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ヒストリー

ヒロシマの記録1979 11月


1979/11/2
マスコミを国民のものにする広島県連絡会議(議長、今田正義県労会議議長)と広島県原水禁(社会党・総評系)が中国放送へ米の原発訪問番組の中止を申し入れ。東京12チャンネルの制作で、原発の安全生、必要性などに焦点
1979/11/2
広島・長崎朝鮮人被爆者実態調査団(尾崎陞団長)が現地調査を始める。調査団は日本弁護士連合会(日弁連)被爆者援護法に関する委員会と朝鮮総連で合同調査団を結成、日本側から作家の千田夏光氏、評論家の藤島宇内氏ら10人、朝鮮総連から河昌玉社会局長ら8人。9日、広島で52人に面接、強制連行者は8人
1979/11/2
米国の民間団体世界事情研究会(WAC)の一行6人が広島入り。舟入高校や原爆資料館を見学
1979/11/5
米ネブラスカ州オマハのオマハ・ワールド・ヘラルド紙が、「1956年7月27日に英国のレークンヒース空軍基地に米空軍のB47が墜落、炎上。基地には原爆3個が貯蔵され、大惨事の可能性もあった」と伝える
1979/11/5
通産省・資源エネルギー庁が関西電力高浜原子力発電所2号機事故を重視、電力7社に一次冷却水系の栓の総点検を指示。事故はステンレス製であるべき栓に銅合金製が使われ、格納容器内に80トンの水漏れ
1979/11/5
米原子力規制委員会(NRC)が新規原発の建設と操業許可を、安全基準確立まで無期限に全面停止。年末までに操業予定の4基が操業不能、建設中の88基も開業遅れは必至
1979/11/6
南アフリカ政府が核実験説を最終的に否定する観測・分析データを公表
1979/11/10
東ドイツの公営DEFAスタジオのドキュメンタリー映画撮影が原爆資料館などで始まる。18日には佐々木禎子さんの母親、福岡県春日市に住むふじ子さんも出演。来年8月6日、東ドイツで上映
1979/11/10
アキバ・プロジェクト記者の1人、米デンバーポスト紙のロドニー・バーカー記者が5カ月の原爆取材を終え帰国。9月以降自費で滞在を延長
1979/11/10
広島・長崎朝鮮人被爆者実態調査団(尾崎陞団長)が調査結果を基に広島市へ市独自の調査などを申し入れ。広島市原爆被害対策部の消極発言が問題に
1979/11/13
広島原対協の生みの親松坂義正さんが消化管出血のため死去。91歳。仙台市出身。日本医学校卒業後、警察医として広島に赴任し、戦前は広島市議、市議会議長を歴任。爆心から約1.1キロの幟町の自宅で被爆。1953年、広島市原爆障害者治療対策協議会(のちに広島原爆障害対策協議会)発足以来の副会長で、県医師会長だった26年、原爆後障害研究会の母体となる原爆影響研究発表会を主催。一貫して被爆者医療に貢献し、厚生省の原爆医療審議会委員として地元の意見反映に努力、晩年は放射線影響研究所の在り方に厳しい目を向けた
1979/11/13
映画「はだしのゲン」第3部の映画化で広島から子役20人を募集。山田典吾監督が公表
1979/11/14
ニュージーランドで雨水から3カ月以内に核爆発があったことを示す放射能を検出。米紙ワシントン・ポストが報道
1979/11/15
札幌の子供会「草の根の会」の橋渡しでソ連から千羽づるが広島市に届く。草の根の会がソ連の国際ピオネールキャンプに参加し、5,000人の子供が折る
1979/11/15
広島市立舟入高校演劇部が11作目の原爆劇「光と陰の構図」を呉市での高校演劇広島県大会で発表
1979/11/19
茨城県東海村の動力炉・核燃料開発事業団の核燃料再処理工場が1年3カ月ぶりに運転再開。1978年8月末、試運転中に故障し補修作業
1979/11/19
広島・長崎朝鮮人被爆者実態調査団(尾崎陞団長)が厚生省に被爆朝鮮人の救済を急げ-と要請。(1)原爆二法の適用に当たって朝鮮人被爆者を差別しない(2)戦争犠牲者に対する各種の援護法の適用を在日朝鮮人該当者にも(3)朝鮮人被爆者を対象にする援護措置を
1979/11/20
被爆中国人2人を来年夏までに広島で検診。訪中広島県議団(団長、児玉秀一議長)が北京で発表。広島文理科大に留学していた由明哲さんと広島高等師範に留学していた王大文さん
1979/11/20
大阪市西成区のアパート火災で「釜ケ崎被爆者の会」事務所消失。被爆資料約1,000点が灰に
1979/11/21
原爆ドームが取り持つ縁でチェコスロバキアから友好のバラの苗木約100本が広島市に届く。1978年12月にチェコスロバキアのアロイス・インドラ連邦議会議長がドーム見学、設計者がチェコスロバキア人のヤン・レツル氏と知りバラを送ることを約束
1979/11/22
関西電力美浜原発に勤務していた関電社員が白血病で10月23日、死亡が明るみに。大阪市の男性社員、40歳。福井労基局が被曝との関連調査へ
1979/11/25
英紙サンデー・タイムズがパキスタン軍高官かの情報として「パキスタンは来年4月に核実験を行う予定」と伝える。ウランはアフリカから仏へ輸送中の約30トンが途中で盗まれ、リビア経由でパキスタンへ
1979/11/26
東京で原子力安全委員会と日本学術会議が主催で「米スリーマイル島原発事故の提起した諸問題に関する学術シンポジウム」。原発批判派が妨害
1979/11/28
広島市の下土井澄雄氏が、アイルランドで競売予定だった原爆投下機エノラ・ゲイのポール・チベッツ機長の「飛行日誌」(1937年から2年間)、「飛行慣熟書の教範」、「エノラ・ゲイ副操縦士ロバート・ルイス大尉の飛行日誌写し」などを入手
1979/11/28
原爆資料保存会(横田工会長)が平和記念公園の案内図を作り、広島市の全小、中学校に配る
1979/11/29
「被爆者援護法は国家補償的な性格を持つものとして原則をはっきりさせたい」。野呂恭一厚相が被爆者援護法に積極姿勢
1979/11/30
作家で被爆者の織井青吾さんが中国新聞に「筑豊からヒロシマを考える」を寄稿。炭鉱で働き命を落とした貧農の出稼ぎ坑夫を報告
1979/11/30
訪中した広島県議の新田篤美、河野省三の両氏が中国人被爆者の広島検診で大平首相に協力を要請
1979/11/--
放射線被曝の不安と実態をルポした堀江邦夫氏の「原発ジプシー」が刊行。7カ月間、原発定期検査の下請け作業の経験を書く。現代書館
1979/11/--
アキバ・プロジェクト記者、ジョン・スプラゲンズ記者の「原爆孤老リポート」が反響。広島原爆養護ホームの友保キヌエさんに米から励まし相次ぐ
1979/11/--
故マルセル・ジュノー博士が持ち帰った未公開を含む被爆写真240枚が広島へ。「第三の兵士」の翻訳者、丸山幹正さんがスイスの赤十字国際委員会で入手
1979/11/--
平山郁夫画伯が原爆をテーマにした初の作品「広島生変図」を制作、院展に出品。広島修道中3年のとき広島兵器廠に動員中に被爆。今年7月、原爆慰霊碑に参り、残照に燃える広島の空があの日を衝撃的に浮かびあがらせ作品に
1979/11/--
広島県議会訪中団(団長、児玉秀一議長)が、北京市革命委員会に「北京で広島原爆写真展を開きたい」と要請。革命委は前向きの検討を約束

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