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ヒストリー

ヒロシマの記録1966 8月


1966/8/1
広島県議会の原爆被爆者総合対策特別委員会が初会合を開く。委員側が関係各部長から県の被爆者対策の現況を聞くが、被爆問題に対する県の消極さが目立つ
1966/8/1
米原子力潜水艦スヌークが佐世保港に入港。原潜の日本寄港は10回目、佐世保は9回目。5日に出港
1966/8/1
米原潜スヌークの佐世保入港に対し、石橋政嗣社会党外交防衛政策委員長が佐世保地区労で、「原潜が何度も来るのは日本人の核アレルギー体質を慣らすのが目的。国民は『原潜不感症』になってはならない」
1966/8/1
広島原爆病院が1966年上半期(1~6月)の診療概況を発表。入院患者の高齢化とがん、高血圧など成人病が目立つ。外来患者は1万7,700人で、新患は1,080人。入院患者123人のうち60歳以上は前年を10%上回り61.1%。患者の病気もがん28人、高血圧10人、中枢神経血管損傷7人など。死亡者は29人
1966/8/1
広島YMCAの招きで広島を訪問中のホノルルの高校生13人が広島原爆病院をフラダンスなどで慰問
1966/8/1
長崎国際文化会館が、原爆投下翌日に長崎の惨状を写生したスケッチ29枚を初めて公開。当時、西部軍報道部所属の山田栄二画伯が軍の命令で写生、秘蔵していたものを1962年長崎市に寄贈(「長崎年表」)
1966/8/1
原水爆禁止山県郡平和集会実行委員会が広島県芸北、千代田、大朝町から平和行進し、加計町の加計小学校で平和集会。約700人が参加。「いかなる立場にもとらわれないで原水爆の全面禁止を訴える」と宣言
1966/8/1
核禁会議の「核禁・平和の灯全国大会」が広島市で開会。第1部の核禁被爆者援護大会は見真講堂に被爆者約800人が参加、被爆者援護の促進を決議。第2部の平和の灯まつりは平和記念公園で宗教14団体や外国代表など約2,000人が参加
1966/8/1
広島市が関係幹部会議で原爆ドームの保存工事費4,600万円のうち4,000万円を募金することに決定。「戦争のない世界にする反省の起点としてドームを保存し、平和な未来建設の出発点とする」が理念
1966/8/2
日本原水協の第12回原水禁世界大会国際予備会議で、ソ連系の世界民主青年連盟代表の出席を不満とし、親中国派の英、オーストラリアなど16カ国32人の外国代表が会議をボイコット。3日、「広島、長崎での国際会議には参加しない」との声明を発表。混乱の背景は、中国一辺倒からソ連も含む世界民主勢力の結集へ柔軟路線を取り始めた日本原水協の路線変更
1966/8/2
ソ連平和委員会のヒュードル・ザハロフ団長(ソ連赤十字副総裁)ら6人が記者会見。「代表団は原水禁国民会議の原水禁世界大会に出席するだけで、日本原水協のどの大会にも出席しない」
1966/8/3
NHK広島中央放送局が中国地方向け番組「カメラリポート・爆心半径500メートル」を放映。その後の爆心復元調査のさきがけに(「原爆爆心地」)
1966/8/3
広島「折鶴の会」が東京・文京公会堂で開会中の総評定期大会に「原爆ドーム保存募金に協力を」とのメッセージ。総評は(1)折鶴の会に支援電報を打つ(2)幹事会で募金協力方法を検討-を決定 1966/8/4
ジュネーブの国連宇宙空間平和利用委員会の法律小委員会が宇宙条約の中核になる軍事利用禁止など9カ条の条約案文を正式採択。天体上の施設公開などは継続審議で、条約成立までにはなお曲折
1966/8/4
第1回原水爆禁止科学者会議が広島市中町の日本生命ビルで開会。全国の大学人約90人が参加。5日は3分科会で討議。全体会議で「原水禁運動の統一は必要。科学者は大衆運動と密着して統一に寄与しよう」など6項目の声明を採択、閉会。日本原水協の協力で開かれた会議に対し、政党系列化の批判も
1966/8/5
平和記念公園に到着した日本原水協の平和行進第1陣を右翼が妨害。警官隊と小競り合い
1966/8/5
原水禁国民会議の被爆21周年原水禁世界大会国際会議が広島市の新広島ホテルで開会。ソ連・世界平和評議会系など15カ国4国際団体の海外代表43人と日本側代表53人が参加。2日目(6日)は被爆者懇談会、階層別会議。午後7時から広島県立体育館で約1万人が参加し、同世界大会広島大会、「ヒロシマ・アピール」を発表。「ヒロシマはいかなる国の原水爆にも反対し、核兵器の完全禁止、ベトナム侵略戦争反対を訴える」。最終日(7日)は新広島ホテルで「ジュネーブ協定によるベトナム問題の平和解決と核兵器完全禁止のために国際共同行動を強めよう」との共同コミュニケを採択し、閉幕
1966/8/5
日本原水協の第12回原水禁世界大会本会議総会が広島市の本川小学校で開会。3年ぶりに広島で開く本会議。7カ国18人の海外代表を含め約1万1,000人が参加。中国・劉寧一団長や北朝鮮、北ベトナム代表の入国を日本政府が拒否した問題で抗議文を採択。2日目(6日)は同市内45会場で分散会。夕方、見真講堂で被爆者特別集会。最終日(7日)は同市基町の広島県立体育館に約1万人が参加して本会議閉会総会。ベトナム人民支持、被爆者援護強化など5決議を採択、被爆者救援金282万円の寄贈を発表し、閉幕
1966/8/5
スウェーデンのウプサラ大地震研究所が「5日、ソ連のセミパラチンスク地方で行われたソ連核実験を記録した」と8日発表
1966/8/5
原水爆禁止運動福山推進連盟(会長、徳永豊福山市長)が街頭募金(5日まで)8万2,971円を集め、ドーム保存募金と被爆者救援資金として広島市へ寄託
1966/8/5
広島県婦協(田口シズエ会長)が単位婦人会会長会議で、8月を「平和月間」に決定。(1)戦争をテーマの懇談会を各地で開く(2)各家庭に保存されている戦争資料の展示-などを計画
1966/8/5
長崎で被爆した沖縄の被爆者、会社員赤峰高三さんが広島原爆病院で受診。同病院での沖縄被爆者の受診は10人目
1966/8/5
広島市二葉山に平和塔が完成し、二葉山仏舎利塔奉賛会(鈴木とき会長)が同市に寄贈。奉安式にはセイロン駐日大使のハーバード・テネコーン氏らも出席。1953年にインドから贈られた仏舎利が正式に安置。周辺22町内会の約1,500人がちょうちん行列。平和塔は同奉賛会が中心に2,100万円を募金、1954年4月の地鎮祭以来12年ぶりに完成。高さ25メートル、基部の直径20メートル
1966/8/5
広島市原爆死没者公務員追悼式が市役所本館前広場の職員慰霊碑で行われ、約500人が参列。慰霊碑は1965年12月に完成、原爆犠牲者447人(市議会議員23人、市職員424人)をまつる
1966/8/5
広島を舞台にした日活映画「愛と死の記録」(蔵原惟繕監督)の広島ロケが開始
1966/8/5
ソ連タス通信が広島被爆21周年記念論文の中で、原水禁運動の分裂問題に関し日本共産党を非難。分裂は「社会党や総評と腕を組んで核兵器禁止運動を推進することをきらう共産党の方針に起因する」
1966/8/5
原水禁国民会議の学者文化人宗教者階層会議が広島市金屋町の労働会館で開会。約20人が参加
1966/8/6
被爆21周年原爆死没者慰霊式・平和記念式。約3万人が参列。この1年間の死没者68人を含め新たに550人の原爆死没者名簿を奉納、名簿総数は6万1,993人に。浜井市長の平和宣言。遺族代表の福川肇、中村恭子さんが「平和の鐘」。佐藤首相あいさつ(代読)。社会党の佐々木更三委員長、共産党の野坂参三議長らも参列
1966/8/6
浜井広島市長の平和宣言。「21年前のこの日、あの恐るべき惨禍を体験したわたくしたち広島市民は、戦争がその性格を一変する時代が来たことを知った。原子爆弾は、それが単に強力な破壊兵器であるというだけでなく、その放射能は、永く大地や海中にとどまって生物の生命を脅かすばかりか、この兵器が多量に使用されるならば、完全に大気は汚染され、ついには、地球そのものをも人間の生存を許さないものとすることが明らかとなった。更にまた、月にロケットを到達せしめ得るほどの科学技術をもってすれば、開戦と同時に相手国の都市や主要施設を破壊し尽くし、数千万の国民を一挙に殺傷することさえも困難なことではないであろう。原子力時代の戦争は、既に自己を防衛する手段ではなく、人類自体の自殺行為以外の何ものでもない。しかるに、今なお、一、二の国家は、この悪魔的な兵器の開発を目ざして大気圏の実験を強行し、またベトナム、中近東その他世界各所において、大いなる危険を冒しつつ、武力抗争が続けられていることは、まことに悲しみに堪えない。今や人間の運命共同体は、個々の民族国家ではなく、地球全体であることを自覚し、すべての国家、すべての民族が一切の利己心と行きがかりを捨てて、人類保全のため立ち上がるべきときであることを確信するものである。本日、原爆の日を迎え、犠牲者の霊を弔うとともに、重ねて広島市民の所信を披歴して全世界に訴える」
1966/8/6
核禁会議の「アジア核禁会議長崎国際大会」が長崎市公会堂で開会。約1,500人が参加
1966/8/6
日本原水協の第12回原水禁世界大会の「被爆者特別集会」が広島市の見真講堂で開かれ、被爆者援護法制定問題で佐藤首相に公開質問状を出すことを決定
1966/8/6
日本原水協の立て看板に赤ペンキを塗るなどした大日本生産党員の右翼3人を広島西署が逮捕
1966/8/6
全米主要20都市で「ヒロシマ・デー」のデモやベトナム戦争反対の抗議集会。ニューヨークでは各州平和団体の統一デモに約3万5,000人が参加。広島、長崎被爆者の写真集が配られ、パーク・アベニューで決起集会。ペンシルベニア州フィラデルフィアではベトナム戦争反対デモで「ヒロシマ、ナガサキ」のプラカードを掲げて行進
1966/8/6
ラスク米国務長官が部分核停条約の調印3周年記念日の声明を発表し、全面核停に向けたソ連の妥協を呼びかけ
1966/8/6
米科学者連盟が広島の原爆投下21周年に、核競争の危険を警告する声明を発表
1966/8/6
広島「折鶴の会」が平和記念公園の原爆の子の像前で「少年少女慰霊の集い」。「原爆ドーム保存決定報告」をテーマに、会員一体で保存募金の推進を決める
1966/8/6
米と広島市の高校生の平和討論会が広島YMCAで開かれる。ホノルル、シアトルの27人と広島の高校生約40人が参加
1966/8/6
山口市湯田で山口県原爆被爆者福祉会館の起工式、約100人が出席。市川禎治山口大学長と朝倉章子同県原爆被害者団体協議会長がくわ入れ。総工費3,200万円、鉄筋3階の被爆者センター
1966/8/6
日本美術家平和会議が東京・都立美術館での第14回平和美術展で原爆犠牲者の肖像画29点を展示。遺族に贈呈へ。8回目
1966/8/6
日銀広島支店の原爆犠牲者42人をまつる原爆慰霊碑の除幕式が広島市袋町の同支店3階集会室で行われる。壁面の大理石に銅板をはめ、「慰霊」の2文字と職員、家族など犠牲者の名前を刻む
1966/8/6
平和記念式典で浜井広島市長が平和宣言を読み上げる途中、ラジオ体操の放送が拡声器に流れる
1966/8/6
広島市の浜井市長が原爆ドーム保存全国募金の方針を発表。市に「原爆ドーム保存事務局」を設置。事務費がなく、その後の事務局運営は足踏み
1966/8/6
岡山市の岡崎平夫市長が国立岡山病院と国立岡山診療所の被爆者8人を慰問
1966/8/6
三次市三次町の三次本通り子供会の30人が同町の専法寺にある佐々木禎子さんの墓に千羽づるを供え平和を祈願。4日には墓掃除
1966/8/6
戦災供養塔で広島戦災供養会の各宗派合同の原爆死没者供養式
1966/8/7
東京都原爆被害者団体協議会(東友会)が東京・品川の東海寺で原爆死没者慰霊祭。2度目
1966/8/7
「ヒロシマの意味するもの」公開討論会が広島YMCAで開かれ、約70人が参加。今堀誠二広島大教授の司会で討議、「ヒロシマが核兵器全廃への起点」を確認
1966/8/8
日本原子力発電会社が茨城県東海村の「東海建設所」を「東海発電所」に名称変更し、営業運転に備える。初代所長に臼井吉最東海建設所長を発令
1966/8/8
マクナマラ米国防長官が京都産業大・若泉敬教授と国防総省で会見(7月15日)した際の日本防衛に関する発言が発表される。「米は日米安保条約に基づいて日本を他国の攻撃から防衛する場合、いかなる兵器をも行使するだろう。兵器の性格に何らの制限も課せられていない」
1966/8/8
福山市で原水爆禁止市民平和大会。福山原水禁運動推進連盟会長の徳永豊市長があいさつ。原爆被爆者の会の土屋昇一会長が「さらに世界平和への力強い運動を続けよう」と訴える
1966/8/9
原水禁国民会議が被爆21周年原水禁世界大会長崎大会を長崎国際体育館で開き、約8,000人が参加。(1)いかなる国の核兵器にも反対(2)核拡散防止条約の締結要求(3)ベトナム戦争の平和解決-など7項目の大会宣言を発表、11日閉幕
1966/8/9
日本原水協の第12回原水禁世界大会長崎大会が長崎市立山市民グラウンドで開かれ、約1万2,000人が参加。同世界大会を閉幕
1966/8/9
長崎の被爆21周年。爆心地の平和祈念像前で原爆犠牲者慰霊平和祈念式典。約5,000人が参列。田川務市長が平和宣言。「原爆の惨禍にさいなまれ、身をもってその恐怖、悲惨さを体験したわれら長崎市民は世界の恒久平和を念願し、常にその実現を訴えて来た。しかるに、民族相克、流血の惨事は絶えることなく繰り返され、原水爆所持国は、その大量保有と威力実験を競い、偸(とう)安をさえ許さず常に人類の平穏と平和の確立を著しく妨げている。われらは、世界の人々がひとしく幸福を享有するの権利を尊重するが故に、真の平和な社会の実現が、速やかに達成されることを強く希求してやまない」
1966/8/12
車で世界58カ国を回り原水爆禁止を訴える計画の広島の被爆者の二井正志さんにパスポートが下りる。9月10日に出発へ。広島市提供の被爆写真50枚と浜井市長のメッセージを携える
1966/8/12
放射線医学総合研究所の中村弥(わたる)障害基礎第一研究室長らが、アミノ酸「5-ハイドロオキシ・トリプトパン」が放射線の障害予防に効くことを見つけ、科学技術庁から発表される
1966/8/12
平和祈願日本1周ドライブ中の和歌山市の会社員岡本浩、小林斉一さんの2人が最終地の広島市に入り、広島原爆病院を慰問
1966/8/13
米国防総省当局者が「米領海内にいる米原子力空母エンタープライズが今年中に極東へ戻る計画はない」と年内の日本寄港がないことを示唆
1966/8/13
江津市有福への原爆被爆者温泉療養所の建設問題で、岡田信正江津市長と原対協が協議。早期着工へ向け、江津市側と原対協で組織する療養所建設協議会を開いて対応を検討へ。療養所は1964年度着工予定が管理運営方法などで延びる
1966/8/15
広島悲願結晶の会(森戸辰男会長)が平和記念公園の「平和の鐘」前で原爆死没者と戦没者の仏式法要、元安川でとうろう流し。2回目
1966/8/15
被爆体験記「ヒロシマ日記」の著者で広島逓信病院の蜂谷道彦院長が63歳で勇退。1939年に同病院(当時は診療所)に勤務、1942年から24年間院長を務める。「これからは被爆者の社会復帰に余生をささげたい」
1966/8/16
広島市議会の共産党議員団が浜井市長と池永清真議長に「市費による原爆ドーム保存」を申し入れ
1966/8/17
広島県議会原爆被爆者総合対策特別委員会で県側が被爆者援護対策について「現行法では県独自の援護対策は無理」との見解を示す
1966/8/17
原爆被災白書推進委員会の今堀誠二広島大教授が広島県議会原爆被爆者総合対策特別委員会で、政府が内閣に原爆被災調査審議会を設けるよう提案。また(1)原爆死亡者の氏名確認(2)被災者総数の掌握(3)原爆症の総合調査(4)原爆による家族の欠損、経済的変動など社会的調査-の4点を政府に働きかけるよう要望
1966/8/18
米テキサス州フォートワースからニューヨークに運ばれた箱から放射性物質のラジウム容器の紛失が判明。捜査を開始
1966/8/18
広島市議会各派代表者会議が、広島市の決めた原爆ドーム保存全国募金計画に待ったをかける。「募金が目標額に達しなかった場合の市費継ぎ足しの可否など募金計画がずさん」が理由
1966/8/19
米ニューヨーク・タイムズのハリソン・ソールズベリー記者が19日付で日本の核武装の記事を掲載。「中国に刺激され核兵器を考える日本」の見出しで、「日本は再軍備へ向かっており、核兵器を持つようになるのもほとんど確実と思われる」
1966/8/19
広島市の浜井市長が平和記念館に平和問題関係の資料室を新設する構想を記者会見で明かす。2階ロビーの一室を充て、平和問題関係の文献を集める
1966/8/20
駐日米大使のライシャワー氏が5年余の任務を終えてワシントンに帰着し、「日本が独自に核開発することは極めてあり得ないことだと思う」
1966/8/22
広島ロケ中の日活映画「愛と死の記録」の蔵原惟繕監督と主演の吉永小百合、渡哲也さんが原爆ドーム保存の資金に広島市へ金一封を寄付。ロケ隊のスタッフ、キャスト31人全員がカンパ
1966/8/22
米原子力潜水艦スヌークが佐世保港に再び入港。米原潜の日本寄港は通算11回目。16日間停泊し、9月6日出港
1966/8/25
ジュネーブ18カ国軍縮委員会が休会
1966/8/27
京大原子炉実験所(大阪府泉南郡熊取町)の国産実用燃料による臨界実験が臨界に達する。国産燃料ではわが国初の原子の火
1966/8/28
「ベトナム戦争反対、米原潜寄港反対佐世保大集会」が米原潜スヌーク入港中の佐世保港鯨瀬ふ頭で開かれる。社会党・総評系と共産党系の団体が主催、労組員ら約1万人が参加
1966/8/29
広島県土木建築部と広島市建設局が同市基町の原爆スラム解消対策を協議。9月中旬から県、市合同調査班を組織し、住民実態調査の実施へ
1966/8/29
国鉄常務理事会が存廃に揺れた国鉄宇品線について「旅客列車は1967年3月末で全廃、以後、貨物列車を1日1往復残す」と決定。国鉄中国支社は10月22日、「旅客営業は12月19日限りで廃止」と上申
1966/8/--
山口県原爆被害者団体協議会(朝倉章子会長)が山口大社会学研究室の協力で進めていた同県の「被爆白書」がまとまる。被爆者6,500人に調査票を配布、うち678票を抽出回収、分析。生活保護受給者は一般県民の2倍、年収も低く、孤老も多い。若い女性被爆者に結婚難も
1966/8/--
原子燃料公社(茨城県東海村)が高速増殖炉用プルトニウム燃料棒58本の試作研究を開始
1966/8/--
広島原爆被爆者福祉センター(広島市国泰寺町)の新館増築計画がまとまる。原対協が年内着工へ。同センター構内に4階の新館を建て接続

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