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ヒストリー

ヒロシマの記録1969 8月


1969/8/1
原水禁国民会議が東京・明治公園で被爆24周年原水禁世界大会本会議開会総会。安保、沖縄を前面に打ち出し、約2万人が参加。森滝市郎代表委員が「70年核安保や沖縄の核基地維持に日本政府が全面的に加担しようとしている時、原水禁運動もこれと正面から対決しなければならない」と基調報告。仲吉良新沖縄原水協理事長が「沖縄と本土と世界の平和運動の連帯を強めよう」と訴え。2日目は分散会と青年階層集会。最終日の3日、都立台東体育館で約6,000人が閉会総会。「核兵器の絶滅と沖縄の即時無条件全面返還を目指して70年の闘いを国民的に前進させよう」との大会宣言を採択。沖縄奪還、被爆者救援を決議
1969/8/1
原爆記録映画「広島・長崎における原爆の影響」のカット部分とほぼ同一場面のスライドが、核禁広島県民会議代表者会議(新広島ホテル)の席上、全国で初めて公開。文部省が一般公開の際にカットした人体場面を中心にした67コマ。元日本映画社スタッフが映画と同じ場面をスチール写真に撮影。ノーカット上映運動の中でスライド公開に踏み切る。原水禁3大会で順次公開へ
1969/8/1
原爆死没者名簿公開などで遺族が分かった広島市の平和記念公園・戦災供養塔の遺骨64柱が平和記念館で24年ぶりに遺族に引き渡される
1969/8/1
「平和の灯まつり」(核禁会議主催)が広島市の平和記念公園の原爆慰霊碑前で行われ、14宗派代表や市民ら約500人が参列。この年、新たに臨済宗本山の妙心寺(京都市)からも大線香で聖火を運ぶ
1969/8/1
永野厳雄広島県知事が「8月6日午前8時15分に全県民が死没者のめい福と恒久平和確立の黙とうを」と呼びかけ
1969/8/1
原爆写真家、佐々木雄一郎氏(広島市元宇品町)が個展「広島の日記」を東京・銀座の松屋デパートで開く。原爆関係写真約10万枚のうち230枚を展示
1969/8/1
1968年度原子力年報(原子力白書)が閣議で了承。日本原子力委員会が原子力開発利用の動向をまとめる。「研究開発中心の段階から産業化段階に」と分析
1969/8/1
日本海洋少年団全国大会(呉市)に出席の常陸宮夫妻が原爆慰霊碑に参拝
1969/8/2
広島市などが主催の「第2回平和を語る市民集会」が平和記念館で開かれ、市民約250人が参加。「被爆体験の継承と平和教育」をテーマに語り合う
1969/8/2
故浜井信三前広島市長をしのぶ「浜井信三追想録」(B6判、669ページ)ができる。生前親しかった人たちの原稿280編。ブレイズデル前ホノルル市長らも手記
1969/8/2
旧広島陸軍病院看護婦生徒教育隊の生存者が、被爆死の確認された婦長や生徒計10人の25回忌法要を広島市光町の専光寺で営む。法要は被爆後初めて。同教育隊は教官1人、婦長4人、看護婦6人と1期生120人、2期生98人が看護婦養成訓練
1969/8/2
大阪市原爆被害者の会(前田敏夫会長)が被爆女性の闘病の日々を記録した「被爆婦人の集い」を出版。同会婦人部が2年半、毎月発行したガリ版刷り新聞
1969/8/2
米へ帰国した平和運動家バーバラ・レイノルズ女史の足跡などを日英両文で編集した冊子「さらば広島」(A5判、52ページ)ができ、「バーバラ・レイノルズ女史に感謝する会」(原田東岷会長)が米に送る。帰国前に書き残した文章や広島の人たちの送別の言葉、全国からの激励の手紙などを収録。広島での18年間の運動の過程をたどる
1969/8/2
兵庫県内の原爆死没者追悼式が姫路市公会堂で営まれる。同県原爆被害者連絡協議会の主催で、約200人が参列。死没者524柱のめい福を祈る
1969/8/2
広島大福山分校の音楽、映画両研究会の学生が福山市民会館で音と映像コンサート「ヒロシマを告発する」を開く
1969/8/3
核禁会議の核禁・平和全国集会が長崎市公会堂で開会、約1,500人が参加。「核拡散防止条約など核兵器禁止の推進に協力、核兵器の保有ならびに原水爆実験に断固反対する。被爆者の特別援護と世界平和の達成に努力することを誓う」との大会宣言を発表
1969/8/3
核禁会議が長崎市の平和祈念像前広場に建設した「平和の泉」の完成式。関係者約2,000人が出席。同会議が全国の浄財3,400万円で建設、長崎市出身の武基雄(たけ・もとお)早大教授が設計
1969/8/3
原爆資料保存会(横田工会長)の約60人が広島市内67カ所の原爆関係慰霊碑を巡礼
1969/8/3
広島市平和美術展が同市の平和記念館で開幕。15回を記念し「原爆」をテーマの作品コーナー(30点)も設置
1969/8/3
「8・6短歌大会」が広島市社会福祉センターで開会、約70人が参加。広島歌話会解散の後を受けて発足した広島歌人クラブ主催。「原爆鎮魂句会」も広島俳句協会主催で同市三篠公民館に約40人が参加
1969/8/4
日本原水協が広島基町の県立体育館で第15回原水禁世界大会本会議開会総会、約1万2,000人が参加。反米、反安保が議論の前面に。宮本顕治共産党書記長が「原水禁運動統一への前進を確信している」とあいさつ。5日、参加者が初めて被爆者家庭や職場を訪問、分科会、文化大集会。最終日の6日、同体育館で約1万人が参加して閉会総会。「ベトナムでの米帝国主義の侵略と犯罪を糾弾し、ベトナム人民の完全勝利を目指す国際行動を強めるための決議」などを採択。「核兵器をはじめ化学生物兵器など大量殺りく兵器の完全禁止のためのヒロシマ・アピール」も
1969/8/4
日本原水協の原水禁世界大会本会議に先立ち、広島市内で2コース(京口門、福島町-平和記念公園)の平和行進。約6,000人が参加
1969/8/4
共産党の宮本顕治書記長が広島県庁で記者会見。原水禁運動の統一問題について語る。「甘い考えは持っていないが、統一へ向かって前進する条件が出てきた。運動の統一は(1)方向、目標の一致(2)妨害分子の排除(3)運動の自主性の確立-が前提。3つの前提を抜きにしてメッセージ交換などで統一ができるような幻想を与えるのは国民を欺く。政党の責任でぜひ一致させたい」
1969/8/4
爆心地の復元調査を進める広島大原医研が、広島市中島地区のうち旧中島本町の死没者一覧表をまとめる。確認できた当時の在住者は総数408人、うち33人は氏名不詳者など。名簿は6日、同市大手町3丁目、浄宝寺で開いた同町死没者慰霊祭の会場に掲示
1969/8/4
広島市が被爆24周年を前に広報紙「市政と市民」原爆特集号(4ページ)を配布。同市内にある各種の慰霊碑、供養塔66基を紹介し、市民に供養と保存を訴え
1969/8/4
東芝が石川島播磨重工業の原子力部門の吸収を発表。両社の原子力部門を一本化、ウラン濃縮技術について遠心分離法の開発に取り組む
1969/8/4
大阪の絵画グループ「レアラ・ロンド」(島常武代表)が大阪市北浜の画廊で広島原爆病院の慰問報告会を開く
1969/8/5
丸山真男東大教授の被爆体験が中国新聞夕刊で「24年目に語る被爆体験」と題して掲載。6日まで上、下2回。原爆投下時、船舶司令部参謀部情報班の1等兵で宇品で被爆。被爆3日後に市内を撮影する同部報道班員に同行。保存していた壊滅の町並み写真も24年ぶりに公開し紙面掲載。惨状の復元に向け個々の体験記録合成の必要を指摘
1969/8/5
原爆記念日を前に広島市へ届く海外平和運動家らのメッセージがこの年(5日まで)は仏在住の米作家アイラ・モリス夫妻ら3通だけ。市は「世界の関心がベトナム戦争と沖縄に向いた」と分析
1969/8/5
原水禁国民会議の被爆24周年原水禁世界大会広島大会(6日)に参加する全国代表3,000人が広島駅前と宇品港を起点に原爆慰霊碑まで平和行進
1969/8/5
原水禁国民会議が日本原水協(共産党系)に原水禁運動の「共同行動に関する申し入れ書」を手渡し、両組織の共同行動が実現するよう呼びかけたことを明らかにする。結局、原水協の正式検討はされず、原水禁世界大会でのメッセージ交換も実現せず
1969/8/5
米国防総省研究開発・技術局のジョン・フォスター局長が米下院外交分科委員会の複数目標弾頭(MIRV)に関する聴聞会で証言。「複数目標弾頭を備えた潜水艦用ミサイルを保有している」と初めて言明
1969/8/5
広島市若草町の広島修道院の玄関と広島県安佐郡佐東町緑井の会社員田川泰資さん方裏に、それぞれ被爆者のめい福を祈る石の彫刻が完成。いずれも東京在住の彫刻家空充秋さん(安佐郡可部町出身)の作品
1969/8/5
三次市三次町の本通り第一子供会の30人が同市の専法寺にある佐々木禎子さんの墓掃除
1969/8/5
広島市内の西本願寺派の寺院72カ寺が原爆死没者供養の献灯行列と逮夜法要を平和記念公園の戦災供養塔前で営む。大谷光照門主が出席
1969/8/6
「8・6反戦集会」が封鎖中の広島大本部構内で開かれる。中国地方の反戦青年委員会、大学全共闘、高校生組織、ベ平連などによる実行委員会主催。約1,300人が参加。既成の原水禁運動や労働組合への批判が出され、「70年安保粉砕」などを確認。その後、集会禁止の平和記念公園の原爆慰霊碑前で集会
1969/8/6
山田市長の平和宣言「世界の大国は、かえって力の均衡を口実に、競って核軍備の強化に奔走し、ますます人類自滅の方向に拍車をかけている。あたかもこの時、人間の月着陸という人類の夢はついに実現したのである。この世紀の偉業こそは、ひとり一国の栄光にとどまらず、現代科学技術の成果であり、人間英知の勝利である。われわれは、この勝利をもって人類共存共栄の理想に向かう転機としなければならない。宇宙時代に臨む人類はより広い視野とより高い次元にたち、旧来の思考を打破して新しい世界観の確立をはかるべきである。世界は一つであり、人類は一体である。今こそわれわれは、人類生存の理念と思想を明確にし、国家主権の障壁や異質の社会体制の対立をのり越えて、地球人としての運命一体観を深く認識し、世界市民意識を基調とした世界法による世界新秩序を確立して、戦争なき人類共同社会を建設しなければならない。これこそがふたたびこの地球上に『ヒロシマ』を繰り返さないための砦であり、現代の歴史に生きるものの使命である。本日、ここに原爆犠牲者の霊を弔うにあたり、このことを強く世界に訴える」
1969/8/6
原水禁国民会議の被爆24周年原水禁世界大会広島大会が広島市基町の県立体育館で開かれ、約5,500人が参加。「70年核安保粉砕のために国民的エネルギーを結集」との広島アピールを採択。午後、被爆者との懇談会
1969/8/6
広島ベ平連の若者ら約100人が原爆慰霊碑近くでフォーク反戦集会を開く
1969/8/6
被爆24周年。原爆慰霊碑前で広島市主催の原爆死没者慰霊式・平和祈念式。約4万9,000人が参列。原爆死没者名簿を慰霊碑に奉納。遺族代表の野村日出子、手島一夢さんが「平和の鐘」。山田市長の平和宣言、佐藤首相あいさつ(代読)。広島留学中に被爆した在日インドネシア大使館のアリフィン・ベイ参事官と在日本大韓民国居留民団広島県地方本部の女性ら約30人が初参列。この年、死没者名簿に記入された死没者総数は9,211人で前年の9倍。慰霊碑完成の1952年を除いて17年間で最多。名簿総数は7万2,735人に。原爆医療法の施行時(1957年)にさかのぼり被爆者健康手帳交付者の中で死亡しながら届け出のなかった6,844人を市長職権で記載したため。ほかに戦災供養塔の無縁仏のうち氏名判明分1,071人も新たに記入
1969/8/6
原爆被災資料広島研究会が「原爆被災資料総目録」第1集を刊行。B5判、135ページ。広島市内の慰霊碑、原爆遺跡、遺品や美術、文学作品など7部門の資料を収録(「奥付」)
1969/8/6
インド洋上のインテルサット3号系第3衛星による日英テレビ中継交換式が行われ、英BBCテレビが第1放送で広島の平和祈念式典の模様などを中継
1969/8/6
動員学徒追悼式が原爆ドーム南側の動員学徒慰霊塔前で遺族約1,000人が参列して営まれる。この年新たに847人を奉納、総数は計7,249人に。うち2,839人が初めて戦没者叙勲を受け、勲章を供える
1969/8/6
広島「折鶴の会」が平和記念公園の原爆の子の像前で「少年少女慰霊のつどい」。第五福竜丸保存運動を進める美濃部亮吉東京都知事からも「平和と民主主義を守っていこう」とのメッセージが届く。(1)広島と長崎の姉妹都市縁組の推進(2)韓国被爆者との友好強化(3)沖縄、ベトナムとの連帯を強める-などを誓う
1969/8/6
水真流吟詠会総本部(山本巌代表)の会員30人が原爆慰霊碑前で原爆犠牲者のめい福を祈り詩吟を朗詠。5年目
1969/8/6
広島県高田郡吉田町、徳栄寺の原爆犠牲者の無縁仏の墓前で初の慰霊祭。町民生児童委員協議会主催
1969/8/6
府中市土生町の児童会館で第3回原爆展が開会。17日まで。写真30点と被爆資料15点を展示
1969/8/6
岡山市の岡崎平夫市長が岡山済生会病院に入院中の原爆患者4人を見舞う。同市内にはほかに5病院に8人の患者が入院
1969/8/6
米上院本会議が弾道弾迎撃ミサイル(ABM)網反対の修正案を小差で否決。7日にも別の修正案を否決。ABM表決で政府側の勝利に
1969/8/6
女性市民団体「平和のために手をつなぐ会」の主婦らが東京・有楽町駅前で、文部省にカットされた原爆記録映画「広島・長崎における原爆の影響」の全面公開を求める署名を呼びかけ
1969/8/6
浄土真宗西本願寺派の原爆25回忌追悼法要が広島市の広島別院で営まれ、約6,000人が参列。大谷光照門主が出席
1969/8/6
広島戦災供養会の主催で原爆死没者各派合同慰霊祭が戦災供養塔前で営まれ、各宗派が追悼
1969/8/6
広島県職員原爆犠牲者の名録碑の除幕と慰霊式が広島市加古町の旧県庁跡で営まれ、遺族ら約700人が参列。原爆犠牲の県庁職員、警察官、県立学校勤務者など1,127人の名前を刻む名録碑を永野厳雄知事が除幕
1969/8/6
広島県高田郡吉田町、厚生農協連吉田病院で被爆時の当直日誌と被災者カルテが見つかる。同病院は被爆から8月8日までに240人を収容、死亡者約30人。12日、収容者名簿を作成
1969/8/6
広島銀行協会がこの年(1969年)から8月6日の「原爆休日」を平常営業に。地方銀行の全国データ通信ネットワーク化で、休むと為替集中決済に支障。商社の支店なども休日廃止に追随
1969/8/6
広島市の旧比治山高女の5期生生存者らが原爆で亡くなった級友に寄せる文集「炎のなかに原爆で逝った級友の25回忌によせて」(B5判、54ページ)を発刊。猛火迫る中国軍管区司令部の地下壕指揮連絡室から広島全滅の第1報を九州の第16方面軍(福岡)など3カ所に電話報告したことなど貴重な証言も。「広島原爆戦災誌・資料編」にも収録
1969/8/6
広島から米に帰国したバーバラ・レイノルズ女史がクエーカー平和運動委員会のメンバーと米国防総省のレアード長官の部屋前に押しかけ、同志3人とともにはい回禁止令違反で逮捕される
1969/8/8
仏国防省が「来年夏に水爆実験を実施」と発表
1969/8/8
長崎県内の被爆者、戦争体験者らの証言集「長崎の証言」が発刊。長崎の証言刊行委員会(代表、鎌田定夫長崎造船大教授)の発行。小中学生も含む45人の証言を収録
1969/8/8
原水禁国民会議の被爆24周年原水禁世界大会長崎大会が長崎市の国際文化会館で開会。9日、国際体育館で長崎アピールを採択。「原水爆禁止の世論を反安保、沖縄核基地撤去運動の力に結びつけ、直ちに抗議行動を組織しよう」
1969/8/9
長崎の被爆24周年。爆心地の平和祈念像前広場で原爆犠牲者慰霊・平和祈念式典。約5,000人が参列。この1年間に名前の分かった1万2,649人の原爆犠牲者名簿を「原爆殉難者名奉安所」に奉納。名簿総数は3万9,551人に。諸谷義武市長が平和宣言。「長崎市民は原爆の悲劇を身をもって体験したがゆえに、原水爆の禁止と世界の平和を強く訴えてきた。しかし世界の情勢はわれわれの悲劇とうらはらに、核兵器の拡散がうかがわれ、地球上のどこかで砲火や銃声の絶ゆる日がない。一方宇宙開発の進歩は、人類の夢とされた月世界への着陸を実現した。それは人間の崇高な英知の発現であり真理探究の賜物である。われわれの知性は人間の滅亡へのみちを選ぶに非ずして、人類永遠の平和と繁栄へのみちを選ぶためにこそ真理探究の努力を傾注させなければならないことを今ほど痛感するときはない」
1969/8/9
日本原水協が長崎市営陸上競技場で約1万人が参加して第15回原水禁世界大会長崎大会を開く。「安保廃棄、沖縄即時無条件全面返還の戦いと原水禁運動を固く結び付けて戦おう」との大会決意を採択
1969/8/9
日本被団協が広島平和文化センターに、原爆死没者名簿の全国公開への協力を申し入れ
1969/8/9
米が複数目標弾頭(MIRV)の生産一時停止の可能性についてソ連の意向打診を考慮している-と米当局者が明らかにする
1969/8/9
大阪市原爆被害者の会(前田敏夫会長)が大阪・中之島公園で原爆死没者の霊を弔うとうろう流し。3年前から供養
1969/8/10
東京都原爆被害者団体協議会(東友会)が東京・品川の東海寺境内の原爆犠牲者慰霊碑前で第5回東友会慰霊祭。約130人が参列。慰霊碑の死没者名簿に新たに83人(この年度死没者15人)を記入。総数は367人に
1969/8/10
原水禁国民会議の招きで広島原爆病院に入院、治療を受けていた沖縄・宮古島の砂川武貞さんが1年2カ月ぶりに退院し、帰郷
1969/8/13
原水禁国民会議の被爆24周年原水禁世界大会沖縄大会が那覇市の那覇区平和教育委員会ホールで開会。約450人が参加。前年に次いで2回目。最終日の15日、沖縄の即時無条件全面返還、日米安保条約廃棄などを要求した沖縄アピールを採択
1969/8/14
広島市立観音中学校のブラスバンド部が広島原爆病院を演奏慰問
1969/8/16
広島「憩いの家」主催の「被爆者援護第7回文芸家・画家・国際色紙展」が広島市の福屋百貨店で始まる。17日も。作家の川端康成、武者小路実篤氏や画家の東郷青児氏ら約120人、300点を出品。ジャン・ポール・サルトル氏らの被爆者へのメッセージも展示。益金は困窮被爆者らへの救援、見舞金に
1969/8/17
原対協が広島市国泰寺町1丁目の原爆被爆者福祉センターで初の日曜検診を実施。平日検診が受けられない被爆者の便宜を図る
1969/8/17
USニューズ・アンド・ワールドリポート誌(17日発行)が朴正煕韓国大統領との単独会見を掲載。朴大統領は「済州島を新しい米軍基地として提供する。基地になった場合、核兵器持ち込みはやむを得ない」と言明
1969/8/19
米政府原子力委員会がアラスカでの地下核実験に関し、アリューシャン列島アムチトカ島を中心に半径50カイリの立ち入り禁止区域(9月25~10月15日)を設ける-と発表
1969/8/19
広島平和記念都市建設事業西部復興土地区画整理事業の換地処分が公告される(「広島新史・年表編」)
1969/8/20
ソ連最高会議の外交委員会が、同会議幹部会に核拡散防止条約を批准するよう勧告を決定
1969/8/22
米原潜スヌークが沖縄本島中部東海岸のホワイトビーチに入港。琉球政府が放射能調査のため海水、海底土を採取
1969/8/22
広島市原爆被害対策課が「被爆者健康管理手当未受給者実態調査」の結果を発表。調査は1,212人を対象に4月実施。原爆被爆者特別措置法に盛り込まれた各種手当の受給状況の把握が目的。「健康管理手当」の支給制度を知らない人が全体の3割と予想以上に多く、有資格者も9割強が厳しい制限のため未申請
1969/8/23
米原潜ソードフィッシュが沖縄・那覇軍港に入港。沖縄原水協(仲吉良新理事長)が緊急抗議集会
1969/8/25
日本被団協(森滝市郎理事長)が東京・国労会館で総会を開き、厚相の諮問機関である原爆医療審議会の改革などを要求する1969年度運動方針を決める。26日、厚生省に原爆医療法の認定制度と同審議会の根本的改革を陳情。同省は「審議会メンバーの増員、認定枠拡大、原爆被爆者特別措置法による諸手当の所得制限緩和などを1970年度予算案に要求したい」と答える
1969/8/28
日本原子力委員会がウラン濃縮を最重点とする研究開発基本計画を決定。ガス拡散法と遠心分離法の両方式を並行し、1972年度までに技術的見通し
1969/8/28
日本原子力研究所が「核融合反応の基礎となるプラズマ閉じ込め実験で安定したプラズマを得た」と発表
1969/8/28
ソ連共産党機関紙プラウダが論文で、戦争熱をあおる中国の政策を非難し、核戦争の恐れを警告
1969/8/28
米平和運動家アール・レイノルズ氏(広島市在住)が法務省広島出入国管理事務所から在留期間の更新申請の不許可通知を受ける
1969/8/30
急性白血病の被爆二世、森井昭夫ちゃん(5歳)の病状が悪化し、再び広島大付属病院に入院
1969/8/--
広島市尾長町、中国電力嘱託の山本勇さんが、原爆投下から24年間、市内復興の変遷を同一角度から写真に撮り続ける。広島市が編集中の「広島原爆戦災誌」に活用へ
1969/8/--
「被爆者とともに-続広島原爆医療史」が原対協から出版。原爆投下や負傷者の救急救護、災害調査研究、占領行政と被爆者、原対協の活動、後障害と医療機関など10項目でまとめる。1964年4月から松坂義正副会長らを中心に編集。既刊「広島原爆医療史」をダイジェストにし、国連の核軍縮政策や原水禁運動の歴史など新たに収録
1969/8/--
外務省が軍縮外交推進のため軍縮・科学局の新設、ジュネーブへの軍縮代表部の設置などを計画
1969/8/--
防衛庁が「軍縮問題担当スタッフ」を正式設置。地下核実験、生物化学兵器、海底軍事利用の3点の討議を開始。国連ジュネーブ軍縮委員会への日本の初参加に伴い、軍縮問題を専門的に調査研究
1969/8/--
岡山市西大寺の建築士内田豊氏が入市被爆の体験を「ドーム崩れる日」(広島プリント社)にまとめ出版。住宅営団広島支所の課長で、7日に広島市に入る
1969/8/--
「ヒロシマの証言-平和を考える」が刊行。広島平和文化図書刊行会(事務局=広島平和文化センター)が編集。被爆者の手記を中心に被爆体験、市民生活史、平和への努力などを収録
1969/8/--
中国電力が原子力発電所第2号機を瀬戸内海の無人島に建設する方針を固める。図上調査では4カ所が候補地に。広島県内では人工島構想も
1969/8/--
原爆投下直後、広島県などが設けた「戦災対策委員会」の詳細な活動メモを、竹原市忠海町の団体役員竹内喜三郎さんが「雑記帳」と題して保管。被爆直後、県豊田地方事務所長から県人事課長に呼び戻され、食糧対策などに奔走した際の事務覚書。広島市が「広島原爆戦災誌・資料編」に収録へ
1969/8/--
原子野の中で被爆者の救援に活躍した聖フランシスコ病院が新築のため解体される(「長崎年表」)

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