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ヒストリー

ヒロシマの記録1972 7月


1972/7/1
広島市平和文化推進審議会(岡咲恕一会長)が平和宣言の内容を審議。(1)抽象的な格調より、具体的な提言を織り込み被爆市民の抗議を集約(2)核実験の即時停止をヒロシマの立場から呼びかける内容に-などの意見が大勢
1972/7/1
米原子力潜水艦ガードフィッシュとガーナードの2隻が横須賀港に入港。米原潜の日本寄港は日本復帰後の沖縄への1回を含め63回目。同港にはアスプロも寄港中で、原潜3隻の入港は初
1972/7/1
仏核実験の中止を求め、ニュージーランドのトロール漁船ボーイ・ロールが同国タウランガ港を出港。スタンディッシュ・グルック船長ら6人が乗船
1972/7/1
広島市が衛生局原爆被害対策課に「認定係」を新設、係長ら6人を配置
1972/7/2
日本被団協が第16回総会で、広島県被団協(森滝市郎理事長)が提案した被爆者健康手帳交付のための「証人捜し運動」に取り組むことを決める
1972/7/2
日本被団協の第16回総会が東京で開かれ、1972年度重点要求を決める。(1)被爆者援護法の制定(2)被爆二世の診断、医療を国費で実施-など。要求実現のため一般戦災者や公害患者、沖縄犠牲者らと手を組む
1972/7/3
日本被団協の代表が仏大使館を訪れ、仏核実験に対するポンピドー大統領あての抗議文を手渡す 1972/7/4
原子力委員会がわが国初の100万キロワット級大型炉である関西電力大飯原子力発電所1、2号機の設置許可を決める
1972/7/4
仏ルモンド紙が「仏は6月30日に2回目の核実験を太平洋上で実施」と報じる。英外務省も「仏核実験が同日行われたことを確認」と5日発表
1972/7/9
スウェーデンのウプサラ大地震研究所が「ソ連がモスクワ南方約480キロ地点で地下核爆発を行ったとみられる地震波を記録」と発表。カスピ海の減水を防ぐため進めている河川流路変更の地下爆発と推定
1972/7/9
長崎県原水協(共産党系)が長崎市内で「網の目行進」を実施。約30人が参加、細い路地など約4キロを歩いてビラを配る
1972/7/9
被爆者青年同盟などで作る高陽病院建設委員会が広島大大学会館で総会。8月から仮診療所の広島高陽病院第一診療所(広島県安佐郡高陽町)の開設を決定
1972/7/9
長田新編「原爆の子」(1951年10月刊)に体験記を寄せた人のうち50人が、広島大で「長田新先生をしのぶ会」を開き21年ぶりに再会。「原爆の子のつどい」を結成、毎年7月の再会を決める
1972/7/9
広島平和教育研究所が広島教育会館で「第1回平和教育シンポジウム」。学者、民間教育団体、教職員ら約30人が参加。被爆体験の継承運動を踏まえ、行動する子供を育てる平和教育の在り方などを討論
1972/7/10
長崎県被爆教師の会が編集を進める原爆副読本について、長崎市小学校長会、同中学校長会が「校内販売は好ましくない」と通告。校内物品販売を禁じた市教委通達(1963年)を適用。被爆教師の会は「被爆都市で原爆を教えるな-というのは納得できない」と反発
1972/7/10
中国新聞が被爆二世問題をテーマに「見えぬせん光への不安」を連載。3部作、21回
1972/7/10
長崎市議会がABCC運営に関する意見書を採択。「ABCCの日本移管について米との交渉を早急に開始し、日本の法律下で法人化する」などをうたう
1972/7/11
ジェームズ・ニール博士(米ミシガン大人類遺伝学教室主任教授)が被爆二世研究のため再びABCCに着任。タンパクの変異に焦点を合わせた新技法で原爆が被爆二世に与えた遺伝的影響を調べる。ABCC臨床検査部はこの研究のため遺伝生化学課を新設。ニール博士は1946年、軍医として広島を訪れ、ABCC開設まで臨時所長を務めた。1948年から6年間、被爆二世の死亡率、障害発生率などを研究
1972/7/12
長崎県被爆教師の会の平和教育資料編集委員会(代表者、坂口便山里小教諭)が「ナガサキの原爆読本」(4部作)を刊行(「長崎年表」)
1972/7/12
AFP通信が「仏の核実験は6月21日と同30日の2回、ムルロア環礁で行われた」と報じる
1972/7/13
原水禁国民会議(社会党・総評系)の被爆27周年原水禁世界大会沖縄大会が那覇市で開幕、約550人が参加。14、15日は基地調査、16日の被爆者対策集会で沖縄被爆者救済カンパ活動を決める。17日、「沖縄の核基地自由使用に反対」の沖縄アピールを採択し、閉幕
1972/7/14
仏革命記念日の軍事パレードで、地対地戦略弾道ミサイルが初めて登場
1972/7/14
原爆症治療のため日本に密入国した韓国人被爆者、孫振斗氏(国立福岡東病院に入院中)が出した被爆者健康手帳の交付申請で、福岡県が「居住権がない」との理由で却下し、本人に通知
1972/7/15
東京電力が原子力発電所の建設計画を進める新潟県柏崎市荒浜地区(391戸)で原発建設の賛否を問う異例の住民投票。反対251票、賛成39票で反対派が圧勝。柏崎・刈羽原発は1969年3月、柏崎市議会が誘致決議し、東電も建設予定地の99%を買収済み
1972/7/17
北朝鮮の対外文化連絡協会が原水禁国民会議(社会党・総評系)に「原水禁世界大会へ4人の代表団を派遣したい」と連絡。前年まで日本原水協(共産党系)の世界大会だけ代表団を派遣
1972/7/17
在米被爆者の治療策を検討していた広島市が医師団派遣を断念。ABCCの槙弘副所長を8月に「被爆者慰問」の名目で派遣
1972/7/17
中国の周恩来首相が米ソ戦略兵器制限条約・協定(SALT)について初めて論評。「軍備競争をやめる第一歩ではなく、米ソ軍備競争の新段階開始」
1972/7/18
大阪市原爆被害者の会婦人部が独自に実施した被爆二世調査の結果を「婦人の集い・第4集」にまとめ、大阪市立福祉会館で発行記念集会を開く
1972/7/19
田中首相が就任後初の記者会見で核問題について言明。「日本は初めての被爆国であり、核兵器全面禁止については一番推進していく立場にあるし、発言もしやすい。世界で最も大きな公害は核実験だろう。これによって地球全体が汚染されている。核兵器禁止をもっと声を大にして働きかける必要がある」
1972/7/19
ニュー双葉美容室の沖従子さんら美容師12人が広島原爆病院で美容奉仕。15年目
1972/7/19
宮崎藤美長崎市議会議長(被爆27周年平和祈念式典実施協議会座長)が(1)世界平和祈念旬間行事として市民総参加の平和大行進(2)広島・長崎両市の市長・議長の祈念式典相互訪問-の2項目の実施を長崎原爆被災協など被爆者3団体に要請(「長崎年表」)
1972/7/20
米上院外交委員会が米ソ戦略兵器制限条約・協定(SALT)を全会一致で承認
1972/7/20
日本、カナダ、スウェーデン3国がジュネーブ軍縮委員会に、地下核実験の探知、識別についての作業文書を提出。6月に開いた地震専門家会議の成果報告
1972/7/20
「ABCCのあり方を検討する会」(飯島宗一広島大学長ら13人)が医学研究の立場から「ABCC再編成に関する意見書」をまとめる。「日本側が研究の主体性を持ち、研究と医療を結合させた被爆者福祉中心の原則を確立する必要がある」。日米交渉で日本側の基本原則に
1972/7/21
被爆者青年同盟などが広島県安佐郡高陽町に高陽病院第1診療所を着工
1972/7/21
原水爆禁止広島母の会(升川貴志栄会長)が5年ぶりで「ひろしまの河」を復刊。1961年から1967年まで15号を出したが、会員の高齢化などで中断
1972/7/23
中国新聞が被爆二世世論調査の付帯調査として実施した「被爆体験の継承と平和教育」についての調査結果を報道。原爆問題が家庭で話し合われておらず、学校での平和教育に強い期待
1972/7/24
広島市子供会育成連絡協議会が沖縄に派遣する「沖縄と広島をむすぶ子供会親善交歓会」広島代表団の壮行会。大州小6年の三戸京子さんが「平和の灯を広げたい」
1972/7/25
関西電力の美浜原子力発電所2号機(福井県三方郡美浜町)が営業運転を開始。26日にはオイル漏れで運転を一時停止、29日から再開
1972/7/25
米の「青年平和セミナー」に参加する神辺由美子さん(広島大3年)ら3人が日本を出発。ワールド・フレンドシップ・センターの被爆者平和巡礼にかわる企画
1972/7/25
長崎の証言刊行委員会が「長崎の証言・第4集」と「爆心の丘にて-山里浜口地区原爆戦災誌」を出版。「長崎-」は長崎、広島、沖縄、朝鮮人被爆者100人の証言を収録、「爆心-」は爆心地住民の手記
1972/7/25
東京原爆被爆教師の会(田川時彦代表世話人)が東京都の小中学校26校の児童、生徒1,008人に実施した「原水爆に関する教育」アンケート調査をまとめる。子供たちは学校や家庭教育よりテレビ、雑誌、漫画などで広島、長崎の事実を知り、原水禁運動は大半が「必要」と答える
1972/7/25
法務省が、日本原水協(共産党系)の第18回原水禁世界大会に参加する北ベトナム代表2人の入国許可
1972/7/26
広島市議会が「国連国際大学の誘致に関する決議」を採択(「広島市議会意見書・決議集」)
1972/7/26
山口大ユネスコクラブの平和キャラバン隊15人が、山口市から広島市へ出発
1972/7/26
広島市議会がABCCの日本移管と被爆二、三世への援護措置を求める意見書を採択
1972/7/26
山田広島市長が田中首相にABCCの日本移管など3点を要請。ほかに「認定患者の拡大など被爆者援護」「被爆二、三世の影響調査への国の協力」を求める
1972/7/26
法務省が、日本原水協(共産党系)と原水禁国民会議(社会党・総評系)の世界大会に出席を予定している北朝鮮代表計8人について、いずれも入国不許可
1972/7/27
厚生政務次官の増岡博之氏(広島2区)が広島県庁で記者会見し、被爆者援護などについて語る。(1)被爆者援護法の制定要求もあるが、諸手当の増額や所得制限の緩和、撤廃などで十分対応できる(2)被爆二世対策は原爆の影響がはっきりしていないので対策を講じる段階でない(3)ABCCはたとえ返還されても4、5年がかりのコマ切れ返還になる
1972/7/27
英の「ジェーン海軍年鑑」創刊75周年記念号が「ソ連は原子力潜水艦を年間10隻前後建造しており、まもなく保有数で米を追い越す」と分析
1972/7/27
中国が国連拡大海底委員会で、米ソの原子力潜水艦を公海はじめ米ソ以外のすべての国の領海から全面的に締め出すよう提案
1972/7/28
長崎大医学部に入院中の長崎市の被爆二世、谷本ミチヨさんが急性白血病で死去。23歳
1972/7/30
「韓国被爆二世ピドルギ団」の4人が広島「折鶴の会」の招きで広島市を訪れる。ソウル市の徐末任さんら。31日に山田市長を訪問。広島原爆病院で被爆二世について説明を聞き、入院中の韓国人被爆者を見舞う。8月6日には徐さんら2人が韓国の被爆二世として初めて平和記念式典に参加。8月14日帰国
1972/7/30
沖縄の被爆者、佐久川ツルさんが広島原爆病院に入院。広島赤十字病院の看護婦当時、広島市十日市町で被爆
1972/7/31
中国新聞が被爆二世問題の世論調査結果を掲載。調査は広島市在住の被爆者、非被爆者各550人と被爆家庭の被爆二世229人を対象に実施。非被爆者を含め大半が二世対策を必要とし、被爆二世自身は「遺伝の科学的解明」など具体的な対策を望む
1972/7/31
山田広島市長が記者会見で、被爆二世問題に積極姿勢。「政府が被爆二世実態調査を渋る場合、1973年度に市独自で調査も検討」
1972/7/31
広島原爆病院が1972年上半期の診療概況。入院患者194人のうちがんが32人、白血病は減少を続けて2人。死亡37人のうち23人(62%)が各種がん。増え続けていた外来患者は今期初めて減少に転じ2万2,968人
1972/7/31
原水禁国民会議(社会党・総評系)の世界大会で来日した米代表ロジャー・ゲール氏がミクロネシアでの米の核基地化を証言。「米はミクロネシアの島々で核兵器を主体とする軍事基地の新増設を急ピッチで進めている。沖縄の復帰で失う基地機能の維持と日本、フィリピンの反米感情によるものだ」
1972/7/--
広島市西十日市町、石内好雄さんが同市広瀬元町(西十日市町)町内会の「酒貯金」覚書帳を保管していることが判明。同町内会322人の名前があり、原爆被災全体像調査の資料に
1972/7/--
広島市立宇品中学校の社会科クラブ(空辰男顧問)が宇品地区の原爆の歴史発掘へ住民の証言集めを進める。同地区の旧陸軍船舶練習部に被爆者の遺骨が埋葬されたまま-との新聞報道がきっかけ
1972/7/--
広島の中国軍管区司令部参謀部の陸軍大尉だった会社役員宍戸幸輔さん(東京・大田区在住)が原爆体験記「広島が滅んだ日-27年目の真実」を出版
1972/7/--
広島県被爆教師の会などが、8月初旬に予定していた「平和教育シンポジウム」の見送りを決める。日本原水協(共産党系)と原水禁国民会議(社会党・総評系)に参加を呼びかけ、原水禁運動統一の糸口を探る意図もあったが、日程の都合などで両団体が不参加のため

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