×

ヒストリー

ヒロシマの記録1970 10月


1970/10/1
動力炉・核燃料開発事業団の人形峠鉱業所がウラン一貫精錬による量産体制に入る
1970/10/2
「ヒロシマ会議」委員会が、会議のテーマを「現代における平和への条件」とし(1)核時代と人間(2)紛争の解決と防止(3)平和研究の課題-の3点について討議する方針を決める
1970/10/2
日本学術会議原爆被災資料小委員会と文部省の原水爆資料基礎研究班が広島大原医研で合同会議。「原爆資料センターについて1971年秋までに勧告案」
1970/10/2
広島市の合唱グループ「メンネルコール」が創立15周年を記念し、市公会堂でレクイエム「碑」を発表。旧制広島二中出身の薄田純一郎氏作詞、森脇憲三氏作曲
1970/10/9
長沼ミサイル訴訟の第6回口頭弁論で、元航空幕僚長の源田実参院議員が証言。「米の極東戦略は全面核戦争は考えていない。自衛隊が核戦争を想定した作戦、演習を考えたことはないと思う」
1970/10/10
「米はギリシャ、オランダ、英、西ドイツに核兵器を配備」。1961年に米のブルッカー陸軍長官がギリシャのジャーナリストに渡した記録が明るみに
1970/10/11
「どの国も恐るべき核報復を招かないでは核兵器は使えない。核兵器廠が国の格付けを決める時代は過ぎた。核兵器は廃物になった」。ワシントン・ポスト紙は佐藤首相へのインタビューを掲載
1970/10/12
原水禁国民会議の被爆者援護法制定要求全国行脚団が広島市を出発。吉川清、狩野玲子さんら広島、長崎の被爆者6人。2人1組で3班に分かれ、関東、東海・信越、近畿を回って署名運動を展開。政府に陳情へ
1970/10/12
原爆被爆者を怪獣扱いした「ひばくせい人」が小学生向け月刊雑誌に登場。14日、日本原水協が小学館と制作者の円谷プロに抗議。15日に東京都原爆被害者団体協議会(東友会)、18日には広島県被団協(森滝市郎理事長)が抗議文送る
1970/10/13
米がネバダで地下核実験。14日に米政府原子力委員会が発表
1970/10/14
丸木位里、俊夫妻の「原爆の図」がニューヨークで初公開。ニュースクール・アートセンターとアメリカ・フレンド奉仕団(クエーカー教会)の主催。12月15日まで。その後全米を巡回展示
1970/10/14
米政府原子力委員会が「ソ連が14日、6メガトンという過去最大の地下核実験」と発表
1970/10/14
米政府原子力委員会が「中国が14日、3メガトンと推定される水爆実験を大気圏内で実施」と発表。インド原子力研究所も核実験による地震波を観測。中国の核実験は10回目
1970/10/15
原爆記録映画「ヒロシマ原爆の記録」が第14回日本紹介映画コンクールで銀賞
1970/10/15
米、ソ、中国の核実験について、山田広島市長が記者会見で「国連総会に出席する佐藤首相に対し、世界唯一の被爆国として核大国の核実験に抗議するとともに核兵器廃絶、核実験中止を強調するよう手紙で要請する」と語る。諸谷義武長崎市長は住田政之助市議会議長と連名で在日米、ソ大使館と中国政府へ抗議電報を打つ
1970/10/15
内閣の放射能対策本部(本部長、西田信一科学技術庁長官)が中国核実験に伴う放射能監視対策を検討。航空自衛隊機による放射能チリを収集へ
1970/10/16
世界宗教者平和会議が京都で始まる。21日まで。36カ国から286人が参加、戦争絶滅へ努力誓う
1970/10/17
「ヒロシマ会議」委員会の飯島宗一、庄野直美代表委員らと広島「折鶴の会」のメンバーらが広島市内で街頭募金
1970/10/18
修学旅行で広島を訪れた東京電機大高校2年生344人が平和記念公園で被爆者から被爆体験を聞く
1970/10/19
米市民300人が7年がかりで折った千羽づるが広島市に届き、平和記念公園内の原爆の子の像へ
1970/10/20
初の防衛白書が閣議で了承される。「現在の国際社会は米ソ両国の核による相互抑止を前提とする東西両陣営の対立と共存を基本関係としている」と核抑止論を前面に出し「日本は核兵器と攻撃的兵器を持たない以上、日米安全保障体制は必要」と強調
1970/10/20
「長崎の鐘」の故永井隆博士をしのび、郷里の島根県三刀屋町の顕彰委員会(会長、宮田勇町長)が顕彰碑と記念館を建設、遺族や知人らが出席して完工式
1970/10/23
ニクソン米大統領が国連総会で対ソ協調を呼びかけ。「米ソの間には核戦争回避など共通した4つの基盤がある。軍拡はやめて平和的な競争を」
1970/10/23
米紙ワシントン・ポストが「米政府は日本など友好諸国に濃縮ウラン製造技術の提供を検討」と伝える。米政府原子力委員会も認める
1970/10/23
米原子力潜水艦トウトグが沖縄本島中部のホワイトビーチ軍港に入港
1970/10/23
ABCCの岡田弘医師が第32回血液学会で「被爆二世の白血病は遺伝とは言いきれない」と発表
1970/10/25
陸上自衛隊13師団が自衛隊創設20周年を記念して広島市内でパレード。革新系諸団体から「軍国主義復活」の抗議相次ぐ
1970/10/29
広島県労会議が県労原爆被爆者対策協議会の設置準備会を開く
1970/10/30
北大西洋条約機構(NATO)核計画グループ会議が共産側の攻撃に対し核地雷使用で合意
1970/10/30
栃木県立宇都宮高の文化祭で、生徒が計画した原爆記録映画「広島・長崎-1945年8月」(米コロンビア大編集)の上映に学校側が「政治色がついた上映運動にのったフィルム」とクレーム。生徒や貸し出した原水禁国民会議が反発。広島市などが製作した映画「ヒロシマ・原爆の記録」に差し替えて上映
1970/10/31
被爆遺体の初の病理解剖者として知られる玉川忠太広島大名誉教授が心不全のため死去。73歳
1970/10/31
広島県立広島商業高の文化祭で原爆実態調査研究会展。原爆記録映画の上映や原爆に関する意識調査の結果を展示
1970/10/--
広島県高校被爆教職員の会(森下弘会長)が県内の高校生を対象に原爆・平和意識調査を実施へ
1970/10/--
広島テレビが芸術祭参加ドキュメンタリー「光と風の生涯」(放送)の制作始める。被爆死した旧制広島高校教授を通して原爆の影を探る。監督・熊井啓氏。放映は11月14日
1970/10/--
在米被爆者の「原爆友の会」が「在米原爆被爆者協会」として再スタート。岡井巴さんが会長となり組織づくり。132人の会員集まる
1970/10/--
琉球新報が沖縄の本土復帰で世論調査。「住民の過半数が核抜きを疑う」

年別アーカイブ