×

ヒストリー

ヒロシマの記録1977 8月


1977/8/1
広島市が原爆被災復元委員会(志水清会長)に委託して実施していた原爆被災復元調査終わる。爆心から2キロ以内を完全復元。2キロ以内では48.6%、1キロ以内では79.4%の世帯が原爆による死者を出したと判明
1977/8/1
「原爆70年不毛説を最初に唱えたのは米科学者」。広島大原医研原爆被災学術資料センターの宇吹暁助手が70年不毛説の真相を突き止める。原爆開発計画にも参画した米コロンビア大ハロルド・ジェイコブソン教授がINS通信記者に語り、ワシントン・ポスト紙が掲載
1977/8/1
広島県朝鮮人被爆者連絡協議会の李実根代表委員が被爆国際シンポジウムで、国連による朝鮮人被爆者の実態調査の実施を要請
1977/8/1
長崎市が東京・銀座のソニ-ビルで原爆パネル展を開催(「長崎年表」)
1977/8/1
荒木広島市長が7月26日のソ連地下核実験に抗議電報
1977/8/2
広島市平和記念公園に平和祈念像「三日月と母子像」が完成、除幕式。円鍔勝三氏制作
1977/8/2
。国際非政府組織(NGO)主催の被爆国際シンポジウムが閉幕。ノーベル平和賞受賞者のノエルベーカー氏がアピールを朗読。「全世界の女と男、若人と子供、団結せよ。私たちはみんなヒロシマ・ナガサキの生き残りです」。国連や各国政府、研究者に対し、原爆の社会学的影響の掌握、核戦争の物理的、遺伝的影響についての研究をさらに深めるなど12項目を勧告。「HIBAKUSHA」(被爆者)を世界共通の言葉として広めることを確認
1977/8/2
広島原爆病院の1976年度白書まとまる。死者82人、入市被爆の患者が急増
1977/8/2
大阪府摂津市が高校在学中の被爆二世に全国で初めて奨学金支給条例の臨時市会提案を決める 1977/8/2
広島主婦同盟と創価学会広島県高等部が若い主婦と高校生を対象に核意識調査。日本の核保有に3割近くが「やむを得ない」
1977/8/2
日本向けのモスクワ放送が、広島市で開かれる原水禁統一大会を「核兵器禁止のための闘士の隊列を結束させる大きな歩み」と評価
1977/8/3
米エネルギー省の初代長官になるシュレジンジャー大統領補佐官が上院エネルギー委員会で「使用済み核燃料の再処理禁止に伴い不要になる核燃料棒を政府が全面的に回収、保存することを軸とした新核燃料廃棄物政策を近く発表」と証言
1977/8/3
広島刑務所で被爆した在韓被爆者の姜寿元さんが福岡県に被爆者健康手帳の交付を申請
1977/8/3
14年ぶりの統一大会「1977年原水禁世界大会」(原水禁統一実行委員会主催)の国際会議が広島市で始まる。4日まで。海外30カ国14国際組織の代表116人を含む350人が参加。ソ連からも11年ぶりに代表団参加。新村猛代表幹事があいさつ。「この大会は14年ぶりに統一した世界大会として開かれた。この背景には、核軍拡競争の現状に対する被爆国民の不安と核兵器廃絶への強い要求がある」
1977/8/3
ソ連の核実験(7月26日)に抗議して被爆者らが広島市の原爆慰霊碑前で座り込み。広島県原水協(共産党系)の佐久間澄理事長らも2年ぶりに参加
1977/8/4
「広島の苦しみはいまも終わっていない」。AP通信のテリー・アンダーソン記者が広島原爆病院に入院している松本登美子さんの苦難の半生を通して、広島、長崎の惨禍、被爆者の過去と現在をルポ 1977/8/4
米エネルギー研究開発局が「4日、ネバダ地下実験場でことし4回目の核実験を実施」と発表
1977/8/4
「1977年原水禁世界大会」(原水禁統一実行委員会主催)の国際会議が終わる。(1)核兵器と大量殺りく兵器の使用は人類に対する犯罪であることを明記した国際条約締結(2)総合完全軍縮のための交渉開始-の2点を国連軍縮特別総会の議題として提案するよう求めたアメラシンゲ国連総会議長あての書簡を採択
1977/8/4
米原子力規制委員会とエネルギー研究開発局が「米核燃料紛失白書」で、「第二次大戦以来30数年にわたる原子力開発を通じウランとプルトニウム合わせて、原爆600個分の4万トン以上が行方不明」と警告
1977/8/5
広島市の韓国人原爆犠牲者慰霊碑で慰霊祭。新たに180人の死没者名が判明、死没者名簿記載者数は1,637人に
1977/8/5
「1977年原水禁世界大会」(原水禁統一実行委員会主催)の開会集会が広島県立体育館で始まる。日本原水協(共産党系)、原水禁国民会議(社会党・総評系)の代表ら800人が参加。全国地域婦人団体連絡協議会の田中里子事務局長が「国民のだれもが参加できる真の統一をめざし、その一歩を確実に踏み出そう」とあいさつ
1977/8/5
安佐共立病院の患者でつくる原爆被害者の会が手記集「炎の中の私」を発行
1977/8/5
米の反核平和団体「生存のための動員」のデリンジャー氏やニューヨーク市ハーレムの労働運動家ホートン氏らが「全米とカナダの125以上の都市で9日まで、反核デモを実施」と語る。オーストラリアでも反核デモ
1977/8/5
長崎県動員学徒犠牲者の会と県被爆者手帳友の会が平和公園内に「長崎の鐘」を除幕(「長崎年表」)
1977/8/5
荒木広島市長が米核実験に抗議する電報をマンスフィールド駐日米大使に打つ
1977/8/5
平和祈念式に参列するアメラシンゲ国連総会議長(スリランカ)が広島市に到着。原爆資料館で「この惨状は人間の理解の届かないものだ」
1977/8/5
富塚三夫総評事務局長、岡村恵中立労連事務局長、五十嵐新産別書記長が広島市で記者会見し「同盟の前川一男書記長を含む労働4団体の事務局長、書記長は統一世界大会を機に、さらに核禁会議など平和諸団体を結集した原水禁運動の統一を追求することで合意した」と語る
1977/8/5
長崎市で核禁会議全国集会。国際文化会館に800人が参加。韓国人被爆者の救済を訴える
1977/8/5
原水禁国民会議が統一大会とは別に被爆32周年原水禁大会を広島県立体育館で開く。1万人が参加。高桑純夫事務局長が「一方で統一大会が開かれるなど事態の急転で、参加者は複雑な気持ちだと思う。しかし、統一大会はあくまでも共同行動の一つだ。『いかなる核にも反対』は譲れない基本原則」と独自大会の意義を強調
1977/8/5
日赤長崎原爆病院が1年間の被爆者診療概況をまとめる。入院患者はがんが16.8%と最も多く、胃がん、子宮がん多かった。死亡は93人
1977/8/5
国際非政府組織(NGO)の被爆国際シンポジウム大衆集会開く。広島県立体育館に9,000人が参加。「原爆被害と核の脅威は深まっている。再び被爆者をつくらないよう全世界に訴える」との「呼びかけ」を採択
1977/8/6
荒木広島市長が平和宣言。「米ソをはじめ主要核保有国は、大規模な軍備拡張競争に狂奔し、核兵器のせん滅的威力を極限まで高めてきた。まさに、武力の支配をLQ信する愚行というべきである。核兵器を廃絶し、恒久平和を実現するため被爆の実相を世界に知らせ、良心と理性の覚醒を促すことはヒロシマの責務である。本日アメラシンゲ総会議長をこの地に迎えたことは、ヒロシマの声が直接国連に反映されることと思われ、その国際的意義はまことに深いものがある。国連は、明年5月、国連軍縮特別総会の開催を予定している。世界の国々が忍耐と英知を結集し、核兵器の廃絶と戦争の放棄をめざし、世界の軍備を確実に制限し、武力によるのではなく、崇高な世界観を反映した外交政策に基づく恒久平和の実現のため、最善をつくさなければならないことを提言する。世界の人々は全人類的立場において、正義と相互依存の理念に立ち、力を合わせ、世論の喚起に努め、世界恒久平和への道を急がなければならない」
1977/8/6
広島原爆被爆32周年。原爆慰霊碑前で原爆死没者慰霊式・平和祈念式。原爆死没者名簿には新たに2,282人が書き加えられ、総数9万1,416人。初の国連代表、アメラシンゲ国連総会議長(スリランカ)が声明。「原爆犠牲者に対し、私たちが打ち立てる不朽の記念碑は全面的軍備撤廃しかない」。フィリピン政府の使節も参列
1977/8/6
中国の人民日報が「核兵器に頼っては戦争の問題を解決できない」との粟裕国防次官の論文を掲載
1977/8/6
パセフ駐米ソ連公使がホワイトハウスを訪れ、カーター大統領あてのブレジネフ・ソ連書記長の親書を手渡す。「南アフリカのカラハリ砂漠で核爆発実験の準備が進んでいることをソ連情報当局がつかんだ」。28日付の米紙ワシントン・ポストが報道
1977/8/6
原爆で消滅した広島市の旧大手町国民学校の疎開学童が32年ぶりに平和記念公園で再会
1977/8/6
「1977年原水禁世界大会」(原水禁統一実行委員会主催)の閉会集会開く。広島県立体育館に9,000人が参加。「来年の世界大会を真の統一大会として成功させるため全力を挙げる」などを盛り込んだ決議を採択
1977/8/6
アメラシンゲ国連総会議長が広島市公会堂で市民70人と懇談。国連で世界の平和と安全に向けて努力することを約束。「核兵器によっても人類の精神は決して破壊されないことを知った。そして、その精神がよりよい世界を生むのだということをもわかった」
1977/8/7
米の反原発学者タンプリン氏が長崎市で「13人が6日の原水禁世界大会(原水禁統一実行委員会主催)を自主的な判断でボイコットした」と表明。「いかなる核」にも反対の主張が決議に盛り込まれなかったのが理由。「起草の段階で政治的駆け引きがあったのではないか」
1977/8/7
4日の米核実験に抗議して広島被爆者団体連絡会議の被爆者らが広島市の原爆慰霊碑前で座り込み。米人も加わって自国の核実験に抗議
1977/8/8
1974年に原水爆禁止を訴えるデモで道路交通法違反などに問われた動労組合員に、広島地裁が懲役3月の求刑に対し罰金1万円の判決。植杉豊裁判長は量刑理由で「被告らがまじめに原水爆の禁止を訴えて被爆地広島で起こした行動は、多少の交通渋滞を招いたといっても、多くの国民が共感しうるものだ」
1977/8/8
原水禁国民会議が独自に開く被爆32周年原水禁長崎大会始まる。9日まで。5,000人が市公会堂など13会場に分かれ、被爆者援護、原子力船「むつ」、原子力発電の問題など討議
1977/8/8
アメラシンゲ国連総会議長が長崎日赤原爆病院を慰問した後、市民の会に出席(「長崎年表」)
1977/8/9
長崎原爆被爆32周年。長崎市の平和公園で1万8,000人が参列して原爆犠牲者慰霊平和祈念式典。1年間に新たに判明した1,087人の殉難者名簿を奉安。アメラシンゲ国連総会議長も献花
1977/8/9
諸谷義武長崎市長が平和宣言。「原爆の惨禍を身をもって体験した長崎市民は、核廃絶の願いを全世界に訴え続けてきた。しかし、核保有国は増加し、防衛と安全を口実に、さらに核兵器の開発を競う世界の現状は、まさに人類を破滅に導く愚行で、被爆市民として怒りをもって抗議する。ことし初めて国連代表の式典参加が実現したが、これは国連が核兵器廃絶、全面軍縮に向かって大きく前進したものと受け止める。長崎市民の平和への願いは、必ず世界の人々の良心を動かすことを確信する」
1977/8/9
「原水禁運動の統一と発展をめざす8・9長崎集会」開く。鎌田定夫長崎造船大教授らが呼びかけ、長崎市民会館に日本原水協(共産党系)の5,000人が参加。原水禁国民会議(社会党・総評系)が「原水協側は独自集会は一切やらないと明言した約束に違反」と批判
1977/8/9
米国防総省が「昨年と一昨年の2年間に陸海空の3軍の中で核兵器を扱う兵士1万人が任務不適格者として配置転換」と公表。30%が麻薬あるいはマリフアナ常用、25%が情緒不安定
1977/8/9
ワシントンの国防総省前で原水爆反対のデモをしていた70人が同省入り口に向かって赤インクや砂を投げつけ、17人が逮捕される
1977/8/9
原水禁国民会議の被爆32周年原水禁長崎大会が閉会総会。米の反原発学者タンプリン氏らが、原水禁統一実行委員会主催の「1977年原水禁世界大会」(広島)決議を批判
1977/8/11
沖縄県原水協の原水禁世界大会沖縄大会が那覇市で始まる。13日まで
1977/8/11
埼玉県が全国に先駆け、被爆者の歯科治療を無料化へ
1977/8/11
動力炉・核燃料開発事業団が岡山県苫田郡上斎原村の人形峠鉱業所内で濃縮ウランのパイロットプラント起工式。宇野宗佑科学技術庁長官らがくわ入れ
1977/8/13
広島県原水協(共産党系)が常任理事会で、国連軍縮特別総会に向けた署名活動などを通じ、広島での原水禁運動の統一をめざすことを決める
1977/8/14
沖縄県原爆被爆者協議会と沖縄県原水協(社会党・総評系)が沖縄で初の原爆犠牲者慰霊祭を営む。那覇市の大典寺に遺族代表ら100人が参列、これまでに判明した県出身犠牲者95柱のめい福を祈る
1977/8/14
世界平和祈念旬間(8~15日)行事実行委員会(会長、諸谷義武長崎市長)が長崎市内で平和大行進。核兵器廃絶を願って3,800人が参加
1977/8/15
駐日ソ連大使のポリャンスキー夫妻が広島市を訪問、原爆慰霊碑に献花
1977/8/17
広島刑務所で被爆し、同房の日本人医師の証言を頼りに被爆者健康手帳の交付申請をしていた在韓被爆者の姜寿元さんに、福岡県が手帳を交付
1977/8/17
ソ連国営テレビが「ソ連の最新鋭原子力砕氷船が北極点に到着」と発表。水上船舶の到達は初
1977/8/17
同盟中国ブロックが山口県の中国電力豊北原子力発電所の建設推進を提言
1977/8/18
広島市が平和宣言文2,280部を国内外へ送る。前年より800部増加
1977/8/19
米エネルギー研究開発局が「ネバダ州の地下核実験場で19日、ことし5回目の地下核爆発実験を行った」と発表。爆発規模は20~150キロトン
1977/8/19
米紙ワシントン・スターが「中央情報局(CIA)は米民間企業から原爆製造用ウランがイスラエルに大量に横流しとの確信を深めている」と報道
1977/8/20
荒木広島市長が米核実験に抗議する電報をマンスフィールド駐日米大使に打つ。広島市長の抗議電は1968年の仏核実験以来、通算100通=米34、仏28、ソ連23、中国12、英2、インド1
1977/8/22
米の核実験に抗議して広島被爆者団体連絡会議の被爆者らが原爆慰霊碑前など3カ所で座り込む 1977/8/22
米エネルギー研究開発局が「中央シベリアでソ連核実験と推定される地震波を記録」と発表
1977/8/22
松江市で開かれた日本科学者会議の第5回原発シンポジウムで住民運動と科学者の連絡センター設置を提案
1977/8/23
カーター米大統領が記者会見で「米政府は南アフリカ政府から平和利用、軍事目的を問わず、核開発実験を行う意図がないとの保証を得ている」と言明
1977/8/23
荒木広島市長がポリャンスキー駐日ソ連大使に核実験抗議電報
1977/8/24
桑原原爆訴訟の控訴審口頭弁論が広島高裁で3年半ぶりに再開
1977/8/25
ソ連の核実験に抗議して広島被爆者団体連絡会議の80人が原爆慰霊碑前など3カ所で座り込み
1977/8/26
財団法人「広島国際文化財団」が発足。目的「原爆の惨禍を体験した広島市民の平和への願いと使命感をさらに高め、国際平和文化都市づくりに寄与する」
1977/8/26
英石油会社ブリティッシュ・ペトロリアム(B・P)が「日本は昨年米に次ぐ世界2位の原子力エネルギー利用国になった」と発表
1977/8/26
米空軍連盟のトラビス・マクニール退役少将が「航空ショーで広島の原爆投下を再現」と言明
1977/8/27
国際非政府組織(NGO)の被爆国際シンポジウム開催に取り組んだ広島準備委員会が、原爆被害総合報告書の作成継続や国連軍縮特別総会の課題に取り組むため、同委員会存続を決める
1977/8/28
第27回パグウォッシュ会議特別総会がミュンヘンで始まる。豊田利幸名古屋大教授が「核兵器は必要悪ではなく絶対悪だ。核抑止の考えが核軍備競争を拡大した」と全面完全軍縮を訴える
1977/8/28
第23回日本母親大会が東京で始まる。1万人が参加、核兵器廃絶を求める特別決議を採択
1977/8/28
米紙ワシントン・ポストが「南アフリカの核実験阻止は実験の動きを察知した米ソ両国と仏、英、西ドイツ5カ国の共同作戦の成果」と内幕を報道
1977/8/29
広島県労会議が米の原爆投下ショー計画に抗議声明。「昨年10月、原爆ショーを強行したうえ、さらに再演を言明した姿勢は断じて許せない」。ワールド・フレンドシップ・センターのモーリン・パーカー館長も原田東岷理事長と連名で抗議文をニューヨーク・タイムズへ送る
1977/8/29
第3次日米核燃料再処理問題交渉が外務省で始まる。ジェラード・スミス米核拡散防止問題特別代表、宇野宗佑科学技術庁長官が出席
1977/8/30
在米被爆者の援護法制定に尽くす米ロサンゼルス郡検視局長のトーマス・ノグチ氏が広島市を訪問。荒木広島市長らと懇談
1977/8/--
原爆小頭症患者の親らでつくる「きのこ会」が手記集「原爆が遺した子ら」を初出版
1977/8/--
峠三吉氏の「原爆詩集」の英語版(三友社)発刊。「八月六日」「死」「炎」など24編を収める
1977/8/--
旧広島県立第一高等女学校1年6組の生徒日誌を基に、児童文学作家の大野允子さんが「ひーちゃんはいった~広島の少女たちの遺書」出版
1977/8/--
旧制広島市立中学校の遺族会と同窓会が原爆手記集「鎮魂」を出版
1977/8/--
被爆7日目の惨状を撮影した写真を広島市仁保町2丁目の医師大橋完造さんが原爆資料館に寄贈 1977/8/--
広島市平和記念公園の原爆供養塔に眠る遺骨の名簿を連載した中国新聞の企画「広島有情」がきっかけで、32年ぶりに肉親のもとに戻った遺骨は18柱に
1977/8/--
韓国教会女性連合が実施したソウル、京畿道に住む被爆者の実態調査報告書が中国新聞に届く。96人のうち半数が収入ゼロか、ほとんどない極貧の生活を送り、34%が原爆で一生が破壊されたと感じている。最大の悩みは二世の問題で、専門病院の建設を強く訴え
1977/8/--
広島市で被爆した作曲家川崎優氏(神奈川県茅ケ崎市)の原爆をテーマにした吹奏楽曲「祈りの曲第2『悲歌』」が完成。スイスのウスター音楽祭で発表へ

年別アーカイブ