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ヒストリー

ヒロシマの記録1976 5月


1976/5/3
源田実参院議員が、日本青年協議会主催の「5・3政府主催記念行事糾弾国民大会」で、「日本民族は原爆の3つや4つ落としても降伏するような民族ではなかった。戦争をやめたのは、天皇陛下のご聖断が下されたからだ。このご聖断で日本民族は救われた。われわれは天皇制を護持しなければならない」と発言
1976/5/6
米のエネルギー研究開発局(ERDA)が、初期の核兵器開発に使われた米国内2カ所の残留放射能調査。既に3月から始め、1980年までに47カ所を予定
1976/5/6
米のプルトニウム大量輸出に米議会が「核兵器拡散を助長」と懸念。輸入大国は仏、西ドイツ、日本、イタリア。ワシントン・ポスト紙が伝える
1976/5/8
来日中の東ドイツ・フンボルト大のヘルムト・クライン学長が、広島平和教育研究所で同国の平和教育について講演
1976/5/8
広島市が平和記念公園内の2露店に文書で退去警告。被爆者が細々と営業の20年以上の露店は「行き場所がない」と訴え。12日にも1店へ
1976/5/9
南アフリカのフォルステル首相が「われわれはウラン濃縮技術は持っており、しかも核拡散防止条約には調印していない」と述べ、核兵器保有能力のあることを示唆。米誌ニューズ・ウィークが伝える
1976/5/10
広島市が被爆二世対策で広島被爆者団体連絡会議に回答。「被爆二世の医療費公費負担は当面実施の考えはない」「二、三世の健康不安はあるが、国などの研究結果では放射能の影響は否定されている」。東京都の公費負担については「放射能との因果関係を認めたことになり、結婚、就職など、社会的影響が大きい」と批判
1976/5/10
放影研がABCC時代から続けている戸籍調査は人権侵害の疑い-。広島被爆者団体連絡会議の近藤幸四郎事務局長らが放影研の山下久雄理事長らから実情を聞く。放影研側は「被爆者の戸籍は研究の基礎資料で、この調査ができなくなると研究が土台から崩れる」と協力求める
1976/5/11
広島市の平和記念公園内の原爆の子の像にささげられた折りづる20万羽が、酔っぱらいにひきちぎられる
1976/5/11
戦後、韓国への引き揚げ途中に遭難した朝鮮人の記録が見つかり、「韓国の原爆被害者を救援する市民の会広島支部」(深川宗俊支部長)に連絡。長崎県壱岐島の芦辺町役場の文書。1945年9月18日、朝鮮引き揚げ船が芦辺湾内で転覆、53人を救助、死者0。同年10月11日、機帆船転覆、死者154人、救助33人
1976/5/11
長崎市の爆心近くの市立長崎中学の修学旅行団が初めて広島市へ。長崎中は広島駅で国泰寺中学と15分の交歓会の後、宮島へ直行。原爆慰霊碑も資料館も訪れない「ヒロシマ修学旅行」に関係者は失望
1976/5/11
広島県労会議(今田正義議長)が「原爆の3つや4つ…」と発言した源田実参院議員に辞任要求
1976/5/11
1954年のビキニ水爆実験で被曝したマーシャル諸島ロンゲラップ島から被曝青年2人が来日。原水禁国民会議九州ブロック会議が招く。日赤長崎原爆病院などで治療へ
1976/5/11
長崎市が作製中の写真集「ながさき原爆の記録」が完成。1969、72、73年の3回にわたって刊行したものを体系的にまとめた
1976/5/12
衆院社会労働委員会で、厚生省の佐分利輝彦公衆衛生局長が、原爆手帳の交付打ち切りについて「広島市から非公式には話があったが、厚生省としてはまったく考えていない」と否定
1976/5/12
米がネバダ州の実験場で地下核実験。1976年10回目。20キロトン以下。米エネルギー研究開発局が発表
1976/5/12
米ソ両国代表が、モスクワで平和目的の地下核実験制限協定に仮調印。150キロトン以上の実験を制限。正式調印はフォード米大統領が、大統領選挙への悪影響を懸念したため延期
1976/5/12
衆院社会労働委員会で審議中の原爆被爆者特別措置法改正案が自民、共産の賛成で可決
1976/5/14
荒木広島市長が米の地下核実験に抗議の電報を駐日米大使に打つ。15日、広島被爆者団体連絡会議などの被爆者ら30人が原爆慰霊碑前で座り込み
1976/5/15
日本原水協の「原水爆禁止国民平和大行進」の第1陣、東京-広島コースが東京・世田谷の奥沢区民センターを出発。ロッキード事件に抗議し、出発点に児玉誉士夫氏宅付近を選ぶ。通し行進は日本山妙法寺の宮野由子さんら
1976/5/17
広島エイト倶楽部の松原博臣さんと川本昭人さんが、東京・安田生命ホールで「ヒロシマ小型映画作家上映会」を開く。作品は松原さんがカンヌ国際映画祭銀賞を受けた「太陽の消える時~ヒロシマ-アウシュビッツ」、川本さんが東京国際アマチュア映画コンクールNHK会長賞を受けた「私のなかのヒロシマ」など
1976/5/17
放射線影響研究所の移転問題を協議するため、放影研の広島地元連絡協議会(皇至道元広島大学長)が、小委員会を発足。メンバーは大内五良(広島県医師会長)岡本直正(広島大原医研所長)沢野十蔵(広島大医学部長)藤堂直樹(前広島市医師会長)弘中哲也(広島原爆病院長)藤井康平(広島市医師会長)任都栗司(広島市原爆被爆者協議会副会長)の7人。広島大跡地を第1候補に検討
1976/5/18
広島、長崎の両県市、議会で構成する広島・長崎原爆被爆者援護対策促進協議会(八者協)が、東京で幹事会。原爆小頭症患者対策を国に要望へ
1976/5/20
参院社会労働委員会で、社会、公明、民社、共産、二院クラブ共同提案の被爆者援護法案が継続審議に。1975年末の臨時国会に次ぎ2度目の継続審議。援護法案は1974年に初めて野党4党共同で提案、2度廃案に
1976/5/20
広島県佐伯郡大野町宮浜温泉の小谷定一さんが、被爆者の割引サービス始める
1976/5/21
米環境保護局の海洋学者ロバート・S・ダイヤー氏が米東海岸のメリーランド沖と西海岸のサンフランシスコ沖の2カ所で、海底投棄された放射性廃棄物入りドラムカンからプルトニウムなどが漏れ、海底を汚染している、と発表。1946年から70年まで米政府原子力委員会の許可を得て投棄された6万7,000個の一部からの漏出
1976/5/21
核拡散防止条約批准承認案件が参院委を通過
1976/5/21
プライバシー侵害の恐れがある放射線影響研究所の被爆者戸籍調査について、広島市が閲覧条件を厳しくする。閲覧者の氏名、閲覧項目を明記など
1976/5/22
広島市基町の広島県立体育館で「第3回広島平和音楽祭」(同音楽祭実行委主催、広島テレビ後援)開く。プロデューサー兼構成担当の映画監督、松山善三さんと作曲家の吉田正さんが広島原爆病院に100万円贈る
1976/5/24
原爆小頭症患者の親の会「きのこ会」(畠中国三会長)が、広島市に援護強化を陳情
1976/5/24
公演のため仏の歌手ジョルジュ・ムスタキが、初めて広島市を訪れ原爆資料館などを見学
1976/5/24
米軍岩国基地の核兵器貯蔵疑惑に関連し、米上院司法委国内治安分科委員会が「米軍内部の組織的破壊運動」として、「1975年10月10日、岩国基地全体と同基地内のいわゆる核兵器貯蔵所について『基本的に正確な』情報を反映する記事が、ある日本の新聞に載った」と発表。同記事とは中国新聞の「(岩国基地の)核兵器の貯蔵は常識といわねばならず、もし実弾が貯蔵されていないとしても、模擬爆弾を貯蔵し、常時、実弾の搬入・使用に対応できる体制がとられている」を指すものとみられる
1976/5/24
参院本会議で核拡散防止条約を調印から6年3カ月ぶりに可決、承認。96番目の加盟国に。1日の閣議で批准決定をし6月中旬、批准書を米英ソ3国に寄託
1976/5/25
厚生省が広島、長崎の黒い雨地域の指定拡大にともない残留放射能調査へ。両市とも爆心地から放射状6方向に約30キロ、2キロ間隔で計100地点を調査
1976/5/26
中国新聞が連載企画「96番目の核防クラブ入り」を掲載
1976/5/27
広島市が原爆症治療のため来日中の韓国人被爆者、鄭七仙さんに健康管理手当の支給を決める。外国人被爆者として初の受給者。病名は「造血機能障害」
1976/5/27
財団法人広島平和文化センター(坂田修一理事長)の専門委員に広島大平和科学研究センター主任の丸山益輝工学部教授、客員研究員の小谷鶴次同大名誉教授、併任研究員の藤井敏彦教育学部助教授が決まる
1976/5/28
米ソが平和目的地下核爆発実験規制条約(PNE)に調印。(1)個々の平和目的地下核実験の規模を150キロトン以下、同時に行う場合も計1,500キロトン以下(2)合計150キロトン以上の大規模、同時実験の現場には、相手国の査察を認める
1976/5/28
広島被爆者団体連絡会議が、放射線影響研究所に被爆者の戸籍調査中止を申し入れ
1976/5/29
第五福竜丸平和協会(三宅泰雄会長)が、東京・夢の島公園に建設していた「原水爆禁止の碑」(久保山愛吉記念碑)が完成、除幕式。「原水爆の被害者は私を最後にして欲しい」の遺言を刻む
1976/5/30
森滝市郎氏が戦後の歩みをまとめた「反核30年」を日本評論社から出版
1976/5/--
被爆当日、日本製鋼所広島製作所に動員されていた動員学徒の遺族11人に、厚生省から「公務死」は認められないとの連絡。工場の「休電日」が理由。遺族は「夜勤明けで帰宅中に被爆死」「命令で出勤中に被爆死」と抗議
1976/5/--
広島商業高校の生徒たちが被爆体験の継承をと、同校の前身の広島商業学校の遺族会と共同で原爆被災誌「礎(いしずえ)」を刊行
1976/5/--
東京都が国に先駆けて被爆者健康診断の検査項目の拡大を決める。心電図と胸部エックス線撮影 1976/5/--
1960、62年に広島市基町の音楽家大木たけしさんが原水爆禁止を訴えて全国を回り、署名でいっぱいの小型車が、寄贈された平和記念館で野ざらし

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