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ヒストリー

ヒロシマの記録1974 10月


1974/10/1
原爆医療法の改正で被爆者健康手帳が一本化。「一般被爆者」と「特別被爆者」の区分を廃止(「広島新史・年表編」)
1974/10/1
ファーミ・エジプト外相が国連総会で、イランが提案している「中東非核武装地帯設置」に関連して、核持ち込み禁止など「中東非核三原則」を提案
1974/10/2
ニューヨーク・タイムズが米国務省筋の話として「米から原子力発電設備や核燃料の供給を受けるイスラエルが、国際査察を拒否、供給交渉が難航」と伝える
1974/10/2
第61回列国議会同盟(IPU)会議が参院本会議場で始まる。66カ国、約500人の国会議員が11日まで、軍縮・資源問題を討議
1974/10/2
岩国市が原爆小頭症患者を抱える家庭に介護人手当の支給を決める
1974/10/5
府中市議会が被爆者援護法の早期制定を求める意見書を採択
1974/10/6
「核兵器積載艦が日本に寄港する場合も核抜き寄港はしない」。米の核戦略専門家、ラロック国防情報センター所長(退役海軍少将)の公聴会での証言を米議会原子力合同委員会・軍事利用分科委員会が公表。米国務省は否定も肯定もせず。木村俊夫外相「証言を全面的に米政府の見解として信頼するわけにはいかない」
1974/10/6
ブレジネフ・ソ連首相が東ドイツ建国25周年記念前夜祭で「地中海海域からの核積載艦引き揚げなど軍縮促進について米と交渉する用意がある」と演説
1974/10/7
広島被爆者団体連絡会議の被爆者や平和団体、労組の100人がラロック証言で明らかになった非核三原則の空洞化に抗議して原爆慰霊碑の前に座り込む
1974/10/7
津田文吾神奈川、久保勘一長崎、屋良朝苗沖縄の各知事がそれぞれ「ラロック証言が事実なら米艦船の寄港を拒否する」と表明
1974/10/7
キッシンジャー米国務長官が記者会見で「平和目的のための地下核実験制限交渉をソ連との間で始める」と表明
1974/10/7
日本原水協(共産党系)、原水禁国民会議(社会党・総評系)、日本被団協が、それぞれラロック証言で日米両政府への抗議声明発表
1974/10/7
木村俊夫外相が安川壮駐米大使にラロック証言について米政府の見解を求めるよう訓令。社会、共産、公明、民社の野党4党が政府に核積載能力のある米艦船の撤去を要求
1974/10/8
米軍岩国基地が同基地の航空機に「核装備能力あり」と認める。第1海兵航空師団のR・E・ケアリー副師団長が朝枝俊輔岩国市長の質問に対して回答。核の有無はノーコメント
1974/10/8
ニューヨーク・タイムズが米国防総省当局者の話として「核装備のまま日本を含めた外国に寄港することは秘密ではなく、日本にも通告している」と伝える。東郷文彦外務省事務次官は報道を否定。米国防総省も9日否定
1974/10/8
津田文吾神奈川県知事がホッドソン駐日米大使、木村俊夫外相に米空母ミッドウェーの横須賀寄港延期を申し入れ
1974/10/8
久保勘一長崎県知事が田中首相に「核持ち込みの疑惑のある艦船の入港には反対」と申し入れ
1974/10/8
日本への核持ち込みを証言したラロック退役少将から日本原水協に同氏の全証言を収録した米議会議事録が届く
1974/10/8
日本原水協の佐久間澄代表理事が、原水協結成20周年記念祝賀会で「来年の被爆30周年の原水禁世界大会は共同で開催するため全力を挙げたい」と述べ、原水禁国民会議(社会党・総評系)に働きかける方針を示す
1974/10/8
日本原水協(共産党系)の吉田嘉清事務局長ら代表が日本への核持ち込み問題で首相官邸を訪れ、「非核三原則の立法化を緊急に行え」との田中首相あての抗議文を手渡す。核禁会議(民社党・同盟系)の磯村英一議長ら代表が二階堂進官房長官に「政府は核政策を再検討し、国民が納得する姿勢を示せ」と申し入れ
1974/10/8
クレメンツ米国防次官が記者会見で日本への核持ち込み問題について「米政府は日本政府とのすべての協定と了解事項をこれまで完全に順守してきた」と声明。米国務省が「事前協議順守など安保関連取り決めを再確認する」との見解を日本側に伝える。日本政府は「抽象的で疑惑が残る」と不満表明
1974/10/8
佐藤元首相にノーベル平和賞。「非核政策の推進」が授賞理由。山田広島市長「核兵器持ち込みに対する国民の疑惑を解消するよう政府に働きかけるなど平和賞受賞者としてふさわしい行動を期待したい」。森滝市郎氏「意外なことであきれている。『核安保』を推進した人だ。選定方法を疑いたくなる」
1974/10/9
東広島市議会がラロック証言に関連し、非核三原則の順守を求めた決議を採択。京都市議会も「核兵器持ち込み拒否、基地撤去を要求する意見書」を採択
1974/10/9
日本被団協の清水正勝さんら10人が在日米大使館と首相官邸に「核持ち込みは許せない」と抗議
1974/10/9
地下核実験禁止協定の範囲を広げ、平和目的の核爆発も含めるための米ソ交渉が始まる
1974/10/9
佐藤元首相のノーベル平和賞受賞に被爆者団体が一斉に反発。日本被団協「日本の核基地化を促進した佐藤氏は受賞を辞退すべきだ」
1974/10/9
ラロック退役少将が「寄港前に核抜きはしない」との証言を再確認
1974/10/10
核持ち込み疑惑の米空母ミッドウェーが横須賀に入港。安保破棄中央実行委員会(共産党系)や革マル派などの労働者、学生約1,300人が横須賀市内で抗議デモや集会。津田文吾神奈川県知事が「地元の意向を無視した強制入港は遺憾」と抗議声明。社会、共産、公明、民社の野党4党が抗議談話発表
1974/10/11
第61回列国議会同盟(IPU)会議が閉幕。核兵器の製造、実験、貯蔵および使用を含む包括的な核兵器禁止条約締結の促進を要請する決議など採択
1974/10/11
「弾薬輸送反対黄幡、川上、秋月基地撤去広島県共闘会議」の藤浦俊雄事務局長ら代表6人が宮沢弘広島県知事に「ラロック証言の真偽が明確になるまで米艦船の呉寄港を断って欲しい」と要請。宮沢知事は「全国知事会の議題に出したい」と答える
1974/10/11
スフレ仏国防相が記者団に「南太平洋における大気圏内核実験を完了し、来年からは地下核実験に移行する」と語る
1974/10/12
沖縄県議会がラロック証言で米軍基地総点検を決議
1974/10/12
広島原爆被害者援護強化対策協議会(任都栗司会長)が国への緊急要求として(1)厚生省の概算要求から削られた黒い雨地区の被爆地域指定拡大(2)広島原爆病院の国立病院化-などを決める
1974/10/12
ラロック証言に対する米政府の公式見解について、社会、共産、公明、民社の野党4党が「ごまかしの見解」と一斉に反発
1974/10/12
米政府がラロック証言の公式見解を発表。「証言は一私人のもので、米政府は日本との取り決めは順守している。核兵器に対する日本国民の特殊な感情を深く理解している」。二階堂進官房長官「疑惑は残ろうが、米政府の言い分を信用する」
1974/10/13
ニューヨーク・タイムズが「核兵器の通過を認める秘密協定が日米間に存在する」と報道。外務省は否定
1974/10/14
インドのパント・エネルギー相が議会で「原子力の平和的利用について研究を続けるためには、もっと核爆発を行う必要がある」と発言
1974/10/14
ラロック証言が引き金になった日本への核持ち込み疑惑をめぐり衆院外交委員会で論戦。木村俊夫外相は「日米間に事前協議がある以上、核持ち込みはないと信じる。核抑止力依存と非核三原則は矛盾しない」と答弁
1974/10/14
米空母ミッドウェー、ミサイル・フリゲート艦ウォーデンの乗組員が横須賀市で証言。(1)ミッドウェー以外にも核爆弾が搭載されていると確信する(2)放射能漏れ事故を想定した訓練が行われている(3)他の港で核兵器の積み降ろしを目撃したことはない
1974/10/14
広島ホームテレビ放映の寄席番組に「被爆者差別」と広島の被爆者らが抗議。古今亭今輔さんの落語で「死んで灰になってもいやがられる原爆ばばあ」との表現があったため。キー局の日本教育テレビ(NET)、今輔さんとも陳謝
1974/10/14
山口県被団協などの15人が山口市内で「非核三原則を貫け」と48時間のハンスト
1974/10/14
ワシントン・ポスト紙が「横須賀寄港中のミッドウェーの装備担当の水兵が13日、核兵器を積んでいるのは間違いないと証言した」と伝える
1974/10/14
社会党軍事基地調査団の楢崎弥之助団長ら同党国会議員4人が呉防衛施設局に「核が搬入された可能性がある在日米陸軍の秋月弾薬庫を調査したい」と要請
1974/10/15
日本原水協の佐久間澄代表理事らが核疑惑が持たれている米海兵隊岩国基地を訪れ抗議文を手渡す。基地近くで座り込み
1974/10/15
米国務省が「日米の核通過秘密協定」の存在を否定せず
1974/10/15
原子力船「むつ」が50日ぶりに母港の大湊港・下北ふ頭に帰港
1974/10/16
グアム島から帰還した元日本兵、横井庄一氏が広島市を訪問、原爆慰霊碑に参拝
1974/10/16
スウェーデンのウプサラ大地震研究所が「16日、ソ連のセミパラチンスク地方で大規模な地下爆発を記録した」と発表
1974/10/16
社会党の原爆被爆者対策特別委員会が、5月に廃案になった「原爆被爆者援護法案」(野党4党共同提出)を「原爆被害者援護法案」に改称し、次期臨時国会に参院先議として提出する方針を固める
1974/10/16
宮沢弘広島県知事が全国知事会議で田中首相に核持ち込み疑惑の政府見解を要求。田中首相は「非核三原則を堅持する姿勢に変わりはない」。宮沢県知事は二階堂進官房長官にも「非核三原則の立場から住民の不安を解消するために核点検体制を」と要請
1974/10/16
久保勘一長崎県知事が臨時県会で核持ち込み疑惑について「疑いは晴れないが、米政府の見解が示された以上核は持ち込まれていないと判断する以外になく、核積載可能艦でも入港を認めざるを得ない」と答弁
1974/10/17
「米政府は核積載艦が日本に寄港する場合には、日本との事前協議の必要はないと了解している」。米上院外交委員会筋が共同通信記者に言明
1974/10/17
佐世保市議会が米艦船寄港拒否を決議
1974/10/17
ラロック証言問題で招集された長崎市会臨時会で諸谷義武市長が「核保有国の軍艦入港を拒否する方針を守るとともに、政府に対し非核三原則を要請する」と所信を表明。議会側も「核積載艦船の入港反対に関する意見書」を賛成多数で可決(「長崎年表」)
1974/10/17
「広島の学者・文化人の会」(代表世話人、飯島宗一広島大学長)が、ラロック証言で政府、国会に「非核三原則の立法化」を要請へ
1974/10/18
木村俊夫外相が参院外務委員会で「核の存否を明らかにしないのが米政府の最高政策であり、これがわが国の安全保障にもつながる」と答弁。米が核存否の明示を禁止している根拠を米原子力法(マクマホン法)としてきた従来の政府答弁を修正するとともに、政府としてこれ以上核持ち込みの有無を確かめる考えのないことを示す
1974/10/18
共産党の立木洋氏が参院外務委員会で「核兵器が沖縄の嘉手納基地を経由して韓国へ空輸」と追及
1974/10/18
「核持ち込みの事前協議は不要」との米上院外交委筋の発言に対し、木村俊夫外相は「核持ち込みは事前協議の対象である」と否定
1974/10/19
東京・数寄屋橋で被爆者ら30人が座り込み、ラロック証言をめぐり日米政府に抗議
1974/10/19
奥原義人呉市長が記者会見で「核積載可能な米艦の入港を拒否できない」と語る
1974/10/21
国際反戦デー、核疑惑で盛り上がる。広島県労働組合会議が広島市で3,000人が参加して県中央集会。「核持ち込み許さぬ」と気勢
1974/10/21
サイミントン米上院議員が国連総会第1委員会で「米は広島に落とされた核爆弾の61万5,365発に等しい核兵器を貯蔵している」と演説
1974/10/22
原水禁国民会議(社会党・総評系)が全国代表者会議で、政府に非核武装宣言を要求する運動の展開を決める
1974/10/23
米軍事筋が「米統合参謀本部も核持ち込みの事前協議は不要と解釈している」と言明
1974/10/23
全日本民医連主催の「被爆者医療研究集会」が東京で始まる。24日まで。医師、看護婦、被爆者ら76人が参加。被爆者の健康管理と現行の原爆二法の問題点を議論。被爆者援護法制定などを厚相に要求へ
1974/10/25
米国防総省が「大陸間弾道ミサイル(ICBM)を大型輸送機から投下する空中発射に成功」と発表
1974/10/25
西堀正弘軍縮大使が国連総会第1委員会で「平和目的の核爆発も国際管理が必要」と演説
1974/10/25
イランが国連総会第1委員会に「中東非核武装地帯設置決議案」を提出
1974/10/25
広島原爆病院運営委員会が病院改築のための小委員会の設置決める
1974/10/26
広島市の安田女子高新聞部が文化祭で「核の恐怖」パネル展
1974/10/26
世界的な平和研究家、ノルウェー・オスロ大のヨハン・ガルトゥング氏が広島市を訪問。広島市の役割として平和の構造を究める平和研究所の必要性を訴える
1974/10/26
広島県原水協(佐久間澄理事長)が核兵器完全禁止国際協定締結、被爆者援護法制定などを訴え広島市内をデモ
1974/10/27
ニューヨーク・タイムズが日本の権威筋の話として「核持ち込みを認める秘密協定が日米安保条約改定時(1960年)に日米間で交わされた」と報道。当時の外相、藤山愛一郎氏は否定
1974/10/28
広島県から被爆者検診を委託された「広島県地区衛生組織連合会」(沢崎嘉衛理事長)が無資格医学生を使い、佐伯郡能美町、安芸郡坂町の502人を検診
1974/10/29
原爆被爆死者の遺族年金訴訟で、東京地裁が遺族の請求を認める判決
1974/10/29
広島県地区衛生組織連合会の無資格医による被爆者検診問題で、広島県が検診のやり直しを海田、大柿の両保健所に指示
1974/10/29
ガンジー・インド首相がキッシンジャー米国務長官に「核拡散防止条約に調印する考えはない」と通告
1974/10/30
社会党の大原亨氏が衆院社会労働委員会で「被爆当時、広島市民は義勇兵役法により徴兵と同じように国との権力関係があった」とし、国家補償の必要性を訴える新しい見解を示す。厚生省、内閣法制局は「終戦前の混乱期に兵役法が実際に運用されたとは思われない」と答弁
1974/10/30
世界連邦運動のシンボル「平和の塔」が広島市平和記念公園に完成、除幕式
1974/10/30
ニュージーランドを訪問中の田中首相がローリング首相との首脳会談で核実験反対を確認
1974/10/30
昭和天皇が秋の園遊会で重藤文夫広島原爆病院長に伝言。「患者の方々によろしく伝えて下さい」 1974/10/31
木村俊夫外相が核拡散防止条約の批准について「次期通常国会に提出、承認を求める手続きをとるつもりだ」と英で決意を語る
1974/10/--
原子力船「むつ」の放射線漏れ事故で、政府が原子力行政の再検討に入る。科学技術庁に集中する権限を「開発」と「安全対策」に分割へ
1974/10/--
被爆の後遺症に苦しみ広島原爆病院に入院している富士原亀乃さんが、広島第2次スモン訴訟原告団に加わる。被爆直後から下痢がひどくなり、キノホルムを常用したのが原因
1974/10/--
広島市の杉本茂憲医師がABCCの資料から「被爆線量が多いほど老人性白内障になりやすい」と推論できるデータを見つける
1974/10/--
中国電力が広報担当者用資料の中で原子力発電に関連した新聞報道を「危険性を誇大に報道している」などと強く批判

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