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ヒストリー

ヒロシマの記録1971 5月


1971/5/7
ABCCのシーモア・ジャブロン医師らが英医学誌「ザ・ランセット」に、被爆当時10歳未満だった広島、長崎の児童のがん発生率は2倍から8倍と報告
1971/5/8
広島県被爆教師の会が定期大会。(1)平和教育推進行脚隊を組織し県内各地で学習会開催(2)長崎と協力し「全国被爆教師の会」を結成する(3)原水禁3団体に運動の統一を求める-などを決める
1971/5/11
広島県教組(宅和純委員長)が1972年度をめどに平和教育研究所の設立を決める。設置場所は広島市国泰寺町の県教組資料室。原水禁運動の統一を要求する決議も採択
1971/5/11
日本原水協が1971年の運動方針決める。緊急行動として「沖縄の核問題」を取り上げる。1個100円の広島・長崎バッジ100万個を出す。広島県被爆教師の会が出版した「ひろしま」の学習。2,000万円の被爆者救援募金を集めるなど
1971/5/11
佐藤首相が8月6日の平和記念式典に参列へ。首相官邸を訪れた山田広島市長に約束。「ことしは昭和天皇、皇后両陛下が原爆慰霊碑に参拝されたことでもあり、8月6日の平和記念式典には万難を排して出席する」。平和式典への現職首相の出席は初めて。広島の被爆者、平和運動団体は歓迎の一方で被爆者援護の強化を訴え。被青同などは「26年も被爆者を無視してきた首相を呼んだ広島市当局は許せない」と山田広島市長に抗議
1971/5/13
広島県立美術館で第14回新協展。原爆画家福井芳郎さんの「炸裂後15分」から「ヒロシマの悲しみ」まで油絵の大作8点と被爆直後のスケッチ36点などを展示
1971/5/14
米政府原子力委員会がネバダでの核実験再開を承認。1970年12月18日に放射能漏れがあり、実験を中止していた。漏れた放射能は20キロトン以内
1971/5/15
核兵器積載可能米原潜の度々の入港で社会党が追及。政府は「日本寄港の前に核兵器は降ろして入港していると信じている。米に照会し回答」と答弁
1971/5/19
広島公演で訪れたレニングラード・バレエ団の一行110人が原爆慰霊碑に参拝
1971/5/20
原爆症の認定申請却下で、厚生大臣に行政不服審査法に基づく異議の申し立てをしていた東京・小金井市の内海トシ子さんの申請を厚生省が認める。原爆症認定問題で異議申し立てが認められたのは初めて
1971/5/20
米ソ戦略兵器制限交渉(SALT)が(1)年内は防御用の弾道弾迎撃ミサイル(ABM)配備制限について合意するよう話し合いを集中(2)攻撃用戦略兵器の制限措置を話し合う-で一致
1971/5/20
広島市舟入幸町の原爆養護ホームにサンルームが完成。大阪市の会社役員、岡田敏雄さんが寄贈
1971/5/23
「8月6日を国民の休日に」と運動を続けている「群集の渦」(日疋信代表)の若者40人が、広島原爆病院に入院中の西土万合枝さんの佐藤首相あて直訴状を持ち自転車で広島から東京へ出発
1971/5/25
米政府原子力委員会が「米で開発した軽水冷却型発電用原子炉の緊急冷却装置に欠陥」と発表
1971/5/25
1945年9月3日に広島入りし、外国人記者として初めて広島の惨状を海外に打電したオーストラリア出身のウィルフレッド・バーチェット記者が、取材を手伝った元同盟通信の中村敏さん、歌橋淑朗さんと26年ぶりに東京で再会
1971/5/25
森滝市郎原水禁国民会議代表委員が米大使館を訪ね、秋に予定されているアリューシャン列島アムチトカ島の大型核実験中止をニクソン米大統領に文書で要請
1971/5/26
広島市立大手町中学3年生が、修学旅行先の長崎市立山里中学の生徒たちと原爆問題などで交流
1971/5/26
原水禁国民会議が被爆26周年世界大会国際会議に6年ぶりに中国代表の招待を決める「文化大革命以後の中国の柔軟外交路線を評価する」
1971/5/26
WBCジュニアライト級世界タイトルマッチを前に、チャンピオンの沼田義明氏と挑戦者ライオネル・ローズ氏(オーストラリア)が原爆慰霊碑に参拝
1971/5/27
東京・紀伊国屋ホールで劇団「民芸」が「銀河鉄道の恋人たち」を公演。大橋喜一氏作、宇野重吉氏演出。原爆症で亡くなった恋人と後を追う女性を描く
1971/5/28
ウィーンで開かれていた米ソ戦略兵器制限交渉(SALT)第4次交渉が閉幕。7月8日にヘルシンキで再開
1971/5/30
広島県被団協(田辺勝理事長)が8月6日の平和記念式典に出席する佐藤首相に会見を求め、被爆者対策で見解を聞くことなどを決める
1971/5/31
元宝塚の葦原邦子さんが宝塚退団32年を記念して東京・岩波ホールで「原爆被爆者のために」とヒロシマの歌を中心にリサイタル。前年、原爆資料館を見学したのが動機。栗原貞子さんの詩「生ましめん哉」を朗読し、深沢一夫氏作詞、渡辺浦人氏作曲の「ヒロシマの歌」を歌う
1971/5/31
中国電力が、米政府原子力委員会の発表した「軽水炉の緊急冷却装置に欠陥」について「欠陥が発見されたのは小型の実験用軽水炉。実際の炉では心配ない」との声明を発表し、島根県鹿島町での原発工事を続行
1971/5/31
被爆二世の4人に1人が健康に恵まれていない-。山口大社会学研究室が山口県内の被爆者実態調査の結果まとめる。近沢敬一元教授(現福岡大教授)を中心に2年前、柳井市内の被爆者316人と二世309人を調査
1971/5/31
広島市立二葉中の永木潔教諭が佐々木禎子さんの物語を自作で8ミリ映画に製作。「ああこの子にも傷あとを」のタイトルで第1部、第2部
1971/5/--
広島赤十字病院の原爆資料約1万点を原爆資料館に寄贈へ。被爆者の検査に使った顕微鏡、雑用紙の裏に書いたカルテ、放射線に侵された人体標本、放射線に感光したエックス線用のフィルムなど
1971/5/--
広島市の「平和記念施設整備改善委員会」が発足。学識経験者7人と市職員5人で構成
1971/5/--
車公害で広島市宇品西2丁目の広島「憩いの家」が騒音と振動に悩む
1971/5/--
原爆のような瞬間多量の放射線被曝でも、がんの発生率はゆっくりした放射線被曝と同様に高い。原医研の横路謙次郎教授らが発表
1971/5/--
米の高校生の3人に1人が「日本は核兵器を持っている」。岡山県立水島工高の谷本清四郎教諭らが米でアンケート調査。「原子力文化」5月号に発表
1971/5/--
「原水爆実験で大気中に放出されるストロンチウム90、セシウム137は人間の胎盤に蓄積」-。鹿児島大医学部の北原経太教授が発表

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