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ヒストリー

ヒロシマの記録1969 10月


1969/10/1
北大水産学部海洋化学教室が1立方センチ当たりの雨から166.4マイクロ・マイクロキュリーの放射能を測定。9月末に比べ5,000倍。中国核実験の影響と推測
1969/10/1
米政府原子力委員会が「ソ連のセミパラチンスク核実験場で1日、低中規模の地震波を記録した」と発表
1969/10/1
琉球政府が「米原潜ソードフィッシュの入港(8月23日)した那覇軍港の海底泥土から多量のコバルト60を検出」と発表
1969/10/2
世界平和アピール7人委員会が中国やソ連、米の相次ぐ核実験にアピールを発表。「あらゆる核実験を停止するようすべての核保有国に訴える。核軍縮の達成は絶対に必要であり、最終的には中国が国連に参加し、核保有5大国の真剣な軍縮の話し合いが行われるべき」
1969/10/2
スウェーデンのウプサラ大地震研究所が2日、地下核爆発を探知。場所はセミパラチンスク実験場で規模はマグニチュード5.7
1969/10/2
アリューシャン列島アムチトカ島での米核実験で気象庁が全国9気象台、測候所に特別観測体制に入るよう通達。3日朝、札幌管区気象台など7カ所で異常地震波を記録。広島県高田郡白木町の東大白木微小地震観測所も振動を記録
1969/10/2
米がアリューシャン列島アムチトカ島の地下核実験場で1メガトンの核爆発実験を実施
1969/10/3
アリューシャン列島アムチトカ島での米核実験に対し、山田広島市長がニクソン大統領あてに実験即時中止を求める抗議電報。広島県原水禁(社会党・総評系)と広島県被団協(森滝市郎理事長)も
1969/10/3
アルチモビッチ・ソ連科学アカデミー会員ら科学者グループが500万~600万度の高温、高密度プラズマを得る安定熱核反応に成功し、国際プラズマ物理学会議(ソ連・ドブナ)に報告-とのタス通信電を共同通信が伝える
1969/10/3
原水禁国民会議(社会党・総評系)が在日米大使館に、アムチトカ島での米地下核実験に抗議し、実験中止を申し入れ
1969/10/3
尾道市の桑原忠男さんが厚生大臣を相手取って起こした原爆医療法による認定申請却下処分取り消し訴訟を支援するため、共産党系の広島県原水協が小委員会を設け、裁判資料収集や大衆活動などの方針を決定
1969/10/3
日本原子力発電会社敦賀発電所の原子炉(沸騰水型軽水炉)が臨界に達し、国内2番目の商業用発電炉に原子の火。1970年春には大阪の万国博会場に送電予定
1969/10/4
ドイツのピアニスト、クリストフ・エッシェンバッハ氏が広島市で開いた被爆者援護チャリティー・リサイタル(3日)の益金の一部20万円を山田市長に寄付
1969/10/5
米原子力潜水艦サーゴが沖縄本島中部の中城港に入港
1969/10/5
山口県内で初の被爆者集団検診が山口市の同県原爆被爆者福祉会館ゆだ苑で行われ、県内約100人が受診。同県被団協の主催で、広島の専門医が診察
1969/10/6
米陸軍病理学研究所に保管されているABCCの被爆死没者の解剖標本が広島大原医研の原爆医学標本センターに移管
1969/10/6
米原子力潜水艦ソードフィッシュとプランジャーが横須賀港に相次いで入港。米原潜の日本寄港はこの2隻を含め32回目
1969/10/7
ジュネーブ軍縮委員会で、米ソ代表が「海底非核化条約」の共同草案を提出。12カイリ以遠の海底に核兵器その他の大量破壊兵器、施設を設置しない条約。宇宙に次ぎ、海底を軍事でなく平和目的にだけ利用すべきとの国連総会討議から生まれる
1969/10/8
米政府原子力委員会が「ネバダ実験場で8日、中規模の地下核実験を行った」と発表
1969/10/9
米下院外交委員会分科会が「複数目標弾頭(MIRV)の外交的、戦略的影響」と題する報告を発表し、ソ連との核ミサイル制限交渉ではMIRV凍結問題を優先させるよう政府に勧告
1969/10/10
第12回国際放射線会議(5日目)で、長崎大医学部原爆後障害医療研究施設の岡島俊三教授が被爆24年後も残る体内放射能の実態を発表。死の灰が西風で集中したとされる長崎市西山地区の住民50人の体内セシウム137は他地区住民に比べて2倍。ただ許容量の千分の一で人体影響はなし
1969/10/10
国連放射能影響科学委員会が第24回国連総会に世界の放射能の現状について報告を提出。「大気圏核実験は依然として人工放射能汚染の最大原因になっているが、地下核実験の放射能漏れはそれほど大きな影響をもたらしていない。食糧や人体中の放射能量は次第に減少」
1969/10/13
シューマン仏外相のソ連訪問日程が終了し、両国コミュニケをモスクワで発表。米ソ英仏中の核保有5カ国会議を提唱
1969/10/14
ストックホルム工科大測地学研究所が「ソ連は14日、最大規模の地下核実験を行った」と発表。場所はノバヤゼムリャ実験場と推定
1969/10/14
広島大原医研が第28回日本がん学会で発表したがん治療の研究過程が「人体実験の疑い」と問題に。人間の脾臓を使ってがん免疫を作る研究で、脾臓摘出予定患者にワクチンを植え付け免疫抗体を作る。志水清原医研所長が臨床実験の中止を発表。広島法務局人権擁護部が17日から人権侵害の疑いで調査
1969/10/16
広島韓国人原爆犠牲者慰霊碑建立委員会(張泰煕委員長)が進める韓国人慰霊碑について、建設予定地の管理者である広島県が建立を許可。場所は広島市の平和記念公園対岸の本川橋西詰め河岸緑地
1969/10/17
法務省広島入国管理事務所が在留期限の切れた米平和運動家アール・レイノルズ氏(広島市在住)を一時強制収容し審査を始める。即日、仮放免
1969/10/18
日本弁護士連合会の第12回人権擁護大会が広島市で開かれ、核兵器廃棄の大会宣言を採択
1969/10/18
広島市の平和記念公園で平和問題勉強会を開いた東京電機大学高校の工業科2年生が、講師を務めた吉川清氏に小遣いを集めた1万円を被爆者のため寄託。同校の寄付は10年目
1969/10/18
被爆者特別養護老人ホームの建設を進めている「清鈴園建設委員会」が広島市胡町で建設資金の募金を始める。目標額は5,800万円、ほかに海外からも5,000万円を集める予定。ホームは広島県佐伯郡廿日市町に予定
1969/10/24
被爆直後、広島市内で負傷者救護に当たった広島市霞町、中国地方医務局経理課長、鴉田(からすだ)藤太郎さん(当時・傷痍軍人広島診療所事務官)が、カルテ代わりに書き残した治療メモを原爆資料館に寄贈
1969/10/24
沖縄・嘉手納基地のB52水爆パトロール問題で琉球政府の屋良朝苗主席が米民政府のフィアリー民政官と緊急会見。「事実なら直ちに中止し、すべてのB52を撤去してほしい」と要求。民政官はニュースの信用度を問題にし、事実関係は明言を避ける。愛知揆一外相も外務省に真相調査を指示
1969/10/24
沖縄・嘉手納基地のB52水爆パトロール問題で社会党が在日米大使館に抗議、B52の即時撤去を申し入れ。日本原水協(共産党系)も同大使館に水爆パトロールの中止を要請
1969/10/25
米ソが核ミサイル制限交渉を11月17日からヘルシンキで開始する-と両国が発表。ウ・タント国連事務総長は全面的な歓迎の意向を表明
1969/10/27
科学技術庁が1968年度原子力開発利用動態調査の結果を発表。設備投資額(453億円)と生産額(171億円)は前年度に比べ2倍。1968年度中に敦賀、美浜、福島の各原子力発電所建設が進んだのが要因
1969/10/28
在留期限切れで不法残留として広島入国管理事務所の調べを受けていた米平和運動家アール・レイノルズ氏が「在留延長不許可処分は不服」などとして法務大臣への異議申し立てを同入管に提出 1969/10/28
広島市平和文化推進審議会のABCC問題小委員会が発足、平和記念館で初会合。幹事に庄野直美広島女学院大教授を選ぶ。委員は計7人。ABCCの日本移管などをめぐる歴史的経緯などから調査研究
1969/10/28
三宅泰雄東京教育大教授らが日本放射線影響学会(大阪市)で、米衛星の燃料電池プルトニウムによる大気汚染を発表。1964年春、米国防総省の軍用衛星が打ち上げに失敗し、大気圏に再突入し燃え尽きた際、宇宙用原子力電池燃料のプルトニウム238がまき散らされ大気汚染
1969/10/29
沖縄の被爆者、真喜志(まきし)津留子さんら5人が「沖縄被爆者にも原爆医療法を適用せよ」と訴えている「沖縄違憲訴訟」第26回口頭弁論が東京地裁で開かれ、真喜志さんが現地での証人尋問を訴え。「国家の起こした戦争の犠牲者なのに沖縄の被爆者は本土と差別されている。私たちも日本人。裁判官は沖縄の本当の姿を見てもらいたい。日本の憲法を沖縄にも適用してください」
1969/10/30
佐藤首相が日米首脳会談(11月)で核拡散防止条約の調印を言明する方針-と政府筋が明かす
1969/10/31
アーミン・マイヤー駐日米大使夫妻が広島を親善訪問。原爆慰霊碑参拝、原爆資料館を見学、ABCCを訪れる。広島の復興ぶりをたたえる一方、「平和維持のためには核が必要」と述べる。11月1日まで滞在
1969/10/31
自民党の川島正次郎副総裁が水戸市で記者会見。核拡散防止条約について「政府が同条約の精神に立って調印するのは結構だ」と調印支持を表明
1969/10/--
住友原子力工業など住友グループが日本初の核燃料銀行の設立を計画。原子力発電所の核燃料を預かったり賃貸するシステム。1975年設立を目指す
1969/10/--
大阪万国博の日本政府館に飾る原爆展示タペストリー2枚のデザインが決まる。「原爆」の図柄は3月に決定し9月に制作着手したが、「平和利用」の図柄は政府の注文がつき延びる。河野鷹思愛知芸大教授の抽象画。高さ9.3メートル、幅19.5メートル、重さ1.5トンの日本最大の壁掛け
1969/10/--
米戦略空軍が沖縄・嘉手納基地のB52戦略爆撃機に水爆を積み、中国、北朝鮮のパトロールや緊急発進待機任務の疑いが表面化。沖縄米軍基地関係者や軍事情報筋の情報。米国防総省は論評を拒否

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