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ヒストリー

ヒロシマの記録1968 4月


1968/4/2
「原爆被爆者の特別措置に関する法律案」(原爆被爆者特別措置法)が衆院に上程。園田直厚相が提案説明。「原爆被爆者に対してはすでに原爆医療法が施行されているが、被爆者の特別な事情を考え健康面の援護だけでは不十分なので、同法案で生活の安定を図る」。佐藤首相「被爆者対策は遅きに失したが、特別措置法案を提出したことは前進だと思う。しかし、この法案が万全だとは考えていないので、今後とも必要に応じて前向きに考えたい」
1968/4/2
米原潜フラッシャーが横須賀港に入港。10回目、日本寄港は22回目
1968/4/3
西ドイツから帰化し、世界平和記念聖堂をつくるなど世界平和に尽くした愛宮真備(えのみや・まきび)神父(上智大教授)に広島市が名誉市民章の贈呈を決める。愛宮神父はドイツ名、フーゴー・ラサール。1929年に来日、1939年から広島に移り、広島高等師範などで教壇に立った。原爆が落とされたときは広島幟町教会の主任神父、1948年に帰化し世界平和記念聖堂の建設を内外に呼びかけた。1968年3月まで広島市の翠町教会で神父
1968/4/3
原爆被災資料広島研究会が平和記念館で2回目の会合。当面、既存資料の整理、リストづくりに全力をあげこの年8月6日までに総合目録完成をめざす
1968/4/4
長崎市が原爆資料の充実を図るために、自治会や被爆者団体に呼び掛け、原爆資料の収集に乗り出す(「長崎年表」)
1968/4/6
東京・夢の島の第五福竜丸を見学した日本原水協の吉田嘉清事務局長らが、船底から旧日本軍の高射砲弾とみられる不発弾200発あまりを発見
1968/4/10
中国電力鹿島原子力発電所の建設が始まる。まず進入道路を着工
1968/4/12
英オルダーマストンで恒例の復活祭平和行進。同地の核兵器研究所前からロンドン・トラファルガー広場をめざす。4日がかり、96キロ。3,000人が参加。広島で被爆した広島県安佐郡高陽町の二井正志さんも参加、トラファルガー広場であいさつ。二井さんは1966年10月、車で58カ国の平和行進に出発
1968/4/12
原爆被爆者特別措置法の衆院審議が遅れているため、予備審査の形で参院に提出
1968/4/17
三木武夫外相が衆院外務委員会で、「ポラリス潜水艦および常時、核兵器を装備している類似の軍艦は領海内の無害通航権を持っているとは言えない。このため、原則的には領海通過は断る」と政府見解を変更する答弁
1968/4/18
原水禁国民会議が被爆23周年原水爆禁止世界大会の日程決める。世界大会は8月2日から15日まで広島、長崎、沖縄で開き、主会場は長崎。国際会議は東京と沖縄で開く。原水禁世界大会、国際会議が沖縄で開催されるのは初めて。5月20日から全国平和行進をスタート
1968/4/20
広島市が米返還の原爆記録映画「広島・長崎における原爆の影響」を広島市の見真講堂で特別試写会。被爆者など1,000人招待。広島市を訪れていた米ジャーナリスト、エドガー・スノー氏も参加。正午からNHK教育テレビ、午後零時15分、中国放送、同11時、広島テレビで放映も
1968/4/22
米返還原爆記録映画を製作した「原爆映画製作者の集い」(幹事、映画評論家岩崎昶氏ら4人)の代表9人が、文部省を訪れ「原爆の悲惨さを訴える重要な部分がカットされているため、原爆のこわさが薄められ、平和のために役立てる意図がそこなわれた」と抗議。返還された16ミリフィルムでは映りが悪いので原版の35ミリフィルムの複写を要望
1968/4/23
社会党の原爆被爆者対策特別委員会(大原亨委員長)が原爆被爆者特別措置法案について11項目の付帯決議と修正案を決める。月額1万円の特別手当の所得制限撤廃、同最高9,000円の介護手当の支給対象範囲の拡大
1968/4/23
広島市の平和文化推進審議会(会長、山本正房広島商工会議所会頭)が、日本学術会議に呼応して(1)原爆被災資料の収集と散逸防止対策を国の責任でたてる(2)1970年10月の国勢調査の付帯調査として死亡者を含めた被爆者実態調査を実施-を政府に申し入れを決める
1968/4/25
日本学術会議総会で原子力特別委員会の坂田昌一委員長(名古屋大教授)が、原爆被災資料の散逸防止と収集保存で政府に対し申し入れを決議。「今取り組まなければ、唯一の被爆国として将来に大きな悔いを残す」
1968/4/26
国連総会第1委員会がジュネーブ軍縮会議から提出された核兵器拡散防止条約の審議を開始
1968/4/26
米がネバダで過去最大の地下核実験。1.2メガトン。放射能漏れはないと米政府原子力委員会
1968/4/27
ネバダの米地下核実験に対し原水禁国民会議が実験を直ちに停止せよと米政府に抗議
1968/4/30
広島市基町相生通りの通称「原爆スラム」で大火。37世帯、120人が被災。5度目の大火
1968/4/--
米返還原爆記録映画の日本語版が完成へ。オリジナルフィルム2時間40分を人体場面など約12分縮め2時間31分に編集。日本語版は5組製作し、3組は文部省に保管、広島、長崎市に各1組半永久的に貸し付け。オリジナル版も数組プリント、文部省のほか広島大原爆放射能医学研究所と長崎大原爆後障害医療研究所で管理
1968/4/--
広島県安芸郡海田町の原爆被害者会(桧垣益人会長)が会員240人の被爆体験をまとめた「被爆者懇談集録」を発刊。地区ごとに14回の懇談会を開き収録
1968/4/--
大阪市立大文学部の大薮寿一助教授が広島市基町相生通り、通称「原爆スラム」の実態調査をまとめる。1967年7月時点で892世帯、3,015人。うち被爆世帯は35.1%、このうち健康なのは37%、通院世帯が41%。被爆者の21%が就職、16%が結婚で差別を体験。大薮助教授「問題を解決するには物理的な都市計画ではなく、住民の複雑な意識、生活体験を考慮した施策が必要」
1968/4/--
被爆二世をテーマにした映画「記録なき青春」(阿部孝男監督)広島で上映。田村正和氏、真理アンヌさんら出演(「原爆被災資料総目録・第2集」)

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