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ヒストリー

ヒロシマの記録1968 6月


1968/6/4
原子爆弾被爆者別府温泉利用研究所(別府原爆センター)の八田秋所長が10年間の研究をまとめ「原爆被爆者の健康管理としての温泉療法」を第33回日本温泉気候物理医学会で発表。「刺激緩和性の単純泉が好結果」
1968/6/4
佐世保原潜放射能事件で政府が米に要望。(1)日本寄港中は第1次冷却水を艦外へ放出しない(2)1次冷却水以外のあらゆる系統からも放射性物質が放出されないよう、一層管理を厳重にする(3)原子力艦艇の寄港中は米側も環境モニタリングをし、測定結果を日本側に提示(4)放射能の調査体制が確立するまで寄港は遠慮してほしい-など。ジョンソン駐日米大使が、日本側の監視体制が整うまで原子力艦艇は寄港させないと約束。1次冷却水放出禁止には難色
1968/6/5
米海軍が「原子力潜水艦スコーピオンは99人の乗組員とともに、救助不能な大西洋の深海に沈没」と発表
1968/6/5
広島市公会堂で、広島市原爆被爆者協議会(任都栗司会長)主催の原爆被爆者特別措置法の成立記念被爆者大会。2,000人が出席。大会に出席した園田直厚相は記者会見で、「1970年の国勢調査の付帯調査として被爆者全数調査はむずかしい。市町村が独自にやれるよう調査費を来年度予算に組む」
1968/6/6
米返還原爆記録映画の全面公開を求めて広島で「原爆記録映画全面公開推進会議」結成。カットされた部分に映っている被爆者21人以上に公開の了解を得るよう努力。呼びかけ人は重藤文夫広島原爆病院長、森滝市郎日本被団協理事長、佐久間澄日本原水協代表理事、今堀誠二広島大教授、相原和光広島YMCA総主事ら11人
1968/6/6
日本原水協が「第14回原水禁世界大会成功のための呼びかけ」を出し、初めて社会党、総評などに団結と統一を提唱。「一致し得る緊急課題で団結し、第14回原水禁世界大会を支持、参加し、成功させるよう訴える」
1968/6/7
三宅泰雄東京教育大教授ら5人が「原潜寄港・汚染問題調査研究委員会」を結成。佐世保港の異常放射能究明は政府に任せず科学者の手で、と呼びかけ。草野信男東大、佐久間澄広島大、武谷三男立教大、桧山義夫東大教授ら
1968/6/7
広島城跡への大本営復元で、山田広島市長が「建設場所にはこだわらない」など、再検討を表明
1968/6/8
広島県が利用者の少ない被爆者就職支度金制度の適用基準を緩和。認定患者は無条件、一般疾病は入院6カ月を3カ月に
1968/6/10
国連第1委員会が核拡散防止条約の支持決議を賛成92票で可決。反対4(タンザニア、ザンビア、キューバ、アルバニア)。棄権22(フランス、インド、ブラジル、アルゼンチン、スペイン、ポルトガルなど)。欠席4。賛成した核保有国は核軍縮の推進を、非核保有国は最低25年間、核兵器を持たないことをそれぞれ約束したことになる。中国の陳毅外相が「大国の核独占を守り、中国および世界各国人民に対する重大な陰謀」と非難
1968/6/11
宮本顕治共産党書記長が山本幸一社会党書記長に、「原水禁運動統一問題で協議したい」と申し入れ。山本書記長も了承、担当者を決めて話し合いへ
1968/6/12
社会党が、共産党から申し入れのあった原水禁運動統一問題の協議を断ることを決定。「原水禁運動の統一といった組織の根本に関することは原水禁なり、原水協なりの団体が話し合う問題。それを政党レベルで話し合うことは原水禁運動に対する政党の干渉になる」
1968/6/12
国連総会本会議が核拡散防止条約を賛成多数で承認。賛成95、反対4(アルバニア、キューバ、タンザニア、ザンビア)、棄権21(仏、インド、スペイン、ポルトガルなど)。ジョンソン米大統領が国連で「核時代が始まって以来、もっとも重大な国際条約」と祝辞
1968/6/13
米英ソ3国が核拡散防止条約の承認に伴い安全保障理事会に「核兵器による侵略または威嚇に対し、安保理は核保有国である常任理事国が中心になって非核保有国の安全を保障する」との決議案を提出
1968/6/13
「被爆時に命を助けてくれた女性と兵隊さんを捜して」と恩人捜しをしているソウル市の黄文煥さんが広島市役所を訪れ、韓国人形を恩人にと託す
1968/6/14
原水禁国民会議などの招きで広島原爆病院に入院する沖縄の砂川武貞さん、国吉スミ子さんが広島に到着。17日、市役所に被爆者健康手帳を申請。18日交付。1967年2月から沖縄で交付されるようになった被爆者手帳が本土では通用しないため
1968/6/14
原水禁国民会議の鈴木正次総務部長が広島市を訪れ、原水禁運動統一問題で森滝市郎代表委員らと話し合う。「いかなる国の核実験にも反対するという基本的な問題が解決されない限り、原水禁国民会議と日本原水協の組織統一はありえない」との統一見解を発表。第五福竜丸保存、非核武装宣言、被爆者救援の統一行動は是認
1968/6/15
中国電力鹿島原子力発電所の建設で、難航していた地元との補償交渉が田部長右衛門島根県知事に白紙委任し急転解決
1968/6/17
広島を世界平和のメッカにと作った賛歌「あゝ広島」の完成記念発表会が広島市基町の市青少年センターで。被爆者である広島赤十字病院嘱託、和泉たくみ氏が作詞、広島歌謡学院教師の小林義範氏作曲
1968/6/18
周恩来中国首相がニエレレ・タンザニア大統領歓迎夕食会で「核拡散防止条約は米ソ共謀の新たな核植民地主義」と非難
1968/6/19
国連安保理が、非核保有国の安全を核保有常任理事国が中心となって保障する決議を賛成多数で可決。賛成10、棄権5=仏、ブラジル、インド、パキスタン、アルジェリア
1968/6/20
中国電力が島根県八束郡鹿島町に建設する原子力発電所の着工で中国電力と地元の間で調印
1968/6/22
島根県が県原子力発電所建設推進本部を設置。用地買収、漁業補償などを促進
1968/6/22
日本学術会議原子力特別委員会の原爆被災資料小委員会(永積安明委員長)が「原水爆被災資料センター」の委員長試案について広島、長崎の意見聴取へ
1968/6/22
原水禁国民会議が原水禁運動統一問題で声明。「組織統一は分裂の原因となった原則を棚上げしては考えられないし、現状ではその条件が成熟していない。自主性を尊重した上での運動の統一、共同行動には努力する」
1968/6/24
山田広島市長が8月6日の原爆死没者慰霊式・平和記念式に、初めて原水禁運動3団体の代表、世界平和アピール7人委員会、世界連邦建設同盟を招きたいと記者発表。「原水禁運動3団体を招くのは3団体が統一し、次元の高い平和運動を進めてほしいから」
1968/6/24
広島東署で1945年8月6日に死亡した犠牲者の氏名、住所、死亡の日時、死因などを記録した「戦災死亡者検死調書」がみつかる。氏名判明8,820人、身元不明822人の計9,642人
1968/6/25
広島市が8月6日の式典要綱を決める。名称をこれまでの「記念」から「祈念」に変え「原爆死没者慰霊式ならびに平和祈念式」に。ローマ法王パウロ六世にもメッセージを要請
1968/6/25
ウ・タント国連事務総長が非核保有会議をジュネーブで8、9月に開催との通知を各国に送る。中国を含む核保有国にも。国連主催の会議に中国招待は初めて
1968/6/25
広島市が平和祈念式のメッセージを収録したメッセージ集の作成決める。メッセージ依頼者(国内)湯川秀樹、茅誠司、朝永振一郎、森戸辰男、山高しげり氏ら(海外)バートランド・ラッセル卿、ガンジー・インド首相、ウ・タント国連事務総長、ノエルベーカー卿、ロベルト・ユンク氏、ノーマン・カズンズ氏、アイラ・モリス夫妻、ブレイズデル・ホノルル市長、コロリヨフ・ボルゴグラード市長ら
1968/6/26
「原爆記録映画全面公開推進会議」が、同映画の人体編に登場する被爆者捜しを始める。計23人中、姓名判明6人、姓だけ6人、不明11人
1968/6/27
グロムイコ・ソ連外相がモスクワで開催中のソ連最高会議で、西側諸国に対し「核兵器使用禁止に関する国際協定の話し合いに入ろう」と提案
1968/6/27
広島・長崎原爆被爆者援護対策促進協議会が東京で第1回会議。被爆者特別措置法の付帯決議諸項目の早期実現をめざす
1968/6/28
被爆直後、廿日市方面に避難した被爆者の収容者名簿が広島県佐伯郡廿日市町地御前公民館で見つかる。3,842人の名前と年齢、住所、負傷の程度
1968/6/29
広島市の元原爆資料館長、長岡省吾氏が広島市近郊の町村で集めた「数万人」の被災者名簿を広島大原医研に贈る
1968/6/--
写真家、土門拳氏が東京・ニコンサロンで作品展「ヒロシマはつづいている憎悪と失意」開催
1968/6/--
政府が国連総会第1委員会で表決される核拡散防止条約促進決議案に賛成の方針決める。「米ソが強力に推進し、世界の大勢が賛成に向かっている」「同条約は不十分とはいえ核軍縮の方向に向かうものである」
1968/6/--
原水禁国民会議が沖縄被爆者連盟と協力し、被爆者2人を広島に招き治療決める
1968/6/--
広島市横川町の医師松原博臣さんの8ミリ映画「ヒロシマ」が第8回アマチュア・パリ国際映画祭のルポルタージュ部門で1位入賞。原爆で両親が行方不明になった1人の女性が20数年たった町を両親を捜してさまよい歩く姿を通し広島を描く
1968/6/--
平和記念公園内の平和記念館を平和運動の場に-との声が強まる。商品展示会場化に批判
1968/6/--
広島南署で被爆3日後ごろからの写真集見つかる。広島市翠町の故川本俊雄さんが撮影した「投下悲惨状況写真帳」
1968/6/--
旧海軍呉鎮守府衛生部が大本営などに送った「八月六日広島空襲被害状況ならびに対策」の第1、第3、第4報が呉市の酒井文三・元呉海軍病院軍医少佐の家で見つかる。酒井氏「6日当日、私は原爆と気づかなかったが、呉鎮の福井信立軍医長(軍医中将)が原子爆弾と断定され、翌日からつぶさに調査した」。7月11日、被爆2カ月後の調査書「原子爆弾の生物学的作用に関する研究」とともに原爆資料館に寄贈
1968/6/--
米返還原爆記録映画「広島・長崎における原爆の影響」を撮った当時の日本映画社のスタッフ、科学者が中心になって原爆の学術記録写真集の出版を計画。参加者、加納竜一(記録映画のプロデューサー)、相原秀次(同企画)、中山真男(撮影)、菊地俊吉(スチール・カメラマン)、林重男(同)の各氏と山崎文男、田島英三、中山弘美、嵯峨根遼吉、三宅仁、渡辺武男、御園生圭輔、武藤清、重藤文夫氏ら映画製作に協力した科学者、医師

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