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ヒストリー

ヒロシマの記録1972 1月


1972/1/1
広島市が原爆孤老実態調査を実施。生活状況の変遷や病弱者の健康管理を追跡調査し、援護施策の確立を図る目的。1971年6月末現在の特別被爆者で60歳以上の単独世帯が対象(「広島市原爆被爆者対策事業概要・平成6年版」)
1972/1/5
琉球政府の屋良朝苗主席が、米サンクレメンテの日米首脳会談に臨む佐藤首相に「沖縄から核が完全になくなるよう話し合いを進めてください」と訴え
1972/1/6
大蔵省が1972年度予算の同省原案に盛られた被爆者対策予算を発表。(1)被爆者健康管理手当の年齢制限引き下げ(2)広島、長崎の原爆養護ホームのベッド約100床ずつの増床(3)原爆医療審議会に被爆二世問題などを審議する福祉部会を新設-など。原爆被爆者特別措置法に基づく各種手当の所得制限撤廃は見送られたが、復活折衝で制限緩和が決まる
1972/1/6
米評論家ジャック・アンダーソン氏がワシントン・ポスト紙はじめ全米各紙に掲載したコラム記事で、マイヤー駐日米大使が日米首脳会談に備えてニクソン大統領に送った秘密報告を暴露。マ大使は「日本が米の核の傘から離れて独自の核武装をするかもしれない」と警告
1972/1/7
米政府原子力委員会が「中国は7日、北西部のロプノル実験場で大気圏内核実験を実施」と発表。規模は20キロトン弱、中距離弾道ミサイル(IRBM)用実験と推定。中国核実験は1971年11月18日に次いで13回目
1972/1/7
米サンクレメンテでのニクソン米大統領と佐藤首相の首脳会談が終わり共同声明を発表。「沖縄の5月15日復帰」「返還時の核抜き確認」を盛り込む
1972/1/8
長崎県の久保勘一知事が中国核実験に対し周恩来首相に抗議電報を打つ。諸谷義武長崎市長も
1972/1/8
山田広島市長が中国の毛沢東主席に核実験の抗議電報を打つ
1972/1/9
北京の新華社電(9日発)が「中国は7日、新たな核実験を行った」と発表。「中国の核実験は2超大国による核独占と核威嚇を打ち破るため」
1972/1/11
内閣放射能対策本部が、日本上空の高空浮遊じん(10日)から平常時の100倍の放射能を検出した-と発表。中国核実験の影響とみられる
1972/1/12
被爆二世問題をテーマにした映画「ヒロシマの子」(仮題)づくりを準備している製作上映実行委員会(石田明事務局長)が広島教育会館で事務局会議。プロデューサーの大野忠氏らも参加。2月中にストーリーを作り、5月撮影開始、7月末完成を目指す。2月14日には映画の子役男女2人の推薦を要請する文書を広島市内の国公私立58小学校の校長に送る
1972/1/12
1972年度予算案が決まり、被爆者対策費は115億4,400万円と前年度より32.8%増
1972/1/12
原爆ドーム南側の「動員学徒慰霊塔」の石製さい銭箱の裏側石ぶたが割られているのが見つかる。中のさい銭は無事。1971年3月にも壊される
1972/1/13
河野文彦経団連防衛生産委員長(三菱重工会長)が防衛問題について記者会見。「ドル防衛への協力として米に核の傘代を払うという考え方もあり得る」
1972/1/14
佐世保市議会が「原子力艦艇の佐世保寄港反対」の請願と「米原子力空母エンタープライズの再寄港反対」に関する意見書を全会一致で採択
1972/1/18
サイミントン米上院議員(民主党)が上下両院合同原子力委員会に提出した報告書で指摘。「日本が核保有国の一つに進もうとすることは驚くに足りない」
1972/1/19
広島大の若手医師らで結成する被爆者医療研究会(代表、森昭夫広島大原医研助手)が原対協に、広島原爆被爆者福祉センターの施設使用について公開質問状を提出。被爆二世検診のため施設器材使用を申し入れたが断られたため。原対協は2月2日、正式に使用を断る
1972/1/20
内田宏ニューヨーク総領事が演説し「アジアの安全保障にとって米の核の傘が不可欠」と強調
1972/1/20
日本原水協(共産党系)の「沖縄県被爆者激励・医療調査団」(小佐々八郎団長)が神戸港から沖縄へ出発。調査団は広島、長崎の被爆者、医師、ケースワーカーら9人で構成。22~27日間、2班に分かれ、沖縄本島や離島で被爆者、医療の実態を調査。「沖縄の被爆者医療は本土と比べ著しく劣っている。指定医療機関を増やし、十分な医療の手を差し伸べる必要がある」
1972/1/21
中国の周恩来首相が日本の訪中3団体と北京市の人民大会堂で会談。「日本が日中国交回復の際に核兵器不使用の提案をすれば、中国も直ちに調印する」と表明。総評・中立労連訪中団、社会党1年生議員団、沖縄第1次訪中団の3団体
1972/1/21
スウェーデンのウプサラ大地震研究所がカスピ海の東でマグニチュード7の大規模な地下爆発を探知。ソ連核実験と推測
1972/1/21
国労原爆被爆者対策協議会(会長、中川新一国労委員長)が被爆二世の実態調査を開始。被爆者健康手帳を持つ国鉄職員1,700人とその子供約4,000人の計5,700人を対象に調査票を配布。親の被爆状況、二世の健康状態、親と二世の将来不安など6項目を調査
1972/1/22
ABCC労組(上田登委員長)が広島県原水禁(社会党・総評系)の代表9人を招き、同労組のABCC再編構想に対する意見を聞く。「再編構想は現状の部分改良で、市民の支持を得られない」と批判意見が大勢
1972/1/23
被爆者青年同盟などが広島県安佐郡高陽町に建設を進めている「高陽病院」の長崎県建設委員会が発足。広島、東京に次いで3番目
1972/1/24
訪日中のスペイン皇太子夫妻が広島市を訪問。原爆慰霊碑を参拝、原爆資料館を見学
1972/1/25
原爆で死亡した教師や国民学校児童の遺族で作る「原爆犠牲国民学校教師と子どもの遺族会」が、遺族に対する年金や見舞金支給を国、広島県、市に求めることを決める
1972/1/26
島根県八束郡鹿島町に建設中の中国電力島根原子力発電所が1973年5月から試運転を始めるのに備え、同県と中国電力が「放射能の安全確認についての覚書」締結のため話し合いを開始
1972/1/27
三菱原子力工業会社の臨界実験装置の安全性をめぐり、埼玉県大宮市北袋町の住民約1,600人が同社を相手取って起こした装置撤去を求める訴訟の第18回口頭弁論で、浦和地裁が同社に「安全性確認のため装置の技術資料を提出せよ」と決定。企業秘密より住民の安全重視
1972/1/30
広島で被爆した沖縄の被爆者、伊集盛吉さん(53歳)が検査と治療を受けるため広島入り。広島県原水禁(社会党・総評系)が斡旋。31日、広島市立舟入病院に入院し精密検査と治療を受ける
1972/1/31
日本歴史学協会が東京で委員会を開き、同協会内に「原爆被災資料問題特別委員会」の新設を決定
1972/1/31
福井県敦賀市で開かれた「原子力発電・核燃料再処理工場設置反対全国活動者会議」が、原発反対運動を全国的に盛り上げるため「全国連絡会議」設置を決める。原水禁国民会議(社会党・総評系)主催で、全国18都道府県の約80人が参加
1972/1/--
広島大原医研の1972年度予算で被爆者症状調査費が倍増の約470万円認められる。被爆者双生児の追跡調査が可能に
1972/1/--
広島大原医研(岡本直正所長)が日本学術振興会(茅誠司会長)に申請していた韓国人医師ら3人を原爆治療研究のため招く計画が認められず

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