×

ヒストリー

ヒロシマの記録1976 9月


1976/9/2
放射線影響研究所が第3回専門評議員会。ジェームス・ノーマン医師が「100ラド以上の高線量被爆者は、非被爆者に比べ乳がんの発生率が3倍高く、被爆時に10-19歳の女性が危険率が高い」と発表。寿命調査10万人のうち女性6万3,263人を追跡した。3日は加藤寛夫疫学統計副部長が「近距離被爆者は肝臓の抵抗力が弱く、老化の傾向が認められる」と報告
1976/9/4
米原潜スキャンプが沖縄本島ホワイトビーチに3年ぶり、66回目の寄港
1976/9/4
原爆被爆教師の会全国連絡会(石田明会長)が広島県教育会館で総会を開き、平和教育運動を幅広く推進するため「被爆地広島、長崎の両市を修学旅行で訪れる運動」の展開を決める
1976/9/6
広島県労被爆連(石川俊彦会長)が、被爆者健康手帳不正入手事件問題で詐欺罪に問われている柳坪進広島市議の処遇について市議会議長の見解を求める。「市職員が処分を受けているのに議員がそのままはおかしい」。同議員は中国新聞のインタビューに「逮捕から今まで容疑は完全に否認している。手帳申請の世話をしたのは事実だが、その人が被爆者でないとはまったく知らなかった」
1976/9/7
原子力委員会(委員長、佐々木義武科学技術庁長官)が低レベル放射線とプルトニウムの人体への影響を5カ年計画で調査を決める
1976/9/7
放射線影響研究所で日米の定年制格差是正のための検討小委員会開く。放影研の就業規則では男62歳、女57歳。ABCC時代にNAS(米国学士院)が雇用した米人(日系含む)は男女とも65歳
1976/9/8
「三菱重工韓国人被爆者沈没遺族会」の盧長寿会長と支援する会の深川宗俊会長ら4人が、東京・丸の内の三菱重工本社を訪れ、遺族補償、慰霊碑建立などを要求。会社側は「日韓条約で問題はすべて解決している」。盧長寿会長は9月21日、いったん帰国
1976/9/9
「三菱重工韓国人徴用工原爆被爆者沈没遺族を支援する会」の深川宗俊会長と、広島県原水禁の宮崎安男事務局長が、広島県に被爆朝鮮人徴用工の名簿公開と調査を要求
1976/9/9
インドの作家バルチャンドラ・カー氏が広島市を訪れ、被爆者の体験などを取材。12日まで
1976/9/9
京都市で開かれている第16回国際血液学会議で、広島大原医研内科の鎌田七男助教授が「慢性骨髄性白血病は初期に染色体異常の兆候がある」と発表
1976/9/10
広島でロケ中の映画「ふたりのイーダ」のロケ地として宇品造船金輪ドックが敷地や施設の撮影を拒否。宇品造船「シナリオに問題はないが、原爆の映画に本社が取り上げられることに抵抗がありお断りした」
1976/9/10
全国原爆被爆教師の会の石田明会長が、半生をつづった「被爆教師」を出版。一ツ橋書房(9・20、「奥付」)
1976/9/14
政府が原爆医療法に基づいて実施する被爆者健康診断の対象区域拡大を決定。対象区域の住民は原爆被災当時、指定区域内に住んでいたことを証明書を添えて申請すれば「健康診断受診票」が交付され、検診の結果、異常があれば被爆者健康手帳が受けられる。拡大区域は広島の北西部で黒い雨が大量に降った「大雨地域」。18日施行
1976/9/15
1945年9月17日、旧大野陸軍病院で原爆被災調査中、枕崎台風による山津波で遭難した「京大原爆災害調査研究班」11人の慰霊祭が遭難記念碑前で営まれる。助かった木村毅一理学部助教授(当時)らも出席
1976/9/16
日本ペンクラブ(石川達三会長)が、荒木広島市長らの国連訪問を支持決議
1976/9/17
国際的な環境保護団体グリーンピース(本部カナダ)のJ・マーク・ラベルさんら8人が広島市を訪問。原爆病院などを訪れる
1976/9/19
1945年3月に広島市幟町国民学校を卒業した同級生らが恩師を囲み同窓会。5クラス234人のうち177人の消息が判明。生存88人、死亡89人。死亡のうち82人は原爆死。31年ぶりに母校で再会したのは45人
1976/9/20
広島市平和記念公園の原爆供養塔前で遺骨の引き渡し。家族7人を失った広島市江波南3丁目、河野豊さんが31年ぶりに姉の美恵子さんの遺骨と対面
1976/9/20
原水爆禁止広島母の会会長の升川貴志栄さんが、心不全のため死去。78歳。母の会は第5回原水禁世界大会に参加した広島の母親たちが1959年秋に結成。升川さんは終始リーダー的な存在で、亡くなった長男の宗利さんの面影を胸に、手記集「ひろしまの河」の発刊を続けた。一時、休刊し72年に復刊、これまでに19号を出す
1976/9/20
米国防総省が「米軍は来年3月からマーシャル諸島のエニウェトク環礁で放射能除去作戦に入る」と発表。2年3カ月かけ2,000万ドル(約60億円)と600人を投入。同環礁は1958年までに40回の原水爆実験
1976/9/21
長崎-広島-東京を自転車行進した「群集の渦」(酒井千鶴子代表)の一行が首相官邸に着き、被爆者247人の「直訴状」を事務官に手渡す
1976/9/23
第五福竜丸の故久保山愛吉さんの22回目の命日。東京・夢の島の「第五福竜丸展示館」前と焼津で記念集会と墓前祭。夢の島は第五福竜丸平和協会が主催し、桧山義男同協会副会長、神崎清(原水禁国民会議常任幹事)、田沼肇(日本原水協副理事長)らが出席。焼津は静岡県評、県平和委員会の主催で「静岡県原水禁運動統一促進準備会」が1年半ぶりに復活
1976/9/26
中国が核実験。新華社が伝える「実験は全国、全党、全軍、全人民が毛沢東主席の死去を追悼し、党中央の呼びかけにこたえて悲しみを力に変えつつあるときに行われた」「党中央の指導のもと、実験に参加する労働者、人民解放軍の指揮員と戦士、科学者、技術者、革命幹部は階級闘争をかなめとし、〓小平批判を原動力とし、精力的に共同作業を進め、完全な成功を収めた」。27日、米エネルギー開発局が、実験場所はロプノル地区の上空の大気圏内、規模は20~200キロトンと発表
1976/9/27
日本被団協が東京・新橋の事務局内に「原爆被爆者中央相談所」を設置
1976/9/27
荒木広島市長が中国核実験で陳楚駐日中国大使に抗議電報。中国大使館は受け取りを拒否。拒否は3回目。28日、広島被爆者団体連絡会議(近藤幸四郎事務局長)の被爆者ら120人が、升川貴志栄さんの遺影を抱いて原爆慰霊碑前など3カ所で座り込み
1976/9/29
荒木広島市長が国連への要請・要望事項を発表。要請は「核兵器廃絶」「核兵器白書の作成」「(広島・長崎両市長の)軍縮委への出席」「ユネスコにおける国際理解教育」の4項目を具体的に要請。要望は「国連本部内でのヒロシマ・ナガサキ展、被爆写真展の開催」「広島、長崎の平和祈念式への国連代表派遣」など
1976/9/29
スウェーデンのウプサラ大地震研究所が「ソ連のノバヤゼムリャ核実験場で地下核実験」と発表
1976/9/29
茨城県東海村の日本原子力研究所東海研究所の研究用原子炉で、2次冷却水の放射能異常で原子炉を停止。異常の原因は中国核実験の放射性降下物とわかる。横須賀港の原子力潜水艦用のモニタリング・ポストも警報
1976/9/30
密航韓国人被爆者の孫振斗さんが、「強制退去命令は無効」と、福岡入国管理事務所を相手取って訴えていた退去強制令書発布無効確認訴訟の判決が、福岡地裁であり、南新吾裁判長は訴えを棄却。判決理由「孫さんの症状は肺結核によるものとするのが相当で、原爆症の疑いがあるにしても急性かつ危険生の高いものではない」
1976/9/30
荒木広島市長がソ連核実験で在日ソ連大使館に抗議電報。1日、外務省が「遺憾に思う」の情文局長談話。広島被爆者団体連絡会議の被爆者や労組員ら200人が、原爆慰霊碑前など広島市内3カ所で座り込み
1976/9/--
広島市の原爆被災(全体像)復元調査がまとまる。爆心(半径500メートル内を除く)から2キロ以内の旧114町(焼失地域)の被爆時の世帯数は3万6,879世帯で、うち消息をつかめたのは1万8,310世帯、被災状況を確認できたのは9,602世帯。復元率は26%強に終わる。個人別のまとめは、確認できた9,602世帯のうちの9,151世帯について行う。この結果、被爆時に市内にいた人は爆心518人、爆心外の2キロ以内2万2,485人。死亡状況は1975年度末の調査時点までで爆心は92.3%に当たる478人が死亡、爆心を除く2キロ内は1万1,727人で死亡率53%
1976/9/--
広島市東白島町の広島逓信病院旧館の取り壊し始まる。新病院が6月に完成。旧逓信病院は1935年12月に完成、被爆後は医師、看護婦の犠牲者を出しながら救護に当たり、蜂谷道彦病院長の「ヒロシマ日記」の舞台
1976/9/--
ワールド・フレンドシップ・センター(原田東岷理事長)が米での青年平和教育セミナー(YPS)に送った広島大工学部助手柳沢平さん、同平和科学研究センター職員山手エリ子さん、広島YMCA英語学院講師松井恵美さんの3人が広島に帰る。米カリフォルニア大で平和学を教えているアール・レイノルズ博士らに会う

年別アーカイブ