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ヒストリー

ヒロシマの記録1982 1月


1982/1/1
朝鮮戦争の発生当時、英政府が米軍による中国本土爆撃を原則的に承認し、戦争があった場合のソ連による対英原爆投下を懸念していたことが、守秘期間切れの英政府公文書で分かる
1982/1/1
国連の第5代事務総長にハビエル・ペレス・デクエヤル氏(ペルー)が就任。初の中南米出身の事務総長
1982/1/4
鈴木首相が記者会見で、原子力発電所の建設促進を強調し、原発立地県に電気事業税の四分の三を優先交付する方針を明らかに
1982/1/5
日本初の民間による使用済み核燃料再処理工場の候補地に、青森県むつ市の関根浜周辺地区が最有力に。日本原燃サービス(東京)が地元と調整へ
1982/1/7
米カリフォルニア州パームスプリングスで、ウランなど放射性物質を積んだ貨物列車が脱線事故。放射能漏れはなし
1982/1/8
米ペンシルベニア州のスリーマイル島原子力発電所で放射能漏れ事故。1979年3月の大規模事故以来、停止中の1号機と2号機の中間にあるビル2カ所で「微量」と報告
1982/1/10
広島国際文化財団の招き(アキバ・プロジェクト)で1981年8月に広島、長崎を取材した米シアトルタイムズ紙のエリザベス・ローズ記者が「ヒロシマ・人間破壊」を同紙に連載。全ページ4回。原爆投下について投書も特集
1982/1/11
「10フィート運動原爆写真巡回展」が広島市役所と中区役所で始まる。16日まで。引き続き2月6日まで各区役所を巡回
1982/1/11
公明党が中央執行委員会で、国連軍縮特別総会に向け反核・軍縮運動に取り組む方針を確認
1982/1/11
民社党の中央執行委員会が「核軍縮、自由と平和と人権を守る国民会議」の設置方針を決定。国連軍縮特別総会に向け、幅広い国民運動を展開へ
1982/1/11
アルゼンチン原子力委員会のカルロス・マデロ委員長が11日付ジュルナル・ド・ブラジル紙で「アルゼンチン、ブラジルは3年以内に原爆製造が可能」と語る
1982/1/12
広島県労会議が単産・地区労代表者会議で、核兵器廃絶と非核三原則を目指す「反核20万人集会」を3月21日に広島市の平和大通りで開催を決定。「第2回国連軍縮特別総会に核兵器完全禁止と軍縮を要請する国民運動推進連絡会議」も19日、広島で反核集会開催を決定(1・13、1・20) 1982/1/12
大分市の飯田サガノさん(80歳)が、原爆で不明の伯母のため積み立てた200万円を広島市に寄付。19日、広島市の調査で伯母の孫が安佐南区に在住
1982/1/12
日本原電敦賀原子力発電所で溶接部から水漏れ事故が発生。運転を停止
1982/1/13
広島県警の郡敬太郎本部長が、広島県労会議「反核20万人集会」(3月21日)の平和大通り使用について「私的団体が道路を交通遮断して集会を開くのは全国的に例がない」と道路使用不許可の方針を示す。18日、社会党県会議員団が抗議。主催者と県警が協議へ
1982/1/13
ミクロネシア諸島の住民団体「これぞわが祖国」が今秋「ミクロネシア非核会議」を開き、同諸島の非核地帯化運動へ。ベラウ(パラオ)共和国から帰国した日本原水協友好訪問代表団の赤松宏一団長が明かす
1982/1/13
中国電力の山根寛作社長が年頭会見で「島根原子力発電所に続く新規の原発立地のめどを1982年度中につけたい」との意向を表明
1982/1/14
広島県被団協(森滝市郎理事長)と同(佐久間澄理事長)が竹下虎之助知事に、国家補償の被爆者援護法の実現努力と県独自措置の検討を要請
1982/1/14
広島県内の婦人14団体で構成する「国際婦人年県婦人連絡会」(林郁子代表)が広島駅前で、第2回国連軍縮特別総会への代表派遣の募金と署名活動
1982/1/15
米ロサンゼルス・タイムズ紙が米政府文書を基に、日本に対する米の原爆攻撃継続計画があったことを報じる。「日本が降伏しなければ、広島、長崎に次いで3発目の原爆が投下されていたかもしれない」。マンハッタン計画に携わったノーマン・ラムゼー博士(現ハーバード大教授)が書いた文書で、秘密解除を受け同紙が入手
1982/1/15
ビキニ核実験(1946年7月)で汚染した艦船の洗浄液を48~51年にサンフランシスコ湾に投棄-。米海軍当局が発表。「当時、汚染がひどいとは考えず」
1982/1/15
米環境保護局が1970年以来禁止している低レベル放射性廃棄物の海洋投棄再開を検討
1982/1/16
ポルトガルのリスボンで共産党系の「平和と協力のための評議会」の核兵器反対デモに約5万人が参加。NATOの中距離核ミサイルの欧州配備計画に抗議
1982/1/16
米陸軍の幹部が下院防衛小委員会(1981年9月)で「巡航ミサイルに新化学兵器の装備を検討」と証言-。米紙ワシントン・ポストが伝える
1982/1/17
米海軍のトライデント・ミサイル積載の新型潜水艦オハイオが初めてミサイル発射試験に成功
1982/1/18
仏リヨン郊外に建設中の高速増殖炉に対戦車ロケット弾が撃ち込まれる。核燃料棒の装着前で、増殖炉施設に被害はなし。19日、AFP通信に反核グループから犯行声明
1982/1/18
被爆二世を描く映画「冬のリトルボーイ」が完成し、広島市の平和記念館で試写会。平和プロダクション製作(内野谷典昭代表)。被爆二世が体験を継承し、たくましく生きる姿を描く。16日には呉市民会館でも試写
1982/1/18
NATOのルンス事務総長が米週刊誌ニューズ・ウィーク(18日発行)で「欧州反核運動にソ連が浸透を図り、運動グループをせん動」と非難
1982/1/19
広島県原水禁が反核運動の情報発信と交流の場「ヒロシマ国際交流センター」を発足させる
1982/1/19
広島の原爆投下直後のキノコ雲を撮った映画フィルムが米スタンフォード大付属フーバー研究所で見つかり、原爆記録映画づくりを進める「子どもたちに世界に!被爆の記録を贈る会」(松浦総三代表)が入手
1982/1/19
広島県原水禁が「ヒロシマ語り部の旅」第3陣(2月末)のベルギー、オランダ派遣を決める
1982/1/20
日本の文学者が「核戦争の危機を訴える文学者の声明」を発表。287人が賛同署名。文学者が反核運動に結集するのは初めて。核保有6カ国に声明を送り、政府に非核三原則の厳守を申し入れへ 1982/1/20
広島県医師会が全国で初めて「核戦争防止国際医師会議(IPPNW)広島支部」を結成。支部長に大内五良県医師会長。同国際会議の広島開催も計画へ
1982/1/20
広島県医師会が在米被爆者検診を縁に米シアトル・キング郡医師会と姉妹縁組を決める
1982/1/20
ブラジルから里帰りしたコチア青年二世研修訪日団の一行130人が広島市を訪問。原爆資料館を見学
1982/1/20
ニューヨーク州などが、米運輸省の核廃棄物運搬の差し止めを求める仮処分申請を連邦地裁に起こす。同省は州や市の禁止条例を無視し、運搬強行を決定
1982/1/21
10フィート運動の原爆記録映画の第1作「にんげんをかえせ」が完成し、広島、長崎、東京で試写会。「子どもたちに世界に!被爆の記録を贈る会」が製作。画面に登場する被爆者の吉川清さんも車いすで観賞、「現実はもっとひどかった」
1982/1/21
米の「国防情報センター」(ラロック所長)が米核戦争能力を分析した報告書を公表。「核戦争の抑止力から、核戦争に勝つ能力を持つことに転換」とレーガン大統領の国防計画を批判。米は26種類約3万発の核兵器を保有し、全米34州100カ所以上に配備、貯蔵と分析
1982/1/21
広島を訪れた韓国キリスト教会協議会の金昭映総務ら12人が、平和記念館での「在日韓国人の人権」シンポジウムに参加。在日韓国人被爆者4人が証言
1982/1/21
国連のデクエヤル事務総長が就任後初の記者会見で、軍縮問題に積極的に取り組む姿勢を強調
1982/1/22
放射性廃液漏れ事故などで運転停止処分を受けた日本原電敦賀原発が、10カ月ぶりに営業運転再開
1982/1/23
「第2回国連軍縮特別総会に核兵器完全禁止と軍縮を要請する国民運動推進連絡会議」が東京で特別総会に向けた反核3,000万人署名に乗り出す
1982/1/23
日教組と広島県教組が広島市に被爆者見舞金1,000万円の寄付を申し入れ。全国60万人の教職員がカンパ。29日、同市内での教育研究全国集会で荒木市長へ
1982/1/24
米ニューヨーク・タイムズが「パキスタンは3年以内に核兵器を保有可能」と報じる。政府、議会筋の情報として伝える
1982/1/25
鈴木首相が施政方針演説で、6月開会の第2回国連軍縮特別総会への出席を表明
1982/1/25
広島平和教育研究所が初の「ヒロシマ平和カレンダー」を作る。月ごとに慰霊碑の写真。表紙には文部省検定で削除された丸木位里、俊夫妻の「原爆の図」
1982/1/25
米ニューヨーク州北部のギネイ原子力発電所で、一次冷却水用細管の破裂で放射能を含む大量の冷却水漏れ事故。12人の作業員が被曝。補修時に炉心に置き忘れた金属片で細管破裂
1982/1/25
米紙ワシントン・ポストが「台湾が少数の核兵器を6カ月以内に製造する能力」との国防総省の最新情報を伝える
1982/1/26
占領下の広島で開かれた日本教育学会(1951年5月)の「平和アピール」原文が広島市で見つかる。保管者の楠忠之さん(当時、広島文理科大2年)が公表。「原爆の子」の編者、長田新氏らが執筆、114人が署名し、世界の教育学者に呼びかけ
1982/1/26
「ヒロシマ・ナガサキの証言」創刊号(82年冬号)が発刊。11年間、長崎で発行された「長崎の証言」を引き継ぎ、「広島証言の会」が発刊。被爆者の証言や平和論文などを収録
1982/1/26
徳山市など周南地区の市民らが「軍縮特別総会を成功させる周南実行委員会」を結成。「原水禁運動の統一を願う徳山地区の会」代表の加藤満さんを総会派遣
1982/1/26
放影研の第14回理事会が開会。同研究所の移転問題について、6月までに具体的計画をまとめる方針を決める。28日まで
1982/1/27
「明るい革新日本をめざす中央青年学生連絡会議」が広島県と市に「庁舎など公共施設への被爆瓦展示」を要請
1982/1/28
平和問題調査会(委員長、永井道雄元文相)が東京・国連大学で開かれ、荒木広島市長が第2回国連軍縮特別総会に向け「国連で原爆映画上映や原爆展示、平和シンポジウムを開催するよう日本政府に呼び掛けてほしい」と提案
1982/1/28
米ソの第11回欧州戦域核削減交渉がジュネーブのソ連代表部で始まる
1982/1/28
3年前に大事故が起きた米スリーマイル島原子力発電所の原子炉2基のうち、被害のなかった1号機も冷却用パイプなど数千カ所の欠陥が判明
1982/1/29
「広島反核20万人集会」を成功させる「平和のためのヒロシマ行動」広島実行委員会が発足。被爆者、平和、労働、宗教各団体などを結集
1982/1/29
日教組と日高教の教育研究全国集会が広島市の県立体育館で開会。「ヒロシマの心を世界に」をテーマに約1万4,000人が参加。広島では初開催。2月1日「平和、軍縮、人権、民主主義教育を強めよう」との広島アピールを採択し閉会
1982/1/29
日教組の教育研究全国集会(広島県立体育館)で、構成詩「ヒロシマの心を世界に」が披露。詩、歌曲、被爆体験談を織り込み、核廃絶の願いを訴え。「慟哭」の作詩者大平数子さんも亡き子への慕情を語る
1982/1/29
公明党が、1982年前半の平和運動基本方針を決定。核兵器全面撤廃と軍備縮小を求める1,000万人署名運動や国連軍縮特別総会への代表団派遣など
1982/1/30
日教組の教育研究全国集会で、初の「国際平和教育フォーラム」を広島市の新八丁堀会館で開会、約180人が出席。今秋計画の「世界平和軍縮教育シンポジウム」への参加を呼び掛け
1982/1/30
10フィート運動の原爆記録映画第1作「にんげんをかえせ」が広島市の見真講堂で一般公開、約1,500人が観賞。24日には東京で全国初公開
1982/1/30
英語版原爆記録映画「広島・長崎における原子爆弾の影響」が広島市の見真講堂で全編初上映。1945年9~10月に日本映画社が撮影後、米軍が接収。67年に返還され一部テレビ放映、人体編は文部省がカット。「10フィート運動」で米国立公文書館から買い入れ上映
1982/1/31
総理府の「省エネルギーに関する世論調査」で、原発に6割が不安感
1982/1/--
米ネバダ核実験場風下のユタ州南西部でがんが多発。コロラド大医学部カール・ジョンソン助教授らの住民調査で分かる。核実験場周辺住民の被曝実態が本格的に調査されたのは初

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