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ヒストリー

ヒロシマの記録1975 9月


1975/9/1
厚生省が外国人の被爆者健康手帳申請の取り扱いについて「適法入国なら入国目的を問わない。適法入国後、約1カ月以上滞在すれば居住関係があるとみてさしつかえない」との新しい判断を示す。慰霊目的の観光ビザで入国した韓国人被爆者の盧長寿さん(韓国金泉市)の交付申請に関する広島市の照会に回答。治療ビザに限られていた従来の交付制限を緩和する判断。2日、同市はこれに基づき盧さんに手帳を交付
1975/9/1
厚生省の全国被爆者実態調査が始まる。1965年に次ぎ2回目。基本調査と被災復元補完調査から実施。その後に生活調査と事例調査を予定。基本調査は被爆状況、健康診断の結果、被爆者差別体験の有無など10項目。復元補完調査は広島、長崎市の被災全体像調査を補うため、被爆時の家族構成、生死別などを調べる。調査方法は新たな復元補完調査を除いて前回と同じ。死没者調査は今回も見送り
1975/9/3
日本平和学会(関寛治会長)の第3回大会(秋季大会)が広島大で開会。会員やパグウォッシュ京都大会に出た世界の科学者ら約70人が参加。「核と平和」をテーマに核抑止論の矛盾をつく論議を展開。4日まで
1975/9/4
中国電力の島根原子力発電所の完成式が島根県八束郡鹿島町で行われる。同原発は1974年3月から営業運転を開始。順調なため「営業運転開始の区切り」と1年半ぶりの完成式。山根寛作社長は「遅くとも83年までに2号機の完成が必要。建設期間は8年」と新たな着工を強調
1975/9/4
「核時代と平和」講演会が広島市の中国新聞ビルで開かれ、日本平和学会に出席したパグウォッシュ会議メンバーの西ドイツ・フランクフルト大のゼンクハース教授ら3人が平和への構想を示す
1975/9/4
広島労働基準局などで作る全労働労組広島支部の被爆30周年特別事業「1万CC献血運動」が同支部庄原分会から始まる。9月中に30分会で実施
1975/9/5
南方特別留学生で広島文理科大に在学中に被爆したインドネシアの元在日大使館参事官のアリフィン・ベイさんが、被災直後に世話になった広島市の枝正勲一さんと30年ぶりに同市で再会
1975/9/5
文部省が1976年度の学術、国際交流計画を発表。広島大の「平和科学研究所」創設は見送り
1975/9/5
政府が原子力委員会の提出した「原子力白書」を閣議了承。2年分合併白書。原子力を取り巻く厳しい情勢を反映し、「原子力開発利用の推進には安全性の確保、環境保全を前提に国民合意を得ることが緊要」と原子力開発利用長期計画の見直しを指摘
1975/9/6
米エネルギー研究開発局が「6日、ネバダ州ラスベガス北西の地下核実験場で核爆発を行った」と発表。20キロトン規模
1975/9/6
山口市宮野江良の「原爆死没者の碑」前で第1回原爆死没者追悼平和式典。被爆者や遺族ら約150人が参列。原爆被爆者福祉会館ゆだ苑が「山口ヒロシマデー」に開いた初の平和式典。同県被団協の森正理事長が平和宣言
1975/9/6
巡演先の広島市で被爆死した移動演劇「さくら隊」の新劇俳優丸山定夫氏らをしのぶ会「白炎忌」が東京・紀伊国屋ホールで開かれる
1975/9/7
「むつ母港阻止長崎県青年共闘会議」が佐世保市で原子力船「むつ」修理反対集会。約460人が参加
1975/9/8
「日本広島三菱重工業韓国人被爆沈没遺族会」の盧長寿会長らが外務、厚生両省で、韓国人被爆徴用工の遺骨問題で陳情。(1)長崎県壱岐島で眠る遺骨の韓国送還(2)遺族会代表の墓参団受け入れ(3)韓国への慰霊碑建設-など。盧会長は19日帰国
1975/9/8
荒木広島市長が米地下核実験で駐日米大使に抗議電報。この年11回目。9日、広島被爆者団体連絡会議の被爆者や労組員約45人が原爆慰霊碑前で抗議の座り込み。通算28回目
1975/9/8
仏とイラクが原子力平和利用に関する協力協定に仮調印
1975/9/8
ブラジル広島県人会が被爆30周年で企画した「全ブラジル広島原爆慰霊碑参拝団」一行15人が広島入り。慰霊碑に参拝、原爆資料館を見学。広島原爆病院を慰問し被爆者救援金10万円を贈る
1975/9/9
石田原爆訴訟の第14回口頭弁論が広島地裁であり、原告側証人の田阪正利福島生協病院長が原爆症の認定制度について証言。「原爆症の正確な認定は不可能。基準がないため審査する側の主観に流れ不平等を生じる」
1975/9/9
日本海西部漁連と関西電力が高浜原子力発電所1号機(福井県大飯郡高浜町)の安全協定に調印。漁連が独自の安全協定を結ぶのは全国初。温排水、放射性廃棄物の汚染防止など10項目。同漁連は島根、鳥取、福井、石川など6府県漁連で構成
1975/9/10
米原子力潜水艦ギタロが横須賀港に入港。14日出港
1975/9/10
原爆供養塔の遺骨2柱が30年ぶりで遺族に引き取られる。この年、遺族の手に戻った遺骨は76柱 1975/9/10
広島市原爆被害対策部が、新設の保健手当の支給対象地区に関し、爆心地から2キロの線上にまたがる地区は「有利な方向で弾力運用」を決める
1975/9/11
ソ連のグロムイコ外相がワルトハイム国連事務総長に書簡を送り、「核兵器実験の完全、全面禁止条約締結」を第30回国連総会(16日開会)の議題に加えるよう提案。米代表部は「受け入れにくい」と表明
1975/9/11
広島滞在中のポーランド国立アカデミーのリサード・オトレバ助教授が原爆資料館を見学
1975/9/11
原子力船懇談会が「原子力船『むつ』を改修して開発軌道に乗せるとともに、実用化に備え改良船舶用炉などの研究開発を進める必要がある」との結論を原子力委員会に答申。「むつ」に続く第2船計画は従来の民間中心の基本方針から政府主導型に修正
1975/9/11
「原爆の図」の作者で広島市安佐町飯室出身の画家丸木位里、俊夫妻(埼玉県東松山市)が故郷の要請に応じ、飯室の養専寺のふすま絵を無料で描く。水墨画の「松竹梅」。13日まで
1975/9/12
第五福竜丸を永久保存する展示館が東京・夢の島で起工式。工事費1億5,000万円は東京都が負担
1975/9/12
建設中の四国電力伊方原子力発電所1号機(愛媛県西宇和郡伊方町)の原子炉容器が厳重警戒の海上から搬入。反対派住民の阻止行動はなし
1975/9/13
朝日新聞のコラム「天声人語」で原爆慰霊碑の碑文をもじった文章が掲載され、2つの広島県被団協が「原爆犠牲者を冒とく」などと大阪本社に抗議電報や書簡を送る。広島市民球場の乱闘事件に関するコラムで「同じことが何度も起こるようなら…野球記念碑を立てねばなるまい。『安らかに野球をして下さい。過ちは繰り返しませぬから』と」。荒木広島市長も「市民として遺憾」
1975/9/13
被爆韓国人女性の鄭七仙さん(ソウル市)が滞在中の広島市で被爆者健康手帳の交付を申請。1974年8月には治療ビザでないため却下。厚生省の条件緩和に伴い観光ビザで再申請。市は18日、手帳交付
1975/9/13
佐世保地区中小企業者決起大会が原子力船「むつ」修理受け入れ促進を決議
1975/9/13
核をテーマにした集中講座「原爆・原発・核」が東京で始まる。新日本文学会主催。11月まで11回、芸術、市民運動、核戦略体制など各分野から追究
1975/9/13
岡山県原爆被爆者会の「原爆被爆30周年記念式典」が岡山市の県総合文化センターで開会、約300人が出席。県、市長会などが後援
1975/9/13
広島市がソ連ボルゴグラード市訪問親善使節団(津田真行団長)の結団式。20日横浜港を出発へ
1975/9/13
核禁広島県民会議の福永久義事務局長が台湾被爆者の実態調査のため大阪空港から出発、16日まで滞在。帰国後の19日、記者会見。「治療が必要な被爆者が明らかになれば広島に招いて治療支援したい」
1975/9/13
放影研の地元連絡協議会が広島市の県医師会館で初会合。会長に皇至道・元広島大学長を選ぶ。放影研理事長への意見反映機関で医師会、大学、被爆者団体などから23人に委嘱
1975/9/16
米がイスラエルに核装備可能なパーシング地対地ミサイルなどを供与する約束-と米紙ワシントン・ポストが報じる。訪米中のイスラエルのペレス国防相は「ミサイルに核弾頭をつけない」と言明
1975/9/16
第30回国連総会が開幕。核、軍縮など122議題を討議
1975/9/16
柳田邦男氏が「空白の天気図」を出版。新潮社
1975/9/16
米上院外交委員会が国防総省の専門家が研究した限定核戦争の被害報告書を発表。米ミサイル基地がソ連の核攻撃を受けた場合、最大2,170万人の死者と推定
1975/9/17
サダト・エジプト大統領がイスラエルの核武装に対抗するため、原子力利用に関する最高会議を開いた-とカイロ放送が伝える
1975/9/19
日銀が弱者優遇預金の福祉預金(年利10%、1人50万円)の対象者に被爆者を加えることを決める。原爆被爆者特別措置法による保健手当の支給者が対象。郵政審議会も17日、郵便局の福祉貯金の対象に被爆者を追加
1975/9/19
国際原子力機関(IAEA)が理事会で、IAEA、仏、韓国の3者の原子力平和利用に関する保障措置協定を承認。仏が韓国に提供するプルトニウム再処理施設の軍事転用を禁止
1975/9/21
シュレジンジャー米国防長官がCBS放送のテレビ番組で「イスラエルは核兵器の開発研究を進めているとみられるが、核兵器はまだ持っていないだろう」
1975/9/21
フォード米大統領がスタンフォード大で「米は中東のどの国にも、核開発技術を含め核戦力を供与するつもりはない」と語る
1975/9/21
原子力船「むつ」母港化阻止長崎県共闘会議が佐世保市で「新母港粉砕大集会」。3,000人がデモ
1975/9/22
シュレジンジャー米国防長官が社会党訪米代表団(江田三郎副委員長)に日本の非核三原則問題などで言明。「日本の世論に反し核兵器を持ち込むことはしない」。極東での核先制使用も否定
1975/9/23
カナダで初の原爆写真展がトロント市の市役所図書館を会場に始まる。「広島、長崎に学ぶ会」(トロント委員会)が核意識を高めるため1年がかりで計画。広島91点、長崎40点の被爆写真が反響を呼ぶ。10月3日まで
1975/9/24
原爆の被害調査中、枕崎台風の山津波で犠牲になった京都大学原爆災害総合調査研究班の30周年慰霊祭が広島県佐伯郡大野町の元大野陸軍病院跡地の慰霊碑前で営まれ、関係者100人が参列。25人中11人が死亡
1975/9/24
放影研の第2回理事会が開会。最終日の26日、原爆が被爆二世に及ぼす遺伝的影響を調べる「遺伝生化学調査」新設と約1億円の予算要求を決める。来年度に被爆者、非被爆者の子供各1,000人を検査、最終的に数年間で計2万人を調べる計画
1975/9/24
久保山愛吉さん追悼の「原水爆禁止運動統一促進の集い」が静岡市の県評会館で開会。静岡県原水爆禁止運動統一促進準備会(社会党県本部、共産党県委員会、県評、県平和委、原水禁県民会議、県原水協の6者で構成)主催。運動分裂以来12年ぶりに原水禁、原水協が正式に組織参加した統一集会
1975/9/25
修学旅行で広島を訪れた名古屋市の立花高校2年生209人が原爆慰霊碑前で合唱と詩朗読で慰霊
1975/9/26
政府がジュネーブ軍縮委員会の代表部大使に小木曽本雄氏の起用を決める。西堀正弘大使の後任
1975/9/27
シュバイツァー生誕100周年記念のアジア太平洋地域「世界平和シンポジウム」が広島市の広島医師会館で開会、約100人が参加。米のノーベル平和、化学賞受賞者ライナス・ポーリング博士が「生命への畏敬世界平和への道」と題して講演。博士は22日来日
1975/9/27
佐世保地区中小企業団体協議会と佐世保市商工連合協議会が久保勘一長崎県知事に原子力船「むつ」の修理促進を陳情。28日、自民党佐世保支部は臨時大会で「むつ」修理港受け入れを決定
1975/9/29
原爆供養塔の遺骨3柱の身元が分かり、30年ぶりに遺族に引き渡し。1975年82柱が遺族の手に 1975/9/--
広島県被団協(森滝市郎理事長)の「被爆証人捜し運動」が1972年7月の開始以来、3年間で30回111人公表。110人に証人が見つかり、103人に被爆者手帳交付
1975/9/--
米カリフォルニア被爆者協会の倉本寛司会長に米厚生教育省から返書。「現在の法体系の下では特別に被爆者援護措置は取れない」。在米被爆者グループがフォード大統領に送った手紙への返事
1975/9/--
広島県安芸郡海田町の原爆被害者会(桧垣益人会長)が記録集「被爆30年の歩み」を発行。被爆者の体験や同会の援護法制定運動の歴史などをつづる
1975/9/--
米北カリフォルニア被爆者協会の倉本寛司会長が広島、長崎両市と放影研などに在米被爆者の援護強化を求める要望書。(1)被爆者健康手帳の申請が難しいため仮手帳の交付(2)専門医師の派遣(3)原爆資料の提供
1975/9/--
広島県朝鮮人被爆者連絡協議会が同県比婆郡高野町の高暮ダム建設に徴用された朝鮮人の実態調査に乗り出す。9月中に2回現地入りし証言を収集。当時、約2,000人が就労と推定

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