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ヒストリー

ヒロシマの記録1975 10月


1975/10/1
被爆者療養研究センター「神田山荘」(広島市牛田新町1丁目)の増築工事が完成し開館
1975/10/1
米と西ドイツが核エネルギー開発計画の安全措置を共同研究する協定に調印
1975/10/1
爆心地から2キロ以内の直接被爆者に10月から支給される保健手当の受け付け開始。対象者が最多の広島市では市原爆被害対策部と己斐、段原出張所で受け付け。10月末までに1万8,316人が申請
1975/10/2
米の平和運動家バーバラ・レイノルズ女史が広島市を訪問。1965年8月に自らが創設したワールド・フレンドシップ・センター(同市翠町)の10周年記念行事に参加。3日、荒木市長に被爆資料の提供を要請
1975/10/3
長崎原爆被災者協議会など長崎の被爆者、被爆二世4団体代表が辻一三佐世保市長に「原子力船『むつ』の修理、母港化に反対せよ」と要望書
1975/10/4
第26回中国弁護士大会(松江市)で被爆者援護法制定を求める宣言を決議
1975/10/4
広島市の私立城北中学の3年A組が文化祭で、自作の原爆告発スライド「はだしのゲン」を上映。中沢啓治氏の原作を基にカラースライド151枚に製作
1975/10/4
長崎県議会が原子力船「むつ」母港化反対決議を求める請願を不採択。自民党の「原子力行政の欠陥を是正し、平和利用を促進する要望決議案」を革新各党の退場の中で可決。「むつ」受け入れに反対しない態度を決める
1975/10/7
広島大の平和科学研究センター(関寛治センター長)の兼任研究員9人が初会合。データバンク、渉外、企画・研究、文献班の4ワーキンググループを結成。資料収集を中心に活動を開始へ
1975/10/9
総評が首相の諮問機関「原子力行政懇談会」から労働界代表委員の引き揚げを決定。酒井一三委員(総評副議長)が第15回懇談会で辞表提出。原子力行政の基本姿勢に関する意見書を無視され続けたことに不満
1975/10/9
1975年度ノーベル平和賞にソ連の反体制科学者アンドレイ・サハロフ博士が決まる。ソ連の水爆の父といわれる原子物理学者で、核実験反対論者。11月12日、ソ連政府は授賞式出席のための出国を認めないと通告。「国家機密を持っている」が理由。12月10日、エレーナ夫人が代理受賞
1975/10/9
「石田原爆訴訟」の証人調べが東京地裁で開かれ、厚生省側の証人、九州大名誉教授の庄治義治氏(日本眼科学会名誉会員)が原爆と白内障について見解
1975/10/11
米海軍3隻目の原子力空母アイゼンハワーが進水式。4隻目の同カールビンソンも起工式
1975/10/13
長崎市から贈られた「長崎の鐘」の複製が広島市役所の玄関ロビーに据えつけられる。両市の姉妹都市縁組の記念。市民に公開後、平和記念館で展示へ
1975/10/13
広島県議会が胎内被爆による原爆小頭症患者の援護措置に関する意見書を採択。「保護者も老境に入って養育に苦労」と指摘。(1)国の責任による終身保障(2)母親の健康状態を考慮した検診充実-など求める
1975/10/15
九州電力の玄海原子力発電所1号機が営業運転を開始
1975/10/15
大阪大の放射線障害予防委員会が、大学院生のエックス線被曝事故の防止対策の検討始める。9月1日、エックス線解析装置の実験中、同大学院生が大量被曝
1975/10/15
米の平和運動家バーバラ・レイノルズ女史に広島市が特別名誉市民章を贈る。1951年から18年間広島に住み、被爆者の訴えを世界に伝えた功績。外国人の特別名誉市民章は5人目
1975/10/16
社会、共産、公明、民社の野党4党と二院クラブが被爆者援護法案を参院に改めて共同提出。援護法案の国会提出は1959年以後11回目でいずれも野党提出
1975/10/16
広島県が「被爆者援護措置の拡充に伴い『原爆被爆対策課』を設ける」と課新設を明らかにする
1975/10/16
広島県労被爆者団体連絡協議会が平和記念館で被爆者援護法制定要求交流集会。労組内の被爆者、被爆二世など11団体約60人が参加
1975/10/16
日本原子力船開発事業団が、抗議に訪れた長崎の「原子力船むつ母港化阻止佐世保現地闘争本部」代表団に「むつ」改修計画を示す。1976年度中に詳細設計、77年度に国の安全チェックを受け、78年度に工事着手、79年度に出力上昇試験の再開へ
1975/10/16
荒木広島市長が陸上自衛隊第13師団(広島県安芸郡海田町)の創立記念隊内パレード(26日)に「都合がつけば出席する」と表明。「国を守るための自衛力は否定しない。核廃絶を願う立場とは切り離した問題で、矛盾しない」。広島県労会議は18日、出席中止を要請
1975/10/16
米上下両院合同原子力委員会が年次報告書。太平洋地域への米軍核配置問題で「核配備は日本、韓国、台湾の防衛が主目的だが、潜在核開発能力を持つ日本に独自の核兵器取得を思いとどまらせる重要な要素」
1975/10/17
米北カリフォルニア被爆者協会(倉本寛司会長)の代表マイク・シンモトさん(サンノゼ在住)とマリコ・リンゼーさん(サンフランシスコ在住)が荒木広島市長を訪れ、医師派遣など在米被爆者援助を訴える
1975/10/17
原爆供養塔の遺骨1柱の身元が分かり遺族に引き渡し。27日にも1柱
1975/10/17
1975年度ノーベル物理学賞に原子物理学者のデンマークのオーゲ・ボーア、ベン・モッテルソン両教授と米のジェームズ・レインウォーター教授が決まる。受賞理由は原子核内部の集団運動と粒子運動の関係、および原子核構造理論の確立
1975/10/18
スウェーデンのウプサラ大地震研究所が「ソ連は18日、北極海のノバヤゼムリャで地下核実験を実施」と発表
1975/10/19
広島で被爆死した移動演劇「さくら隊」の丸山定夫ら隊員9人を悼む「さくら隊原爆忌」が東京・目黒の羅漢寺の原爆殉難之碑前で営まれ、約40人参列
1975/10/20
荒木広島市長がソ連の地下核実験に抗議電報。長崎市の諸谷義武市長、横尾秀夫市議会議長も抗議電報。広島被爆者団体連絡会議の被爆者ら約60人は原爆慰霊碑前で座り込み
1975/10/20
核兵器全面禁止国際協定の締結を国連に訴える「国民代表団派遣中央実行委員会」が結成。日本原水協が提案、飯島宗一広島大学長ら各界代表37人が参加
1975/10/21
スウェーデンのウプサラ大地震研究所が「21日、ソ連がノバヤゼムリャ地区で行った中規模の地下核実験を探知」と発表
1975/10/21
広島県春闘共闘委員会が国際反戦デーの県中央集会を県庁前広場で開き、被爆者援護法の即時制定などを盛り込んだ大会宣言を採択
1975/10/22
荒木広島市長がソ連の地下核実験に抗議電報。23日、広島被爆者団体連絡会議の被爆者ら約70人が雨の原爆慰霊碑前で座り込み。この年13回、通算30回
1975/10/23
韓国人被爆者、孫振斗さんが福岡入国管理事務所を相手取って起こしている「退去強制令書発布無効確認訴訟」の証人尋問が福岡地裁であり、韓国原爆被害者援護協会の名誉会長の辛泳洙さんが証人として出廷。在韓被爆者の実情を証言
1975/10/23
米ネバダ州の地下核実験場で、実験用核弾頭を垂直坑に入れる作業中、重さ175トンの装置が約12メートル落下。11人が軽傷、核弾頭異常や放射能漏れはなし
1975/10/24
米がネバダ州でこの年12回目の地下核実験
1975/10/24
日本原子力研究所東海研究所(茨城県東海村)の研究用原子炉で、核燃料集合体冷却管の一部が折れ、炉心内に残る事故が判明
1975/10/24
広島大平和科学研究センターの第1回研究会が、米オハイオ州立大のチャドウィック・アルジャー教授(国際政治学)を講師に同大で開会
1975/10/25
広島市の私立安田女子高の新聞部が文化祭で、日本の歴史教科書の「原爆記述」調査結果を発表。1949年からの文部省検定済み日本史、世界史の教科書160冊を調査。原爆投下日や被害状況、犠牲者数など詳しい説明は14冊のみ。投下期日なし40冊、投下国なし49冊
1975/10/26
「原子力船むつ母港化阻止大集会」が佐世保市で開かれ、九州各県評労組員や全国の反原発団体代表ら約1万3,000人が参加
1975/10/26
陸上自衛隊第13師団の自衛隊創設25周年記念式典、パレードが広島県安芸郡海田町の海田市駐屯地で行われ、荒木広島市長や宮沢弘県知事が出席
1975/10/27
新華社通信が「中国は27日、新しい地下核実験に成功」と発表。中国の地下核実験の発表は1969年9月に次いで2回目。インド原子力研究所も「中国は同日、新疆ロプノル地区で地下核実験を実施」と発表
1975/10/27
カナダ・トロント市のオンタリオ教育研究所で「ピカドンから30年」集会。映画、音楽、詩や被爆者の体験談などで平和を訴える。カナダ在住被爆者や科学者らで組織する「広島、長崎に学ぶ会」(トロント委員会)主催。カナダで2度目の「広島・長崎原爆写真展」も
1975/10/27
荒木広島市長が米地下核実験に対し抗議電報。広島被爆者団体連絡会議の被爆者ら約120人が原爆慰霊碑前で抗議の座り込み
1975/10/27
旧陸軍暁部隊の材料廠の戦友20人が30年ぶりに広島市で再会。28日に原爆慰霊碑に参拝。原爆と終戦で消息不明だったが、元軍属の吉川重光さん(同市宇品御幸3丁目)らが隊員約50人中26人(うち3人は死亡)の居場所を確認
1975/10/28
荒木広島市長が中国の地下核実験に抗議電報。中国へはこの年初めて。29日、広島被爆者団体連絡会議の被爆者ら約80人が原爆慰霊碑前で座り込み
1975/10/28
米エネルギー研究開発局がネバダ州でこの年13回目の地下核実験を実施
1975/10/29
スウェーデンのウプサラ大地震研究所が「ソ連は29日、セミパラチンスク地区で地下核実験を実施」と発表
1975/10/30
荒木広島市長が米ソの核実験に対し両国の在日大使館に抗議電報。31日、広島被爆者団体連絡会議の被爆者ら約60人が原爆慰霊碑前で座り込み。米ソ中3国の核実験が10月だけで7回相次ぎ、被爆者に怒り
1975/10/31
天皇、皇后が訪米後の記者会見。広島への原爆投下について「遺憾には思うが、戦争中のことであり、広島市民には気の毒に思うがやむを得なかった」。天皇は戦争防止への強い願いを述べられながらも、戦争責任については「そういう問題には答えかねます」
1975/10/31
日本原水協が天皇の原爆投下に関する発言に関し「容認できない」と談話。広島では「残念」「認めがたい」「短時間で真意は無理」などの反響
1975/10/--
旧広島女子高等師範付属山中高等女学校の卒業生16人が被爆体験文集「おもかげ-炎と瓦礫の中に生きて」を3年がかりで発刊

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