×

ヒストリー

ヒロシマの記録1968 5月


1968/5/1
写真家の土門拳氏が広島入り。1958年に出した写真集「ヒロシマ」から10年後を取材のため
1968/5/2
米原子力潜水艦ソードフィッシュが佐世保港に入港。米原潜の佐世保寄港は1年3カ月ぶり13回目。横須賀を含めると23回目
1968/5/2
米返還原爆記録映画の広島市民への一般公開が広島市公会堂で始まる。4日も。少ない入場者数 1968/5/5
原爆の子の像の除幕10周年慰霊のつどいが平和記念公園の像前で。約100人の少年少女が出席。世界平和アピール7人委員会のメッセージが紹介され、米から来日したウオルトン・ガイガー夫人らがあいさつ
1968/5/6
広島県動員学徒犠牲者の会(石橋礒一会長)が「動員学徒史」を出版。動員学徒と遺族の手記を収録。広島、長崎を中心に17都府県、約9,600人の犠牲者名を掲載
1968/5/7
佐世保寄港中のソードフィッシュ周辺から6日、平常値の最高20倍の放射能を一時的に検出。科学技術庁はこの事実をひた隠し。「原因が不明。市民にいたずらに不安を与えては…」
1968/5/8
科学技術記者クラブが鍋島直紹科学技術庁長官に対し「佐世保港の米原潜異常放射能測定で虚偽の発表をした」と厳重抗議
1968/5/8
木村俊夫官房長官が米原潜周辺の異常放射能について「原潜の故障による異常放射能ではない。放射能の数値は平常に復している」
1968/5/8
佐世保入港中の米原潜ソードフィッシュについて米大使館から外務省に「修理のため出港を若干延期」と連絡。「原子炉関係の事故ではない」。9日に日本側の問い合わせに「ソナーの故障で部品を取り寄せ中」と回答
1968/5/9
米海軍佐世保基地のR・E・オリバー司令官が「放射能は寄港中の原子力潜水艦ソードフィッシュのものではない」と公式声明
1968/5/10
異常放射能調査で科学技術庁から派遣された原子力研究所の宮永一郎博士、理化学研究所の岡野真治博士が佐世保港で現地調査。夕方、調査団団長の放射線医学総合研究所の渡辺博信博士も合流
1968/5/10
鍋島直紹科学技術庁長官が「現在の放射能観測体制は不備な点があるので、次の原子力潜水艦入港までには観測体制の強化を検討したい」
1968/5/10
鍋島直紹科学技術庁長官が衆院科学技術振興対策特別委で「日米両政府間の放射能を放出しないという約束に違反があれば、原潜寄港を拒否できる」と言明
1968/5/10
政府が原爆医療法施行令の一部を改正する政令。被爆者特別措置法が施行される見通しの9月1日までの移行措置として従来の交付条件を緩和し増額。4月1日にさかのぼって適用
1968/5/11
米原子力潜水艦ソードフィッシュが佐世保港を出港
1968/5/11
山口市湯田元町に山口県原爆被爆者福祉会館「ゆだ苑」が完工。市川禎治山口大学長らが1965年10月に建設委員会をつくり1966年8月6日に起工式。資金不足から実際の着工は翌年4月に延期。山口大の安部一成、西村久教授、山口キリスト者の会の林健二牧師、山口県被団協の朝倉章子理事長、永松初馬事務局長らが奔走。鉄筋3階建て、24人収容。総工費4,500万円
1968/5/13
科学技術庁の専門家検討会(座長、山崎文男放射線審議会測定部長)が佐世保港の異常放射能について「米原潜ソードフィッシュが放出したと思われる」と中間報告。(1)異常放射能は科学技術庁が発表した3カ所以外の5地点でも検出(2)放射能源の形態は水塊状だった可能性が強い(3)レーダー、スパークなどの電気的雑音は関係ない
1968/5/13
佐世保港異常放射能で辻一三佐世保市長が佐藤首相に要請。「すみやかに市民の不安を解消する方策を講じてほしい」
1968/5/13
ジョンソン駐日米大使とシャープ米太平洋統合軍司令官が佐藤首相に、「必要なら米から専門家を呼んで、佐世保港の放射能を日米共同で調査してもよい」
1968/5/13
三木武夫外相が日米安全保障協議委員会の席上、佐世保港の異常放射能で情報、資料の提出に米軍の協力を要請
1968/5/13
社会、公明、民社、共産の各党が「米原潜の寄港を拒否せよ」と声明、談話
1968/5/13
米が佐世保港の異常放射能問題で調査団派遣を決める。国務省「放射能の原因がソードフィッシュでないことは確認されているが、改めて調査団を派遣し原因究明に当たりたい」
1968/5/13
「横須賀でも異常放射能測定あった」と科学技術庁が発表。1966年6月2日に米原潜スヌーク入港中に2回。当時、レーダーの影響と判定
1968/5/13
佐藤首相が衆院決算委員会で佐世保港の異常放射能で見解表明。(1)原潜による汚染であれば厳重に抗議せねばならないが、まず原因究明に全力(2)米側には注意を喚起したい(3)現在のところ寄港を拒否する考えはない
1968/5/14
日本原子力研究所で初のプルトニウム国産化に成功。18グラム
1968/5/14
原子力委員会が佐世保港の異常放射能事件で「調査中は原子力船が寄港しないよう善処すべき」
1968/5/14
佐世保港異常放射能事件が沖縄にショック。松岡政保琉球政府主席がカーペンター民政官に(1)原潜が入港する度に測定する(2)測定は米側ではなく、琉球政府が行う-などを要望
1968/5/14
東京・紀伊国屋ホールで舞台を使ったドキュメント「ヒロシマについての涙について」。劇団三十人会公演。ふじたあさや氏作、秋浜悟史氏演出
1968/5/15
ベトナム戦争反対で北ベトナムを訪れていたヨットのフェニックスが広島港に帰港
1968/5/15
佐世保港の異常放射能調査のため、米原子力委員会のW・ウェグナー海軍用原子炉部次長、M・マイルズ原子炉技術部長、W・ギブンズ原子炉部次長特別補佐官の3人が来日
1968/5/15
木村俊夫官房長官が原子力委員会の見解に対し「政府は原子力委員会の見解を尊重する。調査中に原潜が入港しないよう善処する」と発言
1968/5/15
米原子力潜水艦寄港に反対する原子科学者署名連絡事務局(代表、野上耀三東大理学部長ら7人)が、全国各大学の原子科学者1,700人の意見をまとめた統一見解を発表。「放射能汚染は原子力3原則を踏みにじって寄港を認めた政府に責任がある。原潜寄港には絶対反対」
1968/5/15
原水禁国民会議が「安全性に問題のある米原子力潜水艦の日本寄港を取り消せ」と首相に申し入れ
1968/5/16
沖縄・那覇軍港にスレッシャー型米原潜が入港し、米軍と琉球政府で合同調査
1968/5/16
佐世保港異常放射能の米調査団、ウェグナー原子力委員会海軍用原子炉部次長ら3人が東京で記者会見。「日本寄港中、1次冷却水の放出は禁止されていない。しかし、このことは放出していることを意味しない」
1968/5/16
佐藤首相が衆院本会議で「安全性が確保されるまでは、原潜の寄港を差し控えるよう米側に善処してもらう」と発言
1968/5/16
原爆被爆者特別措置法が、8項目の付帯決議を付け衆院で可決。園田直厚相が死没者葬祭料(弔慰金)の1969年度支給を非公式に約束。付帯決議(1)認定疾病被爆者の認定で、被爆者の実情を十分配慮し積極的に対処する(2)生活保護法の適用上特別手当の収入認定に当たって、加算措置の拡大につとめる(3)原爆被爆により死亡した者のうち、実情に応じ葬祭料を支給できるよう検討する(4)原爆死没者と遺族に関する調査をすみやかに実施する-など
1968/5/17
原爆被爆者特別措置法が参院本会議で可決。被爆者らは「十分ではないが一歩前進」と評価
1968/5/17
日本学術会議の原爆被災資料小委員会(永積安明委員長)が広島大原医研で「原爆被災資料広島懇談会」を開き、関係者から原爆被災資料センター建設について意見を聞く。志水清原医研所長が6億円に上る試案を説明。田原伯さんが保存期間5年を過ぎた被爆者カルテの保存を訴え
1968/5/17
那覇軍港での米、琉球政府合同の放射能汚染調査に米民政府の横やりで不能に。米民政府は理由を示さず。琉球政府が独自調査。異常数値は検出されず
1968/5/18
広島市とソ連・ボルゴグラード市が姉妹都市縁組に調印。ボ市を訪れている山田広島市長から20日、市に連絡。広島市にとってハワイ・ホノルル市に次ぐ2番目の姉妹都市。ボ市からは1961年8月に申し入れ
1968/5/20
広島市が原爆被爆者を守る善意の運動を起こそうと「被爆者バッジ」つくる。広島市の加藤勝雄さんのデザイン
1968/5/20
映画「ヒロシマの証人」製作のための製作上映委員会が広島市で発足。原水禁、被爆者運動関係者、学者、文化人ら127人が名前を連ねる。企画は独立プロダクション創立社、脚本・監督は斎村和彦氏
1968/5/23
広島市が初の原爆認定被爆者実態調査をまとめる。広島市内の認定被爆者1,520人を対象に実施、1,093人が回答。全快は14人、余病で治療中が78%
1968/5/24
米核実験で死の灰を浴びたマーシャル諸島ロンゲラップ島の子供のうち、当時10歳以下の90%に甲状腺障害。ニューヨークのブルックヘブン国立研究所が発表。19人の子供のうち17人に甲状腺機能異常による発育遅滞などの障害が出る
1968/5/25
原潜放射能調査で来日中の米調査団3人が東京で記者会見。「ソードフィッシュは入港中、放射性物質をまったく出していない。異常放射能の原因はわからないが、ソードフィッシュではないと確信している」と発表し帰国。「科学的データは何も提供せずに、結論だけを信じろといわれても話にならない」。日本側の専門家検討会の山崎文男座長が怒りの記者会見
1968/5/27
マクロスキー米国務省スポークスマンが、佐世保の異常放射能は米原潜が原因ではないと発表
1968/5/27
米原潜スコーピオンが地中海から米バージニア州ノーフォーク軍港に帰投中の大西洋で行方不明に。米国務省が発表
1968/5/27
バチカンを訪問した山田広島市長がローマ法王パウロ六世に接見し「8月6日の広島平和式典に出席してほしい」と招待状を手渡す。接見時間は45分と個人としては異例に長い時間。法王は「2年後の被爆25周年の1970年にはぜひ訪れたい」と述べる
1968/5/28
佐世保の異常放射能を調査している科学技術庁専門家検討会議(山崎文男座長)が「科学的に確認できなかったが、原潜以外に原因は考えられない」とする最終結論を原子力委員会に報告
1968/5/28
日本学術会議の原子力特別委員会(委員長、坂田昌一名古屋大教授)が、「今後、原子力施設は専門家の高度の技術で公正に管理、監視すべき」と声明
1968/5/28
長野正義横須賀市長が原潜寄港に反対を表明
1968/5/29
劇団民芸が原爆医療に打ち込む一開業医を主役にした「ゼロの記録」を公演。大橋喜一氏作、早川昭二氏演出
1968/5/29
原子力委員会が佐世保原潜放射能事件で最終見解を佐藤首相に報告。「科学的解明できず調査を打ち切る。不安解消のため米原潜に対し港内で1次冷却水の放出を禁止するなどの施策が必要」 1968/5/31
米政府原子力委員会が核爆発を利用した天然ガス採取実験(ガスバギー計画)について発表。「地下1,272メートルの爆発で生じた空洞から採取したガスのサンプルに、予期しなかった高濃縮放射能が含まれていた」
1968/5/31
広島市文化財審議会(関根竜雄会長)が平和記念館で初会合。大本営復元は反対論が多数を占める
1968/5/--
「原爆被災2日目の8月8日に撮った原爆記録映画がまだあった」と当時の日本映画社製作部長、土屋斉氏(大垣共立銀行頭取)が証言。カメラマンの柏田敏雄氏(大阪府泉南郡岬町)が土屋氏の指示で8日に広島入り。惨状をフィルムに収め、未現像のまま東京の日映本社へ。陸軍参謀本部で土屋氏が立ち会い試写、即座に没収。戦後、GHQが接収。土屋氏「原爆記録映画は柏田君の投下直後のフィルムを加えて初めて完成する。あのフィルムが接収されたままとなっているのは、関係者として黙視できない」

年別アーカイブ