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ヒストリー

ヒロシマの記録1972 8月


1972/8/1
川崎市が8月から全国で初めて被爆二世の医療費を全額市費負担することを決定。被爆者手帳所持者の医療費公費負担制度を準用
1972/8/1
新日本婦人の会広島支部主催の「沖縄とヒロシマを結ぶ婦人の夕べ」が広島労働会館で開かれ、約200人が参加
1972/8/1
米原子力潜水艦ポギーが沖縄本島東岸の米海軍基地ホワイトビーチに入港。1時間後に出港。米原潜の日本寄港は64回目
1972/8/1
第7回原水爆禁止科学者会議が東京・学士会館で約80人が参加して開かれる。「原水禁運動と科学者の任務」がテーマ。北ベトナム・ハノイ大のグイ・ヌー・コンツム氏が米軍の北爆実態を報告。科学技術の軍事利用を阻止する活動などを盛り込んだ声明文を採択
1972/8/1
広島市が初めて実施した「原爆孤老実態調査」がまとまる。独り暮らしの被爆者4,266人が対象、回答者は3,394人(79.6%)。55%が健康を害し、少ない収入で無理に働く
1972/8/1
広島市平和記念公園の戦災供養塔に眠っていた犠牲者の遺骨7柱が27年ぶりに遺族の手に
1972/8/2
インドのガンジー首相が議会で、地下核実験の検討を間接的に表明。「インドは地下核爆発の経済的利用効果、環境に与える影響などに満足できる回答を得て初めて、平和目的のための地下核爆発を検討する」
1972/8/2
「原水爆被災資料センター設立準備委員会」が広島大原医研で世話人会。準備委を「推進委員会」に
1972/8/2
日本原水協(共産党系)の原水禁世界大会に参加する海外代表らが東京・江東区の夢の島の第五福竜丸を見学。北ベトナムや米仏など6カ国代表約40人
1972/8/2
核禁会議(民社党・同盟系)の核禁広島全国集会が広島労働会館で開会。約400人のほか広島訪問中の「韓国被爆二世ピドルギ団」の少女4人も参加。被爆者援護、韓国人被爆者救援などを盛り込んだ広島宣言を採択
1972/8/2
原水禁国民会議(社会党・総評系)の被爆27周年原水禁世界大会国際会議が東京の全日通労働会館で開幕。ビキニ米水爆実験の被災者代表、ジョン・アンジャイン氏が2日目から参加。4日まで
1972/8/3
日本原水協(共産党系)の第18回原水禁世界大会国際予備会議が東京・学士会館で開幕。佐久間澄代表理事が「日本のベトナム戦争加担政策の阻止、インドシナ人民支援が緊急課題」と報告
1972/8/3
米上院本会議が米ソ戦略兵器制限条約(SALT)を賛成多数で批准。10月から第2次戦略兵器制限交渉(SALT2)を進める方針
1972/8/3
長崎原爆病院が1年間の診療状況と過去11年間の小児白血病、悪性腫瘍全症例の調査結果を発表。1971年8月から1年間の死亡者は96人、うちがんが最多の54人、入院患者は958人でがんが148人と最多。1961年から11年間に小児白血病は33人で、29人が死亡。10人が被爆二世
1972/8/4
参院社会労働委員会の矢山有作委員長(社会、岡山)ら一行4人がABCCを視察。ダーリング所長、志水清医科社会学部長らと懇談。矢山委員長「米政府は償いのためにABCCに十分な研究費を出し、研究内容は日本側に任せるべき」
1972/8/4
胎内被爆者・被爆二世問題対策会(深川宗俊会長)が被爆二世とその親のつづる詩、手記14編をまとめた「夾竹桃」第3集を発刊
1972/8/4
仏在住の画家、西村計雄さんが平和の尊さを訴えた抽象画の大作「ヒロシマ」(300号)を広島市に寄贈。同市内の天満屋で開かれた同氏の新作展会場で贈呈式
1972/8/4
「東京クラルテ研究会」のティーチイン・バスが広島へ向け東京を出発、5日広島入り。約110人が参加し、原爆、反戦、平和など意見交換。2回目
1972/8/4
8月6日を休日にする運動を進める「群集の渦」の広島-東京往復自転車行進到着記念集会が広島市の本川小学校で開かれ、被爆者ら約500人が参加
1972/8/4
長崎市と市議会が、広島市の原爆死没者慰霊式・平和祈念式に参列する代表として市長代理のト部壮一助役と宮崎藤美市議会議長を決定。長崎市から広島市へ正式代表を送るのは初めて(「長崎年表」)
1972/8/4
山口県原爆被爆者福祉会館ゆだ苑の戦後世代の職員3人が被爆者援護の充実を訴え、田中首相に直訴の要望書を送付。厚生省公衆衛生局企画課長の回答に、10月24日、再び首相あて送付
1972/8/4
平和記念公園の「原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑」前で慰霊祭。過去帳に56人の教師、児童の名前が加えられ、犠牲者数は962柱に
1972/8/4
朝鮮人被爆者の死をテーマにした画家丸木位里、俊夫妻の「原爆の図」シリーズ14部「からす」が東京・東急百貨店日本橋店の画廊で一般公開
1972/8/4
米原子力潜水艦ポギーが横須賀港に入港。米原潜の日本寄港は65回目。11日に出港
1972/8/5
原水禁国民会議(社会党・総評系)の被爆27周年原水禁世界大会開会総会が広島県立体育館に約7,000人が参加して開会。米のベトナム侵略反対、外国人被爆者および被爆二世の実態究明と対策、被爆者援護法制定要求などを盛り込んだ「広島アピール」を採択。ビキニ米水爆実験の被災者ジョン・アンジャインさんも決意表明。6日に分科会、階層別集会と総括集会
1972/8/5
日本原水協(共産党系)の第18回原水禁世界大会本会議開会総会が東京・小石川グラウンドで約1万人が参加して開会。7日、大田区立体育館で閉会総会。「ベトナムへの米侵略戦争の即時停止」「すべての軍事ブロック廃止と全面軍縮実現」などを決議
1972/8/5
母親が広島で被爆した東京被爆教師の会の森香世子さん(広島県山県郡戸河内町出身)が日本原水協の世界大会本会議開会総会で、胎内被爆者として初めて「被爆者の訴え」を発表、被爆者援護法の制定を呼びかける
1972/8/5
在米被爆者の慰問、調査のため広島市が派遣したABCCの槙弘副所長がロサンゼルス入り。6日、西本願寺別院で被爆者約200人と初懇談。原爆の後遺症に質問が集中。日本人医師団の派遣を改めて訴える
1972/8/5
第5回市民音楽会「平和の夕べ」(広島交響楽団、中国新聞社主催)が広島市公会堂で開かれ、市民約1,500人が入場
1972/8/5
韓国人原爆犠牲者慰霊祭が広島市の本川橋西詰めの慰霊碑前で営まれ、広島訪問中の「韓国被爆二世ビドルギ団」の二世少女4人ら約80人が参列
1972/8/5
ワールド・フレンドシップ・センター主催の「追憶と奉納の会」が平和記念公園の「原爆の子の像」前で開かれ、米、韓国、インドネシアなど外国人15人を含む65人が参加。国籍を超えて原爆を語り合う
1972/8/5
米のビキニ水爆実験で被災したミクロネシアのジョン・アンジャインさんが原爆慰霊碑に参拝
1972/8/6
平和記念式典のあった原爆慰霊碑前のさい銭箱から、1通のはがきが見つかる。29歳に成長した女性が、受け取るはずのない亡き父親に書いた一文。「原爆が憎い、父をかえせ!天国の父へ娘より」
1972/8/6
被爆27周年。原爆慰霊碑前で広島市主催の原爆死没者慰霊式・平和祈念式。約4万人が参列。原爆死没者名簿を慰霊碑に奉納。遺族代表の河野昭、沢本藤江さんが「平和の鐘」。山田市長の平和宣言。田中首相あいさつ(代読)。初めて長崎市代表としてト部壮一助役、宮崎藤美市議会議長も参列。広島訪問中の「韓国被爆二世ビドルギ団」の二世少女2人、ミクロネシアの水爆被災者ジョン・アンジャインさん、広島原爆病院に入院中の沖縄被爆者5人も初参列。死没者名簿に追加記入された2,097人を加え名簿総数は8万183人と8万人を超える
1972/8/6
山田広島市長の平和宣言。「核兵器の廃絶と戦争の放棄を訴え、真の世界平和を求めつづける『ヒロシマの心』は、世界人類の良心を呼びもどし、たしかに核戦争の歯止めとなっている。しかしながら力の均衡を過信する核大国は、巨額の富と知能を軍備競争につぎこみ、ぼう大な核兵器の集積を進め核戦争の危険をひろく深く潜行させてきた。現下の国際政治の動向は、米中、米ソの首脳会談をはじめ、独ソ間の東方条約、日中国交回復をめざす政府間交渉が始まろうとしているなど、ようやく冷戦の雪解けがみられるが、他方ベトナムにおいては、大規模な戦闘爆撃による破壊が繰り返され、多くの婦女子を含む犠牲者の悲惨なる姿には、目をおおうものがある。しかも核大国は、ヒロシマの切なる抗議を無視し核実験を強行している。われわれは、あらためてベトナム戦争のすみやかなる終えんを訴え、いかなる国の核実験をも許さぬ核兵器の全面禁止協定を早急に実現するよう切望してやまない。われわれは、核武装によって自国の安全を高めることができるという考え方は、全くの妄想に過ぎないことをあえて断言する。さきの国連人間環境会議は、自然環境の破壊と人口の増加、資源の枯渇により人類が陥りつつある多面的な危険に対し、70年代を生きる人間活動の理念を明らかにし、核兵器の完全な破棄をめざす国際的な合意を急ぐよう宣言した。これは戦争を否定した日本国憲法の精神に合致するものであり、真の平和への道に通じるものである。今こそわれわれは、世界の国々とともに平和のための教育と、平和のための研究に真剣に取り組むべきである。われわれ人類は平和で生存に適した地球を次の世代に継承するため、地球上に生きる運命共同体であることを深く認識し、思想の相違を乗りこえて、知的および精神的な連帯のもとに、人が人を殺し、人が人に殺されることのない新しい世界秩序を創造しなければならない。これこそがあすの世界にヒロシマを繰り返さないための条件である」
1972/8/6
平岡敬著「偏見と差別ヒロシマそして被爆朝鮮人」が未来社から発刊(「奥付」)
1972/8/6
日本原水協(共産党系)の第18回原水禁世界大会広島大会が広島県立体育館で開会。約4,200人が参加。ベトナム侵略戦争糾弾、被爆者援護法制定など「決意」を発表
1972/8/6
広島市が平和記念式典の「平和宣言」を海外257通、国内422通の計679通発送
1972/8/6
広島市の山田市長、宮本正夫議長が長崎市のト部壮一助役、宮崎藤美議長と新広島ホテルで被爆二、三世問題やABCC移管問題などで意見交換
1972/8/6
大分県内の小中学校で平和教育の特別授業を実施。545校のうち477校が当日、68校が振り替え実施で全学校が参加。広島、長崎県を除き、全県規模の特別授業は全国初めて
1972/8/6
広島「折鶴の会」とブラジル・サンパウロ市の州立ヒロシマ中学校が姉妹縁組。父親の転勤でブラジルに渡った同会会員の吉井朱帆さんが協定書に調印
1972/8/6
広島県被団協(森滝市郎理事長)主催の原爆死没者慰霊祭が広島市中区の国泰寺で行われ、全国の被爆者や遺族ら約500人が参列。成田知巳社会党委員長やビキニの水爆被災者ジョン・アンジャインさんらも出席。8回目
1972/8/6
東京都原爆被害者団体協議会(東友会、片岡強会長)の第8回原爆犠牲者慰霊祭が東京・品川の東海寺で営まれ約150人が参列。「東京空襲を記録する会」代表の早乙女勝元氏らも。過去帳はこの年の32人を含め488人に
1972/8/6
広島市の平和記念式典に出席した二階堂進官房長官が広島原爆養護ホームと広島原爆病院を慰問
1972/8/6
二階堂進官房長官が新広島ホテルで記者会見。「被爆二、三世対策で年2回程度の定期検診を実施してもよい」と語る。ほかには(1)被爆者援護法は引き続き検討(2)第2の原爆養護老人ホーム建設を検討-など
1972/8/6
広島と長崎を結ぶ「平和ラリー」が、諸谷義武長崎市長あての山田広島市長メッセージを携え平和記念公園を出発。マツダグループ主催で5回目
1972/8/6
平和記念公園内の「原爆の子の像」前で「原爆被爆27周年少年少女のつどい」。広島「折鶴の会」や「韓国被爆二世ピドルギ団」の少女2人らが参加
1972/8/6
長崎市の「原爆犠牲者慰霊・世界平和祈念旬間」が始まる(「長崎年表」)
1972/8/6
埼玉県東松山市の丸木美術館で6回目の原爆慰霊法要。安井郁法政大教授や平和運動家の米コロンビア大のラッセル・ニクソン博士も参加
1972/8/6
原水爆死没者追悼集会が東京の日本青年館で開かれる。日本原水協(共産党系)、日本宗教者団体平和協議会主催の東京で初の8・6追悼集会
1972/8/7
写真集「ヒロシマ・広島・hiroshima」を出版した全日本学生写真連盟が広島労働会館で広島とのかかわりを深めるシンポジウムを開催
1972/8/7
広島原爆病院で治療を受けた沖縄被爆者のうち池原喜常、当銘ひでさん(いずれもコザ市)が退院
1972/8/7
福岡県八女郡星野村で27年間燃え続けた「広島原爆の火」が原水禁世界大会長崎大会(社会党・総評系)の会場、長崎市松山公園でともる。広島で被爆した同村の山本達雄さんが広島市革屋町(現本通り)の金正堂書店の地下壕で燃えていた火をカイロに移し、1945年9月16日に村の自宅に持ち帰る。23年間保管後、1968年に村が引き継ぎ、役場前のとうろうで燃える。原水禁被爆者キャラバン隊が7月30日に分火し会場へ
1972/8/7
原水禁国民会議(社会党・総評系)の被爆27周年原水禁世界大会長崎大会が長崎市の松山公園で開会、約5,500人が参加。7月下旬に白血病で死亡した被爆二世の谷本ミチヨさんの死を悼んだ構成詩「太陽にそむく向日葵」を朗読。8日は分科会。9日、長崎国際体育館で閉会総会。「被爆者を完全援護し、核兵器と戦争をなくすため連帯して戦おう」との世界大会宣言を採択
1972/8/8
衆院社会労働委員会で厚生省の滝沢正医務局長が被爆二世対策について答弁。「まず調査、研究の形で1973年度予算に要求したい。調査は近距離被爆者の家族を中心に考えている」
1972/8/8
芦屋市松浜町の大阪大名誉教授、副島吉雄氏が兵庫県に被爆二世のため小切手1,000万円を寄付。広島在住時に妻まちさんら家族5人が被爆。まちさんは同県原爆被害者の会会長を務め、同県原爆者相談室長
1972/8/8
米カリフォルニア州ロサンゼルス郡行政委員会が在米被爆者問題で「在米日本人の問題について、大統領に対し特別な配慮を要望すべき」と決議
1972/8/8
平和記念式典に出席のため長崎入りした二階堂進官房長官が記者会見。(1)被爆者実態調査は1975年の国勢調査の際に行う(2)被爆者に対する国家補償は一般戦災者との絡みもあり今すぐ実施する考えはない(3)ABCC運営は米と協議(4)原水爆被災資料センターは設置したい-など
1972/8/8
ニュージーランドのマーシャル首相が、仏核実験に抗議して実験海域に入ったまま行方不明になった同国のトロール漁船ボーイ・ロエルの捜索開始を指示
1972/8/9
長崎市原爆被災復元調査室が平和祈念式典会場に25カ町の復元地図を展示(「長崎年表」)
1972/8/9
長崎被爆27周年。爆心地の平和祈念像前広場で長崎市主催の原爆犠牲者慰霊・平和祈念式典、約7,000人が参列。この1年間に新たに加わった1,717人を含め原爆死没者名簿は計4万5,453人に。この年初めて沖縄の被爆者37人も奉安。広島市から坂田修一助役、宮本正夫市議会議長ら3人が出席。諸谷義武市長が平和宣言。「原子爆弾の惨禍を身をもって体験したわが長崎市民は、戦争終結以来、世界の恒久平和を念願し、年ごとに世界の各国に向かって平和の実現を訴え続けてきたが、今なお、地球上の一部で砲声がとどろき、殺りくが繰り返され、更には、核軍備の強化をきそって、人類自滅の方向に拍車をかけている感があることに、限りのない憤りと焦燥を覚えるものである。宇宙開発の確実性が、ますますその度を加えつつある今日、地球上の同じ人間と人間が、憎しみ合い殺し合うことのむなしさ、そして人知の限りを尽くしてつくりあげた科学技術が、その人間を大量に殺りくし、瞬時にして、すべてのものを破壊し尽くす残忍な凶器と化することの恐ろしさに、あらためて眼を開くべき時である。得ることなく、失うことのみが多い戦争に対する反省は、必ずや人間の英知と努力によって実を結ぶことを確信するものである。かかるが故に、毎年毎年、平和の叫びを繰り返し続けてきたが、ここに27回目の原爆被災の日を迎えるにあたり、更に思いを新たにして原爆爆死者のめい福を祈り、被爆者の援護に一段と努力をいたす決意を強くするとともに、原爆被爆都市の市長という使命感に立ち、43万市民とともに、全世界に向かって世界平和旬間の実現を提唱し、人類の恒久平和を強く強く訴える」
1972/8/9
日本原水協(共産党系)の第18回原水禁世界大会長崎大会が長崎市営陸上競技場で開会。「インドシナ人民支援、核兵器完全禁止、被爆者援護の旗を掲げ戦う」の決議を採択
1972/8/12
関西電力が「美浜原子力発電所2号機の主圧器が故障し、11日午後5時54分から発電を停止」と発表。7月26日の運転停止に続いて2回目
1972/8/13
長崎市で初の原爆犠牲者慰霊・世界平和祈念市民行進が同市宝町公園~平和公園間1.5キロで行われ、諸谷義武市長はじめ市民約1,500人が参加。同市が提唱した「世界平和祈念旬間」の一環。集会で山田広島市長のメッセージを披露
1972/8/14
在米被爆者の慰問と調査のため渡米していたABCCの槙弘副所長が広島市役所で帰国報告。「健康管理のための施設を早急に造る必要がある」
1972/8/14
徳山市の徳山ニューライオンズクラブの招きで来日した韓国ソウル市の宋泰善医師と韓国原爆被害者援護協会の辛泳洙会長が徳山入り。21日には広島市を訪れ、坂田修一助役に「韓国被爆者の援護に市の協力を」と要望
1972/8/14
日本原子力研究所東海研究所(茨城県東海村)の研究用原子炉JRR-3で、燃料体取り出し作業中に燃料孔に落ちる事故があり、アイソトープ生産が停止。放射能汚染はなし
1972/8/14
ソ連のグロムイコ外相がワルトハイム国連事務総長に書簡(14日付)を送り、「今秋の国連総会後、直ちに世界軍縮会議の開催準備に取り組むよう」提案
1972/8/14
日本原水協(共産党系)の第18回原水禁世界大会沖縄大会が那覇市民会館で開会。15日、全体集会で沖縄からの米軍基地撤去の訴えを採択し閉幕
1972/8/15
長崎市の被爆二世が白血病で死亡。今年に入って3人目(「長崎年表」)
1972/8/15
米原子力潜水艦ホークビルが横須賀港に入港。米原潜の日本寄港は66回目。19日に出港
1972/8/15
広島県教組の「広島・沖縄を結ぶ平和教育交流団」一行11人が広島を出発。被爆体験と沖縄の戦争体験を話し合い、平和教育の在り方を探る
1972/8/16
ソ連が16日、セミパラチンスク地区で地下爆発実験したことを、スウェーデンのウプサラ大地震研究所が観測
1972/8/16
米カリフォルニア州ロサンゼルス郡行政委員会(ジェームズ・マイズ委員長)がニクソン米大統領に在米被爆者対策の立法化を求める要望書を送付。米の自治体が被爆者への対策要求を公式に表明したのは初めて
1972/8/17
原子力委員会が「ウラン濃縮技術の研究開発は重点を遠心分離法に絞る」との方針を決定
1972/8/17
日本原子力研究所東海研究所(茨城県東海村)で、改造中の動力試験炉の一次冷却水が漏れる事故。放射能汚染はなし
1972/8/17
米原子力潜水艦アスプロが佐世保港に入港。米原潜の日本寄港は68回目、同港へは3年7カ月ぶり。19日に出港
1972/8/18
広島「折鶴の会」の一行7人が韓国被爆者慰問のため広島を出発。韓国政府の招きでソウル、釜山市の被爆者や「韓国被爆二世ビドルギ団」と交流。27日、広島に帰る
1972/8/18
米下院本会議が、米ソ首脳会談で合意した「戦略攻撃用兵器制限に関する暫定協定」を可決
1972/8/18
山田広島市長がベルギー・ブリュッセル大学で開かれた第15回世界連邦大会の最終日本会議で「国連大学の広島設置」を提案。23カ国代表の全員賛成で決議
1972/8/18
「原子力発電と漁業」をテーマに「第1回原子力発電問題シンポジウム」(日本科学者会議など主催)が北海道岩内郡岩内町で開会。20日、「住民の立場に立った原子力政策を実行させるため科学者と住民が連帯して戦おう」とのアピールを採択。「原子力発電所建設反対住民連絡協議会」設置などを決めて閉会
1972/8/22
原子力委員会の委員長代理、有沢広巳東大名誉教授が辞任を表明。1956年1月、同委員会発足と同時に委員に就任。9月12日に任期切れで、再任を断る
1972/8/22
ハイネマン大統領の招きで西ドイツを訪問する広島「折鶴の会」会員ら一行4人が広島を出発。山田広島市長のメッセージを携える。1971年、眼病で入院した大統領に千羽づるを贈ったお礼
1972/8/23
広島「憩いの家」創設者、故アイラ・モリス氏に追悼と感謝をささげる会が広島市社会福祉センターで開かれ、約300人がめい福を祈る
1972/8/25
厚生省が1973年度予算の概算要求で、初めて被爆二世の健康調査や医学的研究を含む「原爆被爆者世帯の健康状態に関する研究費」を盛り込む
1972/8/25
濃縮ウラン緊急輸入計画で対米折衝中だった日本政府代表団が、1973年3月末までに3億2,000万ドル相当の濃縮ウランを原子力発電用に買い付けることで米政府原子力委員会と正式合意
1972/8/26
スウェーデンのウプサラ大地震研究所が26日、ソ連セミパラチンスク地区の地下核実験を観測
1972/8/26
青森県むつ市の母港に係留中の原子力船「むつ」で、模擬核燃料積み込み作業テスト
1972/8/27
サイゴン放送が解説番組の中で、「米は『決定的行動』を取るべき」と述べ、北ベトナムへの核兵器使用を求める態度を示唆
1972/8/28
米政府原子力委員会が「ソ連は28日、地下核実験を実施した」と発表
1972/8/29
中国から帰国したカナダのシャープ外相が「中国は防御体制を強化するため核実験を続行する」と語る。周恩来首相、姫鵬飛外相が個別会談で核実験続行を明言
1972/8/30
尾道市原田町の農業桑原忠男さんの「原爆症認定訴訟」で、桑原さんの病気と被爆の因果関係を否定する鑑定書を提出した2人の鑑定人尋問。津屋旭癌研究会病院放射線科部長と津山直一東大整形外科教授。「わずかの臨床例では立証は困難」など原告有利の証言も
1972/8/30
韓国原爆被害者援護協会の辛泳洙会長が三木武夫副首相に面会。韓国人被爆者への補償や外国人被爆者に対する原爆医療法の適用など5項目の要望書を手渡す
1972/8/31
国労広島地本が第24回定期大会で「来年8月6日までに広島、長崎両市に国鉄職員原爆犠牲者の慰霊碑を建設」を決める。慰霊碑建設は国労原爆被爆者対策協議会が国鉄本社と広鉄局に要求したが、当局は「広鉄局の一般殉職慰霊碑に一緒に祭ればよい」と難色。同協議会と広島地本が独自建設を決定
1972/8/--
「ローマ法王の新聞」と呼ばれるバチカンの「ロッセル・バトーレ・ロマノ」から、ローマ法王パウロ六世が1月1日に発表した「正義と平和に関するメッセージ」が中国新聞社に届く。「力に頼る平和は虚構。正義実現へ行動を」と呼びかけ
1972/8/--
原爆投下2日後の1945年8月8日、広島市の比治山神社に軍、行政当局の首脳が集まって開いた「比治山会談」で、本土決戦に備え重要機関の地下壕移転計画が具体的に練られた新事実が判明。当時、船舶司令部作戦主任参謀(大佐)で会談に出席した篠原優さん(同市牛田新町4丁目)が明かす。会談はこれまで復旧、救援対策を話し合ったとされていた。「壊滅的打撃を受けながら、なお本土決戦に備える戦争の一面を象徴した会談」と篠原さん
1972/8/--
広島大原医研が進めている爆心地(半径500メートル以内)の復元調査の中間報告(6月末現在)がまとまる。爆心の生存者59人を確認。原爆投下時、爆心500メートル以内の旧28町に3,262世帯あり、うち66%の2,138世帯の追跡調査を終了。投下時に爆心地域内にいた人は3,662人、うち78%の2,847人が8月6日に死亡。生存者も9月末までに97%が死亡
1972/8/--
原爆資料館が館内施設や展示方法を大幅に改善する整備構想をまとめる。冷暖房、照明など被爆資料の保存環境整備や展示資料の内容充実を図る目的。広島市内外に散在する被爆の遺品や資料の届け出も呼びかける

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