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ヒストリー

ヒロシマの記録1980 9月 


1980/9/1
中国地方建設局が企画した広島市の相生橋の記録映画「生まれ変わる相生橋」が完成、試写会開く。橋の被爆史を中心に構成したカラー16ミリ映画(35分)
1980/9/2
広島・長崎原爆被爆者援護対策促進協議会(八者協)の宮沢弘広島県知事らが鈴木首相、斎藤邦吉厚相に被爆者援護法の早期制定を要望
1980/9/2
ソ連労組中央評議会機関紙トルードが「中国は核弾頭約350発を保有」と報道
1980/9/3
原爆資料館の夏休み入館者は、過去最高の22万人を記録。同館が発表
1980/9/4
資源エネルギー庁が1979年度の原子力発電従事者の放射線による被曝状況を発表。総被曝線量は初めて減少に転じたが、依然下請け労働者に集中
1980/9/4
仏の元首相、ピエール・メスメル下院議員ら国会議員4人が広島市を訪問、原爆慰霊碑に参拝
1980/9/4
サンフランシスコ沖に投棄されていた核廃棄物の容器が壊れ、人体に危険な高濃度の放射性廃液が海中に漏出し魚類が汚染されていたことが、カリフォルニア大サンタクルス校のジャクソン・デービス教授の調査で明らかに
1980/9/4
愛媛県伊方町議が原発増設の論議中に四国電力の接待を受けたことが明らかに
1980/9/6
ジュネーブの核拡散防止条約第2回再検討会議が、核実験の全面禁止などを求める非同盟諸国、発展途上国の激しい反発で物別れ。最終文書の作成を断念
1980/9/6
山口県原爆被爆者福祉会館ゆだ苑が原爆写真・回想集「ヒバクシャと共に~写真と回想でみるゆだ苑のあゆみ」を発行(「奥付」)
1980/9/6
山口市宮野江良の原爆死没者碑前で第6回原爆死没者追悼・平和式典が開かれる。150人が参列
1980/9/7
青森県大湊港に予備核燃料棒131本をまとめた燃料集合体2体がひそかに保管されていたことが明らかに。青森県が原子力船開発事業団から事情聴取
1980/9/8
日本被団協の行宗一代表委員らが原爆被爆者対策基本問題懇談会(7人委)の早期答申を厚生省に要望
1980/9/8
科学技術庁が青森県大湊港の核燃料の撤去を当面考えず-との見解を示す
1980/9/10
米上下両院外交委員会は、カーター大統領が提案したインドに対する原子力発電用核燃料(濃縮ウラン)の売却を否決。18日、下院本会議も否決
1980/9/11
広島市翠町中学校の生徒が夏休み中の平和学習の成果を参観日に発表。「親子で平和について語り合うきっかけに」と同校初の実施
1980/9/11
政府高官筋が8月のソ連原潜火災は単純火災ではなく、乗組員による反乱、暴動による事故の可能性があると指摘
1980/9/13
核廃棄物海洋投棄計画の理解を求めるため、太平洋諸国を回っていた穂波積科学技術庁防災環境対策室長らが帰国、「各国の同意を得られなかった」と語る。同庁は再び係官を派遣へ
1980/9/13
被爆直後の9月5日広島入りし惨状を取材した米人記者ジョン・ハンター氏が35年ぶり広島市を訪問。「あまりの残酷さに驚き、原爆投下に罪悪感さえ感じた。煙のにおい、病院の前に並ぶ被爆者の長い列が今でも忘れられない」
1980/9/14
スウェーデンのウプサラ大地震研究所が「ソ連のセミパラチンスク地方で14日、地下核実験によるとみられるマグニチュード6.9の地震を観測」と発表
1980/9/15
米北ダコタ州グランドフォークス空軍基地で、核積載のB52爆撃機が離陸準備中に炎上。乗員と消防士の2人入院
1980/9/15
「平和を語る青年のつどい」(坪山和聖代表)のメンバーらが似島の原爆遺跡を見学
1980/9/15
荒木広島市長がソ連核実験に抗議する電報を駐日ソ連大使に打つ
1980/9/16
広島市が9月市会で、似島に原爆慰霊碑か原爆遺跡の説明板を設置する意向を示す
1980/9/17
ソ連核実験に抗議して被爆者らが広島市の原爆慰霊碑前など全国27カ所で座り込み
1980/9/17
広島県原水禁が独自に開いた被爆35周年原水禁大会を総括。労組色が強すぎるとの指摘を受け、今後は被爆体験継承に力点を置き、家族ぐるみで参加できる大会をめざすことで一致
1980/9/18
カーター米大統領が記者会見で、欧州戦域核ミサイル制限の米ソ交渉を10月から開始の意向を表明
1980/9/19
日本原水協が拡大全国担当常任理事会で、1981年夏も独自集会開催の方針を確認
1980/9/19
米アーカンソー州ダマスカス付近の戦略空軍タイタン2型大陸間弾道ミサイル(ICBM)基地の地下サイロで爆発。1人死亡、21人が負傷。放射能汚染の恐れから半径8キロ以内の住民に避難命令。米ABC放送は「弾頭がサイロの外に吹き飛ぶ」と報道。カーター米大統領が全米にある54基の同型ミサイルの点検を命じる。州救護当局は「放射能汚染の心配はない」と語る
1980/9/20
東京都立隅田川高校の文化祭でヒロシマ・ナガサキ展。広島への修学旅行を続ける葛飾区立上平井中学校の卒業生らが中心になって被爆写真などを展示
1980/9/20
広島市八丁堀に駐屯していて原爆で全滅した中国第7161部隊の慰霊祭が初めて営まれる
1980/9/20
第8回全国平和教育シンポジウム(日本平和教育研究協議会、広島平和教育研究所主催)が広島市で始まる。21日まで。世界各国の教育者を集めた「核軍縮教育国際シンポジウム」開催など提案
1980/9/22
ハリス米厚生長官がネバダで1950~1960年代に行われた核実験の周辺住民に対する初の影響調査を実施すると発表。ユタ、ネバダ、アリゾナ3州の大学に委託し、核実験と病気の因果関係を解明へ
1980/9/22
動力炉・核燃料開発事業団が、東海再処理工場で4カ月前に発生した警戒レベルを超える作業員被曝事故を隠していたことが明るみに
1980/9/23
米メーン州の住民投票で原発閉鎖案に「ノー」の結論
1980/9/23
米ニューヨーク・タイムズが米国務省当局者の話として「スイスは米の要請を蹴り、パキスタンが2、3年以内に核爆発力を持つことを可能にするウラン濃縮器材を輸出した」と報道
1980/9/24
スウェーデンのハグフォルス軍観測所が「ソ連のセミパラチンスク地方で20日、地下核実験の弱い地震波(マグニチュード4.9)を記録」と発表
1980/9/25
マスキー米国務長官とグロムイコ外相がニューヨークのソ連代表部で会談。欧州戦域核兵器削減の予備交渉開始に合意
1980/9/25
米エネルギー省が「ネバダ州の砂漠で25日、2回の核実験を行った」と発表。26日、同省スポークスマンが「暗号名『リオラ』と呼ぶ実験で放射能ガスの地上に漏れを探知。人体に影響なし」と発表
1980/9/25
ローマ法王ヨハネ・パウロ二世の広島訪問(1981年2月)が決まる
1980/9/26
太平洋非核化フォーラムがシドニーで30地域の350人が参加して始まる。28日まで。日本の放射性廃棄物の太平洋投棄反対を決議
1980/9/26
荒木広島市長が24日のソ連核実験に抗議する電報を駐日ソ連大使に打つ
1980/9/26
原子力委員会(委員長、中川一郎科学技術庁長官)が兵器転用禁止の条件をつけ、日本産プルトニウムの米への売却を許可
1980/9/27
荒木広島市長が米核実験抗議電報を駐日米大使に打つ
1980/9/27
米、ソの核実験に抗議して被爆者らが広島市の原爆慰霊碑前など全国27カ所で座り込み
1980/9/27
科学技術庁が小笠原諸島の父島で、低レベル放射性廃棄物を北西太平洋の公海底に試験的に投棄する計画の説明会を開く。住民は「漁場が汚染される」と反発
1980/9/27
青森県漁連が「むつ」の大湊再母港化反対を中川一郎科学技術庁長官に申し入れ
1980/9/27
広島市が「25日にソ連がセミパラチンスクで地下核実験を行った」との情報を入手。荒木広島市長は核実験に抗議する電報をソ連大使館に打つ
1980/9/29
南アフリカのウラン濃縮公社が初めて濃縮ウラン生産計画を公表。原爆製造の可能性強まる
1980/9/30
日本放射性同位元素協会が25年前、相模湾と駿河湾にコバルト60を含む核廃棄物入りの石油かんやドラムかんを投棄していたことが科学技術庁の調査で判明
1980/9/30
東京都小笠原村議会が科学技術庁の放射性廃棄物海洋投棄計画に反対する決議を全会一致で採択
1980/9/30
日赤長崎原爆病院の移転、新築問題が決着。12月13日起工(「長崎年表」)
1980/9/--
埋もれている被爆資料の発掘や撮影場所が不明の被災写真の戸籍づくりで、広島平和文化センターが「国内死蔵原爆被災資料の発掘調査委員会」の発足決める
1980/9/--
「世界の核兵器数は4、5万個以上に上り、その威力は広島原爆の100万個分に相当」。ワルトハイム国連事務総長が「核兵器の包括的研究」を総会に提出

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