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ヒストリー

ヒロシマの記録1976 10月


1976/10/1
荒木広島市長が国連へ持参する写真集「広島」が完成。被爆直後と現在の写真を対比。40ページ
1976/10/2
総評と共産党が東京・代々木の共産党本部で定期協議。原水禁運動の年内統一にメドで合意
1976/10/2
日本各地の核汚染で原水禁国民会議が中国核実験に抗議するとともに、科学技術庁に「牛乳飲用の一時中止など緊急措置を取るべき」と申し入れへ
1976/10/3
佐世保市で原子力船「むつ」の佐世保港修理、母港化に反対する西日本大集会。1万8,000人が参加
1976/10/4
荒木広島市長が記者会見で、広島市役所前での座り込みに触れ「構内での集団示威行為は禁じている。例外を認める訳にはいかない」「市長として座り込みに参加するつもりはない」と述べる
1976/10/5
9月末の中国核実験の影響で米各地で放射能降下物。生野菜、牛乳など汚染
1976/10/5
核兵器禁止を国連に訴える「国民代表団」に参加する広島県代表の歓送会が広島市の労働会館で開催。県代表は北西允広島大教授、中本剛広島県被団協事務局長、藤田厚吉広島県労副議長の3人
1976/10/6
広島県労被爆連、広島県原水禁など6団体の代表16人が、広島市役所前の核実験抗議座り込みに対する退去命令に抗議。「今後も続ける」と申し入れ
1976/10/6
広島、長崎両市長がワルトハイム国連事務総長に提出する原爆被害の実態資料の作成をしている「国連アピール資料編集専門委員会」(委員長、今堀誠二広島大総合科学部長)が、原爆による1945年末までの広島、長崎の死亡者数をまとめる。広島14万人(誤差プラスマイナス1万人)、長崎7万人(同)。算出根拠は45年8月当時の人口を広島が一般市民31~32万人、軍人4万人、長崎が全体で27~28万人と推定、生き残った数を引いた。また、1950年までに広島で20万人以上、長崎で10万人以上が死亡したと推計
1976/10/6
米国務省が「米は中国が9月26日に行った大気圏内核実験に反対を中国へ申し入れる」と発表
1976/10/7
総評被爆連が東京で幹事会を開き役員人事を了承。議長森井忠良氏(広島2区選出社会党代議士)
1976/10/7
日本消費者連盟(竹内直一代表委員)が、「四国電力伊方原子力発電所に向け茨城県東海村から徳山港まで8、9月に計3回、核燃料のトラック輸送があった。沿線14都府県はどんな行政措置を取ったか」と質問状
1976/10/8
原子力委員会が放射性廃棄物対策の基本方針を決める。高レベル廃棄物=深さ1,000メートル以上の地層処分を考え、半永久的に生活圏から隔離。低・中レベル廃棄物=海洋、陸地処分を併せ行う。海洋処分は1978年夏ごろから、陸地は深さ100メートル以内の地中処分
1976/10/8
広島大での日本放射線影響学会で、旧軍がレントゲン造影剤として使った放射性物質トロトラストが深刻な内部被曝事故、と報告相次ぐ。潜在被害者は5,000人、多くは肝臓などのがんで死亡
1976/10/8
ストックホルム国際平和研究所(SIPRI)が、設立10周年記念で「核時代の軍備と軍縮」を刊行。「1985年までに世界の約35カ国が核兵器製造能力を持つようになり、核戦争は不可避」「現在、地球上に貯蔵されている核爆発物は全世界の人口1人あたりTNT火薬約15トン、広島型原爆の5万発分」
1976/10/9
日本原水協などが呼びかけた「核兵器完全禁止国連要請国民代表団」の一行30人が羽田を出発
1976/10/10
ニューヨーク・タイムズが、米がミニットマンの2倍の命中精度の新型ミサイルを開発、と報道
1976/10/11
チベッツ元エノラ・ゲイ機長の原爆投下ショーに今堀誠二広島大教授は「31年前の彼は命令されてやった行為だ。しかし、原爆投下を再演、それを喜んで見るとは、無反省きわまりない」。12日、荒木広島市長が抗議電報。被爆者、原水禁団体も相次ぎ抗議へ
1976/10/11
仏が「国際協定を尊重しながら、原子力施設の輸出で主権を維持していく」と発表
1976/10/11
原爆投下機エノラ・ゲイの機長ポール・チベッツ氏が、テキサス州ハーリンゲンの航空ショーで、模擬爆弾による原爆投下を再演。観客は1万8,000人。チベッツ氏は66年に准将で空軍を退役後、オハイオ州コロンバスにあるチャーター飛行会社「エグゼキュチブ・ジェット・エビエーション」社の副社長。広島原爆については1975年8月、「何万人もの人を殺したことは誇れるものではない。しかし、原爆投下計画を成し遂げたことは誇り」と表明
1976/10/12
核禁広島県民会議などが進めていた「韓国被爆者診療センター」の増築工事が終わり、落成式。広島市の河村虎太郎医師、戎崎始成広島地方同盟会長ら5人が日本から出席
1976/10/12
前田正男科学技術庁長官が「原子力開発基本構想懇談会」を設置へ。土光敏夫経団連会長、有沢広巳日本原子力産業会議議長ら15人
1976/10/13
「核兵器完全禁止国連要請国民代表団」の一行が、国連にアメラシンゲ総会議長を訪ね、広島、長崎の写真集、被爆瓦などを贈る
1976/10/13
広島市を訪れた在日米神戸総領事館のパトリシア・ラングフォード領事が原爆投下ショーについて「こうした行為は全米の世論ではない。本当の世論は二度とヒロシマを繰り返してはならないということだ」と述べる
1976/10/13
原爆症の認定申請却下で、神奈川県川崎市の佐野和子さんが厚生大臣に異議申し立て。石田原爆訴訟の判決以来3件目
1976/10/13
広島修道大の江嶋修作助教授らが「広島における被爆体験の社会統合機能をめぐる一研究」を、広島大で開かれた日本社会学会大会で発表
1976/10/14
原爆投下ショーを計画した米テキサス州ハーリンゲンのグレン・バーコット氏、ロイド・ノレン氏が「模擬ショーは歴史的事実を再現するために行った。原爆は大きな破壊をもたらしたが、戦争を早期に終結させた」と述べる。米南部民間航空協会のヒル理事は、「原水爆反対では日米両国民の気持ちは同じだ。ショーはパールハーバーから原爆投下まで、第二次大戦の空戦をまじめに再現したもので、歴史に対して謝るつもりはない」
1976/10/14
原爆投下ショーで米政府が遺憾の意。参院外務委員会で公明党の塩出啓典氏の質問に外務省が明らかにする。小坂善太郎外相も「被爆者が現存しているのに、はなはだ不愉快、不謹慎千万なことだ。米大使館に事実関係の調査を求め、関係者に強く反省を求めたい」
1976/10/15
ハワイのホノルル・アドバタイザー紙が原爆投下ショーで社説。「恥ずべき行為だ。もし日本人がパールハーバー攻撃の模擬ショーを行ったら、ハワイの人々はどう感じるだろうか」
1976/10/16
原爆投下ショーで米南部民間航空協会から広島市に弁明の電報。同協会のゴースト部隊司令官、W・W・エストリッジ氏からで、「今回の再演が日本人の気持ちを害した点はわかる。誤解を招いたことを遺憾に思う」と表明。一方で、ショーは第二次大戦の犠牲者を冒とくするものではなく、世界で起きた人命の悲劇的な損失について深く考えるために暗い出来事を再現した、と述べる
1976/10/16
「軍縮と社会正義のための米大陸横断平和行進」がワシントン入り。18日、ペンタゴンやホワイトハウスへ示威行進。渡米中の日本原水協などの「核兵器完全禁止国連要請国民代表団」の一部も参加
1976/10/16
カナダ・トロントで1975年に引き続き「核廃絶アピール集会」。クロンビー・トロント市長をはじめ500人が参加。訪米中の「核兵器完全禁止国連要請国民代表団」の一行も加わる
1976/10/17
放射線影響研究所が西本願寺広島別院で、病理解剖被爆者らの追悼法要。19回目。2年間、232人の霊を慰める
1976/10/17
中国が新しい地下核実験に成功と発表
1976/10/18
荒木広島市長が中国核実験で、在日中国大使館に抗議の電報。電報の受け取り拒否も併せて抗議。同大使館は再び門前払い。20日、広島被爆者団体連絡会議(近藤幸四郎事務局長)などの150人が、原爆慰霊碑前など3カ所で抗議の座り込み。広島市役所前では「庁内取締規則違反」として市が中止を要請
1976/10/18
浜田の漁船が米原潜に底引き網を破損された事件で、島根県が米軍に204万1,380円を請求
1976/10/18
総評被爆連(森井忠良議長)、原水禁国民会議が参院議員会館に厚生省の佐分利輝彦公衆衛生局長を招き、来年度被爆者対策で被爆二世対策の充実などを要望
1976/10/19
広島市が被爆者健康手帳不正入手者に各種手当の返済を要求へ。手帳不正入手者は総数で110人、うち22人が不当に手当を受給。返済要求額は総額304万円、1人あたり最高35万円
1976/10/20
映画「ふたりのイーダ」が完成。東京・ヤマハホールで試写会。松山善三監督
1976/10/20
米エネルギー研究開発局が、「ソ連の地下核実験による地震を観測」と発表。実験地は北極海のノバヤゼムリャ実験場
1976/10/21
荒木広島市長がソ連の地下核実験で在日ソ連大使館に抗議電報。23日、原爆慰霊碑前など3カ所で広島被爆者団体連絡会議などの約100人が座り込み
1976/10/21
同盟中国ブロックと島根地方同盟が島根県に原発推進を前提に、安全確保などの意見書を提出
1976/10/22
自民党が次期衆院選挙の公約の1つに原爆被爆者対策を盛り込む。「特別手当等各種手当の改善、健康診断の充実、原爆被爆者対策の前進をはかる」
1976/10/22
厚生省が元広島電鉄家政女学校の被爆死亡生徒の公務死を認める。同電鉄が1945年3月15日付で「軍需充足会社」の指定を受け、生徒のほとんどが勤務についていたなどの様子がわかったため。同校では生徒30人、教師1人が被爆死
1976/10/23
東京・下保谷図書館に原爆文献を集めた「原爆小文庫」が誕生。記録、小説、児童文学など280点を収蔵。保谷市に住む長岡弘芳さんの呼びかけが実る
1976/10/23
原爆で廃校になった済美小学校(旧陸軍西練兵場内)の同窓生が、東京で同窓会。80人が参加
1976/10/24
前田正男科学技術庁長官が青森市で、原子力船「むつ」について、「実験船だから故障は当然。わずかの放射線漏れで大騒ぎするのはおかしい」と発言
1976/10/25
ソ連・エストニアのバルジスキ海軍基地で核爆発事故?11月21日付の英紙オブザーバーが報道
1976/10/26
米原子力規制委員会(NRC)のマットソン健康安全基準局長が、原子力産業で働く従業員の場合、政府が定めた「安全基準」内でもがん死亡率が増加、と発表。政府の依頼を受け、ピッツバーグ大のトーマス・マンクソ教授らがワシントン州ハンフォードの原子力研究所従業員を調査
1976/10/27
在日朝鮮人12人が広島市へ集団で被爆者健康手帳の交付を申請。広島県朝鮮人被爆者連絡協議会(李実根代表委員)が世話
1976/10/27
米テネシー州オークリッジの核兵器工場で火災。「Y12核兵器工場」から出火し、200人が緊急避難。放射能汚染の疑い残る
1976/10/28
世界連邦建設同盟(本部オランダ)のP・R・チョプラ理事ら3人が広島市を訪問
1976/10/28
フォード米大統領が核拡散防止のため、核燃料の再処理技術および施設の3年間輸出停止を提案
1976/10/30
戦時中、軍需充足会社の指定を受けていた広島電鉄で、被爆死した従業員117人が公務死扱いを受けず、戦傷病者戦没者遺家族等援護法による遺族給与金などを受けていないことが分かる。ずさんな会社側の対応
1976/10/30
3年前、広島原爆病院へ1,000万円を寄付した被爆孤老、広島市高須の松重ハナさんが高血圧症が悪化し入院先の病院で死去。つましい生活の中で蓄えた840万円を原爆病院へ贈るとの遺言。松重さんは高須町で被爆、13年前に夫を失ってから一人暮らし
1976/10/31
西ドイツ・ハンブルクに近いブロックドルフで、1,300メガワットの大原子力発電所建設計画に反対し、約2,000人がデモ。反原発運動が盛り上がる
1976/10/--
原医研の障害基礎研究部門(竹下健児教授)が、広島市北西部の「黒い雨」多雨地域から自然界には存在しないセシウム137を検出
1976/10/--
前国会から継続審議の被爆者援護法案が、開会中の臨時国会で廃案へ。「審議時間がない」「衆院解散による閉会中は議案の継続審査は行わない」(1960年参院議運委決定)などのため
1976/10/--
広島県朝鮮人被爆者連絡協議会(李実根代表委員)が、朝鮮人被爆者の実態調査と核兵器禁止を訴える平和アピールをワルトハイム国連事務総長と、145カ国の国連大使に発送へ
1976/10/--
セシウム137による汚染ミルクを飲む赤ちゃんの内部被曝線量は、成人男子の4倍-。放射線医学総合研究所の内山正史研究員が、日本放射線影響学会で発表

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