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ヒストリー

ヒロシマの記録1971 11月


1971/11/1
修学旅行で広島市を訪れた埼玉県浦和市立高生徒が、原爆問題をテーマに広島の高校生と交流
1971/11/1
山田広島市長がアムチトカ島地下核実験でニクソン米大統領に抗議電報。「日本、カナダ両国政府の反対抗議を無視し、実験を指示したのは遺憾。核兵器の開発は、平和の維持に役立たないだけでなく核軍縮への努力にも背く。実験中止の英断を重ねて懇請する」。世界平和アピール7人委も反対声明を発表
1971/11/2
広島市似島の遺骨発掘現場から新たに100体分を発見。計206体分に
1971/11/2
婦人民主クラブ広島支部(小島清子支部長)と原水爆禁止広島母の会(升川貴志栄会長)が、アムチトカ島地下核実験に対しニクソン大統領に抗議電報。原水禁国民会議、広島県労会議(浜本万三議長)も
1971/11/2
広島県教組と広島県原爆被爆教師の会が実施した「原爆被害に関する調査」の結果まとまる。原爆投下日時、投下国、被災国などの正解率上がり、「平和教育は着実に浸透」
1971/11/3
ワシントンの連邦高等裁判所が、アムチトカ島地下核実験中止を求めた反対派の提訴を却下
1971/11/3
在米原爆被爆者友の会がロサンゼルス市で第1回会合。米側からトーマス・ノグチ(ロサンゼルス郡検視局長)、ジャック・カースバウム(元長崎ABCC主任)氏らと広島、長崎の被爆者50人が出席して日本からの被爆者医療派遣団について話し合う
1971/11/4
米の反核民間団体「核の責任委員会」などが米最高裁に、アムチトカ島地下核実験停止命令を出すよう提訴。米上院議員の間にも反対の声強まる
1971/11/4
広島市似島町南風泊で発掘された遺骨296体が広島市へ。広島大医学部で調査後、平和記念公園内の戦災供養塔に合祭へ
1971/11/4
米原潜クィーンフィッシュが、横須賀港に入港。横須賀への原潜入港は通算39回目
1971/11/5
アムチトカ島地下核実験に米34上院議員が抗議電報
1971/11/5
福田赳夫外相が、牛場信彦駐米大使にアムチトカ島地下核実験について米に抗議するよう訓令。10月28日、11月2日に続き3回目。成田知巳社会党委員長がニクソン大統領にあて抗議電報
1971/11/5
核禁広島県民会議が広島市で韓国被爆者診療医師団帰国報告会。「今回だけの診療活動で終わっては無意味だ。運動のすそ野を広げ、韓国の各地域の実情に応じた各種の救援活動を展開することが急務」
1971/11/5
広島地裁で8月6日の平和記念式典乱入事件の初公判。全国被爆者青年同盟の児玉隆博委員長ら3被告。不規則発言を繰り返した被告、傍聴者に退廷命令
1971/11/5
広島県高田郡吉田町の県立吉田高校の生徒らが原爆病院を「菊の慰問」。同校農業クラブの生徒らが丹精込めて育てた菊の慰問は10年前から続く
1971/11/6
米、カナダでアムチトカ島核実験強行に抗議の渦。ワシントン、ボストン、ニューヨークでデモ
1971/11/6
米がアリューシャン列島アムチトカ島で地下核実験を強行(日本時間7日午前7時)。米政府原子力委員会は「放射能流出、地震、津波はない」と発表。マグニチュード7。地底1,800メートルで、規模は5メガトン
1971/11/6
日本被団協の行宗一代表委員らが、米アムチトカ島地下核実験で米大使館に抗議▽日本原水協も抗議の署名運動
1971/11/6
米最高裁がアムチトカ島地下核実験中止の提訴について合議、4対3で提訴を却下
1971/11/7
被爆者青年同盟(児玉隆博委員長)、全電通被爆者協議会(小島逸雄会長)の約40人が米アムチトカ島地下核実験に抗議し、平和記念公園の原爆慰霊碑前に約2時間、無言の座り込み。広島県被団協の森滝市郎理事長も途中から参加。森滝市郎さんの座り込みは1962年、米が太平洋上で空中核爆発実験をして以来
1971/11/7
竹下登官房長官が「きわめて遺憾。被害があれば補償を請求する」と談話を発表
1971/11/8
広島市基町相生通り、通称「原爆スラム」で大火
1971/11/8
米核実験場アムチトカ島の爆発地点で大陥没
1971/11/8
広島市基町相生通りの通称「原爆スラム」でまた、大火。35世帯が焼け出される。同地区の大火は1961年以降、9回目
1971/11/8
広島市似島の発掘遺品の中で初めて身元を特定できる定期券入れが見つかり、遺族も分かる
1971/11/12
原爆症認定申請の却下は不当と厚生省を相手取り尾道市の桑原忠男さんが訴えている行政処分取り消し訴訟の第3回口頭弁論が、東京地裁で出張尋問。被告側証人の福渡靖・元厚生省公衆衛生局企画課長補佐(鳥取県予防課長)が申請却下の理由を明らかにし、原告側証人の伊東壮日本被団協事務局長、田沼肇法政大社会学部教授の2人が認定制度の矛盾を指摘
1971/11/15
ウィーンで米ソ戦略兵器制限交渉(SALT)第6次交渉始まる
1971/11/15
「広島、長崎をぜひこの目でみたい」というリカルド・ガブリサス・ルイス駐日キューバ大使らが原爆慰霊碑に参拝
1971/11/16
衆院沖縄返還協定特別委員会で、社会党の楢崎弥之助氏が「岩国市の米軍岩国基地に核兵器が貯蔵されている疑いがある」と政府を追及
1971/11/16
広島市特別名誉市民のノーマン・カズンズ氏が、米誌「土曜文学評論」の編集長を辞任。所有者との意見の相違が理由
1971/11/17
米軍岩国基地で、楢崎弥之助氏が指摘した「赤色」の弾薬庫プレートが黄色に塗り替えられる
1971/11/17
衆院沖縄返還協定特別委員会で福田赳夫外相が「米政府に確認した結果、岩国に核兵器はないとの返事だった」と答弁
1971/11/17
国連総会第1委員会(政治・軍縮)で、田中弘人軍縮大使が演説。ジュネーブ軍縮会議への中国の参加を要求
1971/11/18
米政府原子力委員会が「中国は新疆省ロプノル付近で大気圏核実験を実施」と発表。20キロトン、ミサイル弾頭の開発か
1971/11/18
米海兵隊岩国航空基地のハイエル・L・バンキャンペン司令官が記者会見し、核貯蔵を間接的に否定。B52の飛来も否定
1971/11/19
広島市が中国の核実験に抗議電報(「広島市・核実験抗議文書発信状況綴」)
1971/11/19
広島県原水禁の森滝市郎代表委員ら15人が米軍岩国基地を訪れ「核兵器、毒ガスの即時撤去、基地自体の撤去を要求する」と抗議
1971/11/22
社会党系の原水禁団体、被爆者団体が米軍岩国基地司令官との面会を求め基地前で座り込み始める。森滝市郎氏ら30人
1971/11/22
社会党の成田知巳委員長が、国会内で記者会見し「楢崎弥之助氏が岩国基地に核・生物・化学兵器部隊が存在する証拠を入手」と発表。資料は基地電話帳の「NBCSCHOO」「ABCC」「COMMANDEROFTHEGUARD(NBCWEAPONSSECTIONS)」など
1971/11/22
広島市が似島町の旧陸軍馬匹検疫所跡の被爆者遺骨発掘作業を打ち切る。推定617体分を収容
1971/11/22
朝枝俊輔岩国市長、岸本孝二山口県副知事がハイエル・L・バンキャンペン米軍岩国基地司令官と面会。核疑惑をただす。司令は「在日米海軍司令部の許可があれば、基地調査団は受け入れる」と述べる
1971/11/23
広島に原爆を投下したB29爆撃機エノラ・ゲイの副操縦士、ロバート・A・ルイス大尉が保存していた個人的な飛行日誌がニューヨークで競売に。希少本業者が3万7,000ドルで落札。日誌はニューヨーク・タイムズのローレンス科学記者の依頼で執筆。「われわれが殺したジャップの数はいったいどれくらいだろうか。私は表現すべき言葉がないという感じだ。それとも『神様、われわれはなんたることをしたのでしょうか』とでもいおうか-」
1971/11/24
衆院で非核兵器並びに沖縄米軍基地縮小に関する決議案(自、公、民、共同提出)=社、共欠席=を即日可決
1971/11/24
防衛庁が、「米軍岩国基地を調査した結果、同基地に核・生物・化学兵器はなかった」と発表
1971/11/25
米政府原子力委員会がネバダの地下核実験場から大気中に放射能が漏れていることを認める。実験は最近、秘密裏に行われた
1971/11/26
広島日米協会(山本朗会長)創立記念式に出席のため広島市を訪れたマイヤー米駐日大使が、「日本国内の米軍基地に核・生物・化学兵器はない」と強調
1971/11/26
広島市似島の旧陸軍馬匹検疫所で被爆者の遺骨と一緒に発掘された遺品54点の一般公開が、平和記念館で始まる
1971/11/28
全国被爆者青年同盟(児玉隆博委員長)が東京で「被青同全国キャラバン」壮行会開く。キャラバン隊は独自の原爆病院建設に向けてのカンパ集め
1971/11/29
広島市似島町で発掘された遺品のバックルの身元分かる。「GraduateSuccess2600」が手がかり。12月2日には印鑑指輪の所有者も分かる
1971/11/--
広島県大野町の大下応さんが、1945年7月16日に米ニューメキシコ州アラモゴードで行われた世界最初の原爆実験を撮った米ニュース映画を所有。当時の新聞と一緒に披露
1971/11/--
韓国原爆被害者援護協会の辛泳洙会長が中国新聞に寄稿。「韓国被爆者の問題は民間ベースだけでは解決できない。日韓両国民がそれぞれ政府に対し『韓国被爆者の救援に乗り出せ』と要求する運動を起こすよう、心から訴える」
1971/11/--
尾道市の元軍医が広島湾の大那沙美島にも原爆犠牲者の遺骨数十体分があるはずと証言。旧呉海軍港務部軍医長の金崎三三さん
1971/11/--
被爆者の遺骨埋葬情報が相次ぐ。広島第1陸軍病院看護婦さんらは、広島市宇品東5丁目の旧大和紡績広島工場に「千から数千の遺骨があるはず」と証言

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