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ヒストリー

ヒロシマの記録1969 6月


1969/6/1
広島県教組が第33回定期大会の最終日に、運動方針として「平和教育の確立」を強く打ち出す。同県被爆教師の会への積極支援、胎内被爆児の救援運動も
1969/6/1
社会教化団体「修養団広島支部」が平和記念公園の動員学徒慰霊塔の周辺を清掃奉仕。1968年8月から毎月1回、第1日曜日に奉仕作業
1969/6/1
広島県教組が第33回定期大会で、被爆二世への輸血など教え子の緊急時に対応するため「教師の血液型台帳づくり」を進める特別決議。台帳は支部ごとに整備
1969/6/1
爆心地の広島市旧天神町北組の原爆犠牲者慰霊25回忌法要が同市中島町の浄円寺で。遺族ら60人が参列。天神町北組は現在の平和記念公園東側の元安川沿い。原爆で全焼し、生存者も散在、住所の分かる人は62人
1969/6/1
愛知県歯科医師会が幼児の乳歯に蓄積する放射性物質ストロンチウム90の調査の中間報告を公表。1962年から1968年末まで同県内の児童の乳歯約1万1,700本を調査。最近、蓄積量が増え、特に人工栄養を取った児童の蓄積量が多いと判明。同医師会は「核実験などによる大気汚染の影響で放射性物質が確実に人体に蓄積」
1969/6/1
米ニューヨーク・タイムズが愛知揆一外相の訪米に合わせ「太平洋の安全保障と日本」と題する論説を掲載。「沖縄の核付き返還は日本の核兵器生産につながる」と論じる
1969/6/3
米ニューヨーク・タイムズがワシントン消息筋の情報として「ニクソン米大統領が沖縄施政権返還に関する包括的取り決めがまとまり次第、沖縄米軍基地の核兵器を撤去する方針を決めた」と報じる
1969/6/3
山田広島市長が、ソ連ボルゴグラード市を訪れる民間の「ボ市訪問親善使節団」(団長、福井満日ソ協会広島支部事務局長)にカラリヨフ市長あての友好メッセージを託す。使節団は10日、日本を出発
1969/6/4
動力炉・核燃料開発事業団が国内ウラン埋蔵鉱量(4月1日現在)を発表。総埋蔵鉱量は1,260万トンで、前年度(1968年)比230万トン増
1969/6/5
日本原子力研究所東海研究所の再処理開発試験室で、プルトニウム廃液のびんが破裂し部屋が汚染。衆院科学技術振興対策特別委員会で明るみに。事故は4月上旬、放射能は許容量以下
1969/6/5
日本基督教団が広島県佐伯郡廿日市町に寝たきりの原爆孤老らを引き取る特別養護老人ホーム「清鈴園」の建設、募金計画を最終決定。1970年夏着工、1971年春までに50人収容の第1期工事を終える予定
1969/6/6
広島市の平和記念公園内の戦災供養塔に眠る原爆犠牲の無縁仏のうち14柱の遺族が分かり、供養塔前で引き渡し。24年ぶりに肉親らの手に
1969/6/6
日本原水協の「原水爆禁止平和行進」が東京・夢の島の第五福竜丸前から広島に向けてスタート。ビキニ水爆被災から15年になるため福竜丸前を起点に
1969/6/7
広島市が暴走族の出没する平和記念公園の噴水周辺に防護さくを設置。暴走行為は1967年に問題化、1968年夏から防護さく
1969/6/12
広島在住の米平和運動家アール・レイノルズ氏が中国親善訪問のため長崎港からヨット、フェニックスで上海へ出港。出入国管理令違反の罪で長崎地裁で審理中。外務省は「再入国は許可しない」と伝える。中国から入国を拒否され、24日に長崎へ。一時的な寄港地上陸許可を受け、7月7日に法務省が60日の在留認可
1969/6/12
社会党・総評系の広島県原水禁(森滝市郎理事長)が被爆24周年原水禁世界大会広島大会を主催する広島県実行委員会を結成。「広島と沖縄の連帯を強め、原水禁運動の再生をはかるべき」などの意見が出る
1969/6/12
日本初の原子力船「むつ」が石川島播磨重工東京第2工場で進水式、関係者約4,500人が出席。青森県むつ市へ補助エンジンで自力回航し、原子炉を積み込んで1972年1月完成予定。公表された原子力船としてはソ連のレーニン、米のサバンナ、西ドイツのオットー・ハーンに次ぎ世界で4隻目 1969/6/14
広島市を訪問した斎藤昇厚相が記者会見。「原爆被爆者特別措置法による認定患者の枠は実情に合うよう拡大する必要があろう。被爆者援護を国家補償で-との希望は一般戦災者とのかねあいもあって踏み切れない」
1969/6/14
慢性骨髄性白血病で広島市比治山のABCCに入院していた同市皆実町3丁目、私立比治山女子高3年、奥野孝子さんが死去。同級生522人の献血も届かず。母親の久子さん。「被爆者健康手帳がないため治療も十分にできず、無料のABCCに入院させていた。被爆二世に援護の手が差しのべられていない現状が残念」
1969/6/16
広島市南千田西町、無職正田健蔵さん方で被爆当時の家屋別所在位置を示す町内地図と「罹災家屋調査表」が見つかる。千田地区の各町内会代表が被爆戸別地図復元運動へ向け広島大原医研などから説明を聞く
1969/6/16
「祈りによる世界平和大行進」の12人が東京・日比谷公園から広島市へ向けて出発。「世界平和を祈る会」などが主義主張、宗派を超えた行進を目指す。8月5日、52日目に広島市入り
1969/6/17
広島女学院大で「原爆講義」が始まる。1967年から開かれ3年目。初日は村上忠敬広島大教授(核禁広島県民会議議長)の講演「8・6とその後」
1969/6/18
広島県教組が第36回日教組定期大会(鳥取市)で、原爆を中心とした平和教育の確立を運動方針に加えるよう提案。19日、採択。日教組が原爆教育を運動方針に取り入れたのは初めて。提案理由「最近は社会科の教科書から広島、長崎の原爆記述が少なくなっている。真の民主教育を推進するため全国の教師が原爆の認識を深め、正しい平和教育を行うべきだ」
1969/6/18
沖縄返還問題を訴え渡米していた沖縄原水協理事長の仲吉良新氏が帰国。約1カ月間で11都市を訪れ、平和団体や運動家と交流
1969/6/18
日ソ科学記者交流で来日したソ連科学記者団の一行9人が広島市を訪問。原爆慰霊碑に参拝、原爆資料館を見学、広島原爆病院を慰問
1969/6/18
広島市平野町の291世帯分の町籍簿を保存していた同市宇品西2丁目、家具製造業田中滋さんが広島大原医研に名簿を持参。被爆戸別地図復元運動の資料に活用。田中さんの父が平野町町内会長。被爆当時の関係資料発見は千田、南千田、横川、京橋町と合わせ5カ町
1969/6/19
衆院内閣委員会で佐藤首相が沖縄返還問題で答弁。「核抜き、本土並み」を基調に(1)核持ち込みにははっきり「ノー」と言う(2)沖縄の基地は返還後もそのまま引き継ぐのではなく、核基地も返還前に片付けたい
1969/6/19
原子力委員会が定例委員会で、がん治療用のサイクロトロン建設を決定。中性子線医用懇談会(座長、武藤俊之助日本原子力委員)の結論を採用
1969/6/19
広島県被爆教師の会と同県教組が「相次ぐ教え子被爆二世の死をむだにしてはならない。この現実を前に、平和教育と原爆を許さない教育を強力に進める」との声明を発表。「被爆二世の生命と健康を守る運動」を全国的に展開へ。比治山女子高3年、奥野孝子さんの死亡などがきっかけ
1969/6/20
広島市平和文化推進審議会が平和祈念式典の「平和宣言」について意見。「核抑止力の無意味さをもっと強く」「原点からの呼びかけを一層具体的に」
1969/6/20
日本原子力産業会議がウラン濃縮問題懇談会の設置を決める。6月から1年間、日本の濃縮ウラン需要見通しやウラン濃縮産業化の問題点などを審議
1969/6/20
日本原子力船開発事業団の佐々木周一理事長が、原子力第1船「むつ」に続く「第2船以降の原子力船について検討する段階にきた」と語る
1969/6/20
広島市長の諮問機関である平和文化推進審議会(山本正房会長)がABCCの日本返還問題について意見交換。「日本側が自主的に運営し、研究や治療を広島原爆病院などと総合的に行う」「研究成果は国連とパイプを通じ世界へ発表する」などの意見。今後、返還後の運営策まで含め審議会としての態度を協議
1969/6/22
広島「折鶴の会」の創立11周年記念のつどいが広島市社会福祉センターで開会、約80人が参加。(1)被爆二世への被爆者健康手帳交付を厚生省などに働きかける(2)1970年の被爆25周年を目標に広島と長崎両市の姉妹縁組実現に努める-など決める
1969/6/24
仏国防省が軍事用弾道ミサイルの発射実験に成功。仏独自の核戦力用運搬手段の一部
1969/6/25
山田広島市長が市会で被爆二世対策について答弁。「何十万かの被爆者の子弟がすべて被爆二世といえばショックを与えようし、軽々しく口にすべきでない。医学的に究明されていない以上、被爆者健康手帳を交付するのは危険であり、人権じゅうりんとさえいえる。生活困窮家庭の子弟であれば医療費の補助に最大の努力をしたい」
1969/6/26
広島県教委が県議会文教委員会で、8月6日を中心に県内各学校で原爆・平和教育を実施するよう指示する方針を表明
1969/6/26
広島県佐伯郡五日市町役場が被爆後の町民の「認許可請求綴」を保存。1945年8~9月の2カ月間に死亡した682人の火葬願、医師の死亡診断書付き。広島市が寄贈申し入れも検討
1969/6/26
佐藤首相が衆院内閣委員会で核拡散防止条約の調印問題について答弁。「近いうちに調印すべきと考える。11月の訪米の際には見通しをつけなければならない」
1969/6/27
山田広島市長が市議会総務・水道委員会で、遅れているソ連・ボルゴグラード市との姉妹都市縁組について「来春までに実現を」と答弁。「ソ連軍がチェコスロバキアに侵入したことから市民感情を損なわないよう見合わせていた。その後、政局に変化がなく、外務省も結構ということなので、来春までに議会の承認を得て正式に縁組をしたい」
1969/6/27
米上院軍事委員会が弾道弾迎撃ミサイル(ABM)体系関係予算7億9,400万ドルを承認
1969/6/27
核禁会議が韓国人被爆者救援のため、ソウル市の韓国原爆被害者援護協会に100万円を贈る。韓国人被爆者センター設立基金と緊急患者の診療費に充てる
1969/6/28
インドのガンジー首相来日で、日本、インド両国が共同コミュニケを発表。「両国政府がジュネーブ軍縮委員会の今後の作業で密接に協力する」で合意
1969/6/28
世界平和評議会の総会で、沖縄人民党委員長の瀬長亀次郎氏に平和運動の貢献者として「ジョリオ・キュリー賞」が贈られた-と日本平和委員会に連絡
1969/6/28
日本平和委員会(平野義太郎会長)の第18回全国大会が広島市の見真講堂で開会、約300人が参加。同委員会の前身「平和を守る会」発足(1949年4月)から20周年になるため被爆地広島で大会。最終日の30日、安保条約破棄と日米軍事同盟打破、沖縄の即時全面返還、核戦争阻止と被爆者援護の大会宣言を採択
1969/6/30
動力炉・核燃料開発事業団が高速増殖実験炉の設置許可申請を国に提出。茨城県大洗町の動燃大洗動力炉研究施設に建設を計画
1969/6/30
三菱原子力工業と米ウェスチングハウス社が核燃料加工の合弁会社を設立する計画-と大久保謙・三菱電機社長が表明
1969/6/30
核禁会議が1968年度の被爆者救援カンパ753万6,450円の配分を決める。広島原爆病院に200万円、長崎被爆者健康管理センターに180万円
1969/6/--
出雲市福祉事務所が、長崎で被爆し闘病中の調理師山口政忠さん(出雲市塩冶町)の離散した肉親を捜す。鳥取大付属病院に入院中で、被爆者健康手帳交付のため。その後、母と弟妹が佐世保市にいることが分かり、別の証人も見つかり手帳交付
1969/6/--
原爆資料館が、被爆直後の市街地パノラマを作り替える基本設計に着手。1957年完成のパノラマは老朽化し、展示の遺物位置がそぐわない所があるため
1969/6/--
物理学者の藤本陽一博士とブラジルのセザール・ラテス博士が、原子核を形成する陽子と中性子の中に新物質を発見したと発表
1969/6/--
ABCCの運営問題で、米側交渉団が来日。日本側に交渉に応じる意思がないとして引き揚げ。外務省、厚生省とも運営見直しに消極的

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