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ヒストリー

ヒロシマの記録1979 8月


1979/8/1
山口放送の磯野恭子氏が小頭症患者を抱える岩国市の畠中家を描いた「聞こえるよ母さんの声が原爆の子・百合子」を出版
1979/8/1
米核実験による被曝米兵のドキュメンタリー映画「ポール・ジェイコブスと核ギャング」(ポール・ジェイコブス監督)が原水禁国民会議に届く。1978年1月に完成。夫をがんで失った米兵夫人、病床の元米兵らが証言
1979/8/1
広島市の原爆資料館が資料の貸し出しを始める。被爆資料は計5,917点、うち561点が同館で一般公開。公開されない資料が多く、同じ種類で何点もあるものを貸し出す。第1号は広島市沼田町の沼田公民館へ
1979/8/1
長崎市で「79核禁会議全国集会」。長崎宣言を採択
1979/8/1
被爆の実相取材の「アキバ・プロジェクト」に選ばれ来日した米紙の3記者が広島で記者会見
1979/8/1
通産省・資源エネルギー庁が1995年までに原発8,000万キロワット開発を計画。米スリーマイル島原発事故の影響でテンポをスローダウン
1979/8/1
中国新聞が企画「原爆マンガ小史平和思想の支流をたどる」の連載始める。手塚治虫氏の「アトム大使」、鈴原研一郎氏「ママの日記帳」、中沢啓治氏「黒い雨に打たれて」「黒い川の流れに」など
1979/8/2
米原子力規制委員会(NRC)査察部がスリーマイル島原発事故で調査報告書。運転ミスを指摘するとともに、装置・計器類の構造問題にも言及
1979/8/2
広島県創価学会青年部が「広島二世の会」を結成
1979/8/3
旧広島県世羅郡13町村出身者で編成し、広島市の警護中に被爆した「世羅部隊」(故大原静男部隊長、約330人)122柱の初の追弔法要。世羅町の修善院で 1
979/8/3
米国原爆被爆者協会が援護法制定を求め、実態を訴えるパンフレットを作製
1979/8/3
本島等長崎市長が爆心碑の原点移転を発表。「松山町171番地」から南東30メートルに
1979/8/3
大阪市の矢田小、矢田南中学校の朝鮮人児童、生徒27人が広島市でヒロシマ学習
1979/8/3
原水禁国民会議の被爆34周年原水禁大会で仏核実験の被害を訴えるタヒチ環境保護連盟の前会長フィリップ・シウさんが広島市入り
1979/8/3
広島県立美術館で第25回広島平和美術展。7日まで。244点のアンデパンダン展。広島平和美術協会(柿手春三代表)主催
1979/8/3
米軍岩国基地の将兵向け週刊誌「トリイ・テラー」に、「8月6日のヒロシマを避けよ」との記事が前週に続き掲載
1979/8/4
広島県佐伯郡廿日市町宮内地区で「戦没・原爆犠牲者の慰霊碑」が完成、除幕式
1979/8/4
NHKがドキュメンタリー「ヒロシマのかたみ」を放送。1月から始めた「原爆遺品を記録する会」で市民から寄せられた約500件の形見と思い出
1979/8/4
広島花木地方卸売市場「花満」が今年も広島市原爆死没者慰霊式・平和祈念式の献花用の花束を市に寄贈。原爆で2人の子供を奪われた先代社長の和田満苗さん(1月4日死去、74歳)が10年前に流れ献花を提案、毎年花束寄贈。後継の和田宏満さんが遺志を継ぐ
1979/8/4
米がネバダで地下核実験。エネルギー省が発表
1979/8/4
ソ連がセミパラチンスクで地下核実験。スウェーデンのウプサラ大地震研究所が記録
1979/8/4
原水禁国民会議の被爆34周年原水禁世界大会始まる。核絶対否定を強調。タヒチ環境保護連盟のフィリップ・シウ前会長や米で30年間も反核闘争を続けているレオ・グッドマン氏ら8カ国19人の海外ゲストをはじめ全国から約7,000人が参加
1979/8/4
日米知識人が広島で核兵器廃絶シンポジウム「核兵器と人類の生存」を開催。ニューヨーク市立大J・サマビル名誉教授が提唱、庄野直美広島女学院大教授ら19人が呼びかけ、約60人が参加
1979/8/4
国家公務員労働組合連合会青年協議会(小嶋卓議長)が広島原爆病院に、全国から集めた591人分の献血カードを寄贈。1975年から全労働省労働組合広島支部が始めた献血運動が全国に
1979/8/4
国民平和大行進の6,000人が広島入り
1979/8/4
原水禁世界大会の海外代表35人が、広島の被爆者13人と広島市内で交流集会
1979/8/5
広島市青少年センターで被爆者を囲んで青年たちの「平和を語る青年の集い」。前身は1978年の原水禁世界大会で、日本被団協が開いた「コーヒーショップ」
1979/8/5
原水爆禁止1979年世界大会広島大会が折りづる平和行進で開幕。約1万2,000人が参加。中立労連の岡村恵事務局長、婦団連の櫛田ふき会長らも行進し統一集会をイメージづける。平和記念公園で結集集会。地婦連の田中里子事務局長があいさつ、中林貞男生協連会長が基調報告。核禁会議、同盟代表は行進、集会とも不参加
1979/8/5
全国の小、中学生114人が似島で「原水禁・少年少女の集い」。1974年から実施
1979/8/5
宇部、小野田両市の被爆者25人の体験証言集「閃光は今も眼に」が発刊
1979/8/5
広島テレビが「原爆を知らない子供たち」を放送。被爆体験の継承を問う
1979/8/5
全米各地で反核集会。原子力発電所前などでデモ行進。逮捕者も
1979/8/5
「長崎県被爆者手帳友愛会」(吉田満会長、4,000世帯)結成大会。県内最大の被爆者団体「県被爆者手帳友の会」(深堀勝一会長、約2万世帯)が、運動方針の対立で分裂した結果(「長崎年表」) 1979/8/5
原水禁統一世界大会の課題別集会で、原発をめぐって意見が対立
1979/8/5
原水禁国民会議が、米ソ核実験に抗議する8月6日の座り込みを原水禁世界大会実行委員会に呼びかけ。日青協、地婦連、総評は参加、日本原水協は不参加。実行委は抗議の声明だけ
1979/8/5
在日本大韓民国居留民団広島県本部が韓国人原爆犠牲者慰霊碑前で慰霊祭。10回目。143人の犠牲者を書き加え、合計2,005人の死没者名簿を奉納
1979/8/5
荒木広島市長が4日の米ソ核実験に抗議電報
1979/8/6
荒木広島市長が平和宣言。「ヒロシマの抗議を無視した相次ぐ核実験の強行は、新たに放射能被曝の問題を世界的に提起した。これはヒロシマの憂慮が現実のものになっていることに他ならず、まことに痛憤に耐えない。すべての核実験は直ちに停止し、これ以上新たな被曝者をつくってはならない。今や、原爆被害者と放射能被曝者の問題は、世界的課題として緊急な解決を迫られている。この時にあたり、日本政府において、被爆者援護対策の基本理念と制度の見直しが始められたことに、われわれは大きな期待を寄せるものである。平和とは、単に戦争の防止のみにとどまらず、憎しみを超えた愛と理性に基づき、人類のすべてが共存共栄することである。おろかにも地球の限りある資源を軍備の拡張に浪費し、飢えと貧困を拡大させている現実を直視しなければならない。今こそ、ヒロシマの願いに立って歴史の流れをかえ、人類繁栄の礎を築くべきときである」
1979/8/6
広島被爆34周年。平和記念公園で広島市原爆死没者慰霊式・平和祈念式。約3万人の市民が参列、荒木広島市長と1979年春に3歳で被爆した夫をがんで亡くした33歳の未亡人らが、新たに2,090人を書き加えた原爆死没者名簿を奉納。犠牲者の総数は9万5,685人に。大平首相代理の橋本龍太郎厚相らが献花。「ひろしま平和の歌」合唱に初の外国人グループ、米ハワイの「キングス・キッズ・インタナショナル」の12人が参加
1979/8/6
オーストラリアの女性医師ヘレン・コルディコットさんが、原水禁世界大会で放射能の遺伝子破壊を警告。ハーバード大医学部講師で低線量被曝問題の権威
1979/8/6
米ソ核実験に抗議して初めて8・6座り込み。午前11時、原爆資料館下で日本山妙法寺の藤井日達氏ら30人、草野信男日本原水協理事長も「あくまで個人の意思。米に8分、ソ連に2分抗議したい心境」。正午、雨の中、原爆慰霊碑前で座り込み。原爆資料館下の人も合流し約200人。槙枝元文総評議長、中立労連の岡村恵事務局長、地婦連の田中里子事務局長らも加わる。アキバ・プロジェクトのロドニー・バーカー記者も
1979/8/6
広島市高須の宇根利枝さんが岩清水を持って慰霊碑を巡拝。24年前から続ける
1979/8/6
中国放送が「1979ヒバクシャの証言~核実験の陰で」を放送。米ユタ州セントジョージ市の核実験被害者を追う
1979/8/6
テレビ新広島が「自立~原爆小頭児の33年」。瀬戸内海の大崎下島に生きる娘と父親
1979/8/6
中国地建広島国道工事事務所が、相生橋架け替え工事の記録映画用に平和記念式典、灯ろう流しなどを撮影
1979/8/6
東広島市八本松町原の広島少年院で原爆犠牲者追悼の碑を除幕。被爆当時、広島市宇品にあった少年院宇品出張所の職員4人と院生8人が広島市役所裏の建物疎開作業中に被爆、院生3人は即死、残りの人々と宇品に残っていた職員1人も次々に死亡
1979/8/6
米子市の杉原隆久さんが開設した「鳥取・西部地区原爆被爆者相談所」に相談相次ぐ
1979/8/6
日本被団協の伊東壮事務局長が「1945年8月6日」を刊行。岩波ジュニア新書
1979/8/6
長崎市が、平和祈念式典を控え初の野外被爆写真展を開催。8月10日まで(「長崎年表」)
1979/8/6
日米学生会議の86人(米44人、日42人)が、初めて広島市の平和記念式典に参列、原爆資料館見学
1979/8/6
全国に広がる慰霊の輪。新潟市の市役所前広場に市原爆被害者の会が祭壇、市長も参拝。松山市でも石手川公園内の原爆慰霊碑前で慰霊祭。愛知県津島市役所で黙とう
1979/8/6
原水禁世界大会広島大会で核実験抗議発言(山形)をめぐりソ連代表が退場騒ぎ。イバン・ブラディチェンコ代表「会場からソ連と米の核実験を同列視する意見が出たのはきわめて残念。わが国の核実験はあくまでも防衛のため」。大会関係者の説得で会場に復帰。大会は「ヒロシマ・アピール」を採択し閉会
1979/8/6
橋本龍太郎厚相が広島市公会堂で被爆者団体の代表7人から要望を聞く。広島原爆養護ホーム、原爆病院を慰問。記者会見で南米の被爆者検診に前向き発言
1979/8/7
「仏が南太平洋で7月25日、同国最大規模の0.5メガトン地下核実験を実施したもよう」。ニュージーランド・ウェリントンの地震観測所が発表
1979/8/7
ニューヨーク州政府が今後15年間、原子力発電所の新設を認めず、電力供給を石油から石炭に切り替えるエネルギー総合計画案を発表
1979/8/8
南太平洋ムルロア環礁の仏核実験センターで、7月6日と25日の2回にわたって事故、2人が死亡し6人が負傷-。仏紙のルマタンが伝える。仏原子力委員会は事故を認め、核事故ではないと強調
1979/8/8
原水禁国民会議が独自大会で反「むつ」運動の強化を打ち出す。海外代表としてアメリカインディアン環境協議会のジェニファー・スキートさんがウラン鉱山の放射線被害を報告
1979/8/8
米国防総省が新型大陸間弾道ミサイル(ICBM)MXの奇襲防止で「競馬場方式」の採用を決める。ネバダ、ユタの砂漠地帯に長さ約11キロ、幅3~5キロの長円形の周回コースと23カ所のシェルターをつくる。MXミサイルは発射装置に乗せシェルターを移動。競馬場コースは200カ所建設
1979/8/8
米がネバダで地下核実験。エネルギー省が発表
1979/8/8
原水爆禁止1979年世界大会長崎大会が、長崎市民会館で開幕。約1,200人が参加。米の哲学者ジョン・サマビル博士が「原爆は戦時でも許される行為の範囲を超えた虐殺行為。日本政府が米に、賠償請求権を放棄したのは誤り。直ちに国際司法裁判所に提訴せよ」と述べる
1979/8/8
本島等長崎市長がアキバプロジェクトの3記者に米の長崎原爆投下について、(1)ウラニウムとプルトニウム型の違いを知るための実験(2)マンハッタン計画に20億ドル(約4,400億円)という巨費をつぎ込んだ証明として実施-と述べる
1979/8/9
本島等長崎市長平和宣言「無差別に、大量の人間を殺傷した原子爆弾投下の責任はなぜ不問にされてきたのか。われわれは、今もなお、心からの怒りを覚える。高齢化してゆく被爆者の悲痛な訴え、広範な大衆の平和への悲願は、常にイデオロギーに左右され、とかく軽視されてきた。34年の歳月は原爆の残酷さ、悲惨さ、その傷跡を風化させつつある。長崎と広島が有する原爆体験の意義は、極めて大きい。われわれは原爆体験を次の世代を担う若者たちに語り継ぎ、恒久平和の確立のため、決意を新たにして一層の努力を傾注しなければならない」
1979/8/9
長崎市で被爆34周年原爆犠牲者慰霊平和祈念式典。田中六助官房長官、荒木広島市長、長崎の捕虜収容所で被爆した元英兵のロナルド・E・ブライヤーさんら1万8,000人が参列。初めて小、中、高校生代表の120人も出席。新たに死亡が確認されたオランダ兵6人ら1,263人を書き加えた原爆死没者名簿を奉納、本島等長崎市長が原爆投下責任を問う平和宣言。「初の祈りを超えた平和式典」と注目される。市長の平和宣言、被爆者代表の「平和への誓い」も参列者と対面して訴える広島方式に
1979/8/9
荒木市長が8日の米核実験に抗議電報
1979/8/9
東京・夢の島の第五福竜丸展示館の久保山愛吉碑前で、第五福竜丸平和協会(三宅泰雄会長)が初の原水爆被害者追悼式
1979/8/9
原水爆禁止1979年世界大会長崎大会が閉会総会。9,000人が参加。長崎大の具島兼三郎学長「地球が放射能汚染のため手遅れにならないうちにみんなで核兵器廃絶に立ち上がろう」。ジョージ・ウォルド博士「核兵器と原発は新しい被曝者を生む。ノーモア・ヒバクシャ。世界中の原発をやめるべき」
1979/8/9
長崎の有志が「追悼・長崎原爆朝鮮人犠牲者」と刻んだ記念碑を平和公園に建て、除幕式(「長崎年表」)
1979/8/9
長崎市が長崎原爆の実物大模型製作の構想を発表。「風化」に歯止めをねらう
1979/8/9
荒木広島市長が7月25日の仏核実験に抗議電報
1979/8/9
英被爆捕虜ロナルド・E・ブライヤーさん(ノースヨーク州)は、長崎俘虜収容所第14分所で被爆。「米国が原爆投下をしたことが問題なのではない。原爆投下という非人道的行為が許せない」
1979/8/10
原水禁国民会議が長崎で「生存のための国際連帯会議」。「核のない未来のために」をテーマに原発、核拡散、核被害者援護、太平洋の非核化などを討議
1979/8/10
米、仏の核実験に抗議して被爆者らが全国各地で座り込み
1979/8/11
四国電力の愛媛県伊方原発と九州電力の佐賀県玄海原発が運転再開
1979/8/11
通産省・資源エネルギー庁が、関西電力大飯原発の誤作動は米社の部品材料ミスが原因と断定
1979/8/12
長崎の証言の会、長崎県原爆被爆教職員の会、長崎原爆被災者協議会など4団体の有志が核実験に抗議して通算100回目の座り込み。本島等市長も初参加(「長崎年表」)
1979/8/12
ソ連が中部シベリアで地下核実験。スウェーデンのハグフォルス観測所が14日発表
1979/8/12
神奈川県相模原市の市民運動家、伊倉二郎さんらが1950年から続けている原水爆禁止祈念集会が、30回を迎えたのを記念し平山安武広島平和記念館長、荒木正人長崎国際文化会館次長らが招かれ出席。市民約400人が参加し、被爆者援護法の制定、核兵器の廃絶などを誓う
1979/8/13
「子どもたちに世界に!被爆の記録を贈る会」(松浦総三代表)が呼びかけた「平和の旅」が、ブルガリアの世界子供会議に出発
1979/8/13
広島福祉青年会議(山内秀夫事務局長)が広島市に、平和記念公園内の施設を車いすで利用できるよう改良を要望
1979/8/15
シン・インド首相が「パキスタンが核兵器開発を推進するなら、インドはデサイ前首相の決定を再考」と核兵器の開発を示唆
1979/8/15
荒木広島市長が14日のソ連核実験に抗議電報。17日、被爆者らが全国各地で座り込み
1979/8/15
大阪で広島原爆資料展が2カ所で始まる。県外貸し出しの第1号。「ヒロシマ原爆資料展」(部落解放同盟大阪府連など主催)と、「私たちと戦争展・原爆広島コーナー」(平和のための戦争資料館をつくる会主催)
1979/8/17
長崎市が長崎県などとシンガポールで開いた原爆展が反響を呼ぶ。写真50点、溶けた屋根かわら、11時2分で止まった腕時計など
1979/8/17
ソ連がシベリア南西部で地下核実験。米エネルギー省が18日に発表
1979/8/19
荒木広島市長が17日のソ連核実験に抗議電報。21日、被爆者らが全国各地で座り込み
1979/8/20
前田哲男氏が「棄民の群島ミクロネシア被爆民の記録」を時事通信社から出版
1979/8/20
島根県知事が核燃料税新設を発表。1980年度から徴収めざす。80年度税収見込みは1億4,500万円
1979/8/23
原子力安全委員会の原子炉安全専門審査会が原子力船「むつ」の原子炉遮へい改修を了承
1979/8/29
茨城県・東海村の核燃料再処理工場運転を来年2月まで延長で日米が合意。当初、9月末までに99トンの再処理をし運転中止の予定。予定量の処理ができず日本側が延長を希望
1979/8/29
米英がネバダで共同地下核実験
1979/8/30
米スリーマイル島原発の修理で6人が被曝
1979/8/30
長崎の朝鮮人被爆者が援護を求めて長崎県朝鮮人被爆者協議会を結成。会長に李奇相さん
1979/8/30
米ネバダ核実験場周辺の住民442人が、米政府を相手取ってユタ州ソルトレークシティーの連邦地裁に損害賠償請求訴訟。うち119人は1950年代の核実験の死の灰でがんや白血病にかかったと主張し、残り323人は同じ原因による死亡者(146人)の遺族。これまでエネルギー省に求めていた賠償請求は訴訟ではなく、示談的要求
1979/8/31
荒木広島市長が29日の米英共同核実験に抗議し、在日両国大使館に抗議電報
1979/8/31
広島県「黒い雨・自宅看護被害者の会連絡協議会」(花本兵三会長)が、黒い雨の地域指定を小雨地域まで拡大するよう厚生省へ要望
1979/8/31
広島県原水禁(社会党・総評系)が理事会で1979原水禁世界大会を総括。(1)幅広い階層の参加は評価できる(2)原発問題を避け、大会期間中の米ソの核実験に抗議できなかったのは原水禁運動の根幹に触れる(3)今後も独自大会を続け、共同行動を積み重ねる
1979/8/--
広島合唱団(熊谷勇二団長)の「平和歌集ヒロシマから」が完成。「原爆を許すまじ」「ひろしま平和の歌」など18曲収める
1979/8/--
34年目の「ヒロシマ・ナガサキ・デー」が米で空前の盛り上がり。約200団体が写真展や喪服行進
1979/8/--
広島YMCAロビーで東京在住のフリーカメラマン島崎省吾さん(広島県海田高校出身)が、修学旅行生などを撮った「ヒロシマのうた・写真展」。「ヒロシマのうた」は広島の歌を創る会(大畠雅美さん主催)の制作
1979/8/--
童話「はとよひろしまの空を」を刊行。大川悦生氏作、二俣英五朗氏絵。ポプラ社
1979/8/--
広島平和文化センターが、広島市に内外から寄贈された34曲のリスト作成。国内17曲、海外17曲
1979/8/--
「核時代の軍備と軍縮」(SIPRI編・服部学氏訳、時事通信社)、「先制第一撃」(R・オルドリッジ氏・山下史氏訳、TBSブリタニカ)が刊行
1979/8/--
米スミソニアン博物館が、原爆投下機エノラ・ゲイの一般公開を検討。1961年、同博物館が空軍から引き取りメリーランド州シルバーヒルの同博物館倉庫に収納。7日付ワシントン・ポスト紙が報道
1979/8/--
女性の平和運動グループに贈られる「アリス・ハーズ夫人記念平和賞」に、「35年目の被爆者」を出版した広島原爆被害者問題ケースワーカー研究会が決定。ハーズ夫人は米の平和活動家。1965年にベトナム侵略に抗議して焼身自殺。遺言状や手紙を広島大の芝田進午教授が「われ炎となりて」として出版、益金で「平和基金」を創設。前年受賞は新日本婦人の会の被爆手記集「木の葉のように焼かれて」
1979/8/--
父親の故郷、広島に中国から移住してきた金国れい子さん、胡汝美さん夫妻が「麗しき広島を賛える」と題し作曲
1979/8/--
原民喜氏の「永遠のみどり」をおいの文生さんが楽譜に

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