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ヒストリー

ヒロシマの記録1972 6月


1972/6/1
北朝鮮を訪問中の公明党代表団と会談した金日成首相が、核兵器に対する質問に答える。「わが国は小さな国ですから核兵器の生産もできなければ、保有も考えていません。また必要でもありません。実験する場所がありませんよ。われわれは核兵器の完全廃棄を主張しています。この点は日本人民と同じ立場です」
1972/6/1
原子力委員会が環境保全対策の強化を盛り込んだ第4次「原子力開発利用長期計画」を決定。今後10年間の国内の原子力政策の指針。1985年度には総発電規模の四分の一は原子力発電で賄うと想定
1972/6/2
全国被爆教師の会(石田明会長)が広島教育会館で幹事会を開き、8月に広島で平和教育研究集会を開催し、日本原水協(共産党系)と原水禁国民会議(社会党・総評系)の統一参加を要請することを決める
1972/6/2
広島県教組、国労広島地本など単産、被爆者団体7組織が「被爆二世問題連絡会」を結成。当面、各単産が実施した被爆二世問題の調査結果を持ち寄って総合分析するほか、放射線と遺伝についてシンポジウムを開催。政府や地方自治体に被爆二世対策を要望
1972/6/3
戦争の悲惨さを訴える「アウシュビッツ展」が広島市中島町の平和記念館で始まる
1972/6/3
日本原水協(共産党系)の国民平和行進が、東京での第18回原水禁世界大会に向け広島市の平和記念公園を出発
1972/6/4
被爆二世の細胞遺伝学的調査を進めているABCCの錬石昇太郎研究員ら9人の研究グループが、長崎市で開かれた第13回原爆後障害研究会で、「広島、長崎の被爆二世11人に染色体異常が見つかった」と中間集計結果を報告。被爆二世1,810人と同年代の非被爆者281人の計2,091人の染色体異常のまとめ
1972/6/4
第13回原爆後障害研究会が長崎市の医師会館で開かれ、約100人が参加。広島大原医研とABCC共同研究の「被爆者のダ液腺腫瘍」、長崎大医学部の「西山地区残留放射能調査」、ABCCの「被爆第1世代の細胞遺伝学的調査」など25の研究発表。「原爆と発がん」をテーマのシンポジウム。国立遺伝学研究所形質遺伝部の田島弥太郎部長が特別講演で「広島、長崎の被爆二世は推定10万5,000人、うち何らかの遺伝的障害を持つ二世は400人までと推定」との試算を発表
1972/6/5
スウェーデンのストックホルムで第1回国連人間環境会議が112カ国参加で開幕。ワルトハイム事務総長が歓迎式での演説で、環境汚染に関連して各国の核実験を非難。「核実験が人類の健康を害しつつある」
1972/6/5
「核禁止アピール被爆者の会」代表3人が東京の在日米大使館を訪れ、「米軍岩国基地の核訓練をやめ、核兵器を直ちに撤去せよ」とのニクソン米大統領あての抗議文を手渡す
1972/6/5
レアード米国防長官が上院歳出委員会対外活動委員会で証言。「米が海中長距離ミサイルやB1型新戦略爆撃機を開発することは、ソ連との今後の戦略兵器制限交渉(SALT)で優位な立場を確保するために絶対必要」
1972/6/6
北朝鮮を訪問中の公明党代表団が共同声明に調印。その中で「核兵器の全面禁止と完全廃棄」を盛り込む
1972/6/7
核禁会議(民社党・同盟系、磯村英一議長)が理事会で、この夏の運動方針を決定。(1)7月1~8月15日までを被爆者救援カンパ期間とし、1,500万円を目標(2)韓国から被爆二世2人を全国大会に招く(3)韓国原爆被害者援護協会と協力し同国へ医師団を派遣-など
1972/6/7
地下核実験探知、識別のための日本、カナダ、スウェーデン3カ国地震学専門家会議が外務省で開会。13日、探知のための資料、技術交換に合意して閉会
1972/6/7
国連人間環境会議でニュージーランド、日本など太平洋9カ国がすべての核実験停止を核保有国に求めた共同アピールを提出。8日には両国やカナダなど8カ国が核実験停止を求める共同声明
1972/6/9
峠三吉氏らが編集した詩集「原子雲の下より」(1952年9月1日発刊)に未掲載の原稿96編が、歌人深川宗俊氏から広島平和教育研究所に寄贈。広島県内の小3~6年までの児童91人の原稿。峠氏らと編集に当たった川手健氏が集め、同氏の死後、広島大教育学部東雲分校付属中学の松野脩輔教諭の手に渡り、それを深川氏が保管
1972/6/9
ソ連ボルゴグラード市の医学者2人が広島市を訪問。12日、原爆慰霊碑に参拝、原爆資料館を見学、広島原爆病院や広島大原医研を訪れる
1972/6/9
海洋汚染問題を討議する国連人間環境会議第3委員会が、原子力船、原子力潜水艦から排出される放射能に関する各国の国内規制法の強化を追加修正した「海洋汚染に関する一般勧告案」を採択
1972/6/10
ソ連ジャーナリスト同盟の訪日代表団(団長、ハチャツロフ・ノーボスチ通信副社長)一行6人が広島を訪問。中国新聞社で原爆記録映画「ヒロシマ原爆の記録」を観賞。11日、原爆慰霊碑に参拝、原爆資料館を見学
1972/6/10
広島県被爆教師の会が広島教育会館で定期大会を開き「被爆二世問題連絡会」と合同で全国的な二世調査を進める方針を決める
1972/6/12
広島県安佐郡高陽町の高陽中学校生徒会が広島原爆病院にホタルを贈る。1958年以来、15回目
1972/6/13
ストックホルム国際平和研究所72年度年鑑(13日発行)が、核兵器を開発する能力のある15カ国のうち最も進んだ核技術国としてインドを第一にランク
1972/6/14
沖縄被爆者協議会(金城秀一理事長)から沖縄在住の被爆者支援を求める要請書が原水禁国民会議(社会党・総評系)に届く。国民会議は常任委員会で(1)夏の被爆者救援募金で沖縄被爆者への特別募金を集める(2)6月末に沖縄被爆者2人を広島市立舟入病院に入院治療させる運動を起こす-ことを決める
1972/6/14
国連人間環境会議が核実験停止決議案を多数で可決。中国、仏は反対、ほかの核保有国は棄権
1972/6/14
仏ルモンド紙が仏核実験の継続問題を社説で取り上げ、「仏の国防上、核武装は果たして真に必要だろうか」と疑問を投げかける
1972/6/16
第1回国連人間環境会議が「大量破壊兵器禁止条項」を盛り込んだ「人間環境宣言」を採択し、12日間の会議を閉幕
1972/6/17
日本原水協(共産党系)の「被爆二世問題活動者会議」が広島労働会館で開会。18日、「被爆二世と原水禁運動の結びつきを深め、二世に原爆二法を適用させるため、被爆二世の組織化を進める」との決意文書を採択
1972/6/17
長崎市の諸谷義武市長が8月6~15日を「原爆被爆犠牲者慰霊・世界平和祈念旬間」として幅広く平和を訴える構想を発表。山田広島市長も7月1日の市平和文化推進審議会で協力推進の意向表明
1972/6/19
米原子力潜水艦フラッシャーが沖縄本島中部のホワイトビーチ軍港に入港。米原潜の沖縄寄港はこの年8回目、沖縄の日本復帰後は初めて
1972/6/19
山田広島市長が仏核実験計画に対しポンピドー大統領あての抗議電報。広島県原水禁(社会党・総評系)は森滝市郎代表理事名で同大統領に抗議電。日本原水協(共産党系)も在日仏大使館に大統領あての抗議文を手渡す
1972/6/19
仏核実験計画に対し、オーストラリアのマクマーン首相が抗議書簡。メルボルンでは仏領事館の爆破未遂事件
1972/6/19
広島の被爆者8団体が被爆者援護運動の一本化を目指し「被爆者問題懇話会」結成を決める。政党系列に分裂している被爆者団体の統一の糸口を見いだすため、山田広島市長が呼びかけ。広島県被団協(社会党・総評系、森滝市郎理事長)、同(共産党系、田辺勝理事長)、広島市原爆被爆者協議会(会長、山田市長)のほか、広島県被爆教師の会、同高校被爆教職員の会、国労被爆者対策協議会、動労広島地本、全電通被爆者連絡協議会が参加
1972/6/19
爆心地の広島市中島地区(平和記念公園)の復元銅板地図が広島平和公園爆心復元委員会(成宮惣五郎会長)の手で完成、原爆資料館北側ロビーに取り付けられる。縦4メートル、横3メートル。旧中島本町、材木町、天神町、元柳町の4カ町の被爆前の町並みを復元。7月9日に除幕し、同市へ贈呈
1972/6/19
仏が南太平洋ムルロア環礁で19日午後9時(日本時間)から新たな核実験を行う-と通告。実験は24日開始
1972/6/20
被爆者への国家補償法制定を求める市民組織「原爆被災者補償法の制定を期する市民の会」が発足。理事長に志水清ABCC医科社会学部長、事務局長に久保正直氏を選ぶ
1972/6/20
ジュネーブ軍縮委員会で、非参加国のオーストラリア、ニュージーランド、ペルー3カ国が仏核実験計画に抗議文を発表
1972/6/20
オーストラリアのマクマーン首相とニュージーランドのマーシャル首相が会談。部分核実験停止条約を仏、中国にも適用するよう国連に働きかけることで一致
1972/6/20
仏核実験場のムルロア環礁近くの水域にいるカナダの抗議ヨット、グリーンピース3世を退去させるため、仏のフリゲート艦が現場に向かう
1972/6/21
ペルー、チリ、ボリビア、コロンビア、エクアドルのアンデス条約5カ国外相が共同宣言を発表し、南太平洋での仏核実験計画の即時中止を要求
1972/6/21
仏政府が南太平洋での核実験強行を明らかにする。仏国民議会は実験に対する太平洋諸国の抗議に反論声明。「米英ソの核実験に抗議せず、仏だけ抗議するのは偽善であり、核超大国の利益に奉仕するだけ。仏は自国のため、欧州のため計画を完遂する義務がある」
1972/6/21
東京都衛生局が都内の被爆者7,661人の実態調査結果を発表。被爆者は健康不安を持ちながら医療機関にかからなかったり、定期検診を受けない人が多く、指定医療機関の増設を求める声の強いことが判明。東京都は指定医療機関の増設などを進めることに
1972/6/22
オーストラリアのシドニーで仏核実験計画に反対しシドニー大学の学生数百人がデモ行進
1972/6/22
広島で被爆者治療を研修のため韓国の若手医師が広島を訪問。韓国慶尚南道の陜川郡保健所の鄭昌生所長。核禁広島県民会議の招き。広島滞在中、広島大原医研や広島原爆病院などで被爆者の健康管理、臨床実地研修、被爆者行政の実情把握、被爆者施設の現状視察など研修
1972/6/22
ジュネーブ軍縮委員会で日本の西堀正弘大使が一般演説。「軍備管理達成には米ソだけでなく中国、仏を軍縮参加させる必要がある」
1972/6/22
沖縄の被爆者4人が治療のため広島入り。24日に広島原爆病院に入院。原水禁国民会議(社会党・総評系)などが世話。コザ市の池原喜常、当銘ひで(以上広島で被爆)と那覇市の神谷厚保、宜野湾市の比嘉定彦(以上長崎で被爆)。沖縄の被爆者の広島治療はこの年6人
1972/6/23
ミクロネシア議会代表のオリンピオ・ボルファ上院副議長ら7人が広島市を訪問。ビキニ米水爆実験によるマーシャル諸島などの被曝者に対する医療援助や生活保障施策を確立するため、原爆被災状況や被爆者援護の実情を調査。24日、広島大原医研にビキニ被災者の医学調査の協力を要請。長崎を経て30日帰国
1972/6/24
「仏は24日午後1時、南太平洋ムルロア環礁で一連の新たな大気圏内核爆発実験を開始した」と仏政府筋が28日明らかにする。規模には触れず。「今回の核実験が完了するまで実験に関する一切の発表は行わない」と言明
1972/6/24
広島で被爆した大阪の仏師高畠陽雲さん(大阪市大正区)が平和への祈りを込めた油絵「爆発瞬間の図」(100号)が完成、公開。長崎市の原爆資料館に展示へ。3部作の前2作は大阪府庁、広島の原爆資料館に展示
1972/6/25
被爆者青年同盟などで作る高陽病院建設委員会が広島市中島町の原爆慰霊碑前でカンパ、署名
1972/6/25
米原子力潜水艦アスプロが横須賀港に入港。米原潜の横須賀入港は1966年5月以来延べ50隻
1972/6/26
長崎市議会が、被爆者の子供および孫などに対する援護に関する意見書を可決。被爆二、三世の実態調査や被爆者健康手帳の交付などを求める(「長崎年表」)
1972/6/26
広島平和教育研究所の客員研究員に東京都公害問題研究所の戒能通孝所長。客員研究員は6人に
1972/6/26
広島の労組や被爆者団体で作る「被爆二世問題連絡会」が広島教育会館で2回目の会合。被爆二世の実態に関する統一調査をすることに
1972/6/27
国際労働機関(ILO)の年次総会が、仏の核実験停止決議案(ペルーが提出、中南米諸国が共同提案国)を全会一致で採択。仏政府代表は投票に加わらず
1972/6/27
広島女学院大で第6回原爆講座が始まる。在日大韓基督教会広島教会の金信煥牧師が「朝鮮人と被爆」の講演。参加者は約350人で、1967年の開始当時の三分の一
1972/6/27
冨田弘平広島通産局長が新任会見で語る。「原子力発電所は基本的には絶対安全だと思っている。温排水公害が問題だが、有効利用方法を考えたい」
1972/6/27
広島県被団協(森滝市郎理事長)が総会で、被爆者健康手帳の交付に必要な「証人捜し運動」を全国的に進める方針を決定。証人が捜しにくい広島、長崎県以外の被爆者らのため、手帳交付希望者のリストを作り、報道機関の協力で公表する方針
1972/6/27
広島県高校被爆教職員の会(森下弘会長)の第2回総会が広島市のみゆき会館で開かれ、被爆二世問題について「二世実態調査は慎重に取り組むべき」の意見が大勢を占める。「高校生の場合、もし調査結果が悪く出た場合、影響が大きい」などの理由
1972/6/28
仏ドゴール派機関紙「ナシオン」が「仏には核実験を行う国家としての権利がある」と主張。オーストラリアの抗議を「小児病的」と決めつけ
1972/6/28
ニュージーランドの「平和生活環境調査委員会」のミトカーフ議長が仏核実験計画に反対し、実験海域に抗議船隊を派遣したい-と語る
1972/6/28
外務省が仏核実験に抗議談話。「ストックホルムの国連人間環境会議で表明された核実験禁止に対する多くの国々の願望を踏みにじるもの」
1972/6/29
広島市が1969年から進める「原爆被災全体像調査」の中間報告がまとまる。被爆前の町並み復元作業は順調だが、当時の居住者確認作業が難航。1975年度の調査終了目標は大幅修正を迫られる
1972/6/29
徳山ニューライオンズクラブ(山下武男会長)が韓国人医師ら2人を日本に招くため招待状を送る。韓国で被爆者の無料診療をしているソウル市の宋泰善医師と韓国原爆被害者援護協会の辛泳洙会長
1972/6/29
山田広島市長が仏核実験に対し、ポンピドー大統領あてに改めて抗議と実験中止を求め電報
1972/6/29
江崎真澄防衛庁長官が東京の外国人記者クラブで演説。「わが国の核武装は軍事技術的にみても有利な選択でない」と核武装論を否定
1972/6/29
尾道市原田町の農業桑原忠男さんの「原爆症認定訴訟」第6回口頭弁論が広島地裁で開かれ、国側申請の橋詰雅・科学技術庁放射線医学総合研究所物理研究部長ら3鑑定人の鑑定書が提出される。「被爆と現在の病気の因果関係は全くない」と断定
1972/6/--
原爆学習を盛り込んだこの年の広島県内小中学生用「夏休み学習帳」が広島教育会館出版部から発行。小1では白血病で亡くなった被爆二世の名越史樹ちゃんの絵日記を載せ、原爆の悲惨さを説明。小4では峠三吉氏らが編集した詩集「原子雲の下より」から子供の詩を引用
1972/6/--
原爆資料館に展示してある被爆者のモデル人形を、ろう人形3体に作り替えることに。リアル化へ賛否両論
1972/6/--
広島女子大の小寺初世子助教授(国際法)が同大文学部紀要72年版に「朝鮮人被爆者の法的地位」と題する論文を発表。「朝鮮人被爆者は対日講和条約締結以前に日本国籍を離れており、原爆を落とした米に対して損害賠償を請求する権利がある」
1972/6/--
広島市教育委員会の中学校用「平和教育の手引」試案ができる。前年の小学校編に続くもの。市内21中学で内容検討し第1次案を作り、1974年度から使用

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