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ヒストリー

ヒロシマの記録1976 8月


1976/8/1
原水禁国民会議(森滝市郎代表委員)の被爆31周年原水爆禁止世界大会国際会議が京都市で開会。9カ国1国際団体の海外代表16人と日本側から約70人が参加。反原発、反核を強く打ち出す。京大農学部の市川定夫助手が東京電力福島原子力発電所で働く作業員の被曝線量が急上昇していると報告。2日目はミクロネシア、ニュージーランド代表らが太平洋非核化の支援を訴え
1976/8/1
日本原水協(草野信男理事長)が東京で第22回原水爆禁止世界大会国際予備会議。18カ国8国際組織、61人を含む約200人が参加。平野義太郎国際民主法律家協会副会長が「核兵器禁止国際条約案」を提案。元ロッキード社の技師ロバート・オルドリッジ氏が核兵器生産に抗議の非暴力直接行動を報告。2日目は大阪市の峯スミ子さんら被爆者の声を聞く
1976/8/1
東京都の被爆者組織「東友会」(片岡強会長)が、品川・東海寺で原爆犠牲者合同慰霊祭。広島修学旅行を行った葛飾区立の上平井中学の生徒会代表10人も参列
1976/8/1
広島で被爆した横浜市在住の黒川万千代さんと関千枝子さん姉妹が写真集「原爆の碑-広島のこころ」を出版。85枚の写真を収める
1976/8/1
広島平和記念館で「わがなつかしのひろしま・市民の手で原爆の絵を」展始まる。NHK中国本部が市民から募集した作品のうち400点を展示
1976/8/1
広島出身のアマチュア画家、故土居晩鐘氏の「原爆記録画展」が、広島市基町の広島センター街で始まる。「炸裂」「地獄の町」など76点。15回忌を記念
1976/8/2
広島県朝鮮人被爆者連絡協議会の李実根代表委員らが広島県と広島市に、「三木首相に平和祈念式出席の後、外国人被爆者の声も聞いてほしい」と要望
1976/8/2
ヒロシマを8ミリで記録するため、東京都立小平高校の映画研究同好会(田野倉康一会長)のメンバー16人が広島入り。1975年に続き2回目
1976/8/2
原爆ドームで初めて低レベル放射能測定。金沢大環境放射能研究所の阪上正信教授らが実施。原爆による放射能はほとんど検出されず
1976/8/2
広島原爆病院が、開院以来20年間の事業概要をまとめ発表。75年末までの外来患者数は64万4,000人、年平均3万3,000人で70年の4万9,000人をピークに減少。入院患者数は5,648人。入院患者の年齢は60歳以上が72%に。病気は血液疾患、悪性腫瘍、循環器系疾患へと変化
1976/8/3
荒木広島市長が、「原爆慰霊碑を正す会」の相談役に名前を連ねている問題で発言。「正す会が自主的に私の名前をはずすといってきたので、こちらから除去を申し入れはしない。被爆都市の市長として碑文の意味を広島の心として、平和推進に努力する」
1976/8/3
原水爆禁止と被爆者援護を訴えて山口-広島170キロを歩く山口大ユネスコクラブの22人が広島入り。一行は7月26日、山口市を出発
1976/8/3
核禁会議(磯村英一議長)が広島市で核禁広島全国集会。約300人が出席。(1)核兵器の完全禁止実現(2)核実験反対と核平和利用の安全性追求(3)韓国人被爆者救援活動強化-の広島アピールを採択
1976/8/3
三木首相が長崎の平和祈念式典にも出席の意向。長崎への現職総理の出席は初めて
1976/8/3
原水禁国民会議と原水爆禁止全面軍縮大阪府協議会が、関西電力に福井県・高浜原子力発電所2号機の異常で公開質問状。関西電力は4日「異常はない」
1976/8/3
中国新聞が「執念原爆と向き合う作家たち」の連載始める。新藤兼人さん(映画監督)、川崎優さん(作曲家)、松山善三さん(シナリオライター)、土屋清さん(劇作家)、中沢啓治さん(漫画家)ら
1976/8/3
広島市立千田小学校に「教師と学童の慰霊碑」が完成し、除幕式。千田国民学校は教師3人と学童41人が犠牲に
1976/8/3
長崎原対協が建設していた被爆者療養センタ-「立山荘」が完工、落成式(「長崎年表」)
1976/8/4
広島原爆病院が本館の移転新築工事起工式。竹下虎之助広島県副知事、荒木広島市長らが出席 1976/8/4
「ヒロシマを記録する8ミリ映画の会」が広島平和記念館で開催。上映作品。「ヒロシマ31年目の証言」(広島エイト倶楽部作)、「ヒロシマ」(松原博臣氏作、第9回パリ国際映画祭リポート部門第1位)、「太陽の消える時・ヒロシマ~アウシュビッツ」(同、第28回カンヌ国際映画祭銀賞)、「熱い祈り」(宮崎一雄氏作、第5回シングル8友の会コンテスト最優秀作品賞)、「鳥は知っている」(中畝健雄氏作、第1回ヒロシマ国際アマチュア映画祭文部大臣賞)、「私のなかのヒロシマ」(川本昭人氏作、第9回東京国際アマチュア映画コンクールNHK会長賞)、「4分の1世紀ヒロシマからの報告」(広島エイト倶楽部作)
1976/8/4
日本原水協の第22回原水禁世界大会本会議が、広島市の県立体育館で始まる。約7,000人が参加。石田明全国被爆教師の会会長が、石田原爆訴訟の経緯を報告。5日は分散、分科会。6日に閉会総会
1976/8/5
広島市の県立体育館で、原水禁国民会議の被爆31周年原水禁世界大会開会総会。約8,000人が参加、森滝市郎代表委員が基調報告。「いまこそ核絶対否定の立場を明確にし、人類の生き残る道を選ぼう」。総評の富塚三夫書記長、成田知巳社会党委員長、ペトラ・ケリー西ドイツ代表らがあいさつ。石田明全国原爆被爆教師の会会長が石田原爆訴訟の結果を報告。6日は分科会
1976/8/5
反原発中国5県共闘会議(今井勇議長)が、広島労働会館で中国ブロック集会。約500人が参加。(1)原発のすべての新・増設を阻止(2)原発労働者の放射線被曝に反対し、救援の闘いを組織(3)伊方や東海原発裁判闘争を支援-の運動方針を採択
1976/8/5
社会党の成田知巳委員長が広島県庁で記者会見。「石田原爆訴訟の判決は、現行法ぎりぎりの合法的解釈。判決を受け、被爆者援護法制定に努力したい」
1976/8/5
日本時間の8月6日に合わせ、反戦運動家として知られるフィリップ・ベリガン神父が主催し、ワシントンの国防総省前で12人が抗議の通夜。原爆のキノコ雲や原爆反対のプラカードなどを掲げる
1976/8/5
広島市内で被爆男性がガス自殺。38歳。妻は「被爆者健康手帳は使ったことがなく健康だった。自殺の原因は思い当たらない」
1976/8/5
広島市東白島町の中国郵政局に「郵政職員の慰霊碑」が完成、除幕式。518人の原爆死没者名簿を納める
1976/8/5
広島市小網町の三光寺で、同町でなくなった女子挺身隊、義勇隊、動員学徒の慰霊祭。御影石で「原爆慰霊碑」を再建
1976/8/5
東京の反戦グループ「東京クラルテ」(古藤晃代表)の約30人が広島市内で、被爆二世と「反戦、反核のためのヒロシマ市民集会」を開く
1976/8/5
大阪府羽曳野市の川越明人さんが、原爆資料館に8時16分で止まった腕時計を寄贈
1976/8/5
「ソ連が米ソ地下核実験制限条約に違反の疑いがある150キロトンを超える核実験を行った」と、米が発表。7月4日と29日の実験
1976/8/5
米国務省が「イスラエルとエジプトに各2基の原子炉を売却」と発表
1976/8/5
「長沼ミサイル訴訟」(保安林の解除処分取り消し請求事件)の控訴審判決が札幌高裁であり、小河八十次裁判長は一審判決を取り消し、原告・住民側の訴えを棄却。自衛隊の合、違憲については付加見解の形で「自衛のための実力組織を持ち得ることについて、法的問題はない」とし、自衛隊の規模、内容については統治行為論を採用、「司法審査権の範囲外」として判断を避ける
1976/8/5
総評の富塚三夫書記長が広島市内のホテルで記者会見。原水禁運動の統一について「一致できる課題から統一を呼びかけたい。現実的には被爆者援護法制定運動がある」
1976/8/6
被爆31周年。広島市の平和記念公園で広島市主催の原爆死没者慰霊式・平和祈念式。現職首相としては1971年の佐藤首相に次ぐ2人目の三木首相をはじめ市民ら4万人が参列。新たに死亡が確認された2,159人(うち被爆当日114人)を加えた原爆死没者名簿が奉納され、死没者は8万9,134人に。献花にはチョゴリ姿の朝鮮人被爆者も
1976/8/6
荒木広島市長が平和宣言「米ソを始め核保有国は、ヒロシマの心を踏みにじり、自国の防衛と世界の安全を口実に、依然として全人類をせん滅して余りある巨大な量の核兵器を蓄積し、核戦争の危機を著しく高めてきた。また頻発する局地戦争が核保有国の介入により、ついには世界的規模の核戦争へと発展する恐れなしとしない。それのみか、今日世界を覆う環境の破壊、人口増加と食糧危機、枯渇への速度を早める資源消耗の現実を直視するとき、ここにも平和を脅かす要因が潜在していることを憂えるものである。…このときにあたり、広島市長は長崎市長とともに国連に赴き、被爆体験の事実を生き証人として証言し、世界の国々に、これが正しく継承されるよう提言すると同時に、国連総会が議決した核兵器使用禁止、核拡散防止、核実験停止の諸決議のめざす、核兵器廃絶への具体的措置が早急に実現されるよう、強く要請する決意である」▽三木首相あいさつ「核兵器を全廃し、人類を核の脅威から解放することこそ、真の平和への道であると信じます。その道を求め声を大にして全世界に訴え続けなければなりません。それが被爆国民としての日本民族の人類に対する道義的責任であり、ここに眠る御霊を安らげる本当の道であると信じます」
1976/8/6
三木首相が広島県庁で記者会見し、石田原爆訴訟について「石田君には同情している。国としては控訴しない方針で検討している」と発表。田中正巳厚相は「今後は疑わしきは認定する方向で取り組む。しかし、すべてのケースに適用するわけではない」と述べる
1976/8/6
三木首相が広島県庁で5人の被爆者代表から「声」を聞く。広島県被団協の森滝市郎理事長、佐久間澄理事長、石田原爆訴訟の石田明さん、原爆小頭症患者の母親の長岡千鶴野さん、広島被爆者団体連絡会議の近藤幸四郎事務局長。森滝氏「死んだ人、原爆小頭症患者など被爆者の救済は償いの精神に立つ援護法でしか解決できない」
1976/8/6
広島市基町、広島営林署の原爆犠牲者慰霊碑が完成し、除幕式。22人の死没者の名簿を納める
1976/8/6
国際青少年協会(河村郷四会長)のハノーバー市訪問広島青少年使節団などが加わり、西ドイツ・ハノーバー市で「広島原爆31周年平和祈念式」と原爆資料写真展。フランケ国務相、シュマルスティーク・ハノーバー市長ら約200人が参加。写真展も反響を呼ぶ
1976/8/6
中国新聞に小堺吉光広島市史編さん室長が「原爆慰霊碑碑文の陰に」と題し、原爆慰霊碑文決定のいきさつなどを紹介。「安らかに眠って下さい過ちは繰返しませぬから」の雑賀忠義広島大教授の英文訳は「Letallthesoulshererestinpeace;Forweshallnotrepeattheevil」だったが、英文訳は記載されなかった
1976/8/6
中国新聞が連載企画「反核の子の系譜ひろしま継承の一断面」を掲載
1976/8/6
被爆二世の子どもと不思議なイスとの友情を通じて原爆を描く松山善三監督の「ふたりのイーダ」がクランクイン
1976/8/6
庄原市で2つの原爆慰霊祭。第1陸軍病院庄原分院跡と山内病棟跡。2カ所の犠牲者は172人
1976/8/6
広島信用金庫が創立30周年を記念し、平和大通りに石灯ろう25基を寄贈。韓国製。総額2,000万円
1976/8/6
広島市の原爆資料館対話ノートに「娘さんの遺骨を捜しておられる遺族の方、連絡下さい」と、広島県山県郡戸河内町の庄野竹市さんが書き残す。広島県庁に勤務していた長女の遺骨として1945年8月20日ごろ県から受け取ったが、長女の特徴と一致せず、そのまま保管
1976/8/6
三木首相が広島原爆養護ホームを慰問。「二度とこのような悲惨なことが起こらないよう、政治に携わっているものの責任で出来るだけのことはしたい」
1976/8/6
平和記念式典後、三木首相が原爆資料館見学。田中正巳厚相、海部俊樹官房副長官らが同行。小倉馨広島市渉外課長、矢野俊夫館長が案内
1976/8/9
諸谷義武長崎市長平和宣言「長崎市民の悲願を訴えるべく、近く国連本部を訪れ、被爆体験と原爆の非人道性を訴えるとともに、核の廃絶と世界の恒久平和のため、国際的な措置を要請する。平和祈念式典に当たり、広島市との連携を深め、全市民はともに結集し、人類永遠の平和確立のため力強くまい進することを宣言する」
1976/8/9
三木首相に長崎の被爆4団体代表が訴え。長崎県被爆者手帳友の会の西本浅吉副会長、長崎県評単産被爆者協議会連絡会議の城戸智恵弘議長、長崎原爆被災者協議会の小林ヒロ副会長、長崎原爆遺族会の杉本亀吉会長。原子力船「むつ」佐世保修理港要請の白紙還元などを要望
1976/8/9
長崎市の平和祈念像前で、被爆31周年原爆犠牲者慰霊平和祈念式典。約1万人が参加し、現職首相として初めて三木首相が出席。荒木広島市長も参列。殉難者はこの年亡くなった549人を含め5万10人に。被爆者代表の杉本好弘さんが平和への誓い、諸谷義武市長が平和宣言
1976/8/10
被爆朝鮮人徴用工の行方を追っている広島市の歌人深川宗俊さんらが長崎県壱岐・芦辺町で朝鮮人遺骨の発掘作業を始める。12日までに約80体分を発掘。13日に慰霊祭。14日、広島に帰着し遺骨を広島市比治山本町の善教寺に仮安置
1976/8/10
米ニューヨーク・タイムズが「インドは広島型原爆を40~80個製造できる核燃料を貯蔵」と報道
1976/8/10
厚生省が「石田原爆訴訟」の控訴断念。厚生省は「判決内容に一部異論はあるが、原爆被爆者の特殊な立場を考え控訴しないことにした」。同様の原爆白内障で認定却下となった106件について再検討へ。原告側は「判決を限定解釈した国の姿勢は納得できない」と批判
1976/8/11
NHKが三好徹氏原作の「閃光の遺産」をテレビドラマ化。広島市でロケ始まる
1976/8/15
丸木位里・俊夫妻の原爆絵物語「ピカドン」が、東京のミニコミ誌「ろばのみみ」から英訳をつけて出版。訳、松村賢一中央大助教授
1976/8/16
長崎県壱岐での遭難朝鮮人遺骨発掘調査などのため来日中の「日本広島三菱重工業韓国人被爆者沈没遺族会」の盧長寿会長が、被爆者健康手帳の再交付を広島市に申請。30日に再交付
1976/8/18
「長沼ミサイル訴訟」で原告、住民側が最高裁に上告
1976/8/20
東京在住の漫画家永島省吾さんが広島平和文化センターに戦争告発の漫画「砂糖のカプセルにくるんだニガイ薬」(100枚)を寄贈。永島さんは少年期を広島県五日市町にあった広島戦災児育成所で過ごした
1976/8/20
原爆でなくなった新劇俳優の丸山定夫さんをしのび、めいの俳優丸山由利亜さん(劇団手織座)が、広島市平和大通りの「さくら隊原爆殉難碑」に参拝
1976/8/21
日中国交回復後、日本各地の大学に留学している中国人留学生19人が原爆資料館を見学
1976/8/22
修学旅行で広島を訪れた東京・上平井中学生徒の母親たち15人と教師7人が「子供たちの修学旅行報告を聞いて感動した。ヒロシマを見たい」と体験学習
1976/8/22
日本YWCA(関屋綾子会長)の「第8回広島を考える会」の全国の女子中、高校生約60人が、文学、社会、歴史の3グループに分かれ広島市内を歩く
1976/8/23
地球市民日本使節団(日高一輝団長)が国連本部を訪れ、ワルトハイム事務総長に各国軍備の全廃を要請。22日には世界連邦建設米国協会のノーマン・カズンズ会長らとも交流
1976/8/25
原爆慰霊碑の「安らかに眠って下さい」の碑文の下に「トルーマン大統領」と彫った石板が張り付けられる。いたずら
1976/8/25
原爆の惨状を描き続けた故土居晩鐘氏の遺作3点を、遺族が広島市に寄贈
1976/8/26
厚生省が在米被爆者援護として日本人専門医師の派遣を決める。来日中の米国原爆被爆者協会の据石和副会長に田中正巳厚相が直接伝える。専門医派遣は米の医師法との絡みもあるため放射線影響研究所の調査研究事業の一環として実施し、現地の医師に協力の形をとる
1976/8/26
来日中の三菱重工韓国人被爆者沈没遺族会の盧長寿会長が戦時下、多くの朝鮮人が徴用されていた広島県比婆郡高野町の高暮ダムを訪ねる
1976/8/26
英が米ネバダで地下核実験。1974年5月23日以来、2年3カ月ぶり
1976/8/26
米原子力潜水艦ポラックが対馬海峡で浜田の漁船の底引き網を引っかけ、漁具などを破損
1976/8/26
広島県労会議や原水禁団体が四国電力伊方原子力発電所への核燃料輸送反対の共闘会議を結成
1976/8/27
英核実験に抗議し、荒木広島市長がK・M・ウィルフォード駐日英大使に抗議電報。29日、広島被爆者団体連絡会議などの被爆者や市民約50人が原爆慰霊碑前と広島駅前で抗議の座り込み
1976/8/28
米政府が「ソ連は27日夜、セミパラチンスクで地下核実験を行ったもよう」と発表
1976/8/28
米フリゲート艦ボージュとソ連原潜エコー2型級がイオニア海で衝突。フリゲート艦の水兵が負傷
1976/8/30
米国原爆被爆者協会の据石和副会長が広島市に被爆者健康手帳の交付を申請。9月8日交付
1976/8/30
広島市と市議会が被爆者健康手帳不正入手事件で市、市議会事務局職員8人を処分。停職3カ月1人、同5日間1人、戒告2人、訓告4人
1976/8/30
浜田市の漁船が米原潜に漁網を引っかけられた事故で、梨田精浜田市長が在日米大使館に抗議電報
1976/8/30
米ワシントン州のアトランティック・リッチフィールド・ハンフォード社核燃料再処理工場で爆発事故、10人が放射能汚染
1976/8/31
米国原爆被爆者協会の据石和副会長が放影研に山下久雄理事長を訪ね、「放影研が日米折衝の窓口になって米への医師派遣を実現してほしい」と要望
1976/8/31
国際青少年協会(河村郷四会長)のハノーバー市訪問広島青少年使節団の一行が広島帰着。林寿彦団長らが荒木広島市長にシュマルスティーク市長からのメッセージと市民からの寄託金(約5万4,000円)を手渡す
1976/8/31
放射線影響研究所の遺体解剖協力率が20%を割り、初めて19%台に。日米両国の病理学者が検討委員会(座長、飯島宗一広島大学長)開き、地元医師と積極的な交流を勧告へ
1976/8/31
徳山から四国電力伊方原子力発電所へ初の核燃料海上輸送
1976/8/--
広島の母親グループ「山下会」(宮部アヤ子代表)が体験集「あさ」を発刊。今回で12号
1976/8/--
広島市安佐町の市立清和中学(松浦幸雄校長)が、平和をめざす生徒・父母・教師の文集「もり山に誓う」第1集を発刊
1976/8/--
原水禁九州ブロック会議(社会党・総評系)が、ビキニ水爆実験で被曝したマーシャル諸島の住民66人に関する米政府原子力委員会の医療カルテを入手。骨髄、甲状腺、血液に異常
1976/8/--
2月の被爆者健康手帳不正入手事件以来、広島市に返却された手帳は110通
1976/8/--
外国人被爆者への被爆者健康手帳交付の制限緩和から1年。11人が手帳を入手。韓国4人、米国7人

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