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ヒストリー

ヒロシマの記録1976 7月


1976/7/1
東京都議会の衛生経済物価清掃委員会で近藤信好議員(自民)が、被爆二世の医療費助成に関連し「原子爆弾の被爆者を絶滅するにはどういう方法をとらなければならないか」などと発言。2日、共産党議員の追及に同議員は「優生保護的立場から今後、東京都が行政指導していくことは日本民族の新しい息吹を盛り込むうえでも必要」
1976/7/1
「休電日」で工場が休みだったから公務死にならないのはおかしい、と級友の被爆死で厚生大臣に直訴状を出していた広島市の永井正子さんに「業務外の死であり、認定は極めて困難」との返事が届く
1976/7/1
マーシャル諸島ロンゲラップ島の島民の核被害について国連信託統治理事会でシーラー米代表が報告。「1954年のビキニ水爆で島民の大半が被曝、三分の一が甲状腺摘出手術を受けた。64年に全島民84人に各1万ドル、甲状腺を摘出した25人には各2万5,000ドル支払った」
1976/7/2
東ドイツ・フンボルト大学のユルゲン・ベルンド助教授が広島市を訪れ、中国新聞で小説家の小久保均さん、詩人の栗原貞子さんと対談。同助教授は原爆文学の原民喜、峠三吉、井伏鱒二氏らの作品を翻訳
1976/7/3
広島、長崎市長の国連訪問の際、国連に提出する原爆資料をまとめる「国連アピール資料編集専門委員会」(委員長、今堀誠二広島大総合科学部長)が、広島平和記念館で初会合
1976/7/4
米国原爆被爆者協会の据石和副会長(ロサンゼルス在住)が、在米被爆者への援護を訴えるため来日
1976/7/4
日本被団協が東京で総会。関係医療機関や地方の被爆者相談活動との連携を強めるため、日本被団協の付属機関として中央相談所設置を決める。東京都議会で「被爆者は優生保護的立場から子どもを持たないようにすべき」と発言した近藤信好議員に抗議へ
1976/7/4
スウェーデンのウプサラ大地震研究所が「4日未明、ソ連セミパラチンスク付近で地下爆発によるとみられる地震を観測」と発表
1976/7/6
来日中の米国原爆被爆者協会の据石和副会長が、田中正巳厚相、佐分利輝彦公衆衛生局長に在米被爆者の援護を陳情。(1)米国内で被爆者健康手帳が受けられるように(2)米で手帳交付に必要な証人捜しが難しい。証人がいなくても交付を(3)米へ専門医派遣を-など。厚生省は「専門医の派遣については検討したい」
1976/7/7
西ドイツのハイネマン前大統領が死去。1970年5月、大阪万国博で来日の後、原爆慰霊碑に参拝し原爆資料館などを見学。広島「折鶴の会」の会員などをミュンヘン・オリンピックに招待、広島原爆病院に100万円贈るなどヒロシマと交流
1976/7/8
広島平和文化センター理事会で、財界代表の田中真一郎氏が「核保有は必要悪だ。核兵器を悪玉というのはどうか」などと発言。9日、社会党広島市議団が平和文化センターに「辞職を勧告すべき」と申し入れ
1976/7/9
広島市の平和記念公園対岸にある「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」の千羽づるが川に捨てられる
1976/7/10
東京都議会の自民党、近藤信好氏が「舌たらずで誤解を招いた」と、東京の被爆者団体「東友会」に回答。日本被団協は「誠意がない」と反発
1976/7/10
仏が南太平洋のムルロア環礁で地下核実験。23日、仏政府が発表
1976/7/11
広島市基町の旧軍被服倉庫付近で被爆死した犠牲者の慰霊祭が、現地の倉庫跡で営まれる
1976/7/11
広島在宅障害者青年教室(山内秀夫代表)のメンバー7人が、原爆資料館を見学し原爆慰霊碑などを参拝。車椅子への対応策がなく、いずれも不便
1976/7/12
広島平和記念館で荒木広島市長と被爆者団体が話し合う「被爆者問題懇話会」が開かれる。荒木市政で初めて。2つの広島県被団協の佐久間澄、森滝市郎両理事長、全電通被爆者協議会の近藤幸四郎事務局長、国労被爆者対策協議会の瀬戸高行事務局次長、広島県高校被爆教職員の会の森下弘会長の5人が出席
1976/7/12
胎内被爆小頭症患者を持つ親で組織する「きのこ会」(畠中国三会長)が広島市と広島県に「小頭症対策の確立を厚生省に働きかけて」と陳情
1976/7/13
広島大平和科学研究センターの研究会出席のため、米オハイオ州立大のチャドウィック・アルジャー教授と国連大の武者小路公秀副学長が広島市を訪問
1976/7/14
原爆被災資料収集に半生をささげた広島市千田町2丁目の山崎与三郎さんが心不全のため死去。86歳。1910年、広島県師範学校を卒業、小学校の教師、校長を歴任、被爆時には広島電鉄家政女学校に勤務。被爆直後から原爆被災資料の収集に着手、「原爆資料保存会」「原爆被災資料広島研究会」などで活躍
1976/7/14
原爆乙女の1人広島市の象面道代さんが、1955年の渡米治療で世話になったニューヨークの日系婦人宮平高子さんと広島市内のホテルで再会
1976/7/14
米国原爆被爆者協会の据石和副会長と米ロサンゼルス地区検視局長のトーマス・ノグチ氏が、荒木広島市長に(1)米への日本の専門医派遣(2)在米被爆者が広島を訪れたとき、被爆者健康手帳を取得しやすい配慮-を要望
1976/7/16
仏、ソが「偶発・不許可核攻撃防止協定」にモスクワで調印
1976/7/16
原爆で生き別れになり渡米したウィスコンシン州の文子・モア(旧姓、東)さんと父親の大阪府大東市の東金五郎さんが、広島市で31年ぶり対面
1976/7/19
被爆者健康手帳の不正入手事件の被告の1人、元広島市職員に広島地裁が懲役1年4月、追徴金49万円の実刑判決
1976/7/19
社会党広島県本部(大原亨委員長)が、荒木広島市長に同市基町の旧陸軍被服倉庫の永久保存、広島平和文化センターの田中真一郎理事の辞任などを申し入れ
1976/7/19
米国原爆被爆者協会の据石和副会長が、宮沢弘広島県知事に「在米被爆者に専門医派遣を」と要望
1976/7/19
米紙ワシントン・ポストが、「1974年のインドの核実験は米が提供した重水を転用した」と報道
1976/7/20
8月に広島市で開く原水禁国民会議の被爆31周年原水禁世界大会に、「広島県朝鮮人被爆者連絡協議会」(朝被協=李実根代表委員)の参加決まる
1976/7/20
米オハイオ州ウィルミントン大の「広島・長崎記念文庫」の文献を英訳するボランティアの大学生、正岡治、シェイリーン・正岡の2人が広島入り
1976/7/20
原爆慰霊碑の碑文改定を主張する「原爆慰霊碑を正す会」に、荒木武広島市長の名前。広島県原水禁(宮崎安男事務局長)が公開質問状。同市長は「知らない」と繰り返す。正す会は児玉誉士夫氏が顧問、賀屋興宣、源田実、池田弥三郎氏らの名前も
1976/7/22
広島、長崎両県市と議会で構成する被爆者援護対策促進協議会(八者協)が、東京で自民党原爆被爆者対策小委員会(増岡博之委員長)に1977年度の被爆者対策を要望。(1)被爆者年金制度の創設(2)原爆養護ホームの法制化(3)原爆小頭症患者の援護充実-に力点
1976/7/22
荒木広島市長の国連訪問に向け、広島平和記念館で第2回「国連アピール市民懇談会」開く。「八時十五分の祈りの会」の土岡喜代一氏や、広島県動員学徒犠牲者の会の大東和徳雄会長ら20人が出席
1976/7/22
広島市の平和記念公園の原爆供養塔に眠る被爆遺骨のうち、身元の分かった14柱を引き渡し
1976/7/22
仏政府が「南太平洋のムルロア環礁で、22日に地下核実験を実施」と発表
1976/7/23
スウェーデンのウプサラ大地震研究所が、「ソ連はセミパラチンスクで地下核実験を実施」と発表
1976/7/23
原水禁国民会議が過去の国内の原発事故、原発労働者の被曝事故などをまとめた「原発黒書」を発表。国内で稼働中の11基の原発の危険性を述べる
1976/7/24
丸木位里、俊夫妻が「アウシュビッツ大虐殺」制作のため、ヨーロッパへ
1976/7/24
荒木広島市長が、7月10、22日の仏核実験と、23日のソ連核実験に抗議電報。25日、広島被爆者団体連絡会議(近藤幸四郎事務局長)などの被爆者や市民約100人が、2度の仏核実験に抗議し原爆慰霊碑前で座り込み。26日は約80人がソ連核実験に抗議し、原爆慰霊碑、広島駅前、広島市役所前で座り込み。市役所前は初
1976/7/24
全国の被爆者健康手帳保持者約36万4,000人のうち、認定患者を対象とする特別手当の受給者はわずか1.1%の4,020人-。日本被団協が発表
1976/7/25
広島市福島町1丁目で、福島地区被爆者の会(金崎是会長)が建設した「福島地区原爆犠牲者慰霊碑」の除幕式。300柱の死没者名簿が納められる
1976/7/26
東京でアジア仏教徒平和会議(ABCP)始まる。28日まで。11カ国から200人が参加
1976/7/27
原爆白内障の認定申請却下を不服として広島市の石田明さんが国を相手取って起こしていた「原爆医療法に基づく認定申請却下処分取り消し請求訴訟」(石田原爆訴訟)の判決が、広島地裁である。森川憲明裁判長は原告の訴えを認め、原告の全面勝利。判決理由「被爆者の被害は国の責任で始めた戦争による。原爆医療法はそうした事情を考え、制定されたもので、通常の社会保障法と異なり、国家補償法としての側面も持つ」「原爆白内障は薬物治療の効果を期待し得る可能性は否定できず、要医療性がある」
1976/7/27
東京都議会で「被爆者は子供を持たないように…」などと発言した近藤信好議員(自民)が「舌たらずの発言で迷惑をおかけした」と釈明
1976/7/27
米がネバダで地下核実験。地下630メートルで20~150キロトン。米エネルギー研究開発局が発表
1976/7/28
荒木広島市長が米核実験に抗議し、駐日大使に抗議電報
1976/7/28
世界平和アピール7人委員会の茅誠司元東大学長、大河内一男同、朝永振一郎元東京教育大学長、上代たの元日本女子大学長、内山尚三事務局長らが院内で三木首相に、被爆者援護法の早期制定を要望。首相は「援護法を制定すれば一般戦災者に対する援護法も必要になる」と難色。7人委の援護法制定要望は1967年以来、5度目
1976/7/29
米が世界軍備現況報告書を発表。「20カ国に核爆弾の製造能力。10年後には倍増」
1976/7/29
米韓第1軍団司令官クッシュマン陸軍中将が「指揮下に核兵器はない」と言明
1976/7/29
スウェーデンのウプサラ大地震研究所が「ソ連がカスピ海北方で地下核爆発を実施」と発表
1976/7/29
8月6日の広島市の平和記念式典に、三木首相が出席へ。現職総理出席は1971年の佐藤首相以来
1976/7/29
広島市地域婦人団体連絡協議会(藤野孝子会長)が、市社会福祉センターで平和婦人大会
1976/7/30
東京・神田の学士会館で「76年核兵器禁止を願う科学者フォーラム」始まる。三宅泰雄東京教育大名誉教授ら103人が呼びかけ
1976/7/30
石田原爆訴訟の石田明氏、石田原爆訴訟をすすめる会の宅和純会長、日本被団協の伊東壮事務局長らが厚生省に「控訴をしないように」と陳情
1976/7/30
荒木広島市長がソ連の地下核爆発に抗議電報。広島被爆者団体連絡会議などの被爆者、市民60人が米、ソの核実験に抗議し原爆慰霊碑前など3カ所で座り込み
1976/7/30
西ドイツ・ハノーバー市を訪問する広島市の国際青少年協会(河村郷四会長)「平和使節団」の少年、少女が平和記念公園の「平和の灯」から採火。8月6日にハノーバー市で開く平和祈念式典に持参。使節団は40人
1976/7/30
来日中のシラク仏首相が三木首相との会談で「核拡散防止条約加盟は考えていない。国連軍縮委員会へも参加できない」と述べる
1976/7/31
広島市の平和記念式典に出席する三木首相が、被爆者と15分間、会って要望を聞くことが内定。内閣官房から広島県、市に連絡
1976/7/31
日本原水協の第22回原水爆禁止世界大会東京大会が、大田体育館で開幕。海外15カ国6国際組織の代表56人を含め約4,500人が参加。細井友晋日本原水協代表委員が「原水禁運動は今、ようやく核廃絶の可能性の光を見いだした。その光を大きくするために全力を」とあいさつ
1976/7/31
韓国人被爆者の孫振斗さんが長崎・大村収容所から仮釈放され、広島市入り。河村虎太郎医師のもとに身を寄せ、広島原爆病院で治療へ
1976/7/31
日本原水協の第22回原水禁世界大会で、「核兵器使用禁止国際条約案」が提案。田畑茂二郎京大名誉教授らがまとめる
1976/7/--
東京都議会の「被爆者は子どもを持たないように…」の近藤信好議員発言に広島の被爆者が反発
1976/7/--
「広島市の職員として被爆死したのに、恩給法の適用などで『吏員』と『雇用員』で区別されるのはおかしい」-。広島市職組が追及へ。被爆当時の市職員は吏員が358人、雇用員が1,087人。うち644人が死亡、行方不明。吏員の遺族に対しては恩給法による扶助料が支給されるが、雇用員に対しては共済組合条例によって一時金だけ
1976/7/--
「ヒロシマを知らせる委員会」(原田東岷委員長)が、市民が描いた原爆の図33枚と米からの返還写真9枚、慰霊碑などのスライド46コマを作製
1976/7/--
名古屋市に住む広島の被爆者亀沢深雪さんが、被爆者をテーマにした小説集「傷む八月」を刊行
1976/7/--
建物疎開に動員され全滅した広島県立広島第一高等女学校(現県立皆実高校)1年6組の生徒55人が、原爆投下直前まで書きつづった「生徒日誌」見つかる
1976/7/--
広島、東京、長崎の被爆者の相談に携わるケースワーカーが「原爆被害に関する事例報告-生き続けた31年」を出版へ
1976/7/--
8月6日の広島市の平和記念式典に、「原爆の3つや4つ」「核保有は必要悪」などと発言した源田実参院議員や田中真一郎平和文化センター理事に広島市が招待状。被爆者団体が反発
1976/7/--
核、被爆者問題をめぐる討論集「ヒロシマからの報告~平和・教育・被爆者問題を考える」が、労働教育センターから出版。広島の学者、ジャーナリスト、教師らがテーマ別に討論
1976/7/--
日本平和委員会(阿部行蔵会長)と広島県平和委員会(今中比呂志会長)が、解説パンフレット「ひろしま平和あんない」を刊行
1976/7/--
広島市の失業対策事業で働く2,287人の58.4%が被爆者で、うち81.2%が「治療中」。広島原爆被爆者健康管理所がまとめる

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