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ヒストリー

ヒロシマの記録1982 9月


1982/9/1
長崎で被爆し、米オレゴン州ポートランド市在住のクニコ・ウエーバーさんが長崎原爆病院で治療を受けるため米を出発。長崎の反核団体などが支援
1982/9/1
荒木広島市長がソ連の地下核実験に抗議電報。3日、原爆慰霊碑前など広島県内26カ所で被爆者らが座り込み
1982/9/1
広島市が原爆ドーム周辺の再整備に着手(「広島新史・年表編」)
1982/9/1
平和記念公園内の旧東部復興事務所1階にレストハウスがオープン。建物は1927年ごろ、呉服店「大正屋」として建築。復興の拠点に
1982/9/2
渡日治療の第4陣として在韓被爆者11人が広島入り。3日、広島原爆病院に入院
1982/9/2
ジュネーブ軍縮委員会で日本の大川美雄大使が「原子力施設への武力攻撃禁止」を提案
1982/9/2
NATOが「ソ連は3月に核凍結を提案して以来、中距離核ミサイルSS20の3基地を増設」と発表
1982/9/2
原子力船「むつ」の原子炉が、島根県大社沖で乗船記者団に公開。佐世保港で改修後の公開は初 1982/9/3
手記集「原爆の子」(1951年岩波書店刊)のドイツ語版が西ドイツの出版社から発刊
1982/9/4
原子力船「むつ」の青森県大湊港入港阻止集会が同県むつ市で開かれ、約3,000人が参加
1982/9/4
広島、長崎、埼玉3県の高校生4団体が平和学習の手引書「高校生の平和アピール私たちは学び訴える」を発刊
1982/9/4
シカゴ・トリビューンのカメラマンのチャールズ・オズグッドさんが同紙に掲載したヒロシマ特集記事が原爆資料館に届く。1982年、広島で取材
1982/9/4
巡航ミサイル配備の受け入れ賛否で揺れるオランダで、総選挙を控え約1万2,000人が反核デモ
1982/9/6
山口市宮野の原爆死没者の碑前で、約400人が参列して原爆死没者追悼・平和式典
1982/9/6
原子力船「むつ」が青森県大湊港へ入港。4年間停泊後、むつ市関根浜の新母港完成時に回航(9・6夕、9・7)
1982/9/6
動力炉・核燃料開発事業団東海事業所で使用済み核燃料再処理工場の溶解槽から溶解液が漏れる
1982/9/6
原爆遺跡の旧陸軍糧秣支廠(広島市南区)が市の郷土資料館として保存へ(「広島新史・年表編」) 1982/9/7
ワルトハイム前国連事務総長が、大阪で開かれたシンポジウムで核軍縮を呼びかける基調講演
1982/9/7
広島県被団協(森滝市郎理事長)と同県原水禁(社会党・総評系)が、荒木広島市長に被爆者援護法の制定促進を要請。8日、県にも
1982/9/8
岩手県が陸中海岸国立公園内に計画している原子力発電所の立地について、原文兵衛環境庁長官が「原発建設と景観保全の両立は考えられない」と強調。国内の13カ所24基の商業用原発のうち5カ所10基が国定公園内にあり、いずれも環境庁発足(1971年)以前の許可
1982/9/9
第2回国連軍縮特別総会に合わせて米国内を映画上映行脚した日本キリスト教団府中教会の宗藤尚三牧師らが、「原点よりの訴え」と題した報告書
1982/9/10
ロストウ米軍備管理軍縮局長が「核優位のソ連が世界制覇を意図」と言明
1982/9/13
米核実験で被曝した風下地区のネバダ州、ユタ州南部、アリゾナ州北部の住民が代表24人を原告に、米政府に総額20億ドルの損害賠償を求めた訴訟の第1回審理がユタ州の連邦地裁で開始
1982/9/13
国際原子力機関(IAEA)の「原子力経験に関する国際会議」がウィーンで開会。52カ国が参加。原子力発電所の使用済み核燃料の再処理や放射性廃棄物の処分など核燃料サイクル問題を協議。17日まで
1982/9/13
資源エネルギー庁が関西電力美浜原子力発電所1号機を、電気事業法違反の疑いで立ち入り調査 1982/9/13
インドネシア教育文化使節団20人が広島市を訪問し、原爆慰霊碑に献花
1982/9/14
ソ連レニングラード市のザイコフ・エフ・ニコラエビッチ市長一行とキューバのイシドロ・マルミエルカ・ペオリ外相夫妻らが相次いで広島を訪問。原爆資料館などを見学
1982/9/14
米ウィスコンシン州の住民投票で、州レベルでは初の核凍結決議が成立
1982/9/14
九州電力が佐賀県東松浦郡玄海町に増設を計画している玄海原子力発電所3、4号機について、香月熊雄佐賀県知事が同意
1982/9/14
偶発核戦争の恐怖を描いたアメリカ映画「未知への飛行」(シドニー・メルット監督、1964年)の試写会が広島市内で開かれ、荒木市長ら約350人が観賞
1982/9/15
広島大付属福山高校の放送クラブが、被爆直後、広島市に医薬品を届けたマルセル・ジュノー博士の足跡をたどる番組「ドクター・ジュノー」を制作し、文化祭で上映。16日も
1982/9/18
「週刊明星」の原爆特集記事で、被爆者団体の抗議を受けた発行元の集英社幹部が広島を訪れ、謝罪。被爆者健康手帳や原爆小頭症について誤報を認める
1982/9/18
「似島平和遺跡を保存する会」(佐久間澄代表)が、広島市の似島臨海公園整備で遺跡保存を要望 1982/9/18
第10回全国平和教育シンポジウムが広島市で開会。19日も
1982/9/19
社会党の政策審議会が軍縮政策をまとめる。「非核地帯設置より完全軍縮が先」との政策を転換
1982/9/20
広島市議会で荒木市長が「在カナダ被爆者検診を前向きに検討」と答弁
1982/9/21
ソ連がカザフ共和国で地下核実験
1982/9/21
電源開発調整審議会が九州電力の玄海原子力発電所3、4号機の着工を認める
1982/9/21
山口県上関町の加納新町長が町議会で、原子力発電所の誘致に積極姿勢を示す
1982/9/22
米がネバタで3回にわたり地下核実験
1982/9/22
10フィート運動広島呼びかけ人会(永井秀明事務局長)が広島市内で報告会。目標の3,000万円を上回る4,260万円のカンパを報告
1982/9/22
日本原子力研究所が米のトカマク型核融合試験装置を使った共同実験で、プラズマ閉じ込め率が世界最高のベータ値4.6%を達成。核融合を起こす実験炉で必要なベータ値5%に近づく
1982/9/22
荒木広島市長がソ連核実験に抗議電報
1982/9/24
荒木市長が米核実験に抗議電報。26日、原爆慰霊碑前など県内26カ所で座り込み
1982/9/26
中部電力が1982年秋に予定している浜岡原子力発電所の使用済み核燃料の海外搬出に反対する全国集会が、静岡県小笠郡浜岡町で開く。全国の約250人が参加
1982/9/26
ソ連が中部シベリアで地下核実験
1982/9/27
広島市立戸坂中学校と長崎県西彼杵郡多良見町立喜々津中学校の生徒が広島で平和交歓会
1982/9/29
荒木広島市長がソ連の核実験に抗議電報(9・29夕)
1982/9/29
米がネバダ州で地下核実験
1982/9/29
山口県内への原子力発電所建設計画を進める中国電力が、同県に約4億円の寄付をしていたことが明るみに。県、中電とも「原発立地とは関係ない」
1982/9/29
米政府が、日本の高速増殖炉「常陽」の燃料になるプルトニウムの仏から日本への海上輸送許可を一時差し止めた-と言明。不十分な保安体制が理由
1982/9/29
長崎市内の公立中学校27校を対象とした「長崎原爆被災写真展」始まる。1校当たり3日間(「長崎年表」)
1982/9/30
荒木広島市長が米の地下核実験に抗議電報(10・1)
1982/9/30
広島国際文化財団が、1981年アキバ・プロジェクト女性3記者のリポートと反響を記録した「米人記者の見たヒロシマ・ナガサキ」を発行
1982/9/--
日赤山口支部参事の田中了さんが、広島の被爆直後に動員された山口県の原爆救護班の追跡調査を始める
1982/9/--
作家の朴寿南さん(神奈川県茅ケ崎市)が1973年に書いた「朝鮮・ヒロシマ・半日本人」の増補版「もうひとつのヒロシマ朝鮮人韓国人被爆者の証言」が刊行
1982/9/--
広島市南区比治山に旧ABCCが建設される以前の1949年2月に一帯を撮影した写真が放影研で見つかる。「陸軍墓地を整地してABCCを建設」のうわさは誤りで、建設時は遺骨を掘り出し合葬済みと判明
1982/9/--
米オークリッジ国立研究所が原発事故で報告書。スリーマイル島原発のように炉心損傷につながる危険のある重大な事故が、米で1969年から11年間に169件発生、うち38%が人的ミス
1982/9/--
国連総会の軍縮問題討議で、日本が今回も核不使用決議案に反対
1982/9/--
ローマ法王ヨハネ・パウロ二世のヒロシマ・アピール碑が、イタリア在住の広島県出身の彫刻家、杭谷一東さんの手で完成。1983年2月までに広島市の平和記念館で除幕式を予定
1982/9/--
韓国の慶煕大学病院が被爆者の無料診療の実施を決める
1982/9/--
オランダの反核団体「宗派間平和協議会」がNATOの核秘密を暴露する小冊子を発売

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