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ヒストリー

ヒロシマの記録1971 1月


1971/1/1
長崎市が民生部に原爆被災復元調査室を新設(「長崎年表」)
1971/1/6
原爆病院の入院認定患者らに日赤名誉総裁の良子皇后から見舞いの手ぬぐい
1971/1/8
米が最初の複数目標弾頭(MIRV)実戦部隊の配備終了。北ダコタ州マイノット空軍基地。ミニットマン3型ミサイルを収めた50の無人地下発射場
1971/1/9
広島県被爆教師の会(石田明会長)が中学生向けの英語副教材「LETSCRYFORPEACE!」を出版。同会の平和教育用教材は1969年7月の中学生、小学生高学年用の「ひろしま」、1970年7月の小学生低学年用の「ひろしま」に続き3冊目
1971/1/10
日本基督教団広島流川教会の新しい教会堂が広島市上幟町に完成し、献堂式
1971/1/13
住友銀行広島支店前の「死の人影」の主を収容したのは自分だという大阪の元兵士が名乗り出る。大阪府被団協常任幹事の増山幸男さん。陸軍船舶練習部教導連隊に所属。遺体の収容作業に当たり、作業本部をおくため住友銀行入り口の遺体を整理
1971/1/13
原爆のせん光を絵に残したいと執念を燃やした大阪市の高畠陽雲さんが自作の油絵を広島市に寄贈
1971/1/14
原爆被災資料広島研究会会長が田淵実夫会長(広島平和文化センター局長)から糸川成辰中国新聞社会事業団常務理事に
1971/1/15
「広島市の住友銀行広島支店の『死の人影』は、私の母の越智ミツノでは」-。市内大宮2丁目の越智幸子さんが名乗り。被爆直前、支店前に座っていた越智さんの母、ミツノさんを見かけた知人と対面し確信
1971/1/17
広島市の平和記念館で密航韓国人の孫振斗容疑者(佐賀県唐津署に拘置中)救援の市民集会。「孫さんを救援する市民の会」(薬真寺康圭代表)主催。広島大原医研の森昭夫医師が経過報告、ルポライターの中島竜美さんが「朝鮮人被爆者について」講演
1971/1/18
東京・小金井市の内海トシ子さんが、原爆症の認定申請却下で、行政不服審査法による異議の申し立て。内海さんは広島市で被爆、1969年12月16日、東京・代々木病院で診断を受け原爆症の認定申請をしたが1970年11月21日に都衛生局から却下通知
1971/1/18
ブルネイを訪れた広島県安佐町の貿易商にユソフ・ブルネイ首相が、「被爆時に世話になった長田新広島文理科大教授の消息を教えて」とメッセージを託す。ユソフ首相は1943年から1945年にかけて広島文理科大に留学、大学近くの下宿で被爆
1971/1/18
米のアトランチック誌2月号で、ルポライターのポール・ジェイコブズ氏が(1)1950年代の大気圏外核爆発実験の調査飛行をしていたパイロット2人が数年後に白血病で死亡、1人ががんに(2)実験場近くのユタ州、アリゾナ州の住民の間に白血病が高率で発生(3)放射性降下物で4,000人の子どもが死亡-と発表
1971/1/19
広島県内の新左翼系被爆二世でつくる「被爆者青年同盟」(土屋稔代表)が山田広島市長に「拘置中の韓国人密入国者、孫振斗さんを即時釈放し、広島原爆病院で治療を」と要望書提出
1971/1/19
米の原子力科学者ラルフ・ラップ氏が、この日発行のニューリパブリック誌で、原子力発電について「思い切った手段をとらねば2000年までに重大事故が起きる」と警告
1971/1/20
日本学術会議の「原爆被災資料小委員会」(委員長、小川政亮日本社会事業大教授)が、原水爆被災資料センターの建設構想素案まとめる。東京、広島、長崎の3カ所に置き、国立で全国の大学などの共同利用施設とする
1971/1/20
広島大原医研で日本学術会議の「原爆被災資料小委員会」と「原水爆被災資料の保存と利用に関する基礎的研究班」が合同会議。志水清広島ABCC医科社会学部長が「1975年の国勢調査で原爆死没者の実数調査を付帯調査として行うよう要求しよう」と提案
1971/1/22
広島県被団協(田辺勝理事長)が厚生省に「被爆者特別手当を生活保護受給世帯にも全額支給せよ」と申し入れ
1971/1/23
「原爆症治療のため日本へ密航した」という韓国釜山市の孫振斗容疑者に対する出入国管理令違反事件の初公判が、佐賀地裁唐津支部で開く。検察は「孫振斗容疑者を唐津日赤病院で診察したが、原爆症の可能性は薄い。密航ブローカーの一員の疑いが強い」と懲役10月を求刑
1971/1/23
「原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑」建設委員会(惣野真澄会長)が広島市の平和記念公園に建設を計画している慰霊碑の碑文が故正田篠枝さんの「太き骨は先生ならむそのそばに小さきあたまの骨あつまれり」に決まる。碑は東京・東久留米市の彫刻家芥川永さん(比治山女子短大教授)が制作中
1971/1/26
広島市紙屋町、住友銀行広島支店前の石段に刻まれた「死の人影」が、同支店新築に伴い、原爆資料館に移転へ。ビルは1928年の建築。爆心から280メートルにあり、石段に座っていた人の影が原爆の熱線で焼き付いた。1967年7月、風化を防ぐためガラスケースで保護。切り取り作業には佐藤重夫広島大教授、小倉馨原爆資料館長らも立ち会う。座っていた部分約3.3平方メートルと背中の部分高さ約2メートル。2月2日、原爆資料館へ搬入
1971/1/26
1970年夏、広島市民の手で製作された「ヒロシマ原爆の記録」の英語版が完成、東京・帝国ホテルの日本記者クラブに外国人記者、在日大使館担当官らを招き試写会。仏ルモンド紙のロベール・ギラン氏も出席
1971/1/27
爆心地から700~1,000メートルの旧広島市水主町の住民が、原爆被災復元委員会(志水清会長)が進めている被爆地図の復元調査に協力始める
1971/1/28
総理府が招待した東南アジアの青年30人が広島市を訪れ、原爆資料館などを見学
1971/1/30
佐賀地裁唐津支部で密航韓国人の孫振斗被告に対する出入国管理令違反事件の判決公判。求刑通りの懲役10月。裁判官は孫振斗容疑者の広島被爆は認めたが、原爆症とは認めず、密入国の動機を原爆症治療とする弁護側の主張をしりぞける
1971/1/30
1969年8月6日に広島市民の手で出版した「ヒロシマの証言-平和を考える」を米の平和運動家バーバラ・レイノルズさんが英訳、近く米で出版へ
1971/1/--
前年「ヒロシマ会議」に出席したイタリアの市民運動家ダニロ・ドルチさんが、滞在中通訳をつとめた広島市の井上すみえさんに300行近い散文詩を送付
1971/1/--
広島大政経学部の伊藤満教授(元原水禁広島協議会事務局長)が創価大法学部学部長に就任決まる
1971/1/--
原爆被災復元委員会(志水清会長)が広島市の委託で進めている原爆被災全体像調査が3年目を迎え、調査済み旧60カ町の戸別地図復元に30カ町を追加へ
1971/1/--
平和記念公園のハト公害が問題に。「不潔でやかましい」と苦情。総数は推定1,300羽
1971/1/--
広島県佐伯郡五日市町の画家福井芳郎さんの新作「ヒロシマの悲しみ」が完成。「赤でもなく黒でもなく、地球の皮を一枚はがした色」「このごろやっと冷静に描き始めた。あの色だけが頭の中にあった」

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