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ヒストリー

ヒロシマの記録1967 12月


1967/12/1
下田武三駐米大使が日米協会で演説。「現時点では核武装しないことは日本国民の総意だが、核武装するかどうかの最終決定は将来の世代が決めるべきである」
1967/12/1
広島YMCA少年部が広島市内で原爆小頭症患者のために街頭募金始める。20日まで
1967/12/2
ジョンソン米大統領がテレビで「核拡散防止条約の国際管理・査察条項(第3条)を他国が受け入れるならば、米は国内すべての非軍事面の核活動に対する国際査察を受け入れる」と演説。西ドイツのブラント外相は「核拡散防止条約実現へ一歩を進める」と歓迎を表明
1967/12/3
韓国日報が264人目の原爆症犠牲者となった27歳の韓国人被爆女性の死を「ある原爆人生」と題した記事で報じる。「韓国の被爆者8,000人のうち5,000人が何らかの異常を訴えている」
1967/12/4
文部省が米から返還された原爆記録フィルム「広島・長崎における原爆の影響」の試写会開く。茅誠司前東大学長、手塚富雄立教大教授、山田広島市長、志水清原医研所長ら31人が出席。意見交換会で「人権に配慮し一般公開すべき」で一致。協議会を設け公開方法を検討へ
1967/12/4
国連総会第1委員会が、ソ連など10カ国が提案した核兵器使用禁止条約の締結を求める決議案を可決。日本、米など33カ国は、決議案は効果的な核禁止に積極的な役割を果たさない-と棄権
1967/12/4
自民党の原爆被爆者対策小委員会(田中正巳委員長)が次期国会への「原爆被爆者援護特別措置法案」提案を決める。生活援護手当の支給を盛り込む方針
1967/12/4
山田広島市長が木村俊夫官房長官に「原爆被爆者特別措置法案」の早期実現を要望
1967/12/4
社会党が下田武三駐米大使の発言(1日)を「国民世論を危険な方向へ操作するもの」として国会に同大使の喚問を要求することを決める
1967/12/5
国連総会本会議が中南米非核武装化決議案を可決
1967/12/5
下田武三駐米大使が日米協会での核武装発言(1日)で釈明会見。「政府の既定政策の枠内で率直に考えを述べたものである。憲法と核武装の関係などを念頭に置いた発言ではない」
1967/12/5
社会党の原爆被爆者特別委員会(大原亨委員長)が民社、公明両党に呼びかけ野党3党による被爆者援護法の共同提案決める
1967/12/5
木村俊夫官房長官が記者会見で沖縄早期返還の前提として(1)自主防衛力の整備(2)日米安保体制の堅持(3)米核抑止力についての国民的合意-をあげ、「日本の防衛力は自力による核開発か米の核の傘に入るかの二者択一しかなく、核兵器を持たないのが政府の方針である以上、米の核抑止に頼ることが現実的と認識」と言明
1967/12/6
「八時十五分祈りの会」(土岡喜代一代表世話人)が広島市の原爆慰霊碑前で祈りの歌を披露
1967/12/6
UPI通信がワシントンの消息筋の話として「中国は2隻の新造大型潜水艦に核ミサイル発射管を装備した」と伝える
1967/12/7
公明党が石井光次郎衆院議長、木村俊夫官房長官に下田武三駐米大使の国会喚問申し入れ
1967/12/7
ジュネーブ軍縮会議が「核拡散防止条約の討議は大きな前進をみたが、完全草案はまだ出来上がっていない。完全草案が出来次第、すべての関連文書を添えた最終報告を提出する」との中間報告を採択
1967/12/8
国連総会本会議が核兵器使用禁止決議案を可決。日米は第1委員会に続き棄権
1967/12/9
原爆被災白書を進める長崎市民の会が、原爆記録映画の一般公開を求めて署名活動を開始(「長崎年表」)
1967/12/9
山口県の被爆者センター建設委員会が米返還原爆記録フィルムの公開を求める運動を展開へ
1967/12/10
米がニューメキシコ州カーソンで平和目的の地下核実験(ガスバギー計画)実施。同計画は米政府原子力委員会と内務省に民間のエルパソ天然ガス会社が加わり、爆発力はTNT火薬2万6,000トン
1967/12/10
日本原水協が全国理事会で、国家補償を立法の趣旨にしているとして、広島、長崎両県市が打ち出した「原爆被爆者特別措置法」の支持を決める
1967/12/11
原爆小頭症患者を持つ親たちで作る「きのこ会」(畠中国三会長、18人)が総会を開き、将来の生活保障を国に確立させるため日本被団協との共闘を決める
1967/12/11
佐藤首相が非核三原則を明示
1967/12/12
原水禁国民会議が東京で原爆被爆者援護法制定要求国民決起大会開く。200人が参加、社会党、総評が支援を約束
1967/12/12
米国務省が、第二次世界大戦が終わった直後に当時のトルーマン大統領に一部の閣僚がソ連に原爆の秘密を公開するよう勧告していた事実を示す外交資料文書を公表。スチムソン陸軍長官の勧告内容「ソ連を核クラブに招かなければ、彼らは懸命になって原爆を開発し、その結果として秘密軍備競争に発展するだろう」
1967/12/12
ブラジル、インド、エチオピアなど非同盟8カ国が国連総会第1委員会に全核保有国がすべての核実験を停止するよう求めた決議案を提出
1967/12/13
米国防総省のジョン・フォスター・ジュニア国防研究・技術部長が米陸軍協会の夕食会で、複数の目標を同時に攻撃できる「宇宙バス」と呼ばれる新型水爆兵器の開発を明かす
1967/12/13
日本原水協の畑中政春代表理事と吉田嘉清事務局長が山本幸一社会党書記長、宮本顕治共産党書記長をそれぞれ訪れ、被爆者援護法実現に協力を申し入れ
1967/12/14
草野信男東大医科学研究所教授らが厚生省の原爆被爆者実態調査で「被爆者の全容を伝えていない」との批判書を発表
1967/12/14
衆院予算委員会で被爆者援護について園田直厚相、水田三喜男蔵相が答弁。園田厚相「被爆者の特別な環境を考えて今後、生活保護の方向に重点を置いて手厚い措置をとるべきだと考える。医療法の一部改正では難しい」。水田蔵相「特別立法の問題も含めて政府部内で検討中で、前向きに考えていきたい」。社会党の大原亨氏が質問
1967/12/14
日本被団協が被爆者援護法の制定実現をめざし「12月国会請願行動」を開始。3月と6月に次いでこの年3回目。森滝市郎理事長「政府もやっと援護法に動き出したので少しでもわれわれの要求に近づけるよう働きかけるのが当面の課題だ」
1967/12/14
茅誠司前東大学長、大江健三郎氏、日高六郎東大教授、内田尚三法大教授が園田直厚相に学者、文化人17人の署名を手渡し、被爆者援護法の制定を要請
1967/12/14
自民党執行部と3、4回当選議員との懇談で「国民世論の核アレルギー解消に努力せよ」との意見が出るなど、自民党内で核アレルギー解消論が表面化
1967/12/14
木村俊夫官房長官が記者会見で単独立法による被爆者援護対策を示唆
1967/12/15
社会、公明、民社の野党3党が木村俊夫官房長官に原爆被爆者援護法の制定と1968年度実施を要請。自民党にも協力呼びかけ、4党国対委員長会談開催へ
1967/12/15
被爆者援護法の制定実現をめざし「12月国会請願行動」展開中の森滝市郎日本被団協理事長らが園田直厚相に陳情。厚相は「被爆者の苦しみは十分わかっているので援護面に力を入れた単独法制定に取り組みたい」
1967/12/16
米から返還された原爆記録フィルムの利用方法を検討する「原爆映画保管・利用に関する会議」が初会合。茅誠司前東大学長、重藤文夫広島原爆病院長ら23人のメンバーのうち16人が出席。被爆地の試写会を経て結論を出す方針決める
1967/12/16
日本学術会議原爆被災資料小委員会(委員長、永積安明神戸大教授)が広島市の歯科医師会館で「原爆被災資料に関するシンポジウム」開く。原爆被災資料の散逸を防ぐため被災資料センター設置の政府勧告を決める
1967/12/18
国連総会第1委員会が非核保有国会議の開催など軍縮関係の6決議案を可決、本会議に送付。19日本会議で可決
1967/12/19
自民、社会、民社、公明の4党国対委員長が原爆被爆者の援護対策を検討。超党派で小委員会を設置し問題点を煮詰めることを決める
1967/12/20
呉市の12月市会で原爆被爆者特別措置法の制定促進決議案を採択
1967/12/21
広島市の基町住宅建設促進同盟の代表が山田広島市長に原爆スラム解消に本腰を-と訴え
1967/12/21
「ヒロシマ研究の会」(世話人、小林省三広島YMCA青年成人部主事)が山田広島市長に独自の被爆者実態調査の実施を4,600人分の街頭署名を添えて要請
1967/12/22
広島平和文化センターの在り方を検討する広島市の平和文化推進審議会が発足。今堀誠二広島大教授、浜井信三前広島市長ら27人で構成
1967/12/22
山田広島市長が記者会見で「被爆者援護法が成立しても市の援護は続ける」と言明
1967/12/22
米原子力潜水艦シードラゴンが横須賀に入港。米原潜の日本寄港は19回目
1967/12/22
原爆医療審議会が小頭症患者1人(男、広島市在住)を近距離早期胎内被爆症候群として原爆症に認定。小頭症の認定患者は7人(男2人、女5人)に
1967/12/23
ニューヨークの「広島憩いの家国際協力委員会」から広島市宇品町の広島「憩いの家」に被爆者救援金10万円が届く。「憩いの家」設立者のアイラ・モリス夫妻、バートランド・ラッセル卿、パール・バック女史ら
1967/12/23
広島YMCA少年部が原爆小頭症患者のために街頭募金で集めた37万円を小頭症患者の親のグループ「きのこ会」に贈る
1967/12/23
佐世保市の12月市会が「米原子力艦艇佐世保寄港反対決議案」を不採択。「核兵器持ち込み反対決議案」は採択
1967/12/24
米政府原子力委員会が「中国は24日、新疆省ロプノル地区の大気圏内核実験を行った。爆発は低規模(TNT火薬2万トン)」と発表。中国は沈黙
1967/12/25
北京放送が「中国が核実験で収めた成果」と題する解説を放送。(1)中国はソ連が自らの核の傘の中に中国を入れて従順な道具としようとした企図および米ソの妨害を排除して自力で核開発をした(2)核兵器開発でも対ソ依存の劉少奇路線と自力更生の毛沢東路線の闘いがあった-など。7回目の核実験(24日)には触れず
1967/12/25
広島市の平和文化推進審議会が初会合。会長に浜井信三前広島市長を選ぶ
1967/12/25
広島原爆病院がこの年1年間の診察概況を発表。死亡は62人。がんなど成人病による死者が依然として多く白血病も5人
1967/12/26
内閣の放射能対策本部が自衛隊機が中部地区上空1万メートルで中国核実験によるとみられる放射性チリを採取したと発表
1967/12/27
広島大理学部放射能研究室が落下したチリから平常値の7倍の放射能を検出
1967/12/27
世界平和アピール7人委員会の茅誠司氏、同事務局長の内山尚三氏らが木村俊夫官房長官に「1970年の国勢調査の付帯調査で原爆被災者の総合的な人口調査を実施してほしい」と要望
1967/12/27
山田広島市長が核禁広島県民会議代表との懇談会で「原爆の日は静かな祈りの日にしたいので、8月5、6の両日は広島での大会を遠慮してもらうよう原水禁団体に申し入れる考えだ」と語る
1967/12/28
原爆被爆者対策を超党派で検討する小委員会が初会合。田中正巳(自民)、大原亨(社会)、田畑金光(民社)、大橋敏雄(公明)の4人で構成
1967/12/28
広島市が被爆者実態調査の結果を発表。10月10日から20日間に市内被爆者の5%、4,792人を対象に面接調査。病気療養中のほとんどが1年以上の長期療養者で、治療可能な施設への入所を希望。厚生省見解と著しい差
1967/12/29
木村俊夫官房長官が「被爆者援護の問題は与野党4党で立法措置について話し合いが進んでいるので見通しは明るい」と語る
1967/12/29
世界平和アピール7人委員会が京都で国民に呼びかける声明を発表。「日本人は核兵器を廃止しない限り平和と繁栄は訪れないという真理を再確認し、決して核不感症になってはならない」
1967/12/--
文部省が米から返還された原爆記録フィルムを、被爆者の人権を尊重する立場から一部カットして公開する方針を決める
1967/12/--
広島県が被爆者の負担を軽くするため国鉄中国支社と運賃の割引を折衝
1967/12/--
防衛庁技術研究本部第1研究所が放射能チリの集じん作業をしている自衛隊機の操縦士はストロンチウム90が最大許容量の10~45%も蓄積していると発表

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