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ヒストリー

ヒロシマの記録1971 7月


1971/7/4
仏国防省が「核兵器小型化に必要な核実験をムルロア環礁で実施した」と発表
1971/7/5
外務省が仏核実験に抗議の談話
1971/7/6
広島市教育委員会が小学校用の平和教育の指針「平和教育の手引」試案をまとめる。広島の使命と責務といった観点から、平和教育の必要性を強調し、平和教育の基盤として(1)今世紀二つの世界大戦がもたらした人類の課題(2)日本国憲法の精神(3)被爆体験の継承などヒロシマの使命-の3点をあげる。平和教育の目的として「広島市が人類初の原爆を体験した事実と意義を理解させ、平和を希求する心情と意欲を養う」など5目標。教育現場からは「抽象的でわかりにくい」と批判も
1971/7/6
ジュネーブ軍縮委員会で田中弘人ジュネーブ軍縮大使が「地下核実験の停止が、現段階の最大課題」と強調、「すべての地下核実験停止が困難なら、一定規模以上の実験禁止を」と提案
1971/7/7
「日本が米の核抑止力の恩恵を望むなら、核兵器の有無について議論できないことを認めなければならない」-。ロイター電が米当局者の話として伝える。「日本に対する米の核の傘提供は今後も続けられようが、核兵器の抑止力はそれがどこにあるか沈黙が守られてこそ保持されることを日本が理解するよう希望せざるを得ない。日本は核兵器を積載した艦船や航空機がときどき、日本領内を通過することを認めなければならないだろう」
1971/7/8
「米政府当局者が東京で、日本は1980年代初めに防御用核兵器を保有するかもしれない」と語ったとの米紙報道について、米国務省スポークスマンが否定
1971/7/8
ヘルシンキで米ソ戦略兵器制限交渉(SALT)第5次交渉が始まる。弾道弾迎撃ミサイル(ABM)制限が眼目
1971/7/8
米共和党のグッデル前上院議員が、ワシントンで原子力利用がもたらす公害などを追及する「原子力の責任追及委員会」を結成、と発表。ノーベル賞受賞のライナス・ポーリング博士、クラーク前司法長官らも参加。米政府原子力委員会が秋に予定しているアリューシャン列島アムチトカ島での地下核実験の停止訴訟をワシントン連邦地裁に起こす
1971/7/10
山口大文理学部社会学研究室が山口県内の被爆者の第4回実態調査を始める。船津衛・助教授が、退官した近沢敬一教授(福岡大教授)の研究を継続
1971/7/13
茨城県東海村の日本原子力研究所東海研究所の核廃棄物処理場で、放射性物質が化学反応を起こし火災
1971/7/13
原水禁国民会議の森滝市郎代表委員、被爆26周年原水禁世界大会実行委員会の加藤重行事務局長、社会党の大原亨代議士が首相官邸を訪ね、被爆者救援に関する要望と、4項目の公開質問状を手渡す。質問は(1)将来、わが国の核武装があるか否か(2)核兵器をめぐる日米協定の有無(3)沖縄返還に伴う核抜きの具体的な保証(4)非核武装宣言をするか否か
1971/7/14
中国電通局が「原爆被爆者医療講演会への出席は勤務扱いできない」と全電通労組広島被爆者連絡協議会(小島逸雄委員長)に回答。組合は交渉を中央交渉に移す。「都市対抗野球の応援や社内レクリエーションは勤務扱いなのにおかしい」
1971/7/14
広島で被爆した後、山口市に逃れ同市内の山口陸軍病院で治療を受けた軍人のカルテや病床日誌が、山口県豊浦郡豊浦町、国立療養所山口病院で見つかる。120人分、病名は「原子爆弾傷」と記入され所属部隊名、軍歴、被爆状況、入院時の症状、病状の変化など記入
1971/7/14
社会党のタレント議員、望月優子さんが初登院。「被爆者のために全力を尽くしたい」。望月さんの夫の鈴木重雄さんの父親は広島で被爆死、親友の作家原民喜氏は自殺。望月さんは映画「ヒロシマ」「ヒロシマ1966」などに出演
1971/7/15
茨城県東海村の日本原子力発電会社東海発電所で原子炉制御棒付属装置の交換作業中、作業員3人が許容量を超える放射線を浴びる。許容量を超す被曝事故は日本の原子力発電所では初めて
1971/7/15
広島県被団協(森滝市郎理事長)が総会を開き1971年の活動方針。被爆者援護法制定運動の強化を重点目標とし、(1)原爆被爆者特別措置法の手当支給条件の緩和(2)健康管理手当を全被爆者に支給(3)生存被爆者及び原爆死没者遺家族に年金支給-をめざす
1971/7/15
エディタ・モリスさんの「ヒロシマの花」の翻訳が朝日新聞社から出版。阿部知二氏訳
1971/7/16
日本被団協(伊東壮事務局長)が、被爆者援護対策強化を求めて国会請願。代表17人が参加
1971/7/17
1964年、広島・長崎平和巡礼団の一員としてトルーマン米大統領に会見した松本卓夫団長が、中国新聞のインタビューで「原爆投下を命じた責任者の口からは、通りいっぺんの返事しかなかった。命を無駄にせず、戦争を早く終わらせたかった-とくりかえした。はらわたが煮えくり返るような気持ちをみんなが持った。実に後味の悪い歴史的会見だった」
1971/7/19
山口大社会学研究室の第4回山口県原爆被爆者実態調査の中間報告がまとまる。「専門医になかなかかかれない」「老後が心配」などが顕著に
1971/7/19
広島県庁民生課所管の書庫から旧陸軍の被爆資料が大量にみつかる。「原爆死軍人名簿」「戦災死没者及生死不明者名簿」「死亡証明書」「病床日誌」など計24冊。当時の中国軍管区司令部、陸軍病院が発行した公式文書
1971/7/20
原水禁国民会議の「被爆26周年原水爆禁止世界大会沖縄大会」が那覇市内の官公労共済会館で開く。沖縄で開会総会は初めて。23日まで。「沖縄から反戦平和の声を世界へ」がメーンスローガン 1971/7/22
国立柳井療養所から旧軍関係の被爆者カルテ計1,080人分が見つかる。山口大社会学研究室の船津衛、木下謙二助教授らと山口県被団協が調査
1971/7/23
被爆翌日の混乱の中で叔父と思って火葬にした被爆死の軍人が別人だったことが分かり、改めてこの軍人の遺族捜しを始める。広島市の桑原新作さん。市主催の原爆死没者名簿一般公開の会場に叔父の写真を飾り、心当たりの人に呼びかけ
1971/7/23
法務省が日本原水協から出ていた第17回原水爆禁止世界大会に出席する北ベトナム代表2人の入国申請を認める。1965年の第10回大会以来7年ぶり。法務省「ベトナムを取り巻く国際情勢が変化しつつある」
1971/7/24
中国新聞朝刊で連載企画「戦無派のヒロシマ」始まる。被爆者青年同盟の児玉隆博さん、ティーチイン列車を企画した古藤晃さん、東京被爆教師の会の森香世子さん、「長崎の証言」刊行委員会の山下兼彦さん、広島原爆病院医療社会事業司の若林節美さん、原爆文献を読む会の井上澄夫さん、山口大被爆者調査の徳野貞雄さん
1971/7/24
第6回原水爆禁止科学者会議が東京・神田の如水会館で始まる。25日も。29大学、7研究機関から74人の科学者が参加。(1)沖縄返還協定と東南アジア、核戦略(2)核兵器と環境破壊(3)科学研究と平和-がテーマ。日本学術会議原子力特別委員会原水爆被災資料委員会の小川政亮小委員長(日本社会福祉大教授)が、原水爆被災資料センター設置について協力を要請
1971/7/26
日本平和委員会(平野義太郎会長)が、日本原水協主催の第17回原水禁世界大会に「世界平和評議会(本部ヘルシンキ)の代表団が参加」と発表。7年ぶり
1971/7/26
被爆者青年同盟(土屋稔代表)が「佐藤首相来広、式典出席反対。被団協の援護法制定要求支持」を掲げ平和記念公園の原爆慰霊碑横で座り込み。30日まで。28日、市が強制退去を執行。再び、座り込む
1971/7/26
東京被爆者青年同盟が結成、神田・全電通会館ホールで「8・6ヒロシマと連帯する東京集会」開く。「私たちは今こそ原爆被害者であると名乗り出て、死んでいった親たち、社会的差別と病苦に苦しむ兄弟のおんねんを我がものとし、親たちの戦いを継承する。8・6の広島では佐藤首相来訪を実力で阻止する」
1971/7/26
広島市の被爆26周年原爆死没者慰霊式・平和祈念式に参列する佐藤首相の日程決まる。8月5日夕、広島入り、6日朝、式典に出席。原爆慰霊碑に花をささげあいさつ。原爆資料館を見学、原爆養護ホームに被爆者を見舞う。広島県庁で永野厳雄広島県知事、山田広島市長から被爆者の実情を聞き、記者会見の後正午過ぎ列車で帰京。被爆者との懇談は実現せず。山田広島市長「戦後の歴代首相の中で初めて佐藤首相の平和式典参列が実現し、感謝している。被爆者にも喜んでもらえると確信している。時間の関係で被爆者代表との懇談や原爆病院慰問が実現しなかったが、やむを得ないと思う。広島の実情に触れた首相が、今後、被爆者問題に認識を深め、援護法実現と再び広島を繰り返してはならないとの決意を表明するよう願っている」
1971/7/26
米のマサチューセッツ工科大学、ハーバード大学の科学者グループ「関心ある科学者同盟」が、「現在使用されている緊急冷却装置は重大な欠陥がある」として、建設中の原子力発電所の操業許可を停止するよう要請
1971/7/26
原爆小頭症の親たちで結成している「きのこ会」が、佐藤首相に要望書の提出決める。「原爆被爆者特別措置法による特別手当など諸手当の大幅増、諸手当支給条件の所得制限を撤廃、被爆者援護法制定」など
1971/7/27
日本被団協の行宗一代表委員と伊東壮事務局長が佐藤首相に「被爆者問題に関する要望書」提出。「首相は原爆被害の実相を十分に見聞し、被爆者の声を直接に聞いて、被爆者の援護対策を大きく前進させてほしい」
1971/7/27
韓国在住被爆者のために専門医師派遣計画を進めている「医師団派遣準備委員会」(核禁広島県民会議、民団広島県本部などで構成)が派遣医師、日程など決める。石田定広島原爆病院内科部長、内野治人原医研教授、江崎治夫同、開業医の河村虎太郎氏の4人。9月20日に出発
1971/7/28
広島県安芸郡坂町小屋浦の地区会長宅から、遺骨の引き取り手のないまま2年後、地元民の手で追悼法要された64柱の無縁仏の名簿と、被爆者の遺体運搬に従事した人の名簿が見つかる
1971/7/28
広島県被爆教師の会(石田明会長)が米ニューヨークの世界法財団から「メガトン時代」のタイトルの原水爆関係のスライド124コマを入手。1966年4月7日にスペイン沖で引き揚げられた水爆の写真、ビキニ水爆実験で被災したマーシャル諸島住民の写真など
1971/7/28
広島県公安委員会が新左翼系の「被爆26周年8・6広島反戦集会全国統一実行委員会」から出された8月5、6日の広島市内のデモ行進申請を受理
1971/7/29
郵政省と電電公社が、旧逓信院に勤めていて広島、長崎の原爆で死亡、殉職した人のうち恩給法の適用外だった雇員、傭員の遺族に一時金30万円の支給決める。中国電気通信局関係353人、広島郵政局関係約180人
1971/7/29
広島地裁で、「原爆症認定申請却下は不当」とする尾道市の桑原忠男さんの行政処分取り消し訴訟第1回口頭弁論。提訴以来、2年4カ月ぶり。桑原さんは1968年9月7日、厚生大臣に認定申請したが、却下となったため1969年3月、提訴。「爆心から1.3キロで被爆、脊髄損傷が原因で下半身が不自由に」
1971/7/29
広島市立幟町中学が31日まで学年ごとの平和教育集中学習。29日3年生、30日2年生、31日1年生。3回目の試み
1971/7/29
詩人栗原貞子氏がロバート・リフトン氏の「死の内の生命」への疑問点を中国新聞に寄稿。「この本が学問的に書かれていればいるほど、徹底した被爆者無視、運動アレルギーの部分は強烈に浮かび上がり、社会的、政治的に利用されるということになれば、その役割はABCC的である」
1971/7/30
広島原爆病院院長の重藤文夫氏と大江健三郎氏の共著「対話原爆後の人間」が新潮社から刊行
1971/7/31
広島県教組がまとめた県内の平和教育実施校は公立870校のうち約500校、前年の400校を大幅に上回る。尾道、三原の全小中校は8月6日を登校日に
1971/7/31
広島労働会館で全国被爆者青年同盟の結成大会開く
1971/7/31
日本原水協の第17回原水爆禁止世界大会東京大会が、東京都立体育館に海外代表31人をはじめ約1万人が集まって開幕。瀬長亀次郎沖縄人民党委員長、金子満広日本共産党書記局次長らがあいさつ
1971/7/31
韓国原爆被害者援護協会の辛泳洙会長ら2人が広島入り。韓国人原爆犠牲者慰霊碑前で開く第2回慰霊祭に出席へ
1971/7/31
広島県原水協(佐久間澄理事長)と広島県被団協(田辺勝理事長)が佐藤首相あての「被爆者援護強化」に関する要望書を広島市に提出。「現行被爆者対策立法が社会保障の枠内に組み込まれているのは、国の戦争責任回避。国家補償の精神に基づく完全援護法を制定せよ」
1971/7/31
中国新聞社編の「ヒロシマ・25年」を未来社から出版(「奥付」)
1971/7/--
仏政府が「発電用ウラン濃縮工場を太平洋地域に日仏合同で建設」を提案
1971/7/--
全電通被爆者連絡協議会(小島逸雄会長)が被爆体験記集「原子雲の下に生きつづけて」第2集を出版へ
1971/7/--
広島県安佐郡佐東町役場から1945年の川内村、八木村の「変死者検視調書」2冊が見つかる。川内村161人、八木村109人の計270人の犠牲者の氏名、住所、死亡場所を記載
1971/7/--
被爆死した電電公社(当時逓信省)の地方採用職員の遺族に1人あたり30万円の一時金の支給が決まる。電通遺族会(小松キクエ会長)、全電通被爆者連絡協議会(小島逸雄会長)らの運動実る。電電公社職員の原爆死亡、行方不明は577人、うち約400人が地方採用
1971/7/--
漫画家中沢啓治さんが初の単行本「黒い雨に打たれて」を出版。ドーミエ書房。雑誌に発表した原爆作品から大人向けの「黒い雨に打たれて」、子ども向けの「ある日突然に」など計7編を収録。中沢さんは小学校1年の時、広島市舟入本町で被爆、父親と姉、弟を失い、母親がその日に出産した赤ちゃんは3カ月で死亡
1971/7/--
広島県佐伯郡廿日市町の宮内公民館倉庫から1945年8月6日の救援記録見つかる。「8月7日夜半にいたるも火炎村内通勤通学者帰宅せざるもの相当罹災者続々来村す」
1971/7/--
広島戦災供養会(田頭新太郎会長)が、広島市周辺の寺院に安置されている原爆死没者の遺骨を引き取り、戦災供養塔に納骨へ。広島県安佐郡佐東町の専蔵坊など8カ所に43柱
1971/7/--
日本基督教団が原爆孤老のために広島県佐伯郡廿日市町に建設中の特別養護ホーム「清鈴園」の建設工事が順調。ホーム建設委員会の現地委員長は杉原助日本基督教団広島南部教会牧師。全国からの浄財4,000万円、米、カナダの教会3,600万円、国、県から3,400万円。1月着工
1971/7/--
広島県が1972年度重点事業の国への要望事項に初めて被爆者の援護措置強化を組み入れる。(1)被爆区域の是正(2)原爆被爆者特別措置法による諸手当増額、範囲拡大(3)被爆者養護ホーム増設-など
1971/7/--
広島市草津地区の住民が「黒い雨が降ったのに特別被爆地域の指定を受けていないのはおかしい」と地域指定の運動始める
1971/7/--
「ただ1頭残る被爆馬」-。広島市中山町の農業倉田伝太郎さん所有の「ハチ」。広島市東保健所の今田忠信公衆衛生課長が調査へ
1971/7/--
米原子力空母エンタープライズが、日本海域を含む西太平洋を守備範囲とする第7艦隊に配属。横須賀市民は寄港を懸念
1971/7/--
原爆慰霊碑を正す会(会長、岩田幸雄広島県モーターボート競走会長)が、「原爆慰霊碑の碑文をすぐに抹殺し、碑を建て直すべきだ」との請願書を山田広島市長と浅尾義光市議会議長に提出へ
1971/7/--
広島県高校被爆教職員の会(森下弘会長)が全県で「高校生の原爆に関する意識」調査を実施。米が原爆を投下したのをどう思うかに「絶対に許せない」52.8%「本土決戦による日米双方の犠牲を少なくするため、投下は必要だった」28.7%。また、「原爆だけでなく交通戦争、公害など文明災害に目を向けるべき」も48.1%
1971/7/--
「幻の部隊」といわれた第224師団、通称「赤穂部隊」の生き残り兵士が次々と名乗り。山口陸軍病院の病床日誌発見がきっかけ
1971/7/--
柳井市の国立柳井療養所で、旧広島第一陸軍病院の軍医が被爆直後、広島市内と周辺の救護所で治療に当たった模様と、原爆症について報告した「広島第一陸軍病院・原子爆弾研究綴」の一部が見つかる。(1)せん光から爆風までの時間(2)治療薬の種類(3)被爆直後の患者の状況(4)原爆症の経過(5)感想、意見。「患者の状況より、残酷甚だしきものと感じ憤激を感ぜり」
1971/7/--
広島県被爆教師の会(石田明会長)が「ひろしまの平和教育」第2集を発刊
1971/7/--
広島市草津本町で国民義勇隊草津大隊の記録見つかる。当時、大隊長だった故小川早苗氏が記録。被災後、開設された草津国民学校救護所での「草津大隊活動模様」、8月6、7、13日付の「大隊日誌」など。「第1日(6日)取り扱ひたる患者4,000名…治療に当たるもついに及ばず、重傷のもの続々と死す」
1971/7/--
国鉄労組被爆者対策協議会(事務局長、石川俊彦国労広島地本委員長)が、国鉄マンの原爆体験記「この怒りを」出版へ。「被災5時間後には、ぼろきれのようになった人々を乗せて上り列車が動いた。その背景には国鉄マンの使命感があった」

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