/11/8
社会主義インターの軍縮委員会(委員長、カレビ・ソルサ・フィンランド首相)東京会議が開会。米ソへ軍縮交渉を提唱する東京アピールを発表。10日、ソルサ委員長ら8カ国11人が広島の原爆資料館など見学
1984/11/10
米がネバダで地下核実験。エネルギー省が発表
1984/11/10
映画「白い町ヒロシマ」(現代ぷろだくしょん製作)が完成、広島、東京で試写会
1984/11/10
広島県内の二つの被団協、社会党系(森滝市郎理事長)と共産党系(佐久間澄理事長)が、分裂以来初めて広島市で合同の「原爆被害者大会」。約200人が参加し被爆者援護法即時制定を決議
1984/11/10
作曲家団伊玖磨さんが、広島青年会議所の依頼で、被爆40周年記念に交響曲「HIROSHIMA」の作曲を決める 1984/11/10
北海道・池田町の地区労青年婦人協議会の6人が町の補助金で平和学習を続け、9年目に広島へ
1984/11/12
米国原爆被爆者協会(倉本寛司会長)が瀬尾正毅サンフランシスコ総領事を通じ、中曽根首相に「在米被爆者の帰国治療の実現を」と嘆願書提出
1984/11/12
荒木広島市長が10日の米核実験に抗議し在日米大使館に電報
1984/11/13
10日の米核実験に抗議し広島市の原爆慰霊碑前などで座り込み。過去最多の年間33回目。座り込み回数は1973年=6回、74=13、75=16、76=24、77=22、78=31、79=32、80=29、81=20、82=22、83=30、84=33
1984/11/15
カリフォルニア州サラトガ市の女性市長バージニア・ファネリーさんが原爆資料館を見学
1984/11/15
仏からプルトニウムを積載した晴新丸が東京港に帰港
1984/11/15
デンマークの海外領土であるグリーンランド自治政府議会が平時、戦時を問わず非核地帯化を決議。同地には米が2カ所に基地を設置し、平時は核兵器の持ち込みを禁止するが、戦時には禁止措置をとらないとのデンマーク政府の公式政策に従ってきた
1984/11/15
米ジャーナリストのピーター・ワイドン氏が「1945年当時、広島、長崎への原爆投下後も日本が降伏しない場合、トルーマン大統領はさらに50個程度の原爆投下計画を承認していた」と公表。口頭でマンハッタン計画のロバート・オッペンハイマー博士に伝えられ、さらにロスアラモスで実際に原爆製造に当たっていたノーマン・ラムゼー博士に伝達された。著書「DAYONE」の中で明らかにする。「当時、3番目の原爆が太平洋に送り出されようとし、9月に7個、以後、月に12個が配備されるはずだった」
1984/11/16
カナダ政府が、最後の核ミサイル「ジェニー」が7月に撤去されたことを確認。同ミサイルはカナダ空軍のCF101迎撃戦闘機に搭載され、米軍管理下に
1984/11/17
日本被団協が全国代表者会議で被爆40周年の運動として原爆被害者の基本要求を決める。(1)米政府は被爆者に謝罪し、そのあかしとして自国の核兵器の放棄と核兵器廃絶に主動的役割を(2)核保有国は、核戦争被害の実相を自国民に知らせ、核兵器完全禁止条約を(3)被爆者援護法は原爆被害に対する国の償いであり、再び被爆者をつくらない誓いを国が宣言することになる
1984/11/18
「ビキニ環礁に再び住民が住めるようにするには、汚染表土の除去などに約4,000万ドル(約96億円)が必要」。米科学者グループが発表
1984/11/18
広島県高校生平和ゼミナール(委員長、丸山幾生君)が「平和のための京都の戦争展」に被爆エノキ贈る。東京・平和博物館を創る会など他の5団体にも
1984/11/19
「原爆1号」と呼ばれ、広島市の国立療養所畑賀病院に入院中の吉川清さんが被爆瓦など193点と絵はがき1,500枚を原爆資料館に寄贈
1984/11/19
1984年のアリス・ハーズ賞が広島市の「被爆者家庭訪問をすすめる会」に決まる。同会は1981年2月に結成され、広島市中区基町を中心に独り暮らしの高齢被爆者の話し相手になりながら被爆体験を受け継ぐ
1984/11/19
被爆した中国電力の旧本社ビル(広島市中区小町)の取り壊しを前に、被爆死した163人を慰霊してお別れ神事。1929年、広島電気本社ビルとして建設
1984/11/20
中国電力が山口県上関町に「原子力立地推進本部上関立地調査事務所」を開設。事前調査を要請した片山秀行町長や地元民は事務所開きに出席せず
1984/11/21
原爆死没者の納骨堂を建設中の山口市江良の建設予定地から被爆旧軍人の骨片多数を発掘
1984/11/22
在ブラジル原爆被爆者協会の森田隆理事長が厚生省に「専門医を派遣し、健康診断を」と要望
1984/11/22
広島県労会議、広島地方同盟、広島県中立労協が被爆者援護など初の統一要求を県に提出。被爆40周年に向け(1)県内の市町村とともに非核自治体宣言を行う(2)被爆者援護法の早期制定の努力(3)原爆病院を準県立病院として位置づける
1984/11/23
日本原水協が広島で被爆者援護・連帯全国活動者会議。全被爆者の家庭訪問を実現し、網の目援護体制をつくるなど決める
1984/11/23
増岡博之厚相が大臣就任後、初のお国入り。原爆慰霊碑に参拝し原爆病院を慰問
1984/11/23
ノーベル平和賞受賞の修道女マザー・テレサさんが広島市を訪問。原爆慰霊碑など参拝し原爆資料館を見学、原爆養護ホームを慰問。愛と平和を説く
1984/11/26
電気事業連合会が青森県六ケ所村に立地する核燃料サイクル事業について、青森県知事が委嘱した専門家会議が「安全性は基本的に確立し得る」と報告
1984/11/26
福山市の2市民団体が市議会に4万7,382人の非核都市宣言署名提出
1984/11/27
広島平和記念公園の仮設原爆慰霊碑が完成。現慰霊碑は過去帳を移し、取り壊しへ
1984/11/30
中国電力島根原発の2号機起工式。7月10日に着工したが、正式な「起工式」をしていなかった。松谷健一郎社長が現地で「地元の要望があれば島根原発敷地内に3号機建設も」と表明
1984/11/30
米国防総省核防衛局がイスラエル、インド、パキスタンの核開発に関する報告書を公表。「イスラエルはすでに核戦力を保有し、100発を保有可能、インドは24発、パキスタンも1990年までに同等の水準に」
1984/11/30
ベルギーのマルテンス首相が米巡航ミサイル48基の同国配備決定を翌1985年3月まで延期と発表
1984/11/30
米が「新宇宙司令部」の設立を決める。空、海軍に分かれている核実験査察衛星の業務を一本化
1984/11/--
厚生省が老人医療費の一部負担金の立て替え払いを原爆被爆者に限り、12月診療分から廃止
1984/11/--
広島市が姉妹都市のハワイ・ホノルル市と西ドイツ・ハノーバー市に「平和の鐘」の複製寄贈。鐘は1967年8月、人間国宝の鋳金工芸家香取正彦さんが作り広島市に寄贈。上部に日、月、星、雲、中央部に故吉田茂元首相の揮ごうによる「平和」の文字、下部に「国泰民安」「兵戈無用」の文字を刻む。複製は香取氏の手により英語とドイツ語で「平和友好」の文字
1984/11/--
米の女性詩人スーザン・グリフィンさんがヒロシマ取材。「世界の核被害者を通し現在の危険な核状況を伝えたい」
1984/11/--
米原子力規制委員会(NRC)が、「米原発は1983年1年間に1基につき平均6.5回緊急停止」と報告。年1回の日本に比べ、極めて高いと警告
1984/11/--
平和教育用ドキュメンタリー番組制作のため米ボストン市の民間テレビ局「WLVI」の女性プロデューサーがヒロシマ取材

年別アーカイブ