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ヒストリー

ヒロシマの記録1969 2月


1969/2/1
「沖縄とヒロシマ対話のつどい」が広島市小町の延命院で開かれる。沖縄・豊見城高校と姉妹校の広島市・松本商業高校(現瀬戸内高校)の計50人が参加。「沖縄と日本人の心」をテーマに話し合う 1969/2/1
佐藤首相が衆院予算委員会で「沖縄基地の核問題は返還までには解決」と答弁
1969/2/2
被爆後の広島を撮影した記録写真(スライド)700枚を、元日本映画社プロデューサー加納竜一さん(東京在住)が広島で公開。1945年9~10月に広島、長崎の原爆記録映画を製作する当時、同社スタッフが映画とは別に撮影。保存のための撮影データ集めの協力を原爆記録映画全面公開推進会議に呼びかけ
1969/2/3
広島出入国管理事務所が広島原爆病院に入院中の韓国人被爆女性、厳粉連さん、林福順さんの1カ月滞在延長を認める
1969/2/4
愛知揆一外相が衆院予算委員会で、ポラリス型原子力潜水艦寄港容認を示唆。「ポラリスが緊急避難する場合、事前協議で『イエス』と言うこともあり得る」
1969/2/4
原爆乙女の渡米治療を世話した米ニューヨークのマウント・サイナイ病院理事ウィリアム・ヒッチグ博士が広島を訪問。5日、原爆乙女17人と懇談
1969/2/4
広島県安芸郡府中町の郷土史家桧垣兵市さんと呉市の会社社長神津幸直さんが原爆資料保存会(横田工会長)に新資料を寄贈。動員学徒義勇隊員の犠牲者名簿、死亡場所の図解と呉海軍鎮守府の広島原爆調査団長が保存していた大本営への報告書の写し
1969/2/4
ABCCのジョージ・ダーリング所長が記者会見で、ABCC返還問題について「私の見解は米で支持された。国務省が日本政府の意向を打診するよう期待する」と語る。ダ所長は1968年秋「日米両国政府が公式に再検討すべき時期」とABCC返還を示唆
1969/2/5
佐藤首相が衆院予算委員会で、沖縄返還後の核持ち込みについて「事前協議の対象になる。現在ある核については白紙」と答弁。6日の同委員会では「非核三原則は政策として守る」
1969/2/5
第4回日印定期協議が終了し、インドのカウル外務次官が記者会見。「核拡散防止条約に調印しないとの基本的態度は変わっていない。同条約は一般軍縮、核軍縮の実現に寄与しない」
1969/2/5
ニクソン米大統領が上院あてのメッセージでジョンソン政権からの懸案である核拡散防止条約の早期批准を要請
1969/2/5
衆院予算委員会で法務省の高辻正巳法制局長官が防衛問題について答弁。「侵略があり、国民の生存と安全が危うくされる場合、防衛の正当な目標を達成する限度なら、わが国が使用する兵器が核兵器でも通常兵器でも憲法上問題ない」。また「米の軍隊による核兵器持ち込みは、わが国が自ら保有するものではないから、最高裁判決からみても明らかなように憲法第九条とは関係ない」
1969/2/7
政府が「原爆被爆者特別措置法改正案」を国会に提出。特別被爆者が死亡した場合、1万円の葬祭料を支給へ
1969/2/8
社会党の江田三郎書記長が群馬県庁で沖縄問題について記者会見。「非核三原則は日本の国是。社会党は野党との共同戦線はもちろん、自民党内の非核三原則を守ろうとする人たちも含め、国民的運動にまで高めていく」
1969/2/8
日本原子力研究所東海研究所内の原研東海労組約800人が職場放棄し集会を開く。研究用3号炉の燃料棒破損事故が相次いでいることを職場新聞に書いた職員の停職処分に抗議
1969/2/8
佐藤首相が衆院予算委員会で非核三原則に関連し「本土には核を持ち込ませない」と答弁
1969/2/9
第2回日米議員懇談会(東京)で、沖縄返還について米側議員が「核抜き返還は困難」と強調
1969/2/10
米原子力潜水艦ハドックが横須賀港に入港。米原潜の日本寄港は27回目。22日に出港
1969/2/13
防衛庁が対馬海峡を北上中のソ連のE2型原子力潜水艦(短距離ミサイル積載)の写真を公表。1967年9月、海上自衛隊機が撮影。同原潜の写真はジェーン年鑑にもなく初めて
1969/2/14
山田広島市長が広島原爆病院に入院中の韓国人被爆女性2人の被爆者健康手帳交付に向け、政府と折衝する方針を表明。「広島で被爆し、現に広島で治療中の韓国人被爆者には市民と同じ特典を与えるべき」
1969/2/16
日本原水協のビキニ被災15周年国民平和行進が東京から静岡に向けてスタート。出発は第五福竜丸が係留されている東京湾・夢の島と被爆者慰霊碑がある品川・東海寺の2カ所
1969/2/17
琉球政府の屋良朝苗主席がカーペンター米民政官に(1)米原潜の沖縄寄港中止(2)日米と琉球の3者による原潜放射能合同調査の実施(3)日本の放射能問題専門家の沖縄派遣、常駐-などを要請。カ民政官は「沖縄だけ原潜寄港中止はできない」。そのほかは「検討のうえ善処」
1969/2/17
会長不在で活動停止状態の原水禁広島市協議会(社会党・総評系)が代表理事会で組織再建策を協議。(1)広く市民層の参加を求めるため個人の自由参加を働きかける(2)市の補助金を返上し自主的運動を盛り上げる(3)政党系列下の平和運動から離れて超党派の市民運動を展開する-などを決める
1969/2/17
広島県が通称「原爆スラム」の多い広島市基町地区の再開発計画として1969年度予算に10億5,300万円の事業費を決定。広島市と共同で超高層アパート建設
1969/2/18
尾道市吉和漁協の組合員20人が、広島県御調郡向東町加島に国産第1号の原子力商船の基地を造る常石造船の計画に反対し、漁船7隻で海上デモ
1969/2/19
広島原爆病院に入院中の韓国人被爆女性、厳粉連さん、林福順さんが治療途中で退院。被爆者健康手帳が交付されず「入院を長引かせては費用がかさんで迷惑をかける」との理由。厳粉連さん「私たちへの手帳交付は、日本政府の義務だと確信しています」
1969/2/19
広島市が広島県と共同で実施した同市基町地区の実態調査結果を発表。2,600戸の住宅全部が不良住宅。2,951世帯(8,694人)のうち川土手に1,065世帯(2,547人)。被爆者は1,347人で地区人口の15.5%
1969/2/20
レアード米国防長官が中国の核開発について言明。「中国は1975年までに大陸間弾道ミサイル(ICBM)を20~30基保有する」
1969/2/21
佐藤首相が参院予算委員会で沖縄返還問題に関し「核付き返還なら国民に信を問う」ことを確認。野上元氏(社会・全国)の質問に答える
1969/2/21
日本原水協が静岡市で開く「3・1ビキニデー中央集会」に向け、「原水禁運動についてのわれわれの提案」と題する討議資料を発表。(1)ベトナム支援(2)核安保体制打破(3)沖縄返還(4)核兵器の持ち込みと核基地化反対(5)被爆者救援(6)第五福竜丸保存-をあげる
1969/2/22
山田広島市長がABCC返還問題について「日本の機関にするよう政府へ要請する」と表明。「日本人の手で運営されるのが市民感情としても当然」
1969/2/24
ABCCの日本側評議会(座長、小宮義孝国立予防衛生研究所長)が東京で開会。ABCC返還を示唆したジョージ・ダーリング所長の年次報告の承認を避ける。ダ所長の承認要請に対し、同評議会は「高度な政治判断を要するので、上部機関で処理すべき」
1969/2/24
横須賀、那覇、佐世保の3市長で組織する「3市放射能対策等連絡協議会」が佐世保市役所で初の事務担当者会議。米原潜寄港に伴う放射能汚染など基地公害防止を目的に、4月1日発足を決める
1969/2/24
厚生省が沖縄の被爆者診療のため派遣する医療班3人が東京を出発。原医研の内野治人教授、広島原爆病院の石田定副院長、広島大付属病院の土本泰三内科助手。3回目の医療班で、従来の検査中心から治療に重点
1969/2/25
米上院外交委員会が核拡散防止条約の批准を承認。3月6日までに承認報告書を作成し上院本会議に送付へ
1969/2/25
不法、不良住宅が密集する広島市基町地区の再開発について、広島県が基町、長寿園地区に平均15階建て超高層住宅(4,870戸)を建設する全体計画を示す
1969/2/25
第2回日韓議員懇談会(東京プリンスホテル)が閉幕。韓国側は沖縄返還の際の基地の態様について「核抜き返還は困る」と主張
1969/2/26
原水禁国民会議が「3・1ビキニデー全国集会」の基調を発表。運動課題として原子力潜水艦寄港阻止、沖縄のB52撤去、被爆者救援のほか、原子力平和利用問題を重点項目に
1969/2/26
原水禁国民会議の鈴木正次総務部長が記者会見で、日本原水協との統一問題について語る。「1970年を控え平和運動は統一の重要性を増しており、原水協の出方次第では積極的に統一を働きかけてもよい」
1969/2/27
愛知揆一外相が衆院沖縄・北方領土特別委員会で、沖縄返還交渉に関し「米側に沖縄の核の実態についてただすことになろう」と見解
1969/2/28
原水禁国民会議の「核安保粉砕、沖縄奪還、ベトナム反戦、被爆者救援、3・1ビキニ全国集会」が焼津市民センターで開会。1日まで。70年核安保粉砕アピールと第五福竜丸の保存資金集めを国民運動に盛り上げる特別決議を採択
1969/2/--
元日本映画社プロデューサー加納竜一さんが保存していた被爆後の広島の記録写真(スライド)を映画に編集し一般公開へ。原爆記録映画全面公開推進会議と仁科記念財団が協力、英語版も製作
1969/2/--
広島市が失対事業で働く原爆孤老に共同住宅、共同作業所の建設を計画。労働省と折衝を開始
1969/2/--
広島の被爆者の生活構造を調査した慶応大の中鉢正美教授が調査結果を「被爆者生活の構造的特質」と題して慶応経済学会「三田学会雑誌」に発表。(1)被爆は生活再建以後の経済活動に不利な影響(2)被害回復は下層に重い負担(3)全般に被爆前への回復はまだ不十分-と強調
1969/2/--
広島県比婆郡西城町で「原爆被爆者友の会」結成大会。町民ホールに138人が出席。被爆者の相互援助と法的援助の要求や保健指導などを進める
1969/2/--
広島市が1969年度から被爆地図の復元方式による原爆被災白書づくりに着手へ。調査委員会を組織し、まず爆心0.5~1キロ以内を復元
1969/2/--
自民党の前尾派が沖縄返還の基地の態様で「有事の際の核兵器持ち込みを認める」方針を固める

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