×

ヒストリー

ヒロシマの記録1983 7月


1983/7/1
日本青年団協議会(小野寺喜一郎会長)が組織を挙げて反核学習、実践運動に取り組むことを決め、大分市で開いた全国青年活動家研究集会で呼び掛け
1983/7/1
ソ連と仏核実験に抗議し、広島市の原爆慰霊碑前など広島県内10市26カ所で被爆者らが座り込み
1983/7/1
広島平和文化センターが米オハイオ州クリーブランド市の私立クリーブランド保健博物館に被爆資料35点を発送。9月から展示
1983/7/1
ベラウ(パラオ)共和国と米政府が「自由連合協定を実施するための協定」に調印。「核の持ち込み、通過を認め、非核憲法を骨抜き」と批判
1983/7/2
日本原水協など5団体が米海軍の戦艦ニュージャージーの日本寄港反対アピール。「核巡航ミサイル搭載可能な戦艦の入港は非核三原則と平和憲法を蹂躙」
1983/7/2
広島大庶務部の江上芳郎主幹が、被爆死した中国人留学生を新たに3人確認。12人の留学生のうち計6人が犠牲に。広島大原爆死没者追悼碑に追加奉納へ
1983/7/2
第4回在米被爆者検診の広島派遣医師団がホノルル市でハワイ在住被爆者41人を検診。3日も35人が受診し、全日程を終了
1983/7/4
大阪府同和教育研究協議会が、広島、長崎へ平和・人権の修学旅行をした大阪府内の6小中学校の児童、生徒、教師の活動記録をまとめる
1983/7/4
谷川和穂防衛庁長官が8月6日の原爆死没者慰霊式・平和祈念式に参列する意向を表明
1983/7/5
「夫がリンパ性白血病で死んだのはネバダ核実験が原因」と政府に200万ドルの損害賠償を請求していたオラ・ホルゲートさんの訴えを、米ユタ州ソルトレークシティーの連邦地裁が却下
1983/7/6
高知県窪川町議会が四国電力の原子力発電所立地調査の凍結を求める決議案を否決
1983/7/6
核凍結を訴える「83年平和のための自転車行進」がモスクワを出発。ソ連、フィンランド、米などの自転車愛好者が参加。8月6日、ワシントンをめざす
1983/7/6
チェコスロバキアのプラハで開かれた「核戦争に反対し、平和と生命を守る世界大会」(6月21~26日)に参加した松江澄広島県原水禁常任理事が帰国、記者会見。「ヒロシマは世界の原体験になりつつある」と語る。世界大会は132カ国から3,000人が参加
1983/7/6
広島県議会文教委員会で、石田明氏(社会)が「平和教育の指導指針が1969年に通知されて以来、更新されず資料も古い」と追及。県教委が見直しへ
1983/7/6
「反核・日本の音楽家たち」(代表委員、芥川也寸志氏ら)が東京の日比谷公園でコンサート
1983/7/8
第4回在米被爆者検診の派遣医師団(門前徹夫県立広島病院副院長ら5人)が帰国。厚生省を訪れ「予算が削減され、検診は打ち切りになるのではないかとの不安が広がっている。続けて実施を」と要請
1983/7/8
米ペンシルベニア州のスリーマイル島原子力発電所1号機で放射能を含んだ冷却水が漏れる。事故をおこした2号機の姉妹炉
1983/7/9
広島県原水協が理事会で、長崎で行われる原水禁世界大会を成功させるための独自のヒロシマ集会の開催や非核自治体宣言運動の推進など活動方針決める
1983/7/9
浄土真宗本願寺派安芸教区が広島別院で初の平和問題シンポジウム。平和運動をテーマに討論
1983/7/10
「非核・独立太平洋会議」がバヌアツ共和国のポートビラで始まる。20日まで。太平洋問題情報センター(本部ホノルル)主催で、米、英、仏、日本などから100人が参加
1983/7/10
スウェーデンのウプサラ大地震研究所が「ソ連は10日、5分ごとに合計3回の地下核実験をカスピ海北方で行った」と発表
1983/7/10
被爆の惨状を伝える長崎市の浦上天主堂の「聖女アグネスの像」がニューヨークの国連本部に永久展示へ。本島等市長らが輸送費の街頭募金
1983/7/11
原水爆禁止83年世界大会準備委員会が20年ぶりに統一して行う平和大行進の広島-長崎コースが、広島平和記念公園を出発
1983/7/11
広島県内87市町村を走破する広島県原水禁(社会党・総評系)加盟9団体の「反核平和の火」リレーが、広島市の原爆慰霊碑前を出発。26日まで県内を一巡
1983/7/11
荒木広島市長がソ連核実験に抗議する電報を駐日ソ連大使に打つ。長崎市の本島等市長も林光之助市議会議長と連名でソ連大使に抗議文
1983/7/12
今井隆吉軍縮大使がジュネーブ軍縮委員会に核実験全面禁止条約について日本の立場をまとめた作業文書を提出。観測所を世界に50カ所配置して世界気象機関(WMO)の通信網でデータ交換、1キロトン以下の地下核実験まで90%の確率で探知できると提案
1983/7/12
ソ連の核実験に抗議し、広島市の原爆慰霊碑前など広島県内26カ所で被爆者や市民が座り込む
1983/7/12
アムステルダムの第3回核戦争防止国際医師会議(IPPNW)に出席した福原照明広島市医師会長と大北威広島大原医研教授が帰国。記者会見で「改めてヒロシマを訴え続ける必要を感じた」と述べ、同会議広島県支部でヒロシマの学術映画製作など検討へ
1983/7/13
北朝鮮が社会党の第7次北朝鮮訪問団に「原水禁世界大会へ代表団派遣のために最大の努力」と表明。帰国した野坂浩賢団長が明かす
1983/7/14
中学校教科書検定で反核・軍縮に関する記述が書き直された問題で、小埜寺直巳教科書検定課長が原水禁世界大会準備委員会の代表に「反核運動を否定するつもりはない」と口頭で回答
1983/7/14
岡山県久米郡柵原町議会が「核兵器廃絶宣言」を決議
1983/7/14
日ソ軍縮問題事務レベル協議がモスクワで始まる。SS20の極東配備など議題に
1983/7/15
政府が原水禁83年世界大会参加を希望している北朝鮮代表団の入国を「政治活動をしない」条件で許可する方針を固め、北朝鮮側に伝える
1983/7/15
レーガン米大統領が、ニューメキシコ州アラモゴードでの38年前の世界初の核実験を記念して、7月16日を「全米原爆復員軍人の日」とする宣言に署名
1983/7/15
米科学アカデミーが「被爆直後の広島に駐留し、残留放射能に被曝した元米軍兵士らの骨髄がん発生率は一般人と大差ない」と発表
1983/7/16
「タヒチなど仏領ポリネシアで仏核実験の影響とみられるがんや障害児急増。昨年中に発見されたがん患者は推定150人」。バヌアツ共和国で開かれている非核・独立太平洋会議のタヒチ代表が共同通信記者に語る
1983/7/16
公明党広島県本部が長崎、沖縄両県青年局と合同で「3県合同反核・平和大会」を広島市の平和記念館で開き、非核三原則堅持などヒロシマ・アピールを採択
1983/7/16
カリフォルニア州サクラメント市の日系人サマースクール「ジャンケンポン」から5回目の千羽づるが広島市に届く
1983/7/16
レーガン米大統領がラジオ演説で「ソ連が地上配備大陸間弾道ミサイル(ICBM)を削減すれば、次期主力戦略ミサイルMX100基配備の削減に応じる」と発言。MXをSTART交渉の切り札にする意向
1983/7/19
原爆劇画「はだしのゲン」(中沢啓治氏原作)のアニメーション映画が完成。広島市で試写会。23日から一般公開
1983/7/19
ジュネーブの国連欧州本部で初の本格的な原爆被害展。写真パネル40枚と溶けた仏像や血染めの白衣など被爆資料29点を展示。長崎市の本島等市長、広島平和文化センターの高橋昭博事業部長らが出席
1983/7/19
広島県原水協と広島市原水協の代表が荒木広島市長に、米戦艦ニュージャージーの日本寄港で、被爆地の市長として寄港中止を要請するよう申し入れ
1983/7/19
広島市の私立安田女子高で原爆の犠牲になった同校教職員13人、生徒316人の初の慰霊祭
1983/7/20
核実験に抗議する原爆慰霊碑前の座り込みが10周年を迎え、森滝市郎氏をはじめ被爆者ら350人が平和記念公園で座り込み。反核の誓いを新たに
1983/7/20
南太平洋のバヌアツ共和国で10日から開いた非核・独立太平洋会議が閉会。仏実験の停止、日本の核廃棄物海洋投棄反対の「バヌアツ宣言」を採択
1983/7/20
「米原子力艦船の放射能漏れ事故が日本や米の近海で10数回発生」-。米の民間研究機関「合憲政府のための基金」が発表
1983/7/20
ニュー双葉(広島市)の広島原爆病院美容慰問が50回に。1957年から、8月6日と正月前に奉仕
1983/7/20
広島市の私立あやめ幼稚園の年長組40人がビキニ水爆実験をテーマにした紙芝居を製作。米の平和運動家ドリス・ハートマンさんや宗教団体に送る
1983/7/20
米下院本会議が次期戦略ミサイルMX27基の調達予算25億ドルを賛成220、反対207の小差で可決。26日、上院でも可決し、MX配備が確定
1983/7/21
広島市が谷川和穂防衛庁長官に原爆死没者慰霊式・平和祈念式への案内状を送る。広島県原水協は出席取り消しを求める要請文を荒木広島市長あてに提出。27日、広島県原水禁と広島被爆者団体連絡会議も広島市に抗議文(7・22、7・28)
1983/7/21
原爆詩人の栗原貞子さんが、占領軍のプレスコード下で出版した反戦詩歌集「黒い卵」を完全復刻。米からゲラ刷りのコピーを入手し収録
1983/7/22
北朝鮮が社会党に83年原水禁世界大会への不参加を通告。日本政府の「政治活動禁止」に反発
1983/7/22
九大教養部が9月から11月まで「核を考える公開講座」(11回)の開講決める
1983/7/25
米海軍が8月の米戦艦ニュージャージー日本寄港を中止。中米での軍事演習参加のため
1983/7/25
広島国際文化財団の招きで広島、長崎を取材する83年アキバ・プロジェクトの米記者4人が広島市入り
1983/7/26
広島県原水禁の「反核平和リレー」が広島県内唯一の非核宣言町、安芸郡府中町に到着
1983/7/26
ニュージーランド政府が「仏は21日、ムルロア環礁で今年4回目の核実験を行った」と発表
1983/7/27
常陸宮夫妻が広島市を訪問。原爆慰霊碑に献花
1983/7/27
荒木広島市長が仏核実験に抗議する電報を駐日仏大使に打つ
1983/7/28
仏核実験に抗議し、広島市の原爆慰霊碑前など広島県内26カ所で被爆者や市民が座り込み。アジア文学者ヒロシマ会議の参加者も
1983/7/28
ソ連がセミパラチンスクで地下核実験。スウェーデンの地震観測所が観測
1983/7/28
広島県原爆被爆者対策課がまとめた県内の被爆者健康手帳保持者は17万6,416人。60歳以上が45%を超す
1983/7/28
アジア文学者ヒロシマ会議が広島市の平和記念館で始まる。「アジアの平和と文学-核、貧困、抑圧からの解放を求めて」をテーマに核時代のペンの役割を討論。13カ国、18人の海外代表を含む100人が参加。30日まで
1983/7/29
広島市の画家浜本武一氏が2年がかりで製作したビデオ「光の鎮魂歌」が完成、広島県立美術館で放映
1983/7/29
世界連邦主義者世界協会(WAWF)の第19回世界大会がオランダで開催。17カ国150人が参加
1983/7/29
広島原爆病院が1982年度の「原爆白書」。入院患者は過去最多の364人。平均年齢70歳。近距離被爆者に疾病が多く、肝臓がんなど悪性腫瘍増加
1983/7/30
日本国際法律家連絡会と核兵器廃絶を求める法律家運動連絡会が東京で「反核・平和法律家シンポジウム」開く。60人が参加
1983/7/30
長崎市が1982年度から始めた在米被爆者渡日治療で、カリフォルニア州在住の2女性が日赤長崎原爆病院に入院(「長崎年表」)
1983/7/30
アジア文学者ヒロシマ会議が「先進国と第三世界諸国の支配と抑圧の関係は、核の脅威のもとで一層強化。世界の文学者、知識人がペンと言葉と創造力を核兵器廃絶に向けよう」のヒロシマ・アピール採択し閉会
1983/7/31
アジア文学者ヒロシマ会議に出席した8カ国の海外代表16人、日本人作家14人の文学者を招き、「アジアの平和と文学を語る会」が長崎市で開催。「核のないアジア。貧困、抑圧、侵略のない世界をめざしてスクラムを」とのアピール採択
1983/7/31
広島県双三郡吉舎町に原爆慰霊碑が完成、被爆者ら300人が参列して除幕式。町内の原爆犠牲者166人の名簿奉納
1983/7/--
ほるぷ出版社(東京)が戦争や原爆を漫画で告発する「平和漫画シリーズ」第1期分5巻を刊行
1983/7/--
原爆ドームの銅製説明板が落書きで修復不能に。広島市は取り換えを検討
1983/7/--
仏がムルロア環礁の環境破壊に関する調査をまとめる。「緊急措置を施す必要はない」としながらも「地下核実験によって地形に変化が生じ、放射性廃棄物による汚染の可能性が常に存在」と指摘
1983/7/--
長崎の被爆者らで組織する「非核長崎市民の会」(川口正善代表)がギリシャの聖火を長崎市の平和公園にともす計画を進める。8月7日の「長崎の心を世界に!83反核市民のつどい」で点火
1983/7/--
広島国際文化財団のアキバ・プロジェクトで1980年に広島、長崎を取材した米フィラデルフィア市のSANE教育基金ラジオ局のディレクター、ダイアナ・ルースさんらが制作した原爆劇「ヒロシマの怨念」が反響を呼び、30分間のテレビ作品に
1983/7/--
広島平和文化センターが9月から修学旅行生らを対象にした「語り部」活動を実施へ。要望に応じきれないため、被爆職員とボランティア8人で対応
1983/7/--
放射線影響研究所が広島、長崎両市の乳がん調査で、若年被爆者(9歳未満)の乳がんが増加傾向にあり、乳房発育前の被爆が乳がんを高率に誘発することを初めて立証。オランダの第17回国際放射線学会で報告
1983/7/--
核禁広島県民会議が議長に河村虎太郎氏(河村病院長)を選出
1983/7/--
広島に原爆が投下された8月6日の広島地方気象台の日照記録が見つかる。キノコ雲の影響で一時的に太陽が隠れた跡が鮮明に

年別アーカイブ