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ヒストリー

ヒロシマの記録1981 11月


1981/11/1
米AP通信とNBCテレビが共同で世論調査。「核戦争に勝者なし」78%、「限定核攻撃を受けても米は核兵器を使うべきではない」52%
1981/11/2
英詩人故エドモンド・ブランデンの詩「ヒロシマ-1949年8月6日に寄せて」を、ローマ法王ヨハネ・パウロ二世の指示でエリザベト音大のホセ・テホン学長が作曲し、同大定期演奏会で発表
1981/11/3
ロストウ米軍備管理軍縮局長が「ソ連の通常兵器攻撃にも米は核で応戦」と発言。対ソ軍事力の低下を強調し、米の核抑止力回復を訴えるねらい
1981/11/4
朝鮮人被爆者の記録映画「世界の人へ」が完成し、東京で試写会。広島、長崎、神戸、北朝鮮でロケ。45分の16ミリカラー。広島、長崎の朝鮮人被爆者20人の証言を中心に構成
1981/11/4
ローマ法王ヨハネ・パウロ二世来広の記念碑を1982年2月、広島平和記念館に設置することを決め、建立委員会発足へ。被爆者の藤枝良枝さんの呼びかけに原田東岷氏、栗原貞子さん、河村盛明広島平和文化センター理事長らが応じる
1981/11/4
被爆に負けずスペイン舞踊のトップダンサーになった広島県世羅郡甲山町出身の島みち子さん(本名、小林裕子)が、東京・渋谷の東横劇場で、創作舞踊「広島-無の悲しみから」を発表。島さんは広島赤十字病院の宿舎で被爆
1981/11/4
「欧州で通常兵器による戦争が起きた場合、米ソ全面核戦争へのエスカレートを防ぐため核兵器を使うことはあり得る」-。ヘイグ米国務長官が上院外交委で証言。5日、ワインバーガー国防長官が「作戦は1960年代の初期的な軍事計画案」とヘイグ発言を否定
1981/11/5
動力炉・核燃料開発事業団の新型転換炉「ふげん」が本格運転開始
1981/11/8
在韓被爆者診療のため、核禁広島県民会議派遣の医師団が出発。9回目。団長、桑田元彦同会議副議長、河村虎太郎医師、石田定広島原爆病院内科部長ら
1981/11/8
全米被曝退役軍人協会がラスベガスで集会。100人の会員が「放射能の後遺症に悩む」と報告
1981/11/9
イスラエルが国連へ「イラク原子炉爆撃は正当」とする文書を提出。「1981年6月7日にオシラク1号機を爆撃していなければ、イラクは85年までに核兵器製造能力を持つ」
1981/11/9
欧州の作家を中心に進んでいる「核戦争に反対するアピール」への協力を求め来日した西ドイツ作家同盟バイエルン地方委員長のハンス・ペーター・ブロイエル氏が広島市を訪れ、庄野直美広島女学院大教授ら20人と懇談。10日、原爆資料館を見学
1981/11/10
ロストウ米軍備管理軍縮局長が、巡航ミサイルなど米軍戦域核ミサイルの日本、中国などアジア地域配備の可能性を言明。「ソ連脅威が高まれば」
1981/11/10
「原爆放射線の影響に関する研究体制のあり方検討委員会」(座長、御園生圭輔原子力安全委員会委員、16人)が、広島市で開き、1982年度に放射線影響研究所の移転問題を含め具体的な研究施設について検討を決める
1981/11/10
レーガン米大統領が記者会見で、欧州での限定核戦争の可能性を再び肯定。「米ソ間の戦略核応酬を抑止するため、戦術核兵器の撃ち合いはあり得る」
1981/11/11
広島で平和、文化運動に貢献した広島県高田郡甲田町出身の故中川秋一氏をしのぶ「中川秋一遺稿集」が出版。1949年の平和擁護大会の宣言文作成などに関与
1981/11/11
米がネバダで地下核実験。エネルギー省が発表
1981/11/11
全米147大学で開かれた「反核ティーチイン」に10万人が参加。米ソ核実験停止などを宣言。「憂うる科学者連合」が主催
1981/11/11
国連総会が「核施設への軍事攻撃禁止」決議案を圧倒的多数で決議。日本、インドネシア、チェコスロバキアが提案
1981/11/12
荒木広島市長が11日の米核実験に抗議電報
1981/11/12
財団法人「東日本被爆者の会」(本部東京)の幹部3人が詐欺などの疑いで逮捕。静岡県伊東市に被爆者療養センターを建設
1981/11/13
日本対外文化協会(松前重義会長)の招きで来日中のソ連宗教者使節団、キリスト教ロシア正教会のウラジミール・コトリャーロフ大主教と全福音協会バプテスト教会国際部長のアレクセイ・ストヤン氏が広島市の原爆慰霊碑に参拝、資料館を見学
1981/11/13
4月の米原潜ジョージ・ワシントンあて逃げの補償解決。野口泰三船長の遺族に8,600万円、生還乗組員に1人当たり580~670万円。松野下純夫1等航海士の遺族には8月21日、野口船長と同額支払いずみ
1981/11/14
仏ミッテラン大統領が核戦力強化策を発表。原潜を7隻に拡充など
1981/11/14
英の核兵器反対運動の「核軍縮運動」(CND)新議長に女性のジョアン・ラドックさん
1981/11/14
1982年の第2回国連軍縮特別総会に向け、核兵器完全禁止と軍縮を求め署名運動を進める推進連絡会議が発足。2,000万人を超す署名をめざす。日本生協連の中林貞男会長ら10人が発起人
1981/11/14
11日の米核実験に抗議し、被爆者らが広島県内17カ所、東京、山口など県外7カ所で座り込み
1981/11/15
広島県沼隈郡沼隈町の福専坊に安置の朝鮮人徴用工の遺骨を祖国へ返そうと、詩人の深川宗俊氏らが「韓国人被爆徴用工・遺家族・帰国遭難者の戦後処理を実現する会」を結成。遺骨は深川さんらが発掘、長崎県壱岐の芦辺町から広島市内の寺を経て1975年3月、福専坊へ
1981/11/15
広島女子大学園祭で、被爆者援護法制定を目指す「学園法廷」上演
1981/11/16
広島県原水禁の「ヒロシマ語り部の旅」第2陣として、森滝市郎代表委員と近藤幸四郎常任理事がヨーロッパへ向け広島を出発。西ドイツ・ドルトムント集会などに参加の後、仏、ベルギー、オランダへ
1981/11/16
反核、反差別を主張する米の若い女性で組織する「女性ペンタゴン行動グループ」の2,000人が国防総省を包囲
1981/11/16
通産省が中部電力浜岡原発3号機の建設を許可
1981/11/16
原子力安全委員会が、辞職した吹田徳雄原子力安全委員長の後任に御園生圭輔氏。福山市出身
1981/11/16
広島県医師会(大内五良会長)が在米被爆者検診が縁でサンフランシスコ医師会と姉妹縁組
1981/11/18
広島市の原爆資料館の高橋昭博館長が自分の「黒いツメ」を横浜市の戸田平和記念館に贈る
1981/11/18
レーガン米大統領が就任後初の外交政策演説で、ソ連に対し欧州配備の中距離核ミサイルの相互全廃(ゼロ・オプション)を提案
1981/11/19
総評が広島市で全国主要単産政治部長会議を開き、1982年3月に広島で反核20万人集会開催を決定
1981/11/21
原爆の爆風で吹き飛ばされた広島市元安橋欄干の一部が36年ぶりに元安川から発掘。22点
1981/11/21
日本被団協の「国民法廷」運動、これまでに8都県11カ所で上演
1981/11/21
オランダ・アムステルダムで「これ以上、欧州に核を持ち込むな」と30万人がデモ
1981/11/22
ギリシャの初の左翼政権全ギリシャ社会主義運動新内閣のパパンドレウ首相が、初の施政方針演説で米軍基地の撤去を要求。バルカン非核化をめざし、NATO脱退も示唆
1981/11/22
動力炉・核燃料開発事業団の「ふげん」が、給水調節弁の不調で運転ストップ
1981/11/23
ブレジネフ・ソ連書記長が西ドイツで、米大統領提案の「ゼロ・オプション」を拒否。双方が核ミサイル配備を凍結する従来のソ連提案を重ねて強調
1981/11/23
米のザブロツキ下院外交委員長(民主党・ウィスコンシン州)が、日本人記者団との会見で「日本は米の核積載艦船の寄港を認めるべき」と発言
1981/11/24
在韓被爆者の渡日治療は年間約50人。日韓両政府が合意。事前調査で韓国を訪れていた広島市原爆被害対策部の荒田誠之助部長が明らかに。調査には厚生省公衆衛生局企画課の木戸脩課長、広島原爆病院の佐々木隆第2内科部長、長崎原爆病院の千布光三郎副院長が訪れる
1981/11/24
仏の環境団体グリーンピースが「仏がムルロア環礁で11月11日、2キロトン級の中性子爆弾とみられる核実験を実施」と発表。25日、ニュージーランド国立地震観測所も確認。仏政府は「実験は認めるが中性子爆弾ではない」と否定
1981/11/24
ソ連が中距離核兵器データを公表。中距離ミサイル514基(地上発射496基、海中発射18基)、中距離爆撃機461機
1981/11/25
荒木広島市長が仏核実験に抗議電報
1981/11/25
広島県被団協(森滝市郎理事長)が代表者会議を開き、原爆被害者福祉センター広島平和会館の建て替え計画を発表。広島市中区大手町4丁目の現在地に10階建てビル。総事業費4億円。結局、実現せず
1981/11/25
国連総会第1委員会が「非核兵器保有国の領土内での核兵器配備の禁止」決議を東欧、第三世界諸国などの賛成多数で採択。1978年以来、毎年採択。日本は西側諸国として4年連続反対。「核兵器の配備に規制を課せば、現状の軍事バランスを乱す」が反対理由
1981/11/26
東京・六本木で日本学術会議、広島大平和科学研究センターなど主催の「核戦争の危機と人類生存のための条件-ラッセル・アインシュタイン宣言の現代的意義を探る」シンポジウム。生存者が2人だけになった署名者の1人、ロートブラット・ロンドン大名誉教授らが基調講演。マンハッタン計画に加わった後、「運命の時計」を考え出し核廃絶運動に取り組むバーナード・フェルド米マサチューセッツ工科大教授も参加
1981/11/26
オランダのハーグで核兵器の欧州配備に反対する女性だけの1万人デモ。大阪市原爆被害者の会代表の高木静子さんが参加
1981/11/27
5月に在米被爆者の集団検診をした第3回在米被爆者検診団が検診結果を発表。ロサンゼルス、サンフランシスコ、シアトル、ホノルルの4カ所で計203人を検診。うちホノルルを除く3カ所166人の精密検診を実施、63%に何らかの異常
1981/11/27
11日の仏核実験に抗議し、被爆者らが広島県内17カ所、山口、東京など4カ所で座り込み
1981/11/28
「パラオに原爆記録映画を送る会」がベラウ(パラオ)共和国に原爆アニメ「ピカドン」を贈る
1981/11/30
ジュネーブで米ソの欧州戦域核削減交渉が始まる。米首席代表ポール・ニッツ元国防次官、ソ連代表ユーリ・クビツィンスキー大使。レーガン政権発足後、初の本格交渉
1981/11/30
日本原水協の吉田嘉清副理事長、佐藤行通国際部長らが国連本部を訪ね、国連軍縮センターのヤン・モーテンソン所長と会見
1981/11/--
広島原爆養護ホームへ修学旅行生の訪問が増える。3年前から受け入れ。1979年は小、中、高、合わせて7校、80年は13校、81年は28校を超す
1981/11/--
広島市西区観音新町の新田ツヤ子さんが広島原爆病院と広島赤十字病院へ180回目の美容奉仕。1966年ごろから始め15年、毎月1回
1981/11/--
米の民間環境保護団体「環境政策研究所」が、「原発作業員の放射線被曝量が急増、1980年は史上最高に達した」と報告

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