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ヒストリー

ヒロシマの記録1982 8月


1982/8/1
徳島県原爆被爆者の会編の手記集「生と死ヒロシマ・ナガサキから」が発刊(「奥付」)
1982/8/1
広島の原爆記念日を前に、東ドイツで原子物理学者の良心と責任を描いたラジオ・ドキュメンタリー「ロバート・オッペンハイマーのケース」を放送。ラジオ、テレビでこの週5本の原爆番組が放送される 1982/8/1
米大陸横断「平和キャラバン」の松原美代子さんが、各地での交流を記録した写真展を広島市の平和記念館で開く。31日まで
1982/8/1
原水爆禁止82年世界大会の国際会議が東京・日本教育会館で開幕。6回目の統一大会。2日、反核、平和運動への総力結集を呼び掛ける東京宣言を採択し閉幕
1982/8/1
長崎市などが予定していた原爆犠牲者慰霊と世界平和祈念の市民大行進が、集中豪雨禍で中止
1982/8/2
広島県高校原爆被爆教職員の会会長の森下弘さんが、平和アピールや原爆の詩などを題材にした書の作品集「ヒロシマ」を自費出版
1982/8/2
広島原爆病院が1981年度の病院白書をまとめる。入院患者は延べ478人、50歳代が初めて21.9%と20%台を超えるなど40~50歳代の比率が高まる
1982/8/2
松江市内の手話サークル「わかば会」が原爆映画「にんげんをかえせ」の字幕付き上映会を開く
1982/8/3
広島市が原爆による人的被害実態調査(1981年度分まで)をまとめる。被爆死亡者は15万1,689人で前回調査(78年度まで)より7万5,804人増。1945年末までの被爆死者を新たに4万2,986人確認し、計7万7,902人に。原爆白書「広島、長崎の原爆災害」では被爆欠損者を約13万人前後と推定、なお空白は埋まらず
1982/8/3
「核廃絶と戦争を許さないための広島県朝鮮人被爆者の集い」が広島市社会福祉会館で開会、約80人が参加。「2度と朝鮮人被爆者を出させない」など決議
1982/8/3
爆心地に近い長崎市平野町に「原爆殉難教え子と教師の像」が完成し除幕式
1982/8/3
国労広島地本が全国で初めて「国労退職被爆者の会」を結成。体験継承を図る
1982/8/3
原爆映画づくりに取り組む10フィート運動の活動をまとめた記録集「KNOWMOREHIROSHIMA(もっと広島を知って)」が発刊
1982/8/3
ジュネーブ軍縮委員会が国連欧州本部で開会
1982/8/4
在米被爆者を描いた記録映画「SURVIVORS」が全米にテレビ放映
1982/8/4
原爆投下の標的になった広島市中区の相生橋の連絡橋が、4年間の架け替え工事を終わり開通。欄干に世界平和と人類の連帯を表す角柱と半球体の親柱を据える。旧橋脚は一部を原爆資料館に保存
1982/8/4
原爆被爆者特別措置法の改正案が参院本会議で可決、成立。9月から各種手当引き上げへ
1982/8/4
原水爆禁止82年世界大会を目指す「国民平和大行進」が、19年ぶりに統一行進で広島入り
1982/8/4
広告デザイナー青葉益輝さん(東京・渋谷区)の平和ポスター展が広島市のギャラリー白木屋で開会。風刺のきいた10点を展示。広島YMCAなどの主催
1982/8/4
元長崎放送の記者、伊藤明彦さん(東京・新宿区)が全国の被爆者の体験や生活史をテープに収めた「声の被爆体験集」51本を広島平和文化センターに贈る。職を投げ出し、8年がかりで集めた約1,000人の体験談の一部
1982/8/4
原水禁国民会議の独自大会、「被爆37周年原水禁大会」が広島市の県立体育館で開幕。5日まで 1982/8/4
広島市東区の戸坂公民館が「戸坂原爆の記録」を再版。5年前に500冊印刷、公民館出版物の再版はまれ
1982/8/4
長田新氏が編集した手記集「原爆の子」の英訳版が米で再版発売
1982/8/5
被爆瓦発掘運動をきっかけにした「原爆犠牲ヒロシマの碑」が広島市中区大手町2丁目の元安川東岸で除幕式。広島県高校生平和ゼミナールの高校生ら約1,000人が出席。碑は比治山女子短大の芥川永教授が制作。4日、広島女学院中学講堂で前夜祭
1982/8/5
広島市の平和祈念式に出席する森下元晴厚相が広島入りし、原爆慰霊碑に参拝
1982/8/5
国際軍縮促進議員連盟の大石武一会長ら超党派の8人が広島入りし、広島アピールを発表
1982/8/5
米下院が、米ソ両国核戦力の対等時点での凍結決議案を可決。即時現状凍結決議案は否決。米反核運動に打撃
1982/8/5
英の放射性廃棄物の投棄を阻止するため、環境保護団体グリーンピース・オランダ支部の小型船シリウスが世界11カ国の20人を乗せアムステルダムを出港
1982/8/5
広島原爆の観測機パイロットで、長崎原爆の核搭載機機長だった元米空軍少佐チャールズ・スウィニーさん(マサチューセッツ州在住)のインタビュー原稿が中国新聞社に届く。「原爆投下作戦への参加に悔いはない。命令があれば3度目の出撃も辞さない」。同州の日刊紙編集局次長バーナード・コージー記者が会見
1982/8/5
米がネバダで地下核実験。実験に立ち会ったエドワーズ米エネルギー長官が「広島に原爆投下を命じたトルーマン大統領の決断は正しかった」と述べ、被爆37周年に合わせたデモンストレーション的実験をにおわせる
1982/8/5
原水爆禁止82年世界大会が広島市中区の中央公園で開会。過去最高の約3万人(主催者発表)が参加。「核兵器完全禁止に向け、世界の民衆の総力を結集しよう」とのヒロシマ・アピールを採択。最終日の6日は課題別集会
1982/8/5
非核宣言した全国15自治体のうち9市町村の首長が、広島県安芸郡府中町で初の「非核宣言都市シンポジウム」を開く。同町の山田機平町長が提唱。「自治体が積極的に平和問題に取り組み、国内外に核廃絶宣言を広げよう」と共同声明
1982/8/5
長崎原爆病院が診療概況(1981年8月~82年7月)を発表。受診者7,002人、入院871人、平均年齢66.3歳。年間101人が死亡、がんなど悪性新生物が60.4%
1982/8/5
広島市内で開かれた原水禁国民会議の独自大会分科会「婦人と核」集会で、広島県労婦人部が在米被爆者の全国的な救援カンパ運動を提唱
1982/8/5
高知市内の小中学校46校の募金で、広島原爆病院に80万円、広島原爆養護ホームに60万円の見舞金が届く。15年目
1982/8/5
神戸市の市立兵庫商業高校ボランティアクラブの8人が、交流を続ける同市内の被爆者、若重春枝さんの被爆死した2児の墓参りのため呉市を訪問
1982/8/5
広島国際青少年協会の欧州訪問団が被爆写真を携え成田を出発。西ドイツのハノーバー市で開かれる「世界平和のためのヒロシマの心を考える市民の集い」(22日)で展示
1982/8/5
写真展「ひろしまは生きている」が広島市の福屋デパートで始まる。朝日新聞岡山支局員の伊久茂視さんと元サンケイ新聞写真部員の高田正さんが撮影した白黒写真約160枚を展示
1982/8/5
広島の「平和を語る演劇人の集い」が同市中区のハノーバー庭園で反核構成劇「ひろしま1982」を野外公演。劇団「月曜会」の土屋清さんが脚本
1982/8/6
荒木市長の平和宣言。「燈燈無盡-ヒロシマの平和の心は、すべての人々に受け継がれ、語り継がれなければならない。しかし、米・ソを始めとする国家間の対立は牢固として解き難く、核兵器はますます量的拡大と質的高度化の一途を辿り、限定核戦争や先制核攻撃論が台頭し、人類は今、まさに、核戦争の危機に陥ろうとしている。今こそ各国政府は、世界各地で澎湃として高まっている核兵器廃絶への熱望を真摯に受け止め、一刻も早く軍縮を促進し、平和への道を急ぐべきときである。この時開催された第2回国連軍縮特別総会は、遺憾ながら国家間の不信を克服しえず、「包括的軍縮計画」の合意には至らなかった。しかし、核戦争の防止と核軍縮が最優先課題であるとの第1回軍縮特別総会の決議を再確認するとともに、新たに、軍縮への世論形成を目的とする「世界軍縮キャンペーン」の実施に合意し、さらに、日本政府が提案した広島・長崎への軍縮特別研究員派遣を採択した。広島市長は、今回の特別総会でヒロシマを証言し、ヒロシマの悲願を訴えた。今、重ねてここに訴える。核実験を即時全面的に禁止し、あらゆる核兵器を凍結して、これを廃棄するよう強く求める。また、ヒロシマと心を同じくする世界の都市が、互いに連帯することを呼びかける。さらに、核兵器保有国の元首をはじめ各国首脳が広島を訪れ、被爆の実態を確かめること、広島で軍縮のための首脳会議を開催すること、また、広島に平和と軍縮に関する国際的な研究機関を設けることを提唱する。ヒロシマは、単なる歴史の証人ではない。ヒロシマは人類の未来への限りない警鐘である」 1982/8/6
広島被爆37周年。原爆慰霊碑前で広島市主催の原爆死没者慰霊式・平和祈念式。約4万3,000人が参列。新たに3,060人を加えた原爆死没者名簿を奉納、名簿総数は10万3,777人に。被爆二世の会社役員山本周二さん、珠算塾教師市場奈美さんが「平和の鐘」。荒木市長が核廃絶に向けた世界の都市連帯と広島での軍縮首脳会議を提唱。森下元晴厚相が鈴木首相に代わってあいさつ
1982/8/6
浄土真宗本願寺派安芸教区の550カ寺が、広島の原爆投下時間に合わせて一斉にぼん鐘鳴らす。犠牲者のめい福と核廃絶の願いを込める初の試み
1982/8/6
県立広島第一高女(現県立広島皆実高校)の原爆犠牲者銘板が広島市中区小町の平和大通り北側緑地帯で除幕。教師20人、生徒276人の名前を刻む
1982/8/6
児童文学「おこりじぞう」のモデル地蔵を祭る松山市の竜仙院で、初めて地蔵法要
1982/8/6
北九州市の小倉西郵便局で、広島原爆投下時の黙とうに対し、局側が「勤務中の組合活動」と圧力。全逓小倉支部が抗議
1982/8/6
「反核・日本の音楽家たち」が広島市の県立体育館で初の「広島国際平和コンサート」。ジャンルを超えた演奏家ら約500人が無報酬で結集、約5,000人の聴衆が大合唱
1982/8/6
「原爆犠牲者にささげる音楽の夕べ」が広島市の見真講堂で開かれ、元宝塚歌劇の葦原邦子さんが初出演
1982/8/6
原爆詩「慟哭」に福山市の吟詠芦水会の合唱団長、甲斐伯子さんが吟詠曲をつけ、中国放送のラジオ番組で披露
1982/8/6
非核宣言したロンドン市が、市主催で初の反核・平和集会を開き、核廃絶の運動推進を誓う
1982/8/6
ニューヨーク市内で、広島原爆のせん光による「人の影」を水性塗料で再現。グループ「地球の友」がグランド・セントラル駅などの建物に描く。7日にはサンフランシスコの金門橋で約900人が沈黙の反核行進
1982/8/6
ニューヨーク市で反核団体「戦争抵抗者連盟」「生存のための動員」などが核兵器を設計するリバーサイド研究所前で集会と座り込み。約50人が逮捕
1982/8/6
兵庫県被団協の越智正武事務局長ら18人が、初めて県費補助で広島の平和祈念式に参列。「非核宣言都市シンポジウム」参加自治体のうち8市町村の首長も(8・6夕、8・7)
1982/8/6
全国の被爆二世7団体が広島市で初の交流集会。二世の医療の充実、体験継承を申し合わせ
1982/8/6
荒木広島市長が米地下核実験に抗議電報。原水爆禁止82年世界大会の運営委員会もレーガン大統領に抗議電報。原爆慰霊碑の近くで同大会の参加者や被爆者ら約250人が座り込み。長崎市も市長、議長名で抗議文
1982/8/6
米ABC放送が広島原爆投下機エノラ・ゲイのポール・チベッツ機長と在米被爆者の友沢光男さんのテレビ対談を放送。被爆者の訴え部分で時間切れのため放送が切れる。チベッツ機長は「戦争が続いていれば日米で原爆死者の百倍もの犠牲者」と持論を主張
1982/8/6
パリの教会で「広島・長崎を伝える会」など日本人市民3団体が原爆被害スライドを上映、討論会。フィリピンのマニラでも市民ら約300人が教会で原爆犠牲者の追悼ミサ。その後、米大使館前で反核集会
1982/8/7
日本原水協が広島市の県立体育館で独自集会、約6,500人が参加。非核都市宣言運動など13項目の行動決議を採択し、閉会
1982/8/8
「萩・上関・豊北原発反対、原水爆禁止山口県民集会」が萩市で開会。豊北原発建設阻止山口県共闘会議の主催で、原発阻止を訴え
1982/8/8
「ながさき高校生平和のつどい」が長崎市の長崎商業高校で開かれ、核兵器廃止と平和実現に立ち上がる「ながさきアピール」を発表
1982/8/8
米サンフランシスコで開かれた宗教各派合同の「ヒロシマデー徹夜の祈り」会場に、荒木広島市長が国際電話で8・6平和宣言
1982/8/8
原水爆禁止82年世界大会「長崎のひろば」が集中豪雨跡の長崎市で開会。「各国政府を動かすことが平和実現の道」との長崎アピールを採択し、閉幕
1982/8/9
長崎の被爆37周年。集中豪雨の爪跡が残る中、平和公園で原爆犠牲者慰霊平和祈念式典、約2万人が参列。鈴木首相が現職首相として6年ぶりに出席。新たに1,888人の原爆殉難者名簿を奉納、名簿総数は5万8,578人に。本島等市長が「最後の被爆都市に」と平和宣言。「思えば37年前、ただ一発の原爆によって、7万有余のかけがえのない生命が一瞬にして奪われました。まさに地球滅亡の姿、人類皆殺しの地獄絵図であります。今日、ここ、原爆の丘に集まった私たちは、声を大にし、決意を新にして、次のことを強く訴えます。被爆者の皆さん、今後、地球上のどこにも、決して核兵器が使われないために、皆さんの悲惨な体験を積極的に証言して下さい。長崎市民の皆さん、国の内外にさらに強く、広く平和運動を燃えあがらせ、世界を包む民衆の声をそだてましょう。全国民の皆さん、国家補償の精神にのっとり、被爆者援護の確立のために深い理解と協力をお願いいたします。鈴木総理大臣にお願いを申し上げます。世界最初の被爆国として核兵器廃絶、世界恒久平和実現のため、国民の先頭に立って下さい。また外国政府に強く働きかけて下さい。非核三原則を堅持するとともに、日本本土とその周辺を非核武装地帯とすることを宣言して下さい。核兵器を毎日生産している米ソ両大国をはじめ、すべての核保有国の指導者に申し上げます。核兵器実験の禁止と生産の停止を直ちに実現するよう、誠意と信頼をもって話し合って下さい。原爆は絶対に使われてはなりません。長崎は地球上最後の被爆都市でなければなりません」
1982/8/9
南太平洋諸国首脳会議がニュージーランドで開幕。日本の核廃棄物海洋投棄計画を含め核の実験、貯蔵、廃棄に反対する方針を確認。10日、南太平洋核実験を続ける仏非難のコミュニケを発表し、閉幕
1982/8/9
中国の新華社通信が、長崎市での原水爆禁止82年世界大会を報道。中国の報道機関が原水禁大会開催を伝えたのは1966年の大会分裂を報じて以来16年ぶり
1982/8/10
僧侶で私立広島城北小学校の吉川徹忍教諭が、モンゴルでの第6回仏教徒平和会議に出発。被爆瓦を持参
1982/8/10
中国電力の島根県八束郡鹿島町に対する多額寄付問題で、社会党の栂野泰二氏(島根全県区)が衆院物価対策特別委員会で「国は電力会社の協力金の実態を公表すべき」と追及。資源エネルギー庁は「電力会社は節度ある対応を」と述べるにとどまる
1982/8/11
10フィート運動の原爆映画第3作「幻の全原爆フィルム日本人の手へ」が完成し、東京で試写会。日本テレビが放映権
1982/8/11
四国電力が伊方原子力発電所(愛媛県西宇和郡伊方町)の3号機増設に伴う環境影響調査書を県、町に提出
1982/8/11
米エネルギー省がネバダで地下核実験を実施と発表
1982/8/12
米の反核前衛劇作家のジョアン・アカラッティ女史が広島を訪問、原爆資料館を見学
1982/8/12
原爆記録映画を作る「子どもたちに世界に!被爆の記録を贈る会」の10フィート運動に日本ジャーナリスト会議が特別賞
1982/8/12
ジュネーブ軍縮委員会の包括的核実験禁止作業部会に仏、中国が不参加を表明。核実験全面禁止条約に向けた初の多国間交渉の場だが「後発保有国には不利」。13日、第1回部会を開く
1982/8/12
広島県佐伯郡宮島町が、元陸軍暁部隊の上等兵らの証言に基づき、被爆者の漂着遺体5人分が埋葬されたとされる青海苔浦で発掘作業。遺骨は見つからず
1982/8/13
長崎市教委が1983年度から市内の小学校で使う国語教科書に、原爆の題材が全くないものを採用。長崎県教組が「平和教育の後退」と反発。市教委は「国語を正しく教える観点から選んだ。社会科教科書には原爆、戦争記述があり、十分指導できる」
1982/8/13
核実験被曝が原因とみられる障害に悩む全米被曝退役軍人協会理事長のジョン・スミザーマンさんが治療のため広島入り。14日、広島原爆病院で診察。同病院と同行の医師が情報交換し、帰国後の治療を進めることに
1982/8/13
荒木広島市長が米地下核実験に抗議電報。14日、原爆慰霊碑前など広島県内26カ所で被爆者らが座り込み。広島市南区の馬越和子さんが被爆した母と子供2人の親子3代で参加
1982/8/15
米紙ロサンゼルス・タイムズ(15日付)が「米国防総省はレーガン大統領の指令で、ソ連との核戦争に勝ち抜くための極秘計画を作成し、国家安全保障会議に提出」と報じる
1982/8/15
栗原貞子著「核時代に生きるヒロシマ・死の中の生」(三一書房)が発刊(「奥付」)
1982/8/15
朴寿南著「もうひとつのヒロシマ朝鮮人韓国人被爆者の証言」が発刊(「奥付」)
1982/8/15
広島を訪問中の全米被曝退役軍人協会理事長のジョン・スミザーマンさんが被爆者や市民と交流集会。16日、荒木市長に米の被曝者の実情を訴える。18日、帰国
1982/8/18
原爆資料館の高橋昭博館長と交流を続ける神奈川県厚木市の身体障害者、北見和昭さん(山梨学院大3年)が初めて広島を訪問、資料館を見学
1982/8/18
日本被団協の「欧州語り部の旅」に参加する広島代表2人が出発。被団協代表委員の伊藤サカエさんと県朝鮮人被爆者協議会の李実根会長。西欧5カ国を回る
1982/8/19
動力炉・核燃料開発事業団大洗工学センター(茨城県大洗町)が「高速増殖実験炉『常陽』で作業員1人が1.2レムの全身被曝」と発表。制御棒案内管の取り換え作業中、立ち入り禁止区域に入る 1982/8/19
ウスチノフ・ソ連国防相がジュネーブの米ソ欧州中距離核戦力(INF)削減交渉で新提案。5年後に中距離核兵器を双方300基に削減。タス通信が報じる
1982/8/20
白血病のため7歳で死亡した広島の被爆二世、名越史樹ちゃんの闘病生活を描いた絵本「ぼく生きたかった」が出版。両親の謙蔵、操さん(広島市西区己斐大迫2丁目)が小学生向けに執筆、東京在住の画家矢野洋子さんが絵を描く
1982/8/20
新型転換炉(ATR)建設推進委員会が科学技術庁など関係5団体首脳会議でATR実証炉の建設基本計画を決定
1982/8/21
第1次インドシナ戦争当時の1954年、米アイゼンハワー政権内で仏支援のため戦術核使用計画を検討-。米外交文書で確認、と米紙ワシントン・ポスト(22日付)が報じる
1982/8/21
核兵器をテーマに科学番組を制作するため広島を訪問中の米ボストン市公営テレビ局「NGBH」のスタッフ6人が広島原爆病院や原爆資料館を取材
1982/8/23
国連のデクエヤル事務総長が公賓として初来日。24日、鈴木首相と会談、国連活動への協力を要請(8・23、8・24、8・24夕、8・25)
1982/8/23
広島市の原爆死没者名簿の公開などで原爆供養塔の遺骨4柱の身元が分かり、37年ぶり遺族へ
1982/8/24
ジュネーブ軍縮委員会でソ連が「米の核軍備強化は侵略的」と激しく非難
1982/8/26
来日中のデクエヤル国連事務総長が広島を訪問。原爆資料館を見学、原爆慰霊碑に参拝。市公会堂での「歓迎の集い」で市民に「あなたがたの負われた傷は人類の良心に深く焼きついている。被爆者の死を忘れられた挿話としてはならない」とメッセージ。国連事務総長の被爆地訪問は初
1982/8/27
原爆創作オペラ「はだしのゲン」沖縄公演が那覇市の市民会館で開演。28、29日も
1982/8/27
カナダの「社会的責任を果たす医師の会」リーダーで私立マギル大のドナルド・ベイツ博士が、荒木広島市長を訪問し「被爆地からメッセージを」と要請
1982/8/28
徳山港から四国電力伊方原子力発電所に取り換え用核燃料ウランを積み出し。2年ぶり
1982/8/29
戦略核ミサイルを外し、攻撃型に改造した米原子力潜水艦トーマス・エジソンが横須賀港に寄港。攻撃型原潜の日本寄港は初
1982/8/30
原子力船「むつ」の青森県大湊市への回航問題で、国と青森側の5者が入港の前提条件で基本合意。原子炉凍結状態での入港・停泊など
1982/8/31
日本体育協会が、アジア大会招致で広島市が制作したPR映画の被爆シーンに「残酷過ぎる」とクレーム。市が修正、再編集したことが明らかに
1982/8/31
原子力船「むつ」が佐世保港を3年10カ月ぶりに出港、青森県むつ市の大湊港へ。補助エンジンで航行。ふ頭では労組員ら約200人が廃船集会
1982/8/31
米エネルギー省が「ソ連が31日、セミパラチンスクで地下核実験」と発表
1982/8/--
1943年6月、原子物理学者の故仁科芳雄博士が軍部に原爆製造を説明したメモが39年ぶりに明るみに。計画に参加した元東京帝大助教授で米アーカンソー大の黒田和夫教授が保存。仁科博士は「原爆は技術的には可能であっても巨額の経費と時間がかかり、無駄が多い」と否定的な判断。日本の原爆製造計画は44年2月に正式決定、45年5月の理化学研究所の空襲で立ち消えになるまで続く
1982/8/--
宮沢喜一官房長官が中国新聞との会見で、核情勢に対する政府の基本姿勢を述べる。「欧州を中心に核の恐怖が現実になってきた」との現状認識を示し、非核三原則の堅持と核拡散防止条約の順守を強調
1982/8/--
広島原爆養護ホーム入所者が、被爆体験を詠んだ句集「八・六の鉦」を出版。26人の255句
1982/8/--
元郵政省百年史編集室長の高橋善七さん(福岡市在住)が「『西の逓信省』始末記」を出版。被爆直前、西日本全域の通信業務を管轄するため広島市に設置された「西部逓信総局」の秘話。生存者32人の証言や手記
1982/8/--
東京都立国分寺高校の教師川本信幹さん(竹原市出身)が親類や知人の被爆後遺症をテーマにした小説「緋の喪章」を近代文芸社から出版。広島大に在学中、精神養子運動に参加
1982/8/--
米で初めて非核条例を制定したメリーランド州ギャレットパーク町の住民から、非核宣言をした広島県安芸郡府中町に姉妹都市縁組を呼び掛ける手紙
1982/8/--
1980年アキバ・プロジェクト招請記者だった米フィラデルフィア市SANE教育基金ラジオプロダクション・プロデューサーのダイアナ・ルースさんに、オハイオ州ヒューマニティー協議会から9,900ドルの研究助成金。ヒロシマを伝える地道な努力が理由
1982/8/--
米復員軍人援護局が、ネバダ核実験被曝米兵の元米陸軍伍長ジェームズ・オコーナーさんの皮膚がんを核実験に起因すると認定。補償金支払いを決める
1982/8/--
終戦前日の1945年8月14日、海軍省幹部が「日本の物理学者を長野県松代の地下壕に集め、半年間で原爆を製造、米本土に投下」を計画した秘話が明るみに。海軍の極秘原爆開発計画に加わった浅田常三郎大阪大名誉教授が明かす
1982/8/--
絵本「ちいちゃんのかげおくり」(あまんきみこ作、上野紀子絵)があかね書房から発刊(「奥付」)

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