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ヒストリー

ヒロシマの記録1973 7月


1973/7/1
長崎原爆戦災誌編さん委員会発足(「長崎年表」)
1973/7/1
バーナード・オーストラリア副首相兼国防相が「政府は中国の核実験を国際司法裁判所に提訴することを考慮している。特に中国が再度、実験を実施する兆しが見えたら提訴に踏み切る」と言明
1973/7/2
広島市が被爆28周年原爆死没者慰霊式・平和祈念式に長崎市の諸谷義武市長、宮崎藤美市議会議長、被爆者代表の3人の招待を決める
1973/7/2
仏核実験に抗議する英労働組合会議の呼びかけによる仏製品ボイコット運動で、英仏間の通信、交通、貨物輸送が混乱
1973/7/3
衆院本会議で自民、社会、公明、民社が賛成し「中国の核実験に抗議し、仏の核実験に反対する決議案」を可決。共産党は反対
1973/7/3
福山市で開いた「ヒロシマ・ナガサキ返還被爆資料展」福山会場展が閉幕。6月30日から4日間の入場者は3万1,828人
1973/7/4
原水爆被災資料センター設立推進委員会の志水清原爆被災復元委員会会長、福島要一日本学術会議会員、行宗一日本被団協代表委員ら5人が、二階堂進官房長官に「センター実現のため、政府は1974年度予算に調査費計上、1975年度着工に努力してほしい」と陳情
1973/7/5
宮本顕治共産党委員長が国会内で記者会見。「中ソの対立によって世界の政治情勢は変わってきた。このため、社会主義国の核実験でもすべて防衛のために余儀なくされたとは言えぬ状況になった。今後は社会主義国の核実験でも反対する」。これまでの主張を大きく転換
1973/7/6
ニュージーランドが仏核実験に抗議の派遣船をオタゴから最新鋭艦のカンタベリに変更
1973/7/6
「ヒロシマ・ナガサキ返還被爆資料展」三次会場で「広島赤十字病院で治療中の写真の看護婦は自分」と、広島県比婆郡西城町の井上邦恵さんが名乗り。治療を受ける患者は「荷車のめい」の陸田豊子さん
1973/7/6
共産党が社会党の声明に反論。「いかなる国の核実験にも反対、部分核停条約支持を押しつけ、原水協と世界大会から脱退したことが、原水禁運動分裂の歴史的な経過。その点を反省せず、わが党があたかも社会党の立場に立ったかのように描き出すことは、歴史の事実をゆがめるものであり、身勝手で無責任な態度」
1973/7/6
社会党が「原水禁運動に対する共産党の転換についての声明」を発表。(1)共産党が誤りに気づき方針転換したことは、日本の原水禁運動の正しい発展のために一応評価する(2)共産党が原水禁運動を分裂させ、原水禁国民会議と社会党を中傷非難してきたことについて反省を示さないのは身勝手で無責任(3)真に方針を転換したのなら党と大衆運動の混同をやめ、これらの点での反省と今後の態度の変更がないことを明らかにすべき
1973/7/7
全逓広島地区本部(土居一夫委員長)が「全逓広島被爆者の会」結成大会。会長に全逓広島貯金支部の岡田三智夫さん
1973/7/7
国労被爆者対策協議会(石川俊彦事務局長)が、オーストラリア鉄道労組から届いた被爆者招待にこたえ、広島運転所の竹田博勝さん、宇野駅構内掛の平末豊さんの2人の派遣を決定。22日に広島を出発
1973/7/8
婦人民主クラブ広島支部(下田三津子支部長)が、平和祈念式の山田広島市長の平和宣言読み上げに反対を決める。前年10月29日に広島市内であった自衛隊市中パレードを山田市長が観閲したため。原水爆禁止母の会、日本婦人会議も同調
1973/7/8
「ヒロシマ・ナガサキ返還被爆資料展」三次会場が3日間の展示閉幕。1万5,769人が入場
1973/7/9
ヒロシマ・アウシュビッツ委員会(桑原英昭委員長)と広島県賀茂郡黒瀬町が、ポーランド・アウシュビッツと姉妹都市縁組調印のため親善使節団を派遣。使節団はヒロシマ・アウシュビッツ委員会が桑原委員長ら9人、黒瀬町が花房脩宗町長、中富松美町議会議長、一般町民ら17人の計26人。調印式は7月18日、アウシュビッツ町の議事堂で開かれ、ヤン・ググルカ町長ら70人が出席
1973/7/9
参院本会議が「あらゆる国の核実験に反対する決議」を採択。参院の「核実験非難決議」は、1956、57、58、61年と過去4回。61年は共産党だけが反対
1973/7/9
仏核実験に抗議しニュージーランドの平和運動組織が派遣したヨットのフライが、「実験危険海域を動かない」と声明。乗組員は男10人、女3人、女性の1人は妊娠6カ月
1973/7/10
仏核実験の予定海域ムルロア環礁に抗議船が続々集結。ニュージーランドの平和運動組織のヨット、フライ、僚船スピリット・オブ・ピース、アラキワ、仏人4人が乗り組むアーウェン。英、カナダ、ニュージーランドの男女4人が乗ったグリーンピース3世も現地に向かう。ニュージーランド艦は11日中に危険海域に
1973/7/10
米政府原子力委員会とスウェーデンのウプサラ大地震研究所が、ソ連の地下核実験を探知と発表。実験地域はセミパラチンスク地方
1973/7/10
広島東署検視調書、海田署検視調書が広島県警から原爆資料館へ寄贈
1973/7/10
全電通の被爆二世組合員が「全電通被爆二世協議会」を結成。代表に遊川和良さん
1973/7/10
広島県教組(宅和純委員長)が、1974年度改訂となる小学校教科書の原爆記述についての公開質問状結果を分析し、発表。「全体に記述は増えているが、原爆の生々しい被災状況を伝える体験記などがない。原子力の平和利用も一方的な礼賛が多い」
1973/7/11
ニュージーランドの仏核実験抗議艦が、仏の警告を無視して危険海域に突入
1973/7/11
広島東署の倉庫から見つかった「戦災死亡者イロハ名簿」で、肉親の名前確認相次ぐ
1973/7/13
山田広島市長と諸谷義武長崎市長が共同で仏核実験に抗議の声明。「核実験を強行しようとする仏政府の行為は人類に対する犯罪」。駐日仏大使に手渡す
1973/7/13
広島県高教組(唐川喜久夫委員長)が、平和教育推進委員会結成。平和教育副読本の編集などを決める
1973/7/13
原水禁国民会議が、原水禁運動の統一問題について声明。「共産党の方針変更は政党レベルの問題。大衆運動としての原水禁両団体は組織統一よりも、被爆者援護法制定の共同行動など運動の積み上げが先決」
1973/7/13
被爆28周年を迎え、式典協議会を発展的に解消、新たに「世界平和祈念旬間行事実行委員会」(会長、諸谷義武長崎市長)が発足(「長崎年表」)
1973/7/14
日本弁護士連合会人権擁護委員会の中に被爆者問題調査特別委員会(武田熈委員長、11人)が設置。広島弁護士会の要請を入れる
1973/7/14
ペルーとブラジル両国が、すべての核実験を即時中止するよう求めた共同コミュニケを発表。ペルーのベラスコ大統領は仏核実験に抗議し、強行の場合は外交関係を断絶すると警告。ブラジルはこのペルーの立場を支持
1973/7/14
広島で被爆後、消息不明になった原爆孤児の兄と妹が28年ぶりに熊本で再会。妹が被爆者健康手帳を取得のため、広島県被団協(森滝市郎理事長)に連絡をとったのがきっかけ
1973/7/15
中国新聞が連載企画「日本共産党核政策転換の波紋」を掲載
1973/7/16
「ヒロシマ・ナガサキ返還被爆資料展」山口展が終わる。4日間で5,012人が入場
1973/7/17
共産党の上田耕一郎政策宣伝委員長が、党創立51周年記念集会で講演。共産党の核政策転換について「『いかなる国の核実験にも反対』という、積極中立の立場に同調するほど党の態度は変わったのではない」
1973/7/18
仏海軍が危険海域のヨットの実力排除を始める。フライの無線機を押収。仏の退役将軍ボラディエール氏ら15人を収容し、危険水域外に引航
1973/7/18
二階堂進官房長官が記者会見で、ABCCの財政負担について「出来得る限り折半に努力」と表明。「米大使からも強く要望され、日米首脳会談のテーマにもなる」。1972年度のABCC予算は米側16億3,600万円、日本側7,400万円
1973/7/18
日本原水協が東京で拡大常任理事会。統一問題について(1)一致点で団結(2)運動の自主性を守る(3)妨害分子の介入を許さない-の統一3原則を守り、「国民運動としての全体の組織統一を考える」との従来の路線を再確認
1973/7/20
広島市が、広島赤十字病院に入院中の韓国人被爆女性2人から出ていた生活保護(医療費扶助)申請の受理を決める。李金徳さんと張弼生さん。外国人の医療費公費負担は初めて
1973/7/20
広島市が8月9日午前11時2分の長崎の原爆投下時刻に黙とうするよう市民に呼びかけを決める
1973/7/20
仏核実験に抗議し、原爆慰霊碑前に座り込んだ被爆者団体17団体のうち12団体が、「広島被爆者団体連絡会議」準備会を結成。代表世話人に近藤幸四郎氏
1973/7/20
仏核実験に抗議し2つの広島県被団協、全電通被爆者連絡協議会、動労被爆者対策協議会、全逓広島被爆者の会、広島県被爆教師の会、広島県高校被爆教職員の会、胎内被爆・被爆二世問題対策会、全日自労被爆者の会、全電通被爆二世協議会、電通遺族会、ABCC労組、原水爆禁止母の会、原水爆禁止広島市協議会、広島県労青年部、広島市民会議、電通共闘の17団体、130人が原爆慰霊碑前で、約1時間座り込み
1973/7/22
仏核実験に対し抗議の波。オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、チリなどが相次いで非難、抗議声明、談話を発表。国内では社会、共産、公明、民社が抗議談話、長崎市が抗議電報
1973/7/22
仏が南太平洋ムルロア環礁で国際的な反対を押し切って核実験を強行。5キロトン程度
1973/7/22
広島市の旧天神町(現中島町)南組町内会の生存者らが原爆犠牲者の慰霊碑を建立、除幕式。平和記念公園南側の平和大通りを隔てた平和大橋西詰め緑地帯
1973/7/23
山田広島市長が記者会見で、「核実験禁止のための世界法制定を日本政府、国連本部、オーストラリア、ニュージーランド、スウェーデン政府に長崎市長と一緒に訴える」と表明。仏に抗議電報を打つ
1973/7/23
ペルーが仏との外交関係を断絶。「仏が核実験をやめるまで、外交関係を復活させることはない」
1973/7/23
住友銀行広島支店で米返還被爆資料30点を展示し「原爆写真展」。8月6日まで
1973/7/23
スウェーデンのウプサラ大地震研究所が、ソ連はシベリアで最大級の地下核実験を実施と発表
1973/7/24
石田原爆訴訟が広島地裁で、第2回口頭弁論。被告の国側が(1)被爆者福祉行政は国家賠償的な考えではなく、社会保障的な考えで実施(2)原爆白内障に関する認定基準はない-と証言
1973/7/25
広島市神田山にオープンする「広島原爆被爆者療養研究センター」に日本南画院評議員片田天玲さんが「群鱗」、光陽会会員吉永保さんが「風みどり」の自作を贈る
1973/7/25
中国新聞が連載企画「奇跡から28年爆心500メートル圏内の生存者」を始める。野村英三、金子弥吉、太田睛、堀江克子、石井茂、松本シヅコ、林定、坪田省三さんの8人
1973/7/26
中国新聞が連載企画「訴える在米被爆者」を掲載
1973/7/26
公明党が原水禁国民会議の被爆28周年原水爆禁止世界大会への初参加を決める
1973/7/26
日本原子力船開発事業団が、原子力船「むつ」の原子炉出力上昇試験を青森県東方1,000キロの太平洋上で行うと発表。27日、青森県漁連が反対
1973/7/28
作家の文沢隆一氏が中国新聞に「歴史をつくる義務失われるものへの存在証明を」と題し、寄稿
1973/7/28
広島市議会が共産党を除く7会派で提案した「米、英、仏、ソ、中の核実験に反対し抗議する決議案」を満場一致で採択。共産党は条件付き賛成
1973/7/28
仏核実験に抗議しヨット、カルメンで危険海域に入ったオーストラリアの弁護士、ロバート・ウィグノールさんの行方が11週間分からず。タヒチ島パペーテの当局者が語る
1973/7/28
主婦同盟広島支部(佐々木頼子支部長)の会員らが広島市内で被爆老人に愛の手を、と街頭募金。29日に広島原爆養護ホームを見舞う
1973/7/28
法務省が、日本原水協の第19回原水爆禁止世界大会参加の南ベトナム平和委員会代表4人の入国拒否を決める
1973/7/28
米原潜ドラムが横須賀に入港
1973/7/29
仏が南太平洋ムルロア環礁上空600メートルで2回目の核実験。規模は1キロトン程度
1973/7/30
広島市牛田新町1丁目に被爆者の保養施設「広島原爆被爆者療養研究センター」(神田山荘)が完成、開所式。財団法人・広島市原爆被爆者協議会(会長、山田広島市長)が、広島県、広島市、日本自転車振興会の補助を受け3億3,600万円で建設
1973/7/30
広島の街に「1945年8月6日」を再現する「ヒロシマ街頭写真展」が市内40カ所で始まる。8月11日まで。新聞紙大の135枚を展示、破壊と現在を見比べ28年前をしのぶ。「8月6日を広島の街に再現する市民の会」(代表、庄野直美広島女学院大教授ら6人)が計画
1973/7/30
2回目の仏核実験に抗議し、「広島被爆者団体連絡会議」準備会(近藤幸四郎世話人)の8団体約50人が、原爆慰霊碑前で座り込み。広島市も抗議電報
1973/7/30
永野厳雄広島県知事が8月6日の黙とうを呼びかけ。1964年以来毎年続く
1973/7/30
広島大原医研が、米返還被爆資料のカルテの広島分9,060人分のうち2,286人の生存を確認
1973/7/30
原爆資料館に3体の被爆者ロウ人形の据え付け始まる。8月3日から公開。製作は京都市の西尾製作所。「つくり物」をめぐり論議起きる
1973/7/31
「ヒロシマ・ナガサキ返還被爆資料展」を平和記念館で再開。広島、長崎市主催。写真を20枚増やし、計159枚を展示。8月6日まで
1973/7/31
山田広島市長がオーストラリア大使館、ニュージーランド大使館を訪ね「核実験即時全面禁止の決議案を国連で取り上げるよう英連邦などに働きかけてほしい」と両国大使に要望
1973/7/31
再開の「ヒロシマ・ナガサキ返還被爆資料展」で、広島逓信病院の「被爆者治療」写真で「治療に当たっているのは自分」と広島県廿日市町の鼻岡寿男さんが名乗り
1973/7/--
広島女学院大(村上忠敬学長)の宗教委員会(小黒薫委員長)が、過去6年間の「原爆講座」や特別寄稿などを合わせ「ヒロシマの意味」を発刊
1973/7/--
米のコン・エジソン社が、住民の反対でニューヨーク市の衛星都市、ニューロッシェルの小島への原子力発電所建設を断念
1973/7/--
大分県教組(本郷公威委員長)が「授業では得られない『原爆』を夏休み生活の中で考えよう」と、小、中学生の夏休み学習帳に「原爆」の項目を新設。被爆地以外では珍しい試み
1973/7/--
被爆資料の収集を手がける広島市の山崎与三郎さんが、一家4人で被爆体験記を書き「死線を越えて-吾家の原爆体験記」として自費出版
1973/7/--
広島東署倉庫で「戦災死亡者イロハ名簿」(宇品署)、「所在不明者名簿」(東署)が見つかる。イロハ名簿は似島で死亡した被災者を多く含む2,272人の氏名、死亡場所、本籍、死因、年齢が記入。所在不明名簿は東署に届け出のあった行方不明者645人の名前
1973/7/--
東京の市民グループに招かれ来日中の被爆韓国人、李金徳さんと張弼生さんが広島市に生活保護を申請。招いたのは東京・練馬区の岡崎千代子さんら
1973/7/--
広島女学院教職員組合(松原勉委員長)の平和教育委員会(中野修作委員長)が、同校の原爆被災状況をまとめ「夏雲広島女学院原爆被災誌」を発刊
1973/7/--
ロサンゼルス広島県人会(ジミー・岡本会長)が在米被爆者の医療保護を訴えるため、米国原爆被爆者協会(岡井巴会長)の後援会づくりなど検討。カリフォルニア州選出のエドワード・ロイボール下院議員(民主党)、ニューヨーク選出で大統領候補にもなった黒人女性のシャーリー・チザム下院議員ら12人の議員が、下院に在米被爆者の援助法案を提出
1973/7/--
広島県安佐郡戸山村の国民学校に収容された原爆被災者の名簿が、当時の村長宅から見つかる。被爆3日後から1945年10月20日までに収容された61人(うち死亡9人)の氏名、年齢、本籍など
1973/7/--
福岡県八女郡星野村、山本達雄さんが燃やし続けてきた広島原爆の残り火が8月5日に広島へ。広島県原水禁(社会党・総評系)が計画。山本さんは広島市本通りに住んでいた叔父の家でくすぶっていた火を九州へ持ち帰った。星野村役場が5年前から「原爆の火の塔」を建て燃やし続けている 1973/7/--
「原子爆弾災害調査報告書」の気象編作成に協力した広島地方気象台前観測課長の北勲さんが、黒い雨地域と特別被爆地域指定の矛盾を指摘
1973/7/--
広島市が「黒い雨」の雨域実態調査へ。特別被爆地域指定漏れの広島市沼田、安古市、安佐町
1973/7/--
在日本大韓民国居留民団広島県地方本部(姜文煕団長)が「朝鮮人の被爆記録づくり」始める

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