×

ヒストリー

ヒロシマの記録1971 4月


1971/4/1
米が原子力潜水艦に複数目標弾頭(MIRV)を実戦配備。1基に10個の核弾頭を持つ新型ポセイドン・ミサイル。実戦第1号は原潜ジェームス・マジソンで16基のポセイドンを配備
1971/4/4
原爆孤児の施設「似島学園」の卒園生らが、創設者で初代園長の森芳麿氏の胸像を作り、除幕式。森氏は終戦直後、原爆孤児約60人を集め、1946年9月に開園。1956年に死去するまで子どもたちの育成に努めた。1971年までに同学園を巣立った子どもは約1,300人、うち500人が森園長とともに過ごした
1971/4/5
仏の週刊誌ヌーベル・オプセルバトールが、エドガー・スノー氏と周恩来中国首相との会見記事を掲載。周首相は核兵器の破壊と禁止で国際首脳会議を提唱
1971/4/5
「昭和天皇来広糾弾集会の平和記念館使用許可取り消しは違法」と被爆者青年同盟など三団体連絡会議(土屋稔代表)が広島地裁に行政処分の取り消しを求める訴訟と、行政処分の執行停止を申し立て
1971/4/6
大分県原爆対策協議会が進めていた別府市小倉の原爆被爆者別府温泉療養研究所(通称別府原爆センター)の増改築工事が完成。鉄筋コンクリート4階建て、72人収容に。旧木造の42人収容に比べ大幅増
1971/4/7
広島市翠町の写真館、故川本俊雄さん方から被爆から約1年間の広島を写したネガフィルム180枚が見つかる。1946年8月6日の平和復興祭の写真など
1971/4/9
原爆詩「生ましめん哉」のモデル、広島市の助産婦の三好ウメヨさんが死去。65歳(1981・10・23)
1971/4/11
米紙ワシントン・ポストが「米は6,400キロ離れて1キロトンの核実験を探知する方法を完成」と報道
1971/4/11
広島県佐伯郡沖美町の48歳の女性が原爆症を苦に自殺。原爆投下の翌日、爆心地付近を歩き残留放射能に侵され、慢性骨髄性白血病に。同じ被爆者の68歳の母親も2月3日に慢性骨髄性白血病で死去
1971/4/12
広島地裁が「昭和天皇来広糾弾集会に対する、広島市の会場使用許可取り消しは無効」と決定。「行政庁内部の権限規定に反していることを理由に、いったん許可したものを無効、違法と主張することは法的安定性の見地から許されない」。市は広島高裁に即時抗告
1971/4/13
米ワシントン・ポスト紙が「米は10月にアラスカ州のアムチトカ島で弾道弾迎撃ミサイル(ABM)開発のため、5メガトンの地下核実験を計画」と報じる。米の過去最大の地下核実験は1969年10月のミルロー実験の1.2メガトン
1971/4/14
広島高裁の松本冬樹裁判長が、「昭和天皇来広糾弾集会」の平和記念館使用をめぐる、広島市の即時抗告に対し、市側の主張を認め広島地裁の決定を取り消す。広島被爆者青年同盟などが広島市長を相手取り提出していた行政処分の執行停止の申し立ても却下
1971/4/14
広島県公安委員会が両陛下の広島訪問をめぐって出されていた左右両団体のデモ11コースの中から当面、7コースを不許可に。県公安条例制定以来、不許可は初
1971/4/15
平和記念館の使用ができなくなった被爆者青年同盟など三団体連絡会議(土屋稔代表)の「昭和天皇来広糾弾広島県民集会」が、広島大で開く
1971/4/15
韓国の李駐日大使が在韓被爆者のための日本からの医師団派遣について、記者会見で「そういう交流はよいことだ。よく調べて本国へ連絡してみたい」
1971/4/15
ジュネーブ軍縮会議の米代表が「世界の人口の7倍が殺せる量の生物兵器の破壊作業がすでに始まっており、1年以内に作業を完了」と述べる
1971/4/15
国立公園三瓶山で開かれる全国植樹祭に出席の昭和天皇、良子皇后が広島に到着。広島訪問は1951年秋の広島国体以来。永野厳雄広島県知事の説明に対し「原爆にあった被爆患者には、今後も援助、援護の手をさしのべるよう一層の努力をするように」
1971/4/15
昭和天皇の広島訪問で、不許可となった4月16日の広島市内デモについて広島地裁が「不許可は一部無効」との決定
1971/4/16
昭和天皇、良子皇后両陛下が初めて原爆慰霊碑に参拝。3万3,000人の市民が参列。白菊を手向け、1分間の黙とう。引き続き、広島市舟入幸町の原爆養護ホームを慰問。「昭和22年に、原爆を受けた当地を訪ね、親しく被災者に面接し、同情に耐えず、世界平和の続くことを思いましたが、今なお療養を続けている多数の市民のあることを聞き、胸のせまる思いがします。今後は、互いに明るい気持ちを持って療養を続け、すみやかに元気な姿になることを希望してやみません」
1971/4/16
佐藤首相が広島地裁の「デモ許可決定」に異議。地裁合議で決定の取り消しを決める。行政事件訴訟法27条を発動して、内閣総理大臣がデモを規制したのは、1967年6月9日、憲法擁護東京都民連合の国会周辺デモを認めた東京地裁の決定に対し、佐藤首相が異議申し立てをしたのが初めて。この後、7件の異議申し立てが行われているが、地方では今回が初。広島県公安委員会が要請し、「公共の秩序保持」を理由に異議を申し立て
1971/4/19
米原子力フリゲート艦トラクストンが横須賀入港。原子力艦艇の日本入港は佐世保を含め通算51回目。トラクストンは4回目
1971/4/24
ワシントンの国会議事堂前で、ベトナム反戦大集会。訪米中の森滝市郎原水禁国民会議代表委員も英語でスピーチ。ベトナムでの戦術核兵器の使用の可能性に触れ「2度と原水爆を使ってはならない」と強調。中国新聞への森滝市郎氏の便り。「被爆から26年生き延びて、米議会の前の大群衆に訴えることは、私には無量の感慨でした」
1971/4/25
「核兵器の持ち込みで日米間に秘密条約」-米ニューヨーク・タイムズが報道。核兵器装備艦艇、飛行機の寄港や緊急着陸を認める。日本政府は全面否定
1971/4/25
ソ連が地下核実験。スウェーデンのウプサラ大地震研究所が探知
1971/4/26
動力炉・核燃料開発事業団が、茨城県東海村に建設する核燃料再処理工場の「設計及び工事方法に関する認可」を総理大臣に申請
1971/4/26
広島市長に山田節男氏が再選。接戦で荒木武氏をくだす
1971/4/27
ワシントンを訪れている森滝市郎原水禁国民会議代表委員が、ベトナム戦争停止と戦術核兵器を使用しないよう求めた3万人の署名簿をニクソン米大統領に提出。26日にはフルブライト米上院外交委員長とも会談
1971/4/--
民主主義文学同盟広島支部、広島労演など18団体でつくる広島県文化団体連絡会議(深川宗俊代表委員)が、小説「ケロイド心中」で梶山季之氏に抗議決める
1971/4/--
昭和天皇、良子皇后の原爆慰霊碑参拝で、同碑前の特別奉迎者約280人中、正式な被爆者代表は広島県動員学徒犠牲者の会広島支部長の大東和徳雄氏ただ1人。被爆者団体などがクレーム
1971/4/--
昭和天皇の原爆慰霊碑参拝に対し左右両派とも反対。右翼「両陛下が慰霊碑に参拝されるのは屈辱だ」
1971/4/--
原爆投下2分後、1時間後、4時間後の連続写真が広島市段原中町、電気器具商松重三男さん方から見つかる。広島県安佐郡安古市町からの撮影で原子雲を北側から撮影したものは初めて。日本人が撮影したキノコ雲は2分後の広島県安芸郡海田町、4分後の同府中町、5分後の呉市、広島市本浦町からの4枚しかなく松重さんのが5枚目
1971/4/--
広島原爆映画管理委員会委員長の原田東岷医師が、3月から4月にかけ約1カ月間、映画「ヒロシマ原爆の記録」を持ってヨーロッパ各国をめぐる。ロンドン、ローマ、ウィーン、パリの4カ所で上映したほか、各地で集会。ロベルト・ユンク氏、アイラ、エディタ・モリス夫妻、ダニロ・ドルチ氏らが協力

年別アーカイブ