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ヒストリー

ヒロシマの記録1970 8月


1970/8/1
広島、長崎両県の被爆教師の会が広島市で平和教育シンポジウム開く。「教科書から消える原爆記述、核アレルギー解消の教育政策の中で、命ある限り平和を子供たちに教え続ける」との誓いと訴えを発表
1970/8/1
広島市や地元報道機関が被爆25周年を記念して製作した原爆記録映画「ヒロシマ原爆の記録」が完成。日本映画新社から山田広島市長と森脇幸次原爆映画製作委員長に手渡される
1970/8/1
核禁会議が広島市の見真講堂で核禁広島・全国集会開く。700人参加。(1)部分核停条約を全面核停に改め、核保有国に核軍縮を要求(2)沖縄と北方領土からの核基地撤去(3)日本の非核化(4)被爆者援護-などを決議
1970/8/1
日本原水協の第16回原水禁世界大会国際予備会議が終わる。ベトナム、ラオス、カンボジアの人民闘争の支援を決議。引き続き、同世界大会本会議始まる。東京都体育館に1万人。佐久間澄日本原水協代表理事が「70年代における米帝国主義の核脅迫と戦う国際連帯を強化、統一行動を発展させる重大な課題に直面」と報告
1970/8/1
長崎の証言刊行委員会が第2集「長崎の証言1970」をあゆみ出版社から刊行
1970/8/1
劇団「世代」が東京の俳優座劇場で創作劇「原子爆弾」(作・浜田善弥氏、3幕)を上演
1970/8/1
広島市の原爆慰霊碑前で第6回平和の灯まつり開く。広島県平和の灯奉賛会主催
1970/8/2
神戸市の舞踏家貞松融さんらが原爆バレエ「つるのとぶ日」を神戸・国際会館で上演。広島の童話作家グループ「子供の家」会員の山下夕美子さんの作品を脚色
1970/8/2
米誌タイムが「広島、長崎に原爆を投下したのは誤りだった」と論評。「原爆の破壊力を日本軍指導者に示しながら実効ある外交を展開するという発想が米にはなかった」
1970/8/2
広島市の原爆慰霊碑前で爆心地旧町民が合同法要。平和記念公園の区域にあった被爆当時の中島本町、材木町、天神町、元柳町の旧4町住民250人が参列
1970/8/2
訪米中の広島・長崎平和使節団(松本卓夫団長)がミネソタ州セントポールの教会で原爆慰霊式
1970/8/3
訪米中の広島・長崎平和使節団(松本卓夫団長、6人)が国連で記者会見。松本団長「原爆の無差別殺害は正当化できない犯罪である」。会見に先立ち、リーゼン・ニューヨーク市長らと懇談
1970/8/3
ニューヨークの教育テレビ・ネットが被爆25周年記念番組「ヒロシマ、ナガサキ」を放映。被爆の惨状や原爆製造の記録フィルムと原爆投下の是非を問う意見で構成。4日付各紙が論評。ニューヨーク・タイムズ「放射能や爆発による熱の影響力の大きさを物語るにとどまっている。核が世界の死滅を阻止する抑止力になるかどうかの議論をしていない点で、若干批判を受けなければならない」
1970/8/3
米海軍がフロリダ州ケープケネディ沖合の海中から複数核弾頭ミサイル「ポセイドン」の発射に成功、と発表
1970/8/3
広島市の平和記念公園噴水前で原爆死没者慰霊盆踊り大会
1970/8/3
日本原水協の第16回原水禁世界大会本会議が閉幕。(1)ベトナム人民支援(2)沖縄の核基地・毒ガス抜き返還(3)被爆者救援活動の前進(4)第五福竜丸保存運動の強化-を決議。原水禁運動の統一を提唱した「70年アピール」を採択
1970/8/3
原水禁国民会議主催の被爆25周年原水禁世界大会国際会議始まる。広島市の県労働会館に8カ国の外国代表を含む50人が参加。核兵器禁止を訴える国際行動月間の設置などを提案
1970/8/3
原爆記録映画「ヒロシマ原爆の記録」の特別試写会開く。広島市の平和記念館に被爆者ら300人が出席
1970/8/3
広島市平和記念公園内にある戦災供養塔に眠り続けていた遺骨8柱が遺族に引き渡される
1970/8/3
山田広島市長が記者会見で「原爆慰霊碑の碑文は変えない」と表明。「碑文の主語は世界人類であり、人類全体への警告、戒めである」
1970/8/3
広島原爆映画製作委員会と同管理運営委員会が原爆記録映画「ヒロシマ原爆の記録」の英語版の製作を決める
1970/8/4
原爆の犠牲になった当時の国民学校の教師、児童、生徒のための初の慰霊祭が広島市平和記念公園内の原爆の子の像横で営まれる。広島県被爆教師の会が慰霊碑の建設運動を始めたのがきっかけ。遺族ら80人が参列
1970/8/4
長崎原爆病院が過去1年間の診察状況を発表。受診した被爆者は2万900人、入院患者は1,011人。がんなど悪性新生物が増加。被爆二世の入院は100人
1970/8/4
広島大原医研が爆心500メートル以内の被爆人口調査で中間報告。3,059人を確認。90%の2,739人が即日死。生存者は7月末現在、16人
1970/8/4
第2回世界連邦平和促進宗教者大会が広島市で始まる。5日まで。32教団から1万人参加。広島コミュニケ「全世界の宗教者が宗教、宗派の垣を越え平和実現のため立ち上がる時が来た」
1970/8/4
広島市の平和記念公園に爆心地の町並みを再現した記念碑が完成。旧中島本町原爆復元地図製作委員会が作製
1970/8/4
国労が白血病に苦しむ被爆二世を救済するため、献血や医療費カンパなど救援運動の展開決める
1970/8/4
広島・長崎平和使節団の大原三八雄氏がニューヨークの「ヒロシマ-ナガサキ25周年記念のつどい」で平和を訴える。反戦団体「ベトナム平和のための復員兵士」など10数団体主催、400人が参加
1970/8/5
被爆25周年を契機に改修していた原爆殉難者無縁仏納骨堂が完成(「長崎年表」)
1970/8/5
原爆投下25周年を記念してニューヨークのタイムズ・スクエアで市民100人が徹夜のろうそくデモ
1970/8/5
広島市内で「8・6ヒロシマ反戦集会」前夜集会。中四国の全共闘系の学生や市民800人参加。小西ノブ子さんが被爆の実相を訴え。被爆者青年同盟を結成
1970/8/5
原水禁国民会議の被爆25周年原水禁世界大会広島大会総会始まる。6日まで。広島県立体育館に海外代表6人を含む8,000人が参加。広島アピール発表「日本政府が核外交に足を踏み入れ、加害者になることを許さない」
1970/8/5
中国海運局原爆犠牲者慰霊碑の除幕式。広島市宇品海岸3丁目の広島港湾合同庁舎前広場に遺族ら30人参列。犠牲者19人の名前を碑に刻む。費用は慰霊碑建立会(会長、大久保武雄代議士)が呼び掛けた募金でまかなったが、「業者へ寄付を割り当てた」と批判の声も
1970/8/5
広島市の韓国人原爆犠牲者慰霊碑(4月除幕)前で初の慰霊祭。在日本大韓民国居留民団広島県地方本部主催。遺族ら110人が参列。450人の死没者名簿を奉納、春の奉納分と合わせて606人に。崔成源団長「本国に帰って亡くなった方の霊も碑に納めたい。25年間もまとまった慰霊祭が開けなかったのは残念だが、これからは毎年開く」
1970/8/6
山田広島市長が平和宣言。「人類の科学は宇宙に輝く時代を迎えたが、いまだに国家間の相互不信は除かれることなく、世界はさらに戦争という罪悪を繰り返している。ベトナムで中東でこの悲しむべき現実を見る。残虐非道な核兵器の使用は、この地上ついに人間の生存を許さないであろう。ヒロシマの体験がこれを証言している。しかるに世界の大国は、ヒロシマの抗議を顧みず、依然として限りない核軍備競争に没頭し、人類自滅の道を進みつつある。…われわれは、あの日以来、ヒロシマの人間惨禍に基づき、核兵器の廃絶と戦争の放棄を訴え続けてきた。このヒロシマの叫びは、世界の世論にささえられ少なくとも核兵器の使用を阻止することができた。われわれはこの成果を踏まえ国民的悲願を結集しつつ、ヒロシマの体験をすべての人間の心に深く定着させ、核兵器の全廃と世界恒久平和の実現に向かって前進を続けよう。今こそ平和へのとりでを、すべての人の心の中に築くときである。もはや1国だけの平和はあり得ない。世界は1つであり、人類は一体である。われわれは世界市民意識に立って、人類連帯の精神に基づき、世界法による平和の秩序を確立しなければならない」
1970/8/6
中国放送が平和記念式典の模様を全米へ初の宇宙中継。米CBS系ネットワークを通じ放送
1970/8/6
広島市や地元報道機関が被爆25周年を記念して製作した原爆記録映画「ヒロシマ原爆の記録」(29分)が一般公開。広島市公会堂で6回上映。中国放送、広島テレビでも放映
1970/8/6
平和記念式典に参列した内田常雄厚相が記者会見で、被爆者援護対策について「健康管理手当の支給年齢引き下げ、適用枠の拡大など予算化したい」と語る
1970/8/6
偕行社済美学校の碑(広島市八丁堀)、旧中島本町の復元地図の碑(平和記念公園内)、鷹野橋商店街振興組合の原爆犠牲者慰霊碑がそれぞれ除幕式
1970/8/6
仏国防省が「南太平洋のムルロア環礁で6日、大気中の核実験を行った」と発表。水爆の小型化を目的に5月15日から続いている実験の8回目で、この年最後
1970/8/6
クレイグ・ホズマー米下院議員が下院本会議で「原爆投下は太平洋戦争を早く終結させ、米軍将兵の損害を最小限にとどめるため、必要やむを得ない措置であった」と演説
1970/8/6
ニューヨーク・タイムズが「ヒロシマの教訓」と題する社説。「ヒロシマの教訓は、核時代において、人類はお互いの悪意と憎しみを制御しなければならないということであったし、それは現在でも変わらない」
1970/8/6
日本原水協の第16回原水禁世界大会広島大会開く。広島県立体育館に5,000人参加。「核兵器と侵略のない世界実現のために、共に戦うことを被爆25周年の広島から全世界に呼びかける」とのアピールを採択
1970/8/6
広島被爆25周年。広島市の平和記念公園で原爆死没者慰霊式・平和祈念式。過去最高の5万人が参列。死没者名簿に3,606人を追加奉納。被爆当日に死亡した米兵捕虜とロシア人の2人も。奉納総数は7万6,341人。式典には韓国・朝鮮人被爆者の代表2人も参列
1970/8/6
新左翼系の「8・6広島反戦集会」開く。広島市の原爆資料館前広場に学生、労働者ら1,500人参加。「8月6日を祈りの日から日本帝国主義打倒の戦いを誓う日にしよう」
1970/8/6
クランストン米上院議員が広島・長崎平和使節団に「原爆投下はトルーマン大統領の誤り」と語る
1970/8/6
原爆被災資料広島研究会が「原爆被災資料総目録・第2集」を発刊(「奥付」)
1970/8/6
原水禁国民会議の被爆25周年原水禁世界大会広島大会が閉会。広島市中島小校庭に外国代表5人を含む2,500人が参加して総括集会。決議「インドシナ戦争での核兵器使用を阻止するため、10月に国際的共同行動を起こし、70年代を核廃絶の時代にする」
1970/8/7
原水禁国民会議の被爆25周年原水禁世界大会長崎大会始まる。市営サッカー場に8,000人が参加
1970/8/8
日本原水協の第16回原水禁世界大会長崎大会始まる。米代表のシドニー・ペック博士ら4人が「原爆投下は犯罪行為。米政府は経済補償せよ」と声明
1970/8/8
被爆25周年を記念してニューヨーク市で「ノーモア・ヒロシマズ」パレード。1,000人が参加
1970/8/8
山口大社会学研究室が山口県原爆被害者実態調査の中間報告。「被爆二世の5%が腎臓、肺炎など健康に何らかの障害を持つ」
1970/8/8
関西電力美浜発電所1号機が初送電。民間9電力のトップを切り、万国博会場へ1万キロワット
1970/8/9
諸谷義武長崎市長が平和宣言。「今や原爆の地は緑の陰こゆき新しい都市となりつつあるが、一瞬にしてこの地をしゃく熱の地獄に変え、数万の尊い市民の生命を奪ったあの日の惨禍は今なお病床に苦しみつつある多くの人たちや、いつ消えるとも知れぬわが身の不安の中に、その傷跡をさらしている。また世界のすう勢は核兵器を中心とする強大な武力の上に相対し、戦火のたえまないことは、まことに遺憾にたえない。しかも核兵器はより新しく、より強力なものとなり、もし再びこれが使用されるとすれば、そのまま人類滅亡の道につながることは明らかである。われわれは多くの尊い犠牲を払い、歴史上かつてなかった原爆の体験を持つがゆえに核兵器の完全廃止と世界の平和を強く強く訴えてきた。一方、本年わが国では日本万国博覧会が開催され、その課題が「人類の進歩と調和」ということでも明らかにこの点を指摘しているものと思われる。被爆4分の1世紀という歳月の流れの中に原爆の恐怖がしだいに薄れようとしている危機に直面している今、長崎市民のあの悲惨な体験を世界の人々の心のすみずみまで認識させることがいかに必要であるかを今ほど痛感するときはない」(「長崎市平和宣言集」)
1970/8/9
長崎原爆被爆25周年。長崎市の平和公園で被爆25周年原爆犠牲者慰霊・平和祈念式典。市民ら1万人が参列。外国人として初めて中国人被爆者33人を含む2,150人の死没者名簿が追加奉納、総数4万1,701人に
1970/8/9
日本原水協の第16回原水禁世界大会長崎大会が閉幕。決議「長崎を核兵器使用の最後の地とし、核兵器の禁止と世界平和のため、さらに被爆者が安心して暮らすことのできる社会実現のために、手をとって前進しよう」
1970/8/9
長崎市城山町の城山小の児童が毎年書いてきた原爆否定の作文を集めた「平和祈念」が刊行
1970/8/9
東京都原爆被害者団体協議会(東友会)が品川の東海寺で第6回原爆犠牲者慰霊祭。「日本被団協と協力して被爆者会館を建設したい」
1970/8/9
東京の若者たちのグループ「リメンバー8月の会」(坂本国明代表)が映画と講演のつどい「シアターイン8・9」を開く
1970/8/9
日本山妙法寺が建設していた仏舎利塔が完成し落慶法要が行われる(「長崎年表」)
1970/8/9
長崎県教組長崎総支部と長崎市原爆被爆教師の会が「8月9日を原爆登校日にして、原爆体験や戦争を正しく教える日にしよう」と提唱。この年は県内で15校だけだったが、1971年には130校、1974年には420校が実施。児童、生徒に対する平和教育運動が始まる(「長崎年表」)
1970/8/9
原水禁国民会議の被爆25周年原水禁世界大会長崎大会が閉幕。森滝市郎代表委員が大会宣言。「日本の政治は核武装化の方向に進み、ヒロシマ、ナガサキの被爆実態を隠そうとしている。70年代こそ核のない時代にするために、若い世代に反原爆の意識を伝え、核武装化阻止の運動を幅広く進めよう」
1970/8/10
国際原子力機関(IAEA)が国連本部で原子力発電と公害に関するシンポジウム開く。14日まで
1970/8/10
核禁広島県民会議が韓国原爆被害者援護協会の辛泳洙常任顧問を招き懇談。在韓被爆者に対する救援運動の強化を申し合わせる
1970/8/12
米上院本会議が弾道弾迎撃ミサイル(ABM)配備を制限するハート=クーパー修正案を否決
1970/8/12
広島市基町の通称「原爆スラム」で火災。22世帯、58人が被災。大火は1961年2月以降、7度目
1970/8/13
広島県被団協(森滝市郎理事長)が、日本被団協の改組案として理事長制から3代表委員制への変更を支持し、代表委員に森滝氏の推薦決める。森滝氏は固辞
1970/8/13
核禁会議が韓国原爆被害者援護協会に救援資金100万円贈る
1970/8/14
ウィーンの戦略兵器制限交渉(SALT)米ソ会議が休会。「意見の交換は有益だった」と簡単なコミュニケ発表。11月、ヘルシンキで再開
1970/8/14
被爆者救援の色紙展が広島市の福屋で始まる。16日まで。広島「憩いの家」(管理人、田辺耕一郎氏)主催。川端康成、棟方志功氏らの色紙300点展示
1970/8/15
東京の原水禁北区民会議(社会党・総評系)と北区原水協(共産党系)の役員が中心となって原爆被災25周年追悼慰霊祭。東京・北区公会堂に700人参加
1970/8/16
移動演劇さくら隊で被爆死した新劇俳優、丸山定夫氏の遺稿を友人たちがまとめた「丸山定夫・役者の一生」がルポ出版社から命日の16日に出版
1970/8/17
米海軍が複数目標弾頭(MIRV)ポセイドンの第2回海中発射実験に成功
1970/8/20
ジュネーブ軍縮委員会で、田中弘人代表が核兵器運搬手段の禁止を提唱
1970/8/22
原爆投下の1年前に作製された広島市内の郵便配達用区分地図が見つかる。原爆被災時の戸別地図の復元作業を進めている広島大原医研に寄贈
1970/8/22
全米で核兵器の廃絶と世界平和を訴えた広島・長崎平和使節団(松本卓夫団長)の6人が帰国。6月22日に日本を出発し、米の50余りの都市を訪問
1970/8/23
広島「折鶴の会」の女子中、高校生6人が在韓被爆者慰問に出発。29日まで。ソウル市などで被爆者家庭を訪問、韓国原爆被害者援護協会と交流
1970/8/23
オタワで第14回世界連邦世界大会始まる。広島市の坂田修一助役ら参加(「世界連邦運動・ヒロシマ二十五年史」)
1970/8/23
米原子力潜水艦ハドックが横須賀へ入港。原潜の入港は38回目
1970/8/23
万国博の地方自治体館で「広島県の日」が始まる。被爆写真を展示
1970/8/24
米誌エビエーション・ウィークが「中国は今年末か1971年初めに最初の大陸間弾道ミサイル(ICBM)の発射実験を行うもよう」と伝える
1970/8/26
レアード米国防長官が記者会見で「ソ連が21日、複数弾頭大陸間弾道ミサイルSS11の発射実験を初めて行った」と発表
1970/8/28
広島市平和記念公園内の戦災供養塔に安置されていた遺骨8柱が遺族に引き渡される
1970/8/30
広島県被団協が日本被団協の改組に伴う代表委員に桧垣益人事務局長の推薦決める。森滝市郎氏の推薦は断念(「ヒロシマ四十年・森滝日記の証言」)
1970/8/30
全米で核兵器の廃絶と世界平和を訴えた広島・長崎平和使節団が広島市の平和記念館で報告会。松本卓夫団長「今回の使節団は個別に行動し、小さな集会に主眼を置き平和を訴えた。25周年ということで米国人が独自で被爆者を追悼する行事をしていることに感銘を受けた。反戦平和には強い関心を持ち、われわれの訪問は反響を呼んだ」
1970/8/31
日本被団協が東京・国労会館で第14回総会。森滝市郎理事長が辞任。代表委員制を新設。桧垣益人(広島)、小林ヒロ(長崎)、行宗一(東京)の3氏を選ぶ。事務局長は伊東壮氏。森滝氏は常任顧問
1970/8/31
ヘンキン米国防総省次官補が「セーフガード計画による弾道弾迎撃ミサイル(ABM)網のミサイル迎撃実験に成功した」と発表
1970/8/31
広島市内に住む被爆二世の女性が急性白血病で死去。23歳
1970/8/--
旧海軍呉鎮守府の調査団が撮影した被爆2日目の爆心地の写真16枚が見つかる。調査団長だった鎌倉市の三井再男氏が保存
1970/8/--
広島県が安佐郡祇園町内の特別被爆地域に漏れた東山手、南下安、北下安、東原の4地区の地域指定を国に要望へ
1970/8/--
仏国防省が「ファンガタウファ環礁で2日、低威力の核実験を行った」と発表
1970/8/--
住友銀行広島支店が原爆の熱線で焼きつけられた「死の人影」を原爆資料館に寄贈へ
1970/8/--
広島市福島地区被爆者の会が未解放部落被爆者の手記「壁」の第3集を出版
1970/8/--
原爆投下機エノラ・ゲイの爆撃手だったトーマス・W・フィアビー米空軍大佐が日本人記者と会見。「レバーを引くと原爆が落ちるのが見えた。爆発の瞬間は見えなかったが、機が旋回してから、火の玉とキノコ雲が視界に飛び込んできた。ああ、成功だと思った。これで私の仕事は完成したという感じだった」
1970/8/--
広島原爆投下の数分後に撮影されたキノコ雲の写真が見つかる。波田千里さんが爆心から約3.8キロ離れた東本浦町の自宅裏庭から撮影。日本人が撮影した原子雲の写真は5枚目
1970/8/--
日本原水協がABCCを特集した英文冊子「ノーモア・ヒロシマズ」を発刊。各国の平和団体に送る
1970/8/--
在日本大韓民国居留民団広島県地方本部(崔成源団長)が「9月から1年計画で県内在住韓国人被爆者の実態調査を実施する」と発表

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