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ヒストリー

ヒロシマの記録1975 2月


1975/2/1
広島市出身で被爆者の東京芸大講師の川崎優さん=神奈川県茅ケ崎市=が自らの被爆体験をもとに作曲した「祈りの曲第一哀悼歌」を広島市に贈る。原爆慰霊碑前で広島市内6高校の吹奏楽部が演奏
1975/2/1
日本原子力船開発事業団の内古閑寅太郎専務理事が辞任。「むつ」放射能漏れ事故で引責
1975/2/1
在米被爆者援護のためカリフォルニア在住被爆者と日系米人市民協会(杉山茂樹会長、約3万人)など各団体代表がサンフランシスコ市で「在米被爆者援護準備委員会」を発足
1975/2/1
原水禁国民会議と同九州ブロック会議主催の「被爆者援護法制定要求原水禁九州大会」が長崎市公会堂で開会、約2,000人が参加。九州アピールを採択
1975/2/1
「核はここまできている-原爆から原発まで」をテーマにした核問題連続セミナー「核を考える市民集会」が東京・文京区民センターで開会、若者ら約400人が参加。東京・杉並区の市民グループ「原爆体験を伝える会」が企画、4月14日まで
1975/2/2
エジプト紙アルグムフリア(2月2日付)が「仏はエジプトとの援助協定に基づき加圧水型原子炉をエジプトにも供与」と報じる
1975/2/3
中国新聞夕刊で「昭和20年ヒロシマ記者の日記から」の連載が始まる。中国新聞記者だった大佐古一郎氏が、戦後30年を機に日記、取材メモなどでつづる
1975/2/3
指揮者の外山雄三さんらが記者会見し、被爆者追悼と鎮魂をテーマにした混声合唱とオーケストラのための交響曲「炎の歌」(作詞・土井大助氏、作曲・外山雄三氏)を5~8月に東京、神戸、名古屋、大阪、広島で公演-と発表
1975/2/3
中国科学院物理研究所が小型安定型ドーナツ式強磁場熱核反応(核融合)制御実験装置の製作に成功。北京放送が伝える
1975/2/3
公明党が明らかにした米海軍核爆雷の岩国基地輸送疑惑で、山口県地方課が米海兵隊岩国基地に事実関係をただす。同基地は「軍上層部が調査中」
1975/2/4
総評が第49回臨時大会で「原水禁運動の国民的統一を目指す決議」を満場一致で採択。9日の幹事会で、決議に基づく具体的行動の第1弾として懇談会を提唱
1975/2/5
ブラウン米統合参謀本部議長が上院軍事委員会に送った報告書で、中国の戦略核について言明。「現在、弾道ミサイルまたは爆撃機によって中国国境から2,970キロまでの周辺地域を核攻撃する力を持っているが、米大陸を直接攻撃する能力はない」
1975/2/6
旧呉海軍工廠の浄水場建設現場(広島市戸坂)に住んでいて被爆した徐文秀さん、宋静順さん(同市都町)の韓国人被爆者夫婦に、広島市が証人でなく本人の被爆状況申し立て審査により被爆者健康手帳を交付
1975/2/6
米軍による日本への核爆雷持ち込み疑惑について、政府が米政府回答を公表。核爆雷と指摘された「MK101」は「通常弾頭の記号で核弾頭を意味しない」と核持ち込みを否定。7日、衆院予算委員会に提出。公明党は改めて追及、政府は再回答を約束
1975/2/6
広島、長崎のABCCが日米対等運営の財団法人「放射線影響研究所」として4月1日発足することが設立発起人会で決まる。初代理事長に慶応大医学部の山下久雄教授を選ぶ
1975/2/8
長崎市が治療で来日し長崎原爆病院に入院中の韓国人女性、卞蓮玉さんに被爆者健康手帳を交付。外国人被爆者への交付は3人目
1975/2/8
日本被団協が東京・如水会館で「援護法制定のための懇談会」を開会。総評、同盟、日本科学者会議、地婦連、日青協など20団体に支援を呼びかけ
1975/2/9
イスラエルの有力紙ハーレツとエディオトアロノトが「イスラエルは5~10発の原爆を製造できるプルトニウムを所有」と報じる
1975/2/10
関西電力の高浜原子力発電所(福井県大飯郡高浜町)1号機が運転を再開。発電用タービンのひび割れで1月22日に運転停止
1975/2/10
米ソ両国がモスクワで平和目的の地下核実験制限のための交渉を再開
1975/2/10
「原爆体験を伝える会」の核問題連続セミナー第1回「ヒロシマ・ナガサキから」が東京・日本YWCA会館で開会。広島の詩人の栗原貞子さんと鎌田定夫長崎造船大教授が被爆体験など語る
1975/2/10
総評の安恒良一幹事らが原水禁運動の国民的統一を目指す懇談会開催を社会、共産両党や日本原水協、原水禁国民会議、評論家の吉野源三郎、安井郁法政大教授らに申し入れ
1975/2/13
広島市青少年センターの連続セミナー「広島を知る」講座で、初めて原爆問題をテーマに掲げる。市渉外課の小倉馨課長が原爆投下決定までのいきさつを講義
1975/2/14
原爆被爆者特別措置法の改正案が閣議決定、国会に提出。爆心地から2キロ以内の被爆者全員に月額6,000円を支給する保健手当の新設など。10月から実施
1975/2/14
米での被爆者援護法制定を目指し、南北カリフォルニアの被爆者協会、日系米人市民協会などで構成する法案検討委員会(倉本寛司代表)がサンフランシスコ市で草案作成会議を開き、案文を作成。(1)在米被爆者援護のための委員会設置(2)被爆者の登録認定と手帳交付(3)年2回の定期検診と医療援助-などが骨子。法制化を働きかけへ
1975/2/15
公明党の鈴切康雄氏が衆院予算委で「1964年後半に核地雷6発が米軍用船で横須賀・田浦港に陸揚げされ、その後、米第7艦隊旗艦オクラホマシティーに搬入された」と明かす。米海軍輸送指令書をもとに「日本への核持ち込みがチェックされていない」と政府を追及
1975/2/15
中国電力の島根原子力発電所が運転を停止。16日から定期検査に入り、5月14日営業運転を再開
1975/2/17
公明党呉総支部が「核地雷XBが1972年6月、米陸軍広弾薬庫(呉市広町黄幡)から激戦下の南ベトナムへ大量輸送されていた」と発表
1975/2/18
米原子力潜水艦プランジャーが横須賀港に入港。19日出港
1975/2/18
「米軍沖縄基地での核模擬弾演習を中止する考えのないことは既に日本政府に伝えてある」と米政府筋が言明
1975/2/18
平和科学研究所の開設を目指す広島大が評議会で、国際的な平和研究者の関寛治東大教授(国際政治論)招へいを報告。文部省の設立予算は認められていないが、当面、学内予算で調査室発足へ
1975/2/18
広島の原爆投下に対する政財界や軍部など各界上層部の反応、意見をまとめた「広島市爆撃問題ニ対スル反響ニ就テ(第1報)」と題する資料を草野信男元東大教授が公表。ワシントンの米国立公文書館に保存されていた「警視庁重要書類綴」の一部。原爆投下2日後の8月8日付で、既に爆弾を「原子爆弾」と断定。「戦争持続は不可能」と戦争終結を示唆する意見も
1975/2/18
「石田原爆訴訟」第11回口頭弁論が広島地裁であり、草野信男元東大教授が証言。「放射線は微量でも有害」「病気と放射能との因果関係を医学的に立証することは現段階では難しく、治療法も確立していない」
1975/2/20
電力9社の社長会が、政府原子力発電計画を見直し実現可能な開発計画提示を求める。安全性や新規立地の困難さ、核燃料サイクル未確立から「政府目標(1985年6,000万キロワット)」達成は無理」。福田赳夫副総理も20日の衆院予算委員会で原発開発計画の再検討を示唆
1975/2/20
スウェーデンのウプサラ大地震研究所が「ソ連は20日、セミパラチンスク核実験場で中規模の地下爆発実験を行った」と発表
1975/2/20
カナダで被爆者を中心にした「ヒロシマ・ナガサキ被爆30周年トロント委員会」が発足。カナダ平和研究所、同国連協会、マスコミ関係者や大学教授らが参加。カナダでの被爆資料展やセミナー開催など計画
1975/2/20
広島県被団協(田辺勝理事長)の被爆者10人が広島市小町の平和大通り緑地帯で、国家補償に基づく被爆者援護法の制定を要求して座り込み
1975/2/22
自民党の中曽根康弘幹事長が広島県庁で記者会見。「被爆者対策は原爆二法の充実が基本。被爆者援護法は考えない。野党の要求する援護法には6,000億円の財源が必要。援護法は絵にかいたもち」
1975/2/22
核実験抗議船フリーが静岡県清水港に着く。核抗議文1万2,000通を持って前年8月にニュージーランド出発、南太平洋諸島の核実験場を回り日本へ。3・1ビキニデー参加、広島、長崎訪問も予定
1975/2/25
被爆者援護法の制定を求め、日本被団協が東京で2月中央行動を展開。参院議員会館で集会後、海部俊樹官房副長官に制定を陳情。広島の被爆者ら約100人が数寄屋橋交差点前で座り込み。この年初の大規模行動
1975/2/25
広島、長崎の被爆者、労働者約780人を乗せた総評被爆連など18団体の「被爆者列車」が広島を出発。26日、東京・品川駅に到着。総評の被爆者援護法制定要求中央行動に参加へ
1975/2/25
政府が閣議で「原子力行政懇談会」設置を了承。学識経験者らメンバー14人を決める。原子力船「むつ」放射能漏れ事故を機に、原子力行政の基本的な在り方を検討へ
1975/2/25
静岡県で共産、社会両党と県評、県平和委員会の4団体が「静岡県・原水爆禁止運動統一促進準備会」を結成。分裂した原水禁運動の統一に向け1974年9月から4団体が協議。統一の活動母体結成は全国初
1975/2/26
総評の「援護法制定要求中央行動」が始まり、東京・日比谷野外音楽堂で「国民大会」。広島、長崎の「被爆列車」を含め約8,000人が参加。広島の被爆者が「同情を求めているのではない。国家による補償、国家が戦争責任を認めることを要求している。これ以上待てない」と訴え。援護法制定を求めるアピールを採択。大会に先立ち、永田町の社会文化会館で中央行動全体集会。参加者約1,200人が国会周辺をデモ、首相官邸横で約10分間の座り込み
1975/2/26
政府が、公明党の追及した日本への米軍核地雷持ち込み問題に対する米政府の正式回答を公表。「核地雷と指摘された地雷はいずれも在来型の非核兵器」と核持ち込みを否定。同党は27日、反論を発表
1975/2/26
核拡散防止条約批准の前提となる国際原子力機関(IAEA)保障措置協定について、ウィーンで日本とIAEAが仮調印。IAEAは3月5日、理事会で協定を承認
1975/2/26
日本被団協が東京・神田の共立講堂で「原爆被害者援護法の制定をめざす国民集会」を開き、被爆者ら約200人が参加。「援護法制定のため広範な国民運動に立ち上がろう」との国民へのアピールを採択
1975/2/27
英紙フィナンシャル・タイムズが「トルコ政府は独自に原爆開発を決定」と報じる。同国のサンカル国防相は「キプロス侵攻で米がトルコに武器禁輸措置を取ったので開発を決めた」
1975/2/27
世界平和アピール7人委員会が、核拡散防止条約の早期批准を求める三木首相あての文書を井出一太郎官房長官に手渡す。今国会中の批准を強く要請
1975/2/28
被爆30周年の3・1ビキニデー集会が始まる。原水禁国民会議は静岡市の静岡県評会館で全国委員会。日本原水協は同市の旅館で全国担当常任理事会。いずれも「静岡県統一促進準備会」が1日に開く統一集会「3・1被爆国民の広場」に論議が集中
1975/2/28
米がネバダ州ラスベガスで、この年初の地下核実験を実施。米地下核実験は大気圏内核実験が禁止された1963年以来266回目
1975/2/--
長崎の爆心地の復元調査が6年がかりで完了。爆心地から2キロ以内の旧48町が対象で、推定世帯数の86%の約9,000世帯が地図に復元。原爆被災復元協議会に諮り、厚生省に報告へ
1975/2/--
広島県史編さん室員の宇吹暁さんが、被爆直後の市民生活を伝える新聞記事や広告などを調査し、原水禁運動史研究資料第1集「被爆1カ月後の広島」、第2集「東京朝日の原爆批判キャンペーン」をまとめる
1975/2/--
広島県が被爆者健康手帳を持っていない潜在被爆者の掘り起こしのため、県内市町村単位に定期的な相談窓口を設ける方針を決定
1975/2/--
東京・夢の島に廃船として放置されていたビキニ被災船の第五福竜丸が、「夢の島公園」に永久保存が決まり、ごみや土砂に埋まった船体引き揚げ移動工事が始まる。財団法人「第五福竜丸保存平和協会」の申し入れを都が受け入れ、約980万円かけて保存

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