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ヒストリー

ヒロシマの記録1975 12月


1975/12/3
広島市の大手町中学校の大下久夫教頭がパリの日本人学校に送った自作の原爆記録映画の感想文集「きのこぐも」が届く。日本人学校では小学6年生と中学1~3年生が観賞
1975/12/5
広島県被団協(共産党系)の田辺勝理事長が広島市舟入幸町の自宅で狭心症のため死去。69歳。原爆当時は広島県立広島工業高校教諭。研修先の同県安芸郡海田町から広島市内に入る。教職員組合活動から原水禁運動に参加。運動分裂の1964年、県被団協理事長
1975/12/5
米軍の日本核持ち込み疑惑究明で米滞在中の衆院予算委員会超党派訪米団がワシントンで日本人記者団と会見。「米側が日本の非核三原則や国民感情に予想以上の認識を持っていた」との声明を発表。社会党委員も米政府、議会の「誠意」を認める態度を示す
1975/12/5
米下院軍事委員会のロバート・レゲット議員が「核兵器装備可能な航空機や軍艦、ミサイルの基地には核兵器があり、日本への核持ち込みは常識」と明かす-と日本原水協の吉田嘉清副理事長らがワシントンで記者会見し公表。核兵器全面禁止国際協定の締結を国連に要請する「国民代表団」の吉田副理事長らが議員と会談。井出一太郎官房長官は「日本政府には非核三原則の方針があり、核は持ち込まれても、存在もしていない」
1975/12/6
茨城県の竹内藤男知事と川崎義彦東海村長が連名で、動力炉・核燃料開発事業団東海事業所の使用済み核燃料再処理工場の管理改善を求める
1975/12/8
原爆劇画「はだしのゲン」の原作者、中沢啓治さんを励ます集いが東京の日本出版クラブで開かれ、関係者約40人が出席。「被爆者の心を描いて」と激励
1975/12/9
沖電気工業中国支店の労働組合が広島市に被爆者救援金55万円を寄付。9回目
1975/12/9
核兵器全面禁止国際協定の締結を国連に要請する「国民代表団」が、国連軍縮局に広島、長崎の被爆総合調査の実施と核兵器被害についての国際シンポジウム開催など6項目を要請
1975/12/10
仏がエジプトへの原子炉1基の供与に同意-とエジプト政府当局者が語る。13日、協定書に調印へ 1975/12/11
ブリュッセルでNATO外相理事会が開会。12日、第2次米ソ戦略兵器制限交渉(SALT2)など軍事面での緊張緩和を強調したコミュニケ採択
1975/12/11
全労働省労組広島支部が組合員の献血した1万cc分の献血手帳を広島原爆病院に贈る
1975/12/11
国連総会本会議が南太平洋の非核地帯宣言を求める決議案(太平洋諸国9カ国共同提案)を賛成110、反対ゼロで採択。米仏ソなど20カ国は棄権
1975/12/11
広島原爆病院が「車騒音で患者の安静が保てない」と広島県公安委員会に交通規制を要請
1975/12/11
中国電力島根原子力発電所(島根県八束郡鹿島町)に11日深夜から12日未明にかけ横須賀市から核燃料輸送。「島根原発公害対策会議」が車のノロノロ運転で阻止行動、女性1人が逮捕。1974年3月の営業運転開始以来5回目の搬入
1975/12/13
核兵器全面禁止を国連に要請する「国民代表団」が帰国。14日、東京で記者会見。「国連事務局が日本被団協を通じてヒロシマ、ナガサキの資料収集を約束」
1975/12/13
ロシア連邦共和国赤十字社のテイウリアンデイン委員長が広島を訪問。原爆慰霊碑に参拝、広島原爆病院を慰問
1975/12/14
九州電力の川内原子力発電所建設計画をめぐり、川内原発建設反対連絡協議会から地質調査を依頼されていた生越忠(おごせ・すなお)和光大教授が調査結果を発表。「予定地の同市久見崎一帯は断層、ひび割れだらけで不適当」と九電調査データに反論
1975/12/15
原爆供養塔の遺骨5柱が30年ぶりに遺族に引き取られる
1975/12/15
原子力船「むつ」の佐世保受け入れに反対する長崎県漁連と同信用漁連が「佐世保港封鎖実行委員会」を設置
1975/12/15
社会党・総評系の広島県労被爆者団体連絡協議会と県原水禁、県被団協などが広島市の労働会館で「被爆者援護法制定促進県民集会」、約250人が参加。総力をあげ援護法実現を決議
1975/12/16
動力炉・核燃料開発事業団東海事業所(茨城県東海村)ウラン濃縮部で、耐久試験中の遠心分離機35台が1度に破損する事故が発生。汚染はなし
1975/12/16
社会党、総評、原水禁国民会議の「被爆者援護法制定要求行動」が東京で始まる。初日は中央総決起大会に約1,000人が参加。集会後、国会周辺をデモ行進、厚生省前で広島、長崎の被爆者ら約80人が座り込み。最終日の17日は厚生、大蔵両省などに陳情。広島では16、17の両日、約130人が原爆慰霊碑横に座り込む
1975/12/17
動力炉・核燃料開発事業団東海事業所(茨城県東海村)で、手袋つき作業箱を使って核燃料を作る作業中の職員1人がプルトニウム汚染。動燃が19日に発表。許容量の二十分の一
1975/12/17
三木首相が衆院外務委員会で、非核三原則に例外規定を設ける可能性を示唆。三原則と領海12カイリ宣言の関係に関し「日本の主権が及ぶ範囲は非核三原則を守る。しかし国際海峡における自由航行権が国連海洋法会議でどう決まるか」。国際海峡の領海内自由航行権が認められた場合、核積載艦の航行を禁止するのは難しい-との判断
1975/12/19
芸術祭ラジオドキュメンタリー部門で、NHK「まぼろしの声-昭和20年8月6日広島中央放送局」が優秀賞に決まる。被爆直後、広島中央放送局から流れた最後の女性アナウンスをめぐり、被爆者らの証言を集める
1975/12/20
放影研のスチュアート・フィンチ研究担当常任理事が長崎放影研の運営協議会で、長崎でも1976年度から5カ年計画で被爆二世の遺伝的影響を調べる遺伝生化学調査の実施を明らかにする
1975/12/22
科学技術庁に「原子力安全局」を設置する同庁設置法一部改正案が参院本会議で可決
1975/12/22
中国電力が島根県と八束郡鹿島町に「島根原子力発電所1号機に隣接して2号機を増設し、1983年度下期に営業運転したい」と文書で申し入れ。中電が2号機の建設場所と構想を具体化させたのは初めて。恒松制治知事は「安全性に未解決の問題があり、国の原子力行政の取り組みが不十分な現段階では増設は認められない。申し入れは中電側の一方的な希望として受け取っておく」。山根寛作社長は「安全協定に基づく正式申し入れ」
1975/12/23
広島「憩いの家」(広島市宇品西2丁目)で、同市内や近郊の原爆孤老40人が「被爆30年を送る忘年会」を開く
1975/12/23
米空軍の核積載用爆撃機FB111がカナダ国境近くのメーン州北部で墜落。飛行訓練中で核は積まず。同機の墜落事故は5回目
1975/12/23
広島県被団協(共産党系)が理事長代行に佐久間澄県原水協理事長を決定。田辺勝理事長の死去に伴い、1976年5月末まで代行
1975/12/23
広島県動員学徒等犠牲者の会が、被爆死しながら戦傷病者戦没者遺族等援護法の対象から外れている日本製鋼所広島製作所(広島市船越町)動員学徒の遺族から、当時の就業状況の聞き取りを始める。被爆当日が「休電日」の休日で国家総動員法による「業務従事」でないため除外されていたが、表向き「休日」でありながら業務についていた学徒が多数いることが同会の調べで判明。聞き取り調査し、厚生省に「公務死」認定を働き掛けへ
1975/12/23
「石田原爆訴訟」の第15回口頭弁論が広島地裁で開かれ、原告側証人の杉本茂憲医師(広島市)が証言。「厚生省は『原爆白内障は症状が固定している』と認定申請を却下したが、固定ではなく非進行性。将来、症状変化の可能性がある限り、薬物投与していくのが医師の道」と述べ、国側証人の庄治義治九大名誉教授の「薬物療法で白内障が治った例はない」との証言を否定
1975/12/24
野党4党と二院クラブが共同提出した被爆者援護法案が参院本会議で継続審議に決まる
1975/12/24
1976年度予算の大蔵省原案の内示で、広島原爆病院の改築費(3億5,000万円)が見送られる。25日、弘中哲也院長らが陳情に上京。29日、次官折衝で3億2,000万円が復活、改築が決まる
1975/12/24
全国5都市で開かれた「ヒロシマ・原爆の記録展」の各会場で入場者が寄付した計27万523円が、広島原爆病院と広島原爆養護ホームに贈られる
1975/12/25
スウェーデンのウプサラ大地震研究所が「ソ連は25日、セミパラチンスクで核実験を実施」と発表
1975/12/25
佐世保地区の社会、公明、民社、共産4党が「むつ受け入れ反対4党情報連絡会議」を結成。原子力船「むつ」反対で4党が同じテーブルにつくのは初
1975/12/26
荒木広島市長がソ連核実験に抗議電報。この年21回目。長崎市も諸谷義武市長、横尾秀夫市議会議長が抗議電報。27日、広島被爆者団体連絡会議の被爆者ら計70人が原爆慰霊碑前と広島駅前で抗議の座り込み。駅前では初めて
1975/12/26
広島出身の被爆画家、故福井芳郎画伯の油絵16点が、遺族から広島市に寄贈。「炸裂後15分」など原爆をテーマにした大作。平和記念館で保管
1975/12/26
首相の私的諮問機関「原子力行政懇談会」(座長、有沢広巳東大名誉教授)が「原子力行政体制の改革・強化に関する意見書」をまとめる。原子力委員会を分割し、新原子力委と原子力安全委員会を作る-などが骨子
1975/12/26
天皇の原爆投下発言に抗議声明を出した広島県原水禁(森滝市郎代表委員)に、宇佐美毅宮内庁長官から天皇発言を補足する回答。「原爆投下を肯定する意味あいのご発言ではない。ご自身としてはそれを止めることが出来なかったことを遺憾に思われて、『やむを得なかった』のお言葉になったと思う。第二次大戦の犠牲となった人々、今なお原爆の災禍に苦しむ広島、長崎両市民に心を砕かれておられる両陛下のご真情を理解してほしい」
1975/12/26
日本原水協が、核兵器の日本持ち込みを肯定した米下院軍事委員会のロバート・レゲット議員の発言を収録したテープを公表。核兵器全面禁止を国連に要請する「国民代表団」との会談を録音
1975/12/27
放射能漏れ事故で運転停止していた関西電力の美浜原子力発電所2号機が営業運転を再開
1975/12/--
広島市が姉妹都市の長崎市に贈る原爆ドームの五十分の一模型が完成。広島市竹屋町の商業デザイナー古田耕三氏が製作。3日長崎に搬送へ
1975/12/--
広島大原医研の湯崎稔助教授が被爆前後の広島市や近隣市町村の人口動態などを基に、コンピューター処理で原爆による死者数を最低約8万4,000人、最高約16万4,300人と推計。「原爆後障害研究会講演集」で発表へ。推計に軍関係の被害は含まず
1975/12/--
広島県教委の実態調査で同県内(広島市を除く)の小中高校に被爆教職員1,759人(全体の9.1%)がいることが分かる。40%が「すぐ疲れる」。追跡調査し代替教員の配置などを検討へ
1975/12/--
広島原爆被爆者福祉センターの調査で、広島市内の被爆者11万4,400人のうち、65歳以上が2万8,400人で全体の25%。老齢化に対応した老人専門病院の設置や通院施設など総合対策の必要性を指摘
1975/12/--
放送批判懇談会がNHK中国本部の被爆体験継承キャンペーン「市民の手で原爆の絵を」に第34回ギャラクシー賞を贈る
1975/12/--
ビキニ米水爆実験で死の灰を浴びたマーシャル諸島ロンゲラップ島の胎内被爆者にも甲状腺機能障害が発生していることが、米ブルックヘブン国立研究所の調査で判明。21歳の青年で、胎内被爆者の放射線障害はマーシャル諸島で初めて。同研究所から広島大医学部の江崎治夫教授に届いた水爆実験被災住民の医学調査報告書で明らかに
1975/12/--
広島県動員学徒等犠牲者の会が運動誌「戦後30年の歩み」を発刊。旧国家総動員法で駆り出されて被爆死した動員学徒の歴史などを振り返る

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