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ヒストリー

ヒロシマの記録1976 1月


1976/1/3
第二次大戦中のカナダのマッケンジー・キング首相(当時)の日記が30年ぶりに秘密扱いを解かれ、公表。1945年7月下旬「遅くとも数日中に原爆の威力が明らかにされよう。原爆により、日本は即時無条件降伏か、もしくは非常に短期間に完全破壊されるか-のいずれかに直面する。われわれは恐怖の瞬間に近づきつつある。しかし一つの生命が破壊されることを代償に、何十万の生命が救われ、この戦争を早急に終結に向かわせることもできよう」。8月6日「原爆が欧州の白人たちにではなく、日本人に対して使われることになってよかった。今やわれわれは、もしドイツの科学者が原爆開発競争に勝っていたら、英国民に見舞ったであろう事態をみることになる」
1976/1/3
米がネバダ核実験場で、1976年初の地下核実験を実施。200キロトンから1メガトン規模
1976/1/4
大阪市西成区で、41歳の長崎の被爆者がビルから投身自殺
1976/1/6
米核実験に対し、荒木広島市長がホッドソン駐日米大使に抗議電報。8日、広島被爆者団体連絡会議(被団連=近藤幸四郎事務局長、20団体)の被爆者、労働者らが正午から1時間、原爆慰霊碑前に座り込む
1976/1/10
映画「はだしのゲン」の試写会が、東京・銀座のヤマハホールで。山田典吾監督、中沢啓治氏原作。主演佐藤健太君、三国連太郎氏。広島市では23日、試写会。上映実行委員会も発足。一般上映は2月21日から3月19日まで。反響大きいため上映を3月26日まで延長
1976/1/10
石川島播磨重工呉労組が職場で被爆者健康手帳の集団申請運動。原爆被爆者呉友の会(中津泰人会長)が証人捜しに協力
1976/1/12
プロ野球巨人軍の張本勲選手が広島原爆病院を慰問
1976/1/12
動員中に被爆死した広島県立病院の看護婦1人が戦傷病者戦没者遺家族等援護法による公務死が認められる。被爆当時、県立病院は広島市水主町にあり、看護婦は防空法で動員されていた
1976/1/13
関西電力が石川県能登半島に1,000万キロワットの日本最大規模の原発基地建設構想を発表
1976/1/15
広島県原水禁の宮崎安男事務局長と松本忠生理事が在韓被爆者調査のため、韓国に出発
1976/1/16
科学技術庁に原子力の安全・規制行政を担当する原子力安全局が発足。初代局長に伊原義徳氏
1976/1/16
原子力船「むつ」佐世保港修理で、長崎原爆被災者協議会など10団体で組織する「むつ問題を考える長崎県民会議」が、抗議文を政府などに送る
1976/1/16
政府が原子力船「むつ」の修理港を佐世保港と決定。科学技術庁長官、運輸相、官房長官の関係3閣僚会議で最終判断
1976/1/17
在日韓国人の防府市、金斗一さんと同市の三田尻病院長、神徳通也さんが治療目的で招いた被爆韓国人の第1陣2人が到着、入院。ソウル市の淑仁万、曹慶淑さん兄妹。金さんは徳山ニューライオンズクラブのメンバーとして同胞救援
1976/1/17
被爆教師のために広島県教委が特別措置を発表。(1)体育補助員をつける(2)被爆教師への理解を深めるための指導資料作成(3)人間ドック優先使用
1976/1/20
世界平和祈念旬間行事実行委員会(長崎市原対課内)が、世界平和をテ-マにした児童生徒の作文集「平和への誓い」を刊行(「長崎年表」)
1976/1/21
米の平和団体が建国200年を記念して主催する「軍縮と社会正義のための米大陸横断平和行進」がスタート。サンフランシスコの北ウキアから10州、6,000キロを歩き10月2日にワシントンに入る予定。「8月6日の呼びかけ」と題し、歌手のジョーン・バエズさん、ダニエル・ベリガン神父らが提唱。日本原水協の佐藤久仁理事と日本山妙法寺の土屋整、瀬良洋、吉田定男の3僧侶の4人が広島市の平和記念公園の「平和の灯」を分火して参加。1月30日、サンフランシスコ入り。31日の集会で荒木広島市長から預かったメッセージを披露し、3月3日にロサンゼルス着
1976/1/23
中国が18回目の核実験を実施。24日の新華社電が伝える。実験場所は同国西部上空
1976/1/24
公明党の招きで来日中のソ連青年団の代表ら3人が広島市を訪問。原爆資料館を見学
1976/1/24
甲府市で地方都市として初めて「広島原爆の記録展」始まる。爆心地付近の写真、被爆者の描いた絵500点を展示
1976/1/24
米とスペインが1979年までにスペインからすべての米原子力潜水艦を撤退させるとの条約に調印
1976/1/26
中国の核実験に抗議した荒木広島市長の電報が、在日中国大使館に受け取りを拒否される。1975年11月に続き2回目
1976/1/26
長崎市が中国の核実験に口頭で抗議するため、在日中国大使館に面会を申し入れ。断られる(「長崎年表」)
1976/1/26
中国核実験に抗議し、広島被爆者団体連絡会議(20団体)の代表ら約70人が、正午から1時間、原爆慰霊碑前と広島駅前で座り込み
1976/1/26
荒木広島市長が中国核実験に対し、在日中国大使館に抗議電報
1976/1/26
広島県原水禁(森滝市郎理事長)が広島市内で常任理事会。(1)被爆者援護法制定運動を中心にした被爆者救護活動の強化(2)原発・再処理工場反対を強める(3)外国人被爆者の調査や援護を政府に要求(4)原水禁運動の国民的統一のための共同行動の推進-などを1976年の運動テーマに
1976/1/27
原水禁国民会議が熱海市で全国活動者会議。運動方針として、核不使用の国際的取り決め、日本非核武装宣言の実現、伊方、東海原発裁判闘争の全国的支援、援護法制定要求中央行動-などを討論
1976/1/27
広島大平和科学研究センター(関寛治センター長)が、同大で研究会。同センター顧問研究員で日本平和学会会長の川田侃上智大教授が「平和研究と第三世界」と題し報告
1976/1/27
米ロサンゼルス市から帰国中の広島市高陽町の在米被爆者、寺小内千代子さんが広島市から被爆者健康手帳の交付を受け、市被爆者福祉センターで健康診断を受ける。寺小内さんは米国原爆被爆者協会(据石和代表)の会員
1976/1/29
外務省が23日の中国核実験に抗議し情文局長談話を発表。「武力によらぬ平和を希求するわが国とすれば、はなはだ遺憾に思い、抗議の意を表明する」。2月5日、在北京日本大使館が中国外務省に抗議。中国政府は「抗議は受け入れられない」
1976/1/29
原爆児童文学「ふたりのイーダ」(松谷みよ子氏原作)が、松山善三、山田洋次監督の共同執筆で映画化へ。山口逸郎プロデューサーが広島市であいさつ回り
1976/1/29
被爆後、広島市高陽町の狩小川地区に収容された原爆被災者の受け入れ状況を警察署に報告した「昭和20年8月10日罹災者受入状況報告綴狩小川村役場」が見つかる。収容者数の最高は1,627人(8月15日現在)、死者は171人(9月22日現在)
1976/1/30
三宅泰雄氏が「原子力と科学者」を刊行。新日本出版社
1976/1/31
原爆症治療のため日本に密入国し、1973年8月から長崎県の大村入国者収容所に収容されていた韓国釜山市の孫振斗さんが、健康上の理由で仮放免
1976/1/--
被爆教師の広島市船越町の高山等さんが英文で出版し、世界の元首に贈った「広島の追憶と今日」に、オーストラリア、スウェーデン、ソ連、ニュージーランドなど24カ国の首脳から返事
1976/1/--
広島市の「広島電鉄家政女学校」の生徒で電車の乗務に動員中に被爆死した30人が、戦傷病者戦没者遺家族等援護法の適用外に。学校の認可主体、動員命令者が不明のため。広島県動員学徒犠牲者の会(大東和徳雄会長)が調査へ
1976/1/--
1976年度予算で「黒い雨」地域の健康診断が認められ、広島市が秋から健康診断を実施へ。対象者約1万9,000人、特定の病気が見つかれば被爆者として認定。地域は被爆後まもなく実施した「文部省学術研究会議原子爆弾被害調査委員会」の調査による「大雨地域」
1976/1/--
原爆慰霊碑のさい銭箱の中に、原爆で亡くなったと思われる昔の恋人の兵士にあてた東京の女性からの、30年目の恋文がみつかる。「昭和20年8月1日か2日、あなたは『広島の原隊に帰ることになった。もしいつの日か戦争が終わったら結婚してくれ。母が呉に住んでいる』とザラ紙に鉛筆書きで書いた一枚の紙を窓口に置いて敬礼をして行かれたあなた…」。21日、中国新聞の報道を見た恋人の兄が名乗り出る。兵士はやはり原爆の犠牲に
1976/1/--
イタリアを訪れていた原爆資料保存会の横田工氏が、同国の非暴力平和活動家ダニロ・ドルチ氏との話し合いで「ヨーロッパ移動被爆展」開催で合意
1976/1/--
原爆慰霊碑前のさい銭箱に寄せられる寄金が1975年度は過去最高の800万円突破の勢い。75年4月から12月末で初めて700万円を超えた。72年度392万円、73年度408万円、74年度591万円
1976/1/--
広島原対協が広島市の委託を受けて実施している被爆二世健康診断受診希望者が大幅に減る。初年度の1973年は年度途中からの実施にもかかわらず578人、74年度110人、75年度は1月21日現在、78人
1976/1/--
広島市基町に旧陸軍の被服倉庫が原爆被災の跡を生々しく伝える形で残っていることが分かる。基町再開発で周囲の住宅群が撤去され、全容が姿現す
1976/1/--
広島平和教育研究所(今中次麿所長)が「ひろしまの平和教育」第4集を出版。8月6日を中心にした特設授業から、日常の平和教育に主眼を移す
1976/1/--
1974年秋から約1年間かけ、当時の米政府原子力委員会(現エネルギー研究開発局)の要請で、同国立オークリッジ研究所とABCC(現放射線影響研究所)が調査した在米被爆者調査がまとまる。調査はABCCの山田広明調査課長とオークリッジ研究所のジョージ・カー博士が実施。対象はカリフォルニア州を中心にコロラド、オレゴン、ミシガンなど10州、300人。半数が爆心から2.5キロ内で被爆。在米被爆者総数を約750人と推定
1976/1/--
広島市安芸町馬木の旧陸軍演習場跡に被爆軍人の遺体を400体以上野焼きして埋葬-。元陸軍中尉で大本営第2通信隊馬木送信所長だった二井正志さんが、出版された「安芸町史・下巻」で証言

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