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ヒストリー

ヒロシマの記録1977 7月


1977/7/1
ジュネーブの海底核兵器禁止条約の再検討会議が閉幕。「条約発効後5年間に違反事実はなかった」などの最終宣言を採択
1977/7/1
西ドイツ連邦政府のマイホーファ内相がフィリップスブルグ第2号発電所建設について、地元のバーデン・ビュルテンブルク州政府は近く建設許可を出すと言明。プロクドルフ原子力発電所が住民の反対で建設中止に追い込まれて以来、9カ月ぶりに原発許可へ
1977/7/2
広島原爆養護ホームで初の不在者投票。4月に自治省が認め、参院選から実施
1977/7/2
山口県原爆死没者の碑建設委員会(代表幹事、浜田峰夫山口大教授)が「山口のヒロシマ」を発刊
1977/7/2
広島市平和記念公園内の原爆供養塔に安置されていた遺骨8柱が遺族の元へ。中国新聞が連載中の遺骨名簿「広島有情」で愛児(10カ月)の名前を見つけた神奈川県逗子市の市川サダ子さんも出席
1977/7/2
原水禁統一実行委員会の新村猛代表幹事ら5人の代表・常任幹事が広島市で原水禁団体、被爆者団体らの声を聞く。中央主導に根強い不満出る
1977/7/3
「国民平和大行進長崎県実行委員会」(長崎県原水協など)の長崎-広島間平和行進が長崎市をスタート。8月5日に広島到着の予定
1977/7/4
宮本顕治共産党委員長が広島市で記者会見し、統一大会反対の動きを批判
1977/7/5
ジュネーブ軍縮委員会の夏会期開会。カーター米大統領が全面完全軍縮に努力するとメッセージ
1977/7/6
仏政府が1978、79年の原子力発電所建設に関する決定を無期延期。ライン川沿いクレイマルビルの商業用高速増殖炉スーパー・フェニックス建設現場で予定されている大規模な反対運動の動向を警戒か
1977/7/6
法律家、学者などで構成する「大阪アピールの会」(亀田得治弁護士ら会員89人)が「日本国民と全人類の悲願である原水禁運動の国民的大統一を実現し、被爆国際シンポジウムを成功させよう」とアピール発表
1977/7/6
茨城県東海村・核燃料再処理工場の日米合同調査終わる
1977/7/7
参院選遊説のため長崎県入りした福田lb夫首相が平和祈念像に花輪。現職首相としては3人目(「長崎年表」)
1977/7/7
米政府が中性子弾頭の地下実験をネバダ州で実施したことを初めて認める
1977/7/8
長崎市立西町小学校の「ナガサキの原爆読本」撤去問題で、長崎県原爆被爆教師の会、長崎県教組長崎総支部が山崎虎雄校長と長崎市の田中吉次教育長に「公教育に不適とする理由と不適個所を示せ」と公開質問状
1977/7/12
カーター米大統領が記者会見で中性子爆弾の生産を示唆。「中性子爆弾は有効な戦術兵器であり、とるべき選択の一つ」と表明。先制使用には慎重な構え
1977/7/12
荒木広島市長が国際非政府組織(NGO)主催の被爆国際シンポジウムへの補助金支出を断る。「シンポジウムの内容や財政運営の中身などよくわからないところが多い。政治色のない学問的な事業でない限り、補助金を出せない」。広島県も18日に断る方針を決める。宮沢弘知事「交際費の中から寄付金の形で協力」
1977/7/13
デサイ・インド首相が下院で「平和目的の核実験は必要ない」と、核実験を再開しない方針を示す
1977/7/13
動力炉・核燃料開発事業団の人形峠鉱業所濃縮パイロットプラント建設に岡山県が同意
1977/7/13
米上院が中性子爆弾の製造を承認
1977/7/13
米英ソが核実験の全面禁止についてジュネーブで会談。3カ国会談は部分的核実験停止条約(1963年)以来で、全面的禁止についての本格交渉は初めて
1977/7/14
日本原水協が米上院の中性子爆弾製造承認に抗議声明
1977/7/14
原水禁国民会議が全国委員会で、8月6日に広島市で開かれる統一世界大会には出席するが、5日は予定通り独自の世界大会を開くことを確認
1977/7/15
茨城県東海村の核燃料再処理工場に日本原子力研究所東海研究所動力試験炉の使用済み核燃料4体が搬入される。同工場が1975年9月に完成して以来初めて
1977/7/15
原水禁統一実行委員会(代表幹事、新村猛名大名誉教授)が幹事会と総会を開き、広島市での「1977年原水禁世界大会」の日程のうち、8月5、6日とも「統一大会」を開催するとの新村試案を了承。原水禁国民会議(社会党・総評系)は5日に独自の大会を予定
1977/7/15
新藤兼人監督のテレビドキュメンタリー「8・6」(中国放送制作)が完成、広島市で試写会
1977/7/16
全国地域婦人連合会、日本YWCA,日本婦人団体連合会など全国の女性17団体が東京で被爆問題を考える女性集会を開く。中性子爆弾もテーマに
1977/7/16
ワシントン・ポスト紙がビキニ核実験場の現地ルポを掲載。「20年以上前の度重なる水爆実験による放射能が今でもビキニの水や土、植物、果物に残っており、島の住民は再び生まれ故郷を捨てるかどうかの岐路に」
1977/7/17
日本被団協が東京で総会を開き、原水禁統一実行委員会主催の統一世界大会への不参加を決める。県単位や個人の自主参加は認める。「今進んでいる統一の動きは被爆者の願いがそのまま受け入れられるような状況とはいえない。核禁会議も含めた幅広い統一であるべきだ」
1977/7/18
文部省が日本被団協との交渉で、新中学校学習指導要領原案で削除されていた核問題の記述を復活させると回答。初等中等教育局の斎藤弘教科書調査官「被爆者の気持ちや立場は十分にわかるし、平和教育の後退と心配する声もあるので省内で検討した結果、復活させる」
1977/7/20
カーター米大統領が議会にクリンチリバー高速増殖炉の建設を思いとどまらせる。同大統領は建設中止の方針を打ち出しており、公共事業予算支出法案に署名することで議会と取引
1977/7/20
東京都が被爆国際シンポジウム東京推進委員会に80万円を限度とする助成金を出す意向を伝える
1977/7/20
65人の犠牲者を出した広島通産局の原爆慰霊碑が完成
1977/7/21
米紙ワシントン・スターが「1960年代初期、米の核燃料・施設会社が93キロの高濃縮ウランを紛失。中央情報局(CIA)が極秘に調査」と報道。イスラエルに密輸されたとの観測広がる
1977/7/21
原水禁統一実行委員会が幹事会で、広島市で開く統一世界大会の最終日程を決める。8月3、4日国際会議、5日開会総会、6日閉会総会
1977/7/21
浄土真宗本願寺派安芸教区が広島市平和記念公園の原爆供養塔前で、原爆死没者の33回忌法要
1977/7/21
山口県豊北町で漁民1,500人が原子力発電所の建設を阻止する総決起集会。「多量の温排水や放射能汚染など不完全な原発建設を絶対に許容しない」との決議文を採択、全員で豊北町役場までデモ行進し佃三夫町長と町議会に7,200人の反対署名を渡す
1977/7/22
国際非政府組織(NGO)主催の被爆国際シンポジウムが東京で始まる。学士会館で国際調査の打ち合わせ会議。ソ連のラムザエフ国際放射線防護委員会委員、英の児童精神医学者G・ナイト女史ら海外の専門家14人と日本側13人が出席
1977/7/22
大阪府三島郡島本町が年額3万円支給する被爆者福祉金条例案を臨時町会に提案
1977/7/22
長崎市編さんの原爆戦災誌(全5巻)の第1巻「総説編」刊行
1977/7/23
文部省が新学習指導要領を告示。原案では削除されていた「核兵器否定」の記述が復活
1977/7/24
被爆国際シンポジウム国際調査団のR・ワドロー博士(スイス)ら7人が広島市で被爆者と懇談。25日、放射線影響研究所などを視察
1977/7/25
5月14日に東京を出発した「核兵器廃絶、被爆者援護、原水禁統一世界大会を目指す国民平和大行進団」が広島県入り
1977/7/25
被爆国際シンポジウム調査団が被害総合報告書に広島原爆の死者数(20年末まで)14万人の推定数を記載
1977/7/25
「1人でも原爆はつくれる」。米原子力規制委員会(NRC)職員が上院で証言
1977/7/26
ソ連が中央シベリアで地下核実験。7月29日、米エネルギー研究開発局が発表
1977/7/26
米原子力規制委員会が2月7日以来中止されているニューハンプシャー州シーブルックの原子力発電所建設工事の再開を承認
1977/7/26
福田一法相が記者会見で、原水禁統一世界大会に参加する北朝鮮代表の入国を初めて承認すると表明。「200カイリ問題もあり、あまり窮屈に考えなくてもよいとの判断だ」
1977/7/26
ブラウン米国防長官が韓国国防省で記者会見し、在韓米地上軍撤退後も韓国は引き続き米の核のカサの下に置かれると言明
1977/7/27
広島県、広島市が被爆国際シンポジウムへ賛助金各10万円を出す。知事、市長の交際費からの支出
1977/7/27
長崎市が原爆資料センタ-内に国連コ-ナ-を開設(「長崎年表」)
1977/7/27
原水禁統一実行委員会の吉田嘉清代表幹事らが法務省に北朝鮮代表5人全員の入国を認めるよう申し入れ。法務省は代表団のうち1人については、1973年に入国条件を逸脱して政治的な活動をしたとして入国を認めず
1977/7/27
原水禁長崎県民会議の田口健二会長と長崎県原水協の坂井孟一郎理事のトップ会談で「長崎での統一大会は不可能」との結論
1977/7/28
カーター米大統領が記者会見で、米英ソ3国で行われている全面的な核実験禁止に関するジュネーブの予備交渉が終わり、10月から本交渉に入ると発表
1977/7/29
山口県議会が原子力発電調査特別委員会の設置を議決
1977/7/29
原水禁国民会議が独自の被爆32周年原水禁世界大会国際会議を静岡県伊豆長岡町で開く。高桑純夫事務局長が基調演説。「核の軍事利用に反対するとともに、平和利用にも反対し、核絶対否定の立場を貫く」
1977/7/29
原子力船「むつ」の核燃料抜き取りの安全性を審査していた「むつ総点検・改修技術検討委員会」(委員長、安藤良夫東大教授)が報告書。(1)抜き取りは外洋の影響が少ない岸壁または乾ドックで行えば十分(2)燃料体を抜き取らなくとも改修は安全に行える
1977/7/29
原水禁国民会議の被爆32周年原水禁世界大会国際会議が閉幕。「国際的な反核連合の形成をめざして行動を起こす」との声明を採択
1977/7/29
北朝鮮が原水禁統一世界大会への代表団派遣を中止。日本政府が代表団5人のうち4人しか認めず、入国目的以外の政治活動をしないとの条件に抗議
1977/7/30
長岡弘芳氏が「原爆民衆史」を出版。未来社
1977/7/31
国際非政府組織(NGO)主催の被爆国際シンポジウムが広島市の広島医師会館で開幕。8月2日まで。海外23カ国62人を含む約300人が参加。(1)原爆の医学的影響(2)原爆の社会的影響と被爆者問題(3)平和教育と情報(4)核兵器の廃絶と放射能からの人類の防護-のテーマで分科会。核兵器廃絶の道を探る
1977/7/--
正田篠枝さんの原爆童話集「ピカッ子ちゃん」を生前の友人が出版。7編のうち4編は未発表
1977/7/--
広島市が被爆者健康手帳の不申請理由を調査。「被爆者であることを知られたくなかった」との理由が依然多く、調査対象者の1割を占める
1977/7/--
原爆死没者名簿への記入運動を展開している広島県被団協(森滝市郎理事長)が、新たに18人の名前を広島市に届ける
1977/7/--
原爆供養塔に眠っている遺骨の名簿を連載した中国新聞の「広島有情」がきっかけで17柱の身元が判明。うち、9柱が32年ぶりに遺族の元へ
1977/7/--
「世界原爆詩集」に収められている大平数子(旧姓山田)さんの原爆詩「慟哭」が歌曲に。作曲は尾上和彦氏。8楽章20分。楽譜は4カ国語に翻訳へ
1977/7/--
広島平和文化センターが原爆死没者羅災者名簿を常時公開へ
1977/7/--
核兵器開発の一翼を担ってきた米カリフォルニア大が、核兵器の委託研究継続の是非に決着をつけるため学内に特別委員会を設置
1977/7/--
中国の新華社通信が水爆実験の写真を公表。実験の日時は不明だが、「華主席」の文字が写っているため、1976年11月17日の実験と推定
1977/7/--
広島平和文化センターが8月にポーランドのアウシュビッツ、オーストラリアのメルボルンで開催される原爆展に展示する写真パネルを送る
1977/7/--
全日自労広島分会・自労被爆者の会が「わしらの被爆体験-100人の証言」出版
1977/7/--
広島平和教育研究所が平和教育の足取りと今後の研究課題をテーマにまとめた「ヒロシマで教える-核時代の平和教育」(労働教育センター)を出版
1977/7/--
写真集「ヒロシマは生きていた佐々木雄一郎の記録」出版。毎日新聞広島支局
1977/8/1
広島市が原爆被災復元委員会(志水清会長)に委託して実施していた原爆被災復元調査終わる。爆心から2キロ以内を完全復元。2キロ以内では48.6%、1キロ以内では79.4%の世帯が原爆による死者を出したと判明

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