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ヒストリー

ヒロシマの記録1982 4月


1982/4/1
原爆資料館が高校生の団体(20人以上)入場を無料に。高校のヒロシマ学習普及を目指す(「広島平和記念資料館・30年のあゆみ」年表)
1982/4/1
「反核文学者・作家署名グループ」代表が鈴木首相と会談し、広島での軍縮サミット開催を要請。国連軍縮特別総会の前に、首相が市民団体の意見を聞く第1弾
1982/4/1
世界の宗教指導者41人が教義の枠を超え、核兵器の凍結を訴えるアピールを発表。国連軍縮特別総会の前に、各宗教の信者に祈りや断食などの行動を呼び掛け
1982/4/1
京都弁護士会の有志155人が核兵器廃絶と核戦争防止を訴える反核アピール。鈴木首相と核保有国など8カ国に送付
1982/4/2
「子どもたちに世界に!被爆の記録を贈る会」主催のヨーロッパ反核平和ポスター展が東京・パルコで始まる。欧州反核グループの102点。7日まで
1982/4/2
徳島県那賀郡鷲敷町の反核署名が町民の7割の2,610人に達し「第2回国連軍縮特別総会に核兵器完全禁止と軍縮を要請する国民運動推進連絡会議」に郵送
1982/4/3
「子どもたちに世界に!被爆の記録を贈る会」が製作する10フィート運動による反原爆映画第2作の撮影が長崎市の長崎原爆病院で始まる。羽仁進監督
1982/4/3
「核戦争防止国際医師会議(IPPNW)」が英ケンブリッジ大で第2回大会を開催。米ソ、日本など31カ国約160人が参加。広島大の大北威教授が被爆後障害の実態をスライドで紹介。7日、米ソ両首脳に核兵器生産、配備などの中止を求めるアピールを発表、閉幕
1982/4/3
沖縄県名護市議会が非核都市宣言を決議。渡具知裕徳市長が提案
1982/4/3
通産省・資源エネルギー庁が「原子力発電所の長期開発方針」を固める。2000年末までに原発設備を9,000万キロワットに増強。目標年次には全電源に占める原発比率が30%以上で火力を越す計画
1982/4/4
原爆乙女の渡米治療などに半生をささげた広島流川教会の前牧師谷本清さんに、母校の米エモリー大から功績をたたえる感謝状
1982/4/4
呉市阿賀町の大空山公園の「平和の碑」前で被爆者ら約300人が初の反核集会
1982/4/4
西欧最大の核ミサイル基地建設予定地のイタリア・シチリア島の町コミソで、同国や近隣諸国から約5万人が参加して反核デモ
1982/4/5
米国民の74%が米ソの核兵器生産凍結に賛成-。AP通信とNBC放送の共同世論調査で分かる 1982/4/5
仏国営放送のダニエル・ピラリアン記者ら日本特集取材班5人が広島を訪問、荒木広島市長に核問題と原子力平和利用でインタビュー。6日、原爆資料館を取材
1982/4/5
社会党訪欧団の飛鳥田一雄委員長が帰国の記者会見。「反核、軍縮、平和が世界の緊急課題と痛感。(欧州反核行脚で)平和の種まきは出来た」。3月22日から4月4日まで仏、スウェーデン、英、西ドイツを訪問
1982/4/5
「第2回国連軍縮特別総会に核兵器完全禁止と軍縮を要請する国民運動推進連絡会議」第1陣8人が、軍縮総会の開かれるニューヨークに到着。日本原水協、原水禁国民会議、総評の代表ら
1982/4/6
広島県原水協が国連軍縮特別総会に向け、広島市で反核署名
1982/4/7
荒木広島市長が広島県医師会の大内五良前会長に感謝状を贈る。被爆者や在米被爆者医療の功績
1982/4/7
マクナマラ米元国防長官ら外交問題専門家4人が、レーガン政権に「先制核不使用」政策を提案
1982/4/8
日本被団協が派遣する被爆体験「語り部の旅」第2陣2人が成田空港を出発。被団協中央相談所理事長の肥田舜太郎、愛媛県原爆被害者の会の久保仲子会長。オーストリアと西ドイツで平和交流。5月13日帰国
1982/4/8
社会党など5会派(6党)が原子爆弾被爆者援護法案を共同提出。15日、衆院社会労働委員会で社会党の森井忠良氏(広島2区)が提案理由を説明
1982/4/8
名古屋大の教官有志が全国の大学人に先駆け「平和への決意」と題する反核兵器・軍縮アピールを出す。豊田利幸教授、柘植利之教授ら94人
1982/4/9
広島県内からの移住者で作るブラジル広島県人会の訪日団41人が広島入り。原爆慰霊碑に参拝
1982/4/9
オーストリア国会議員11人が広島を訪問。原爆資料館を見学、原爆慰霊碑に参拝。国民党党首のヘルベルト・シャンベック上院副議長ら
1982/4/10
原爆乙女の松原美代子さんが「ヒロシマを知らせる委員会」(原田東岷委員長)の派遣する「平和キャラバン」のため広島を出発。15日、ロサンゼルスで活動を開始。米平和運動家バーバラ・レイノルズさんやワールド・フレンドシップ・センター元館長のモーリン・パーカーさんと3人で原爆資料を携え約2カ月間、米大陸を横断へ(1・17、4・4、4・11、4・16夕、4・17)
1982/4/10
西ドイツ各地で米核ミサイルの配備反対、軍縮要求のデモ。15万人が参加。英でも13カ所で核兵器反対集会やデモ。米シカゴでは約2万人が軍拡停止のデモ
1982/4/10
「第2回国連軍縮特別総会に向け行動を広げる会」(38団体)の婦人平和集会が東京で開会、約1,000人が参加。全国の婦人に反核行動参加を呼び掛けるアピール
1982/4/11
愛知県内の医師、歯科医師らが「核戦争に反対する医師の会」を結成。核戦争防止国際医師会議(IPPNW)に呼応し、医学者で名古屋大学長の飯島宗一氏ら92人が呼び掛け
1982/4/12
広島映画センターが創立10周年を記念し、児童原爆劇映画「青葉学園物語」のフィルムを広島市に寄贈。市映像文化ライブラリー(5月1日開館)が保管、公開
1982/4/12
国立カナダ美術館のブライドン・スミス収集調査研究副部長が広島を訪れ、広島平和文化センターで被爆者が描いた「原爆の絵」の原画100点を選ぶ。6月から同美術館で海外初展示へ
1982/4/12
島根原子力発電所2号機の建設予定地、島根県八束郡鹿島町で原発推進の桑谷道雄氏が無投票再選
1982/4/13
マンハッタン計画に参加、現在は反核運動のリーダーである英のノーベル賞受賞者モーリス・ウィルキンス博士が初めて広島を訪問。原爆資料館を見学、原爆慰霊碑に参拝。「罪のない子供たちまで」と熱線で焼けた少女の着物の前で絶句。岩国市の原爆小頭症児にも会う
1982/4/13
日本原水協がミッテラン仏大統領の来日に合わせ、ムルロア環礁での仏核実験中止を要請する文書を在日仏大使館に郵送
1982/4/13
フィンランド外務省のエスコ・ラヤコスキー軍縮担当顧問が広島を訪問、原爆資料館を見学
1982/4/13
南オーストラリア州のデービッド・オリバー・トンキン知事が広島を訪問。原爆資料館を見学、原爆慰霊碑に参拝
1982/4/13
オランダの女性週刊誌「リベレ」記者ヘルマ・ナイハウスさんが特集取材で広島を訪問
1982/4/14
原爆資料館が1981年度の入館者をまとめる。総数は128万4,696人で、過去最高の75年度より3万1,551人増。ヒロシマ学習の修学旅行生も2,705校で40万1,162人に。外国人は全体の7%の8万8,369人
1982/4/14
日本原子力船開発事業団が「むつ」新母港候補地の青森県むつ市関根浜を訪れ、関根浜漁協に建設を前提とした漁業補償交渉の開始を要請。26日、中川一郎科学技術庁長官が同漁協に協力を要請
1982/4/15
ソ連ジャーナリスト同盟代表団一行7人が広島市を訪れ、荒木市長を表敬訪問。ダニイル・クラミノフ団長は「限定核戦争はあり得ない。核兵器は完全に禁止すべき」。原爆資料館を見学、原爆記録映画を観賞
1982/4/16
来日中のミッテラン仏大統領が衆院本会議場で記念演説。米ソ両国の同時かつ相互の軍縮推進を強調。仏の核武装政策は変更しないことを明言。15日には鈴木首相と会談。軍縮問題で「力の均衡」を強調
1982/4/16
ミッテラン仏大統領に南太平洋での核実験禁止を要求する市民集会が東京で開かれ、市民ら約200人が抗議とデモ。ベラウ(パラオ)共和国住民1人も参加
1982/4/16
東京で開かれる反核集会(5月23日)の開催要項が決まる。代々木公園を中心に、名称は「核兵器廃絶と軍縮をすすめる82年・平和のための東京行動」
1982/4/16
第2回国連軍縮特別総会に向けて、浦上天主堂の被爆聖像アグネス像を国連へ贈呈決定(「長崎年表」)
1982/4/17
ソ連のブレジネフ書記長が「今秋に米ソ首脳会談を」と提唱
1982/4/17
広島県原水禁が、ミッテラン仏大統領の核兵器保持政策と核実験続行の国会演説に対し抗議電報
1982/4/17
レーガン米大統領が全米向けラジオ放送。「ソ連の核戦力削減が行われない中で、一方的削減に応じることはできない」。米再軍備計画の支持を訴え
1982/4/17
英紙タイムズ(17日付)が「アルゼンチンは西ドイツの援助で1983年から年間20トンのプルトニウムの生産能力を持つ」と報じ、核拡散を懸念
1982/4/17
米がネバダ州でこの年4回目の核実験
1982/4/17
ロストウ米軍備管理軍縮局長が日本への原爆投下を「生き残り可能な限定核戦争」の好例として挙げ、「日本は生き残っただけでなく、その後も繁栄」と発言(1981年6月)したことを、米上院外交委員会が報告書で暴露。「不用意な発言が反核機運を高める一因」と批判
1982/4/17
在米被爆者の実態を記録した映画「SURVIVORS(生き残り)」がサンフランシスコの日系市民協会で試写会。被爆者ら約100人が観賞
1982/4/18
米の反核市民グループ「グラウンド・ゼロ(爆心地)」が全米約700都市で核の恐怖を訴える反核行動を開始。ワシントンではホワイトハウス前を「仮想爆心地」にした集会。1週間、各地で集会
1982/4/19
広島市がイタリア・パラツォーロ市の退役軍人全国協会ミラノ支部に「原爆の石」を贈る。支部は戦没者記念碑のそばに永久保存
1982/4/19
荒木広島市長が米地下核実験に抗議電報
1982/4/19
米誌ニューズ・ウィークの世論調査で、核凍結運動に賛成が68%に。同誌が反核運動特集
1982/4/19
中性子爆弾の残忍さを描いた米の短編映画「中性子爆弾」(カラー、9分)が原爆映画の無料上映会(広島平和記念館)で初公開
1982/4/19
国連軍縮特別総会に向け、市民団体から政党まで国民各層の核兵器廃絶、軍縮署名が約3,400万人(19日現在)に。ビキニ被災の際の約3,200万人を上回る
1982/4/20
米地下核実験に抗議し、広島市の原爆慰霊碑前など全国24カ所で被爆者らが座り込み。広島県原水禁の森滝市郎代表委員が1962年4月20日に初めて座り込んで20年に。「ヒロシマの願いが届くまで続けなければならない。人類生存のために」と森滝さん
1982/4/20
旧広島中電話局(広島市中区袋町)の被爆局舎の取り壊し始まる。遺族らの要望で局舎屋上のタイルの一部を新築ビルで保存へ
1982/4/20
原子力発電所の候補地とされる鳥取県気高郡青谷、気高両町の地元連合婦人会が有権者の半数を超える反対署名を中国電力に提出。県にも計画拒否を陳情
1982/4/21
ジュネーブ軍縮委員会が討議を終了。核実験全面禁止を目指す作業グループの設置を決めたが、国連軍縮特別総会に向けた成果はなし
1982/4/22
西ドイツ与党の社会民主党が、1983年末の米新型ミサイルのドイツ配備の態度保留。「米ソ欧州中距離核戦力(INF)削減交渉の結果を見てから最終決定」
1982/4/22
全野党が共同提出の原子爆弾被爆者援護法案と政府提出の原爆被爆者対策特別措置法の一部改正案の並行審議が衆院社会労働委員会で始まる。27日、特別措置法一部改正案を可決。援護法案は廃案
1982/4/22
来日中のノーベル賞受賞者マザー・テレサさんが東京で記者会見。「核兵器は国家間に恐怖と不信感をもたらし、人間の生命を破滅させる」。26日、長崎市の爆心地で平和の祈り。28日、離日
1982/4/23
広島市地域婦人団体連絡協議会が反核署名の実施を決める。5月1日から10日間、市内88婦人会で一斉展開。5月18日、国連軍縮特別総会に提出
1982/4/24
「原爆に夫を奪われて広島の農婦たちの証言」(神田三亀男編)の出版記念会が広島市内で開く
1982/4/24
ポーランド人修道士ゼノ・ゼブロフスキー氏が東京・清瀬市の病院で死去。90歳。長崎で被爆、戦災孤児の救済など社会福祉に尽くす
1982/4/24
フィリピンのマニラで61市民団体の代表200人が同国で初めて全国規模の反核集会
1982/4/25
米がネバダ実験場で英と共同の地下核実験
1982/4/25
ソ連がセミパラチンスクで地下核実験
1982/4/25
中国電力の原子力発電所建設で揺れる山口県豊北町の町長選で、反原発派の藤井澄男氏が再選
1982/4/25
「被爆者家庭訪問をすすめる会」(高橋文枝代表)が広島市内で初の平和学習会「ヒロシマ教室」。若者ら約40人が被爆者らの講演、体験を聞く
1982/4/27
荒木広島市長が米英、ソ連の地下核実験に抗議電報。28日、原爆慰霊碑前など全国24カ所で被爆者らが抗議の座り込み。山口県原水禁も5カ所で約200人
1982/4/27
第2回国連軍縮特別総会に合わせ、国連主催の「広島・長崎原爆展」開催が決定。ニューヨーク国連本部で初めて両市の被爆写真、資料を展示
1982/4/27
国連軍縮特別総会での国際非政府組織(NGO)代表演説の日本代表に「国連軍縮特別総会に核兵器完全禁止と軍縮を要請する国民運動推進連絡会議」と「広島平和文化センター・長崎原爆被爆者対策協議会」の2団体と決まる。その後4団体に
1982/4/27
広島在住の文学者、文芸家らで作る「ヒロシマからの呼びかけの会」が荒木広島市長に文学関係者527人の反核署名の写しと核軍縮を求める意見書を提出。「原爆文庫」設置も要請
1982/4/27
作家の中野孝次氏ら文学者、映画人、音楽家ら55人が、市民の反核作品募集を呼び掛け
1982/4/27
島根県が関係17機関を動員し、初の原子力防災訓練
1982/4/27
第五福竜丸展示館館長の広田重道氏が東京の病院で死去。74歳
1982/4/29
米ワシントン・ポスト紙が、ABC放送と合同で実施した核軍縮世論調査の結果を報じる。米国民の71%が米ソ間の即時核軍備凍結を支持
1982/4/29
米デトロイトテレビのR・バーグソン番組企画部長ら一行4人が広島を訪問。原爆資料館など取材
1982/4/29
春の叙勲受章者に、原爆後の広島市で「ヒロシマの家」を建て続けたフロイド・シュモー氏(米ワシントン州在住)が勲四等瑞宝章に決まる
1982/4/29
春の褒章受章者に広島で被爆した歌手二葉あき子さんが紫綬褒章に決まる
1982/4/30
10フィート運動の原爆映画第2作「予言」(羽仁進監督)が完成、東京で試写会。5月7日、広島市でも初上映会。広島女学院高校と広島市立商業高校の生徒、教師ら約1,000人が観賞。「子どもたちに世界に!被爆の記録を贈る会」が製作
1982/4/30
公明党広島県本部が国連軍縮特別総会に向け、県内で21万2,000人の署名(30日現在)を集める
1982/4/30
大竹市の村中フサコさんが、夫の公務死認定却下に異議を申し立てる再審査を国に請求。夫は被爆直後の広島で衛生兵として救助活動、3年後に肝臓がんで死亡。10年後、戦傷病者戦没者遺族等援護法による弔慰金を申請、国は「入市被爆が死因と認められない」と却下
1982/4/30
米大陸横断の反核の旅「平和キャラバン」を続けるモーリン・パーカーさんから中国新聞社に手紙。「各地で大きな反響」
1982/4/30
金沢大学で「反核・原爆・平和」をテーマにした「戦争と平和の政治学」講座。広島の被爆者で石川県原爆被災者友の会会長の岩佐幹三法学部教授が開く
1982/4/30
本島等長崎市長が市合同校長会に初めて出席、平和教育の積極的推進を訴える(「長崎年表」)
1982/4/--
仏のラカーズ陸海空3軍参謀総長が記者会見で「仏は中性子爆弾の製造能力を完全に持った。大統領の決定があれば1980年代に実戦配備も可能」と言明
1982/4/--
原爆劇画「はだしのゲン」のドイツ語版が西ドイツの出版社ローボルト社から発刊
1982/4/--
歌人の豊田清史さんが研究した「広島県短歌史」が完成、自費出版へ
1982/4/--
長崎外国人戦争犠牲者追悼碑建立委員会(田島治太夫会長)が追悼文集「核廃絶人類不戦」を出版。外国人被爆者24人の証言も収録
1982/4/--
動力炉・核燃料開発事業団が宮城県鴬沢町の細倉鉱業で、核燃料再処理工場から出る高レベル放射性廃棄物の埋蔵処分方法を開発する調査、試験を5月から開始へ
1982/4/--
岡山市の身障者、藤村洋子さんがローマ法王の平和アピールに打たれ、車いすで1,600人分の反核署名集める。岡山カトリック教会を通じ国連軍縮特別総会へ
1982/4/--
三重県度会郡南島町の古和ノ浦漁協の元専務理事中林勝男さんが、中部電力・芦浜原子力発電所の建設阻止闘争の記録「熊野漁民原発海戦記」を出版
1982/4/--
米ビキニ水爆実験(1954年)で被曝したマーシャル諸島の243人(ロンゲラップ島86人、ウトリック島157人)全員が、被曝から10年間で甲状腺障害-。地元のマーシャル・アイランズ・ジャーナル紙が伝える。米国立ブルックヘブン研究所の調査結果を基に、ハーバード大医学部のリード・ラーセン博士が結論

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