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ヒストリー

ヒロシマの記録1971 6月


1971/6/1
原子力委員会(委員長、西田信一科学技術庁長官)が、軽水炉型原子力発電所について「停止の必要はない」との判断を示す
1971/6/2
米政府原子力委員会が在米日本大使館に「軽水炉型原子力発電所は欠陥の原因がはっきりするまで新規着工は保留が望ましい」と見解を伝える。中国電力は「安全性に問題はない。計画通り進める」
1971/6/5
仏政府が、南太平洋のムルロア環礁上空で核兵器実験を実施したと発表
1971/6/6
広島ワールド・フレンドシップ・センター(原田東岷理事長)が、在米被爆者のために広島から医師団派遣の運動に乗り出す。米ロサンゼルス広島・長崎原爆被害者の会(60人)の代表、岡井巴さんが広島市を訪れ、2日、原田氏らに協力を要請。在米被爆者の訴えは1967年10月、広島で被爆した岡井巴さんが山田広島市長に相談したのが発端。1969年10月、山田市長が渡米の際、ロサンゼルス、サンフランシスコ、ホノルルの各市で在米被爆者と話し合った。被害者の会(原爆友の会)は1965年8月5日に祈念式典を開き結成
1971/6/6
ソ連がセミパラチンスクで地下核実験。スウェーデンのウプサラ大地震研究所が探知
1971/6/7
被爆都市広島の第1報を世界に打電したウィルフレッド・バーチェット記者が26年ぶりに広島市を訪れる。「まるで生と死、昼と夜の違いだ」。「兵隊同士の戦いならまだしも、無差別爆撃は重大な犯罪だ。それを許すことはできない」。8日、当時、取材で会った広島逓信病院の勝部玄医師(島根県隠岐郡西ノ島町で開業)と再会。「私は勝部先生にすべてを聞き、そのままの惨状を伝えた。世界に対しての警告として記事を書いた」
1971/6/7
横須賀港に米原子力潜水艦ソードフィッシュが入港。米原潜の日本入港は47回目、横須賀は32回目
1971/6/7
山田広島市長がポンピドー仏大統領に「核実験の即時中止を求める」と抗議電報。「核兵器開発は世界平和の維持になんら貢献するものでないのみか、全人類の望みに反し、核軍備撤廃のすべての努力に相反する」
1971/6/7
福岡高裁で密航被爆韓国人の孫振斗被告の出入国管理令違反事件の控訴審判決。控訴を棄却し、1審通り懲役10月。木下春雄裁判長「孫は日本で生まれ育ち広島で被爆した。原爆症の治療にきたことは同情するべき点はあるが、1966年に長崎県佐世保市で密入国、1968年神奈川県川崎市で窃盗の前歴もあり1審判決は不当ではない」
1971/6/7
バーチェット記者が金井利博中国新聞論説主幹と対談。「原爆の投下は完全に間違ったことだ。核兵器は大量殺りく兵器であり、軍人と民衆をまったく無差別に殺すものなので絶対使ってはならない。核兵器は文明を破壊する武器である。その使用はどんな戦争の法則にもない戦争犯罪と考える。(原爆投下の)責任は完全に米にある」。10日のお別れ会見「被爆者やその子供に会って感じるのは、彼らが貧しい生活をしていることだ。これは政治がいかに貧困であるか示すものだ。戦争の犠牲者が、国家の保護を受けるのは、外国では当たり前のことだ」
1971/6/7
被爆体験を受け継ぎ、原爆孤老の寂しさ、悲しみ、怒りを分かち合いたいと大学生、勤労青年らが「広島若人の会」を結成。被爆体験を録音テープに
1971/6/8
日本原電敦賀原子力発電所が、放射性物質が漏れたことを1カ月も福井県へ連絡せず。5月4日から運転を停止し、炉水を検査、ヨード131を1,700キュリー検出
1971/6/9
米ロサンゼルス広島・長崎原爆被害者の会の岡井巴代表が、山田広島市長に会い「米在住原爆被害者の健康診断と治療のため、市から医師団の派遣を」と要請。山田市長は(1)ABCCと協力し実現の方法を検討する(2)医師団に市長が同行してもよい-と前向き
1971/6/9
米政府原子力委員会が放射性廃棄物の恒久廃棄場をカンザス州の地下300メートルの岩塩層に設置
1971/6/10
核禁広島県民会議の村上忠敬議長と核禁会議本部の一木香告樹事務局次長が在日韓国大使館を訪ね、在韓被爆者のための医師団派遣に協力を要請
1971/6/12
仏政府が「南太平洋ムルロア環礁上空で中程度の核爆発実験」と発表。核爆弾の引き金装置を完成させるのが目的。一連の実験は戦術核兵器の開発をめざす
1971/6/12
広島大全共闘など新左翼系の団体が「8・6広島反戦集会広島県統一実行委員会」(児玉隆博委員長)の結成大会を平和記念館で開く。佐藤首相の来広阻止闘争展開などを決める
1971/6/13
広島市で第12回原爆後障害シンポジウム。元広島大原医研助教授の岩森茂氏(愛媛県国立出目療養所医師)らが「被爆者の6割は不定愁訴」と発表。「加齢と原爆後障害」をテーマにシンポジウム。明確な結論は不明。長崎大の岡島俊三教授が「長崎市西山地区の米や野菜に含まれるセシウム137は他の地区の2~9倍」と報告
1971/6/13
横須賀港に原子力ミサイル艦ベインブリッジが入港。原子力艦艇の日本入港は通算52回目、横須賀寄港は35回目
1971/6/15
科学技術庁原子力局が「原子力発電所などから出る低レベル廃棄物は海洋投棄できる」との報告書。原子力委員会の審議を経て投棄開始へ
1971/6/17
日米が沖縄返還協定に調印。米国務省高官が、交渉の背景説明で「核兵器を日本に持ち込む必要が生じたときは日本と事前協議し、同意なしには持ち込まない。事前協議の回答はノーだけとは限らない」
1971/6/18
広島市平和文化推進審議会(岡咲恕一会長)が、この年の平和宣言を(1)具体的提言を盛り込む(2)70年代のスタートにふさわしいものにする(3)国連での核禁宣言、平和教育の推進を強調する-など決める
1971/6/18
ソ連が米、ソ、英、仏、中の5大国による核兵器制限会議開催を提案
1971/6/19
スウェーデンのウプサラ大地震研究所が、ソ連がセミパラチンスク地区で地下核実験と発表
1971/6/19
米政府原子力委員会が軽水炉型原子力発電所欠陥問題で中間報告。「操業上の若干の調整を必要とする。設計中、または建設予定の発電所は、緊急冷却装置の機能改良のための設計変更の可能性を考慮すべき」
1971/6/19
米政府原子力委員会が、19日にソ連の地下核実験から発生した地震波をキャッチと21日発表
1971/6/20
「作品集<八月六日を描く>第二集」が、文化評論出版社から刊行。著者代表、中山士朗氏(「奥付」)
1971/6/21
原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑の除幕式(8月4日)に上演する構成詩「未来を語り続けて」が完成。広島の詩人、深川宗俊さんの作・構成で、広島少年合唱隊の合唱、俳優山本学さんのナレーション
1971/6/23
仏が核保有5カ国会議に参加を表明
1971/6/23
原水禁国民会議が沖縄米軍基地の核兵器について「最高1,000発の戦術核兵器が貯蔵されていると推定される」と発表
1971/6/24
山田広島市長が在米被爆者の治療問題でジョージ・ダーリングABCC所長らと話し合う。ABCCも早期実現に全面協力を約束、具体策の検討へ
1971/6/24
原爆で破壊され、浦上天主堂の敷地に埋もれていた鐘楼ド-ムの保存工事が完成(「長崎年表」)
1971/6/25
広島原爆映画管理委員会(原田東岷委員長)が映画「ヒロシマ原爆の記録」のプリント販売を7月1日から東京の日映新社に委託。5月末までに日本語版38本、英語版15本が販売済み
1971/6/26
広島市社会福祉センターで、新左翼系の8・6広島反戦集会の全国統一実行委員会結成大会
1971/6/26
山田広島市長が、8月6日の「被爆26周年原爆死没者慰霊式・平和祈念式」に出席する佐藤首相の日程の地元案を発表。式典で花輪奉呈とあいさつ、原爆資料館を見学し、原爆養護ホームを慰問 1971/6/26
画家、丸木位里、俊夫妻が描いた「原爆の図」第13部「米兵捕虜の死」が完成。被爆当時の広島で死んだといわれる米兵23人(うち女性3人)を描く。「20数万もの人間を殺した原爆の罪は告発しなければならないが、それ以上に日本人を米兵虐殺に追い込んだ戦争全体の恐ろしさをつくづく考えさせられた」
1971/6/30
「広島県安佐郡祇園町の東山本地区などを特別被爆地域に」と、広島県が厚生省に陳情。町域の約半分は指定を受けているが、東山本地区などは指定外
1971/6/30
広島市内で「韓国在住被爆者の原爆症治療のための専門医師団派遣準備委員会」が発足。核禁広島県民会議の村上忠敬議長、広島大原医研の渡辺正治氏、在日本大韓民国居留民団の金永富事務次長らが出席。(1)医師団派遣時期は9、10月、期間は13日間程度(2)医師4人、付き添い2人程度の編成(3)ソウル、釜山のほか被爆者の多い陝川でも診療
1971/6/--
映画「ヒロシマ原爆の記録」。広島市内の公立学校で低い利用率。学校教育で使ったのは小学校で1校、中学校2校のみ
1971/6/--
核禁広島県民会議と被爆者救援日韓協議会が、専門医師団を韓国に派遣へ。在韓被爆者診療医師団派遣実行委員会が発足
1971/6/--
原爆投下の瞬間、爆心から半径500メートル内の路上にいて健在の2人が、広島大原医研の調べでわかる
1971/6/--
中学校の学習指導要領の改訂で、教科書から「広島」「原爆」に関する記述が大幅に減る。広島県被爆教師の会(石田明会長)の調べでわかる。「1950年代までは原爆の記述が20ページ近い教科書もあった。1958年の指導要領改訂以来、減り続けている」
1971/6/--
広島県被爆教師の会が戦争・原爆体験を継承するため「親から聞いた戦争と原爆体験記」を広島県内の小、中学生に書かせる運動展開へ
1971/6/--
広島市立安佐動物公園の8月6日開園をめぐって市民に賛否の声。「祈りの日に不見識」「意義深い日、平和な動物園にふさわしい」
1971/6/--
「原爆死没者の過去の数字は控えめ」-。広島大原医研の原爆被災全体像調査で証明進む。爆心から半径500メートルにいた人はこれまでの調査で3,483人。うち88%が即死か、翌日に死亡。広島市の1946年8月調査では2,968人、死亡は1,762人
1971/6/--
広島県教組が「教科書を告発する運動」を展開へ。ヒロシマ、原爆の記述が減っている点を重視
1971/6/--
広島県安芸郡坂町役場で、広島から避難した被爆者の収容、死没者名簿4冊が見つかる。収容者約300人、死没者29人
1971/6/--
福山市内の高校生でつくる原爆被爆者救援グループ福山こだま会(三好仁子会長)が原爆体験記を含む文集「この碑の前に終わりなき訴え」を発行

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