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ヒストリー

ヒロシマの記録1979 6月


1979/6/1
在米被爆者検診医師団の蔵本潔団長らが広島に帰着。(1)サンフランシスコとロサンゼルスで計150人を検診(うち長崎被爆5人)。精密検査が必要な人は3人。貧血が目立ったが、多くは精神的悩み(2)両市で新たに37人の被爆者が名乗り出て、米国原爆被爆者協会の名簿登録者は398人(3)シアトルとハワイでは20人以上の被爆者が確認できた。シアトルで面接した12人は検診を希望
1979/6/2
広島市で第7回全国平和教育シンポジウムが始まる。約1,500人が参加。同市戸坂中の高橋信雄教諭らが「1980年度から新たに採用する小学校社会科の教科書の原爆記述は、十分ではないが一歩前進」と報告
1979/6/2
米原子力潜水艦のニューヨーク寄港を米海軍が断念。人口密集地域が理由。ワシントン・ポスト紙が伝える。「日本など同盟国には要求しながら矛盾」と指摘
1979/6/3
反原発で初の国際共同行動。日本でも東京、大阪、京都などでデモや集会。米では12州で約3万人が参加、1,000人以上が逮捕される
1979/6/7
ジョージ・アリヨシ米ハワイ州知事が日本発の核燃料船のハワイ寄港を拒否。船は使用済み核燃料再処理のため、英と仏へ輸送。パールハーバーを管理する海軍は使用許可。8日、環境保護グループなどのデモの中、入港
1979/6/7
広島県の原水禁3団体代表が「79原水禁世界大会」の会場に、8月5日夕の広島市民球場借用を申し入れ
1979/6/8
米が移動発射式戦略ミサイル(MX)の全面開発方針を決定。開発費総額300億ドル。ニューメキシコ、アリゾナなど4州にまたがる8,800カ所の発射場を地下鉄道や地下道で結び、約200基のMXミサイルが定期的、秘密裏に移動、ソ連の奇襲攻撃を避けるシステム
1979/6/8
「戦後、広島、長崎に駐留した米兵の間に原爆症が多発、死亡者も」-。米下院軍事委員会軍事補償小委員会が、患者である元兵士や遺族らを招いて公聴会。長崎駐留のジェームズ・マクダニエル氏(ワシントン州)、ハリー・コポラ氏(フロリダ州)らが訴え。米兵の広島駐留は1945年9月3日に連合軍従軍記者団、長崎は9月10日が最初。米復員軍人局に救済を申し立てているのは長崎駐留30人、広島駐留20人の元米兵
1979/6/8
「原爆被爆者対策基本問題懇談会」が厚生省で初会合。座長に茅誠司東大名誉教授。橋本龍太郎厚相が「国家補償の精神に立った被爆者の援護対策についての要望が強い。昨年3月の最高裁判決では原爆医療法には国家補償的配慮が根底にあるとの判決が示され、被爆者対策を推進する上で避けて通れない基本問題である。国民的合意が得られるよう検討をお願いしたい」とあいさつ
1979/6/8
プロ野球巨人軍の張本勲選手の半生を描く韓国映画「闘魂大打者張本勲」が広島でロケ。張本選手は広島市段原新町で被爆、姉の張点子さんを失った
1979/6/10
第20回原爆後障害研究会が広島市で始まる。約130人が参加
1979/6/10
第20回原爆後障害研究会で長崎大医学部の西森一正教授が「2キロ以内の近距離被爆者は重複がん患者が多い」と発表。約1万体の解剖例から分析
1979/6/10
第20回原爆後障害研究会で湯崎稔広島大原医研助教授が、被爆による家庭崩壊の実態を報告。1974年現在の広島市内居住の被爆者世帯で1人以上の死者がいたのは26.2%。被爆当時40歳以上の女性の6人に1人は原爆で夫を失い、25歳以下の7人に1人が両親か片親を失う
1979/6/10
第20回原爆後障害研究会で、広島原対協の松坂義正副会長と木村弘資料調査室長が「ABCC研究の歩み」を発表。米主導の研究体制にメス
1979/6/10
米人記者による広島、長崎取材の第1回「アキバ・プロジェクト」にジョン・スプラゲンズ、ロドニー・バーカー、ロジャー・ケースの3氏が決まる。選定は秋葉忠利氏、ロバート・リフトン・エール大教授、ポール・サンガス上院議員、倉本寛司米国原爆被爆者協会長ら
1979/6/11
米CBS放送が「パキスタンはリビアの援助を受け、2~5年後に原爆実験を計画」と放送
1979/6/11
原水禁大会統一実行委の準備委員会の発足持ち越し。東京・日本青年館で原水禁団体や市民団体代表が論議するが、日本原水協との話し合いがまとまらず
1979/6/11
米が地下核実験。エネルギー省が発表
1979/6/11
米原子力規制委員会(NRC)のヘンドリー委員長が米下院内務委員会で、ずさんな米の核管理状況を証言。ウラン、プルトニウムの盗難が年間6~10件
1979/6/12
原水禁国民会議が独自大会の開催準備
1979/6/13
関西電力大飯原発が2カ月ぶりに運転を再開
1979/6/14
島根県防災会議原子力防災部会が、島根原発防災対策暫定取扱要綱をまとめる。防災体制の発動基準は「自然放射能の2倍程度」の段階
1979/6/14
荒木広島市長が米地下核実験で、マンスフィールド駐日米大使に抗議電報。15日、被爆者らが抗議の座り込み。広島、三次、福山、山口、東京など。福山は市役所玄関前、山口は山口市民会館
1979/6/15
16年ぶりの原水禁統一世界大会へ向け、実行委員会発足へ。東京で開かれた実行委準備会には原水禁国民会議、日本原水協のほか、核禁会議の主要メンバーの同盟代表など29団体、61人が参加。2年連続で開いた原水禁国民会議と原水協の統一大会に核禁会議も加わり、1963年大会以来、初の国民的統一大会とすることで合意
1979/6/16
福山の医師松永勝さんがスイス人医師の故マルセル・ジュノー博士の遺徳をしのび、同博士が被爆後、広島に贈った医薬品や容器の一部を原爆資料館に寄贈。松永医師は当時、広島県衛生課の嘱託医として9月8日、広島入りしたジュノー博士と行動をともに
1979/6/16
南米訪問から帰国の宮沢弘広島県知事が被爆者検診で医師派遣の意向を表明。ブラジル・サンパウロのヒロシマ中学から託されたサンパウロ州旗などを広島「折鶴の会」に手渡す
1979/6/18
1953年に米ユタ、ネバダ州で約1万7,000頭の羊が死んだのは、同年3月と5月の核実験による死の灰が原因-。旧米政府原子力委員会(AEC)の研究員だったハロルド・ナップ博士がまとめ、マッケイ下院議員が発表
1979/6/18
ウィーンで開かれていた米ソ首脳会談が核戦争回避のための共同声明を発表し、第2次戦略兵器制限条約(SALT2)に調印
1979/6/18
広島県立病院の看護婦講習生の遺族が厚生省に「公務死認定」を陳情。厚生省は「看護婦の資格と、動員の証拠になる防空医療従事令書が条件」と回答
1979/6/18
核禁広島県民会議(村上忠敬議長)が、医師辞任(4月)で無医診療所となっている韓国慶尚南道陜川郡の陜川原爆被害者診療所に河村虎太郎医師と佐々木猛広島原爆病院第2内科部長を6日間派遣
1979/6/18
米核実験の兵士被曝の実相を伝える下院の記録が広島に届く。ハンフォード工場労働者のがん多発をめぐる調査なども。高橋昭博広島原爆資料館長がティム・カーター議員に依頼。資料は広島大原医研に寄贈
1979/6/19
原水禁統一世界大会の広島実行委員会結成を呼びかける呼びかけ人会議開く。呼びかけ人は佐久間澄広島県原水協理事長ら既成原水禁3団体代表をはじめ、高浜清子県婦協会長ら市民5団体代表と、今石益之広島女学院大学長ら4大学学長、坂田修一広島平和文化センター理事長ら20人。実行委の名称を「79原水爆禁止・被爆者援護世界大会広島実行委員会」とし、中央の大会名称にも「被爆者援護」を加えるよう要望
1979/6/19
ケネディ議員が安全基準無視のネバダ原爆演習の実態を政府文書をもとに暴露。「軍部は作戦上の見地から原子力委員会(AEC)の反対を押し切り、爆心6キロまで行進させたり、被曝線量基準を緩和するなどした」
1979/6/20
島根原発が営業運転を4カ月半ぶりに再開。2月3日から定期点検に入り、3月28日、米スリーマイル島原発事故が起きたため5月7日から3日間、通産省の特別保安監査。再開は予定より1カ月遅れ
1979/6/21
橋本龍太郎厚相が韓国人被爆者のための専門医師交流に努力を表明。「病院建設は(1965年の日韓基本条約で解決済みの)賠償請求権も絡むので難しいが、専門医師交流は実現に向け検討している。被爆者実態調査は韓国政府内でも微妙な問題点を抱えており静観したい」
1979/6/21
長崎市を表敬訪問した在日英大使館海軍武官のR・A・アイザック大佐に本島等長崎市長が「核保有国の軍艦でも入港を歓迎したい」と表明(「長崎年表」)
1979/6/21
ストックホルム国際平和研究所(SIPRI)が1979年版「世界の軍備および軍縮」を発表。(1)米ソの戦略核弾頭は増え続け米約9,000発、ソ連約4,500発に。この他、両国は戦術核数万発を持ち総計TNT130億トンで広島型の100万発分(2)核弾頭16発を装備する米原潜ポセイドン1隻だけで、ソ連の全人口2億6,000万人の三分の一を抹殺する威力があり、核戦争が起これば北半球は全滅、南半球でも数百万人の死者-など
1979/6/22
広島市打越町の旧国鉄横川電車区で被爆した標準時計が今も正確に時を刻む-。国労被爆者対策協議会が保存申し入れへ
1979/6/22
反原発中国5県共闘会議が中国電力に島根原発の運転再開抗議と、原発建設計画撤回申し入れ
1979/6/23
ソ連がセミパラチンスクで地下核実験。スウェーデン地震研究所が発表
1979/6/24
自民党が在韓被爆者調査の視察団派遣。厚生省の係官も同行。韓国側は(1)日本人の専門医の派遣と韓国人の研修医の交換(2)重症被爆者の渡日治療(3)日本人専門医らによる被爆者実態調査(4)総合病院の建設-などを要望
1979/6/25
荒木広島市長がソ連の核実験で、ポリャンスキー駐日大使に抗議電。本島等長崎市長が東京事務所に「ソ連大使館に赴き厳重抗議せよ」と指示。本島市長は4月に就任「電報では抗議の効果が表れない。今後は直接口頭で抗議」と語っていた。26日、広島、三次など広島県内8市2町、17カ所と東京、山口、山形など4都県で抗議の座り込み
1979/6/26
大阪の「韓国の原爆被害者を救援する市民の会」(吹田市、松井義子会長)が、日本政府の在韓被爆者援護を求める署名運動を開始
1979/6/27
1945年8月6日に広島市内で発行された国鉄切符が原爆資料館に寄贈。広島県比婆郡口和町の江木マツ子さん所蔵。6日、山陽線己斐駅から口和町に帰ろうとして広島駅で被爆。切符には「20.8.6」のスタンプ
1979/6/27
広島市高陽町、市立高陽中学の「原爆病院ホタル慰問」が満20年に
1979/6/28
「79原水爆禁止・被爆者援護世界大会」の広島実行委員会結成総会が、広島市の平和記念館で開催。県婦協、県青連など市民5団体、既成原水禁3団体など39団体と個人計45人が出席し、6月21日に開いた同実行委結成のための呼びかけ人会議の26人を代表委員に選ぶ
1979/6/28
米エネルギー省が「28日、ネバダで地下核実験を実施」と発表。20~150キロトン
1979/6/29
広島平和文化センターの英語講師に米軍岩国基地の軍人は不適当と広島市会で共産党議員が追及
1979/6/29
原水禁統一世界大会開催へ向け、東京で統一実行委員会が発足。原水禁国民会議、日本原水協、核禁会議の3団体が全面参加したほか、市民団体など51団体16人の個人が加わり、16年ぶりに大同団結が実現。大会名称を「原水爆禁止1979年世界大会」とし、「被爆者援護・核兵器廃絶・人類生存のために」を副題に
1979/6/30
荒木広島市長が米核実験に抗議電報
1979/6/30
ソ連平和擁護委員会と日本原水協がモスクワで関係正常化に調印。1964年の原水禁世界大会で、中国の核実験をめぐって意見が対立、交流が途絶えていた
1979/6/--
広島大総合科学部が1977年度から続けている「戦争と平和」講座の内容を収めた「平和研究ノート」を刊行。平和科学研究センターを中心に14人の教官が執筆
1979/6/--
広島市牛田中2丁目の広島インターナショナル・スクールに、米オレゴン州セーラムのセント・ジョージ小学校から折りづる356羽が届く
1979/6/--
広島市立基町小の児童たちが学校の近くにある被爆エノキを守る運動を始める。高さ15メートル、幹回り2.5メートル
1979/6/--
広島市の平和記念公園の南側に、医療法人あかね会土谷病院が地上8階の大規模病院建設計画を広島市に提出。美観などから市は対応に苦慮
1979/6/--
広島市の沢田直二さんが広島県甲奴、神石郡から建物疎開に動員され大半が被爆死した「甲神部隊」の妻たちの苦労を聞き書きした「妻の甲神部隊」を出版。1975年に出した「一握の灰」の続編
1979/6/--
ヒロシマを知らせる委員会(原田東岷委員長)が「ヒロシマを語る十冊の本」を刊行。10冊は「夏の花」「原爆の子」「原爆に生きて」「花の命は短くて」「句集広島」「ヒロシマ日記」「夕凪の街と人と」「ヒロシマ・ノート」「原爆爆心地」
1979/6/--
高山等氏編の英文「広島の追憶と今日」の3回目の改訂版が完成

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